まほろばblog

Archive for 1月 5th, 2012

映画 「孔子の教え」

木曜日, 1月 5th, 2012

今、空前の孔子ブームだという。

若者にとって、孔子って何者だ、といわれる時代。

あれほど本国中国で、批林批孔で荒れ繰れた文化大革命。

赤軍派、四人組・・・私の青年期は激動の大陸で、古典文物は悉く破壊し尽くされた。

当時、孔子に憧れ、古琴を習っていた私は、留学は叶わぬ夢であった。

共産主義と孔子儒教は相容れぬものである。

それでも、その当時、私は汪兆銘政府長官の胡蘭成先生や

碩学の安岡正篤先生の謦咳に接する事ができた。

それと故川合信水先生から孔子の真精神について学んだことが大きかった。

その後、大学・中庸や春秋などは愛読書となっていた。

もう40年も前の事で、今では書棚に眠っているが、

青年時の白紙の状態に、古典に触れ、大人(たいじん)に接した事は、自分の財産となった。

何年か前、彼の中国で「孔子」の映画が完成された、と聞いていたが、

一向に封切の気配がなかった。

それが、この正月、ふと見た映画欄にそれらしきものが、掲載されていた。

早速観に行ったが、これは活劇である。

古色蒼然とした埃を被った2500年前が、豁然として現代に甦る。

そこには生き生きとした孔子とその弟子達が描かれて、

スペクタクルな戦闘シーンも含めて、乏しい想像の世界でしか描けなかった

時代背景や人物、文物が鮮やかに甦る。

日本では到底成し得ない時代考証や資料が山のように揃っているのだろう。

端然とした孔子の他に、策士・軍事家としての顔は世間の辛酸を嘗めた実像なのだ。

還暦近くして生国、魯を追放され、諸国を歴訪する果てしなき旅。

それがどのようなものであったか、想像を絶していたが、映像を見て、

困難を極めていた事がリアリティをもって迫ってくる。

何より、時代は変わるとも、人間のサガは変わらないという歴史は何とも哀しくも虚しい。

http://www.koushinooshie.jp/

何はともあれ、一見の価値あり。

孔子の教え云々はさておき、その置かれた時代と風景と文化と人を観ておくだけでも、

論語は生き生きした、現代の新書となりうることを知るだろう。

 「医師としての原点」

木曜日, 1月 5th, 2012

       
日野原 重明 

(聖路加国際病院理事長、名誉院長)
        
      『致知』2012年2月号
        特集「一途一心」より
     ───────────────────────────

医師としての原点を語る時、外せないのが、
医局に入ったばかりの頃、最初に担当した
結核性腹膜炎の十六歳の少女です。

彼女には父親がおらず、母親が女工として働いていました。
家が貧しくて彼女自身も中学に行かず働いていたのですが、
ある時、結核を患って入院してきたんです。

その病室は八人部屋で、日曜になると
皆の家族や友人が差し入れを持って見舞いにくる。

でも彼女を訪ねてくる人はほとんどいない。
母親は日曜も工場で働いていたから、
見舞いにもなかなか来られなかったんです。

私は日曜になると教会の朝の礼拝に出席するため、
同僚に彼女のことを頼んでいました。

ところがある時、その同僚から

「日野原先生は、日曜日は
  いつも病院に来られないから寂しい」
 
 
と彼女が言っていたと聞かされましてね。
以来私は朝教会に行く前に、病室へ顔を出し、
それから礼拝に出るようにしたんです。
これはその後の私の医師としての習慣にもなりました。

ところが当時は結核の治療法がなかったために、
どんどん容態が悪くなっていってね。

非常に心配していたんですが、ある朝様子を見に行くと、

「先生、私は死ぬような気がします……」

と言うんです。私は

「午後にはお母さんが来られる予定だから、頑張りなさい」

と言いました。

すると彼女はしばらく目を閉じて、
また目を開いて言葉を続けました。

「お母さんはもう間に合わないと思いますから……、
  私がどんなにお母さんに感謝していたかを、
  日野原先生の口から伝えてください」。
 
 
そうして手を合わせた彼女に、私は

「バカなことを言うんじゃない。死ぬなんて考えないで!
  もうすぐお母さんが見えるから、しっかりしなさい」
 
 
と言って、その言葉を否定したんです。

ところが見る見るうちに顔が真っ青になっていったので、
私は看護師を呼んで「強心剤を打って延命しよう」と言い、
弱っている彼女に強心剤をジャンジャン打った。

そして「頑張れっ、頑張れっ!」と大声で叫び続けた。

彼女はまもなく茶褐色の胆汁を吐いて、
二つ三つ大きく息をしてから無呼吸になりました。

私は大急ぎで彼女の痩せた胸の上に聴診器を当てましたが、
もう二度とその心音を捉えることはできませんでした。

私は彼女の死体を前にして、どうしてあの時

「安心して成仏しなさい。
  お母さんには、私があなたの気持ちを
  ちゃんと伝えてあげるから」
 
 
と言ってあげられなかったのだろう。
強心剤を注射する代わりに、
どうしてもっと彼女の手を握っていてあげなかったのか、
と悔やまれてなりませんでした。

私は静かに死んでいこうとする彼女に、
最後の最後まで鞭を打ってしまったわけです。

この時に、医師というのは
ただ患者さんの命を助けるのじゃない。

死にゆく人たちの心を支え、死を受け入れるための
援助をしなければならないのだと思いました。

その強い自責の念が、
後にターミナルケア(終末の患者へのケア)や
ホスピスに大きな関心と努力を払い、
人々が安心して天国や浄土に行くにはどうしたらよいかを考え、
そういう施設をつくる行為へと繋がっていったんですね。

「六十か条の“選手心得”」

木曜日, 1月 5th, 2012

      
       
 深井 浩司(新潟県立佐渡高校野球部監督)
        
       『致知』2012年2月号
       特集「一途一心]

─────────────────────────────────

私が監督になってからキャッチボールや
全力疾走といった基本的な練習から始めたのですが、
そこで気づいたのは部員の日常生活の乱れでした。

挨拶ができず、遅刻をしたり、
授業中に居眠りをしたりする生徒が大勢いる。

そこで日頃の行動規範などを定めて部員全員に配り、
毎日唱和させることにしたんです。

練習や試合の心構えなど六十か条を記したもので、
もともとは私の母校・丸子実業高校野球部の
恩師だった中村良隆先生が作られた
六十六か条を現代風にまとめ直しました。

高校野球は人間教育の場であるという基本線を踏まえながら、
師弟が一体となって甲子園を目指すものだという考えの下、
六十か条を
「一般心得」「練習心得」「試合心得」「生活心得」の
四つに分類したんですね。

もっとも初めて生徒に配った時には、
すぐに伏せられてしまいましたが(笑)、保護者にも全員配り、

「私はこういう信念で指導させてもらいます。
  もしこれに外れるようなことをしたら
  すぐクビにしてください」
 
 
と伝えました。

野村克也さんが「負けに不思議の負けなし」と言われますが、
試合の敗因は必ずこの中に隠されていると考えています。

例えば

「グラウンドの恥はグラウンドで返せ。
 言い訳、詫びる言葉は厳に慎め、
 自己の責任解消は口で談ずるべきではない」。
 
 
悔しい思いをしたら言い訳をするのではなく、
一回でも多く素振りをしたり、一球でも多く捕球の練習をする。
そういう見えない努力を重ねなさいということですね。

他にも

「球場に足を踏み入れたら気力で相手に勝て、
 一に闘志、二に闘志、三に気合、余力は残すな」
 
 
「チャンスは必ず生かせ。次のチャンスは期待するな」

「同じ投手から二度負けるな。
 研究して、打ち崩せ、これが根性だ」
 
 
「勝負の厳しさを知れ、理屈は通らない、結果だけが評価される。
 高校野球は人生と同じ一本勝負である」
 
 
などがあります。

私は技術が六で気持ちが四のチームと、
技術が四で気持ちが六のチームがあったとしたら、
後者が勝つのが高校野球だと思うんです。

平凡なことを習慣化して取り組めば大きな力になる。
きょうは気分がいいから元気を出すけど、
別の日は嫌なことがあったから声を出さない、
といった気まぐれは絶対にいけない。

そういう日常の心得をこの中に込めたつもりです。