まほろばblog

「『般若心経』を私に説いてください」

9月 9th, 2013
     酒井 大岳(曹洞宗長徳寺住職) 

              『致知』2013年10月号
               特集「一言よく人を生かす」より

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大学を出てしばらくして群馬に戻った私は、
住職である父の手伝いをするとともに、
たまたま空きがあった県立女子校の
書道講師を務めることになりました。

書道講師は三十年以上続けてきましたが、
そこでも愛語の大切さを知る貴重な経験をしました。

私が奉職間もない頃、
小林文瑞という大先輩の先生がいました。

小林先生は私のように僧籍を持ち、
西田哲学や仏教思想に精通していました。

百九十センチ近い大柄な方でしたが、
一緒に食事をしていた時にこうおっしゃるのです。

「酒井先生、『般若心経』というお経があるでしょう。
 きょうは一つ私にそれを説いてください」

「それは無理ですよ。読めと言われればすぐに読めますが、
 とても説くことなんか」

すると一瞬先生の表情が変わり、
「馬鹿者!」と頭ごなしに
私を怒鳴られるではないですか。

「あなたはきょう、私の隣の教室で授業をやっていたね。
 一人休んでいた子がいたでしょう。
 名前はなんと言った?」

「山田悦子(仮名)です。窓際の前から三番目の子です」

「あなたは彼女がなんで休んでいるか知っていますか」

「いいえ、別に担任に聞いてみたこともないし、
 風邪でもひいたんだろうかと……」

その言葉が終わらないうちに、再び雷が落ちました。

「馬鹿者! 生徒が一人休んでいたら
 担任であろうが副担任であろうが
 そういうものは関係ない。

 ひょっとしたら事故かもしれない。
 大病かもしれない。

 担任のところに行って
 なぜ休んでいるかを聞くのが
 教師の役目ではないか」

さらに先生は

「あなたに『般若心経』が説けなかったら、
 私が見せてやる。着いてきなさい」。

そうおっしゃったかと思うや、
もう歩き出されていました。

店の裏の道をどんどん歩きながら、
しばらく経ったところで、

「あのな、山田悦子は腎臓を悪くして
 この先の病院に入院しているんだ。
 これから見舞いだ」。

彼女の部屋は二階の奥まったところにありました。
小林先生は病室に入ると、
笑顔で挨拶を交わし静かに話し始められました。

「えっちゃんな。
 きょう酒井先生が君の教室で授業中に歌を歌っていた。
 俺は隣の教室で聞いていたんだけど、
 酒井先生はえっちゃんがどんな病気で
 入院しているか知らなかったそうだ。

 俺が酒井先生に頼んで
 その歌を歌ってもらうからな。
 よーく聞いていろや」

私が歌ったのは、その頃農家を励ますために
流れていた田園ソングでした。

二番くらいから山田は布団を引っ被って泣いていました。

声は出さなくても肩が震えているから
それと分かるのです。

三番まで歌い終わると
「ありがとうございました」と小さな声がしました。

「よかったな、えっちゃん。
 これであと一週間もすると治って退院できるよ。
 じゃあな」

そう言って先生は部屋を出られました。

病院を出て別れ際に小林先生が
「酒井先生」と声を掛けられました。

また雷かと思って「はい」と答えると、
先生は大きな両手で私の手をしっかり握り、
大きく揺さぶられました。
そして満面の笑顔でおっしゃったのです。

「これが『般若心経』だよ。
 覚えておきなさい。じゃあな」

私は最初小林先生がおっしゃった意味が
分かりませんでした。

しかし、ある時、ふと
「仏教で大切なのは理屈ではなく実践なのではないか」
「いまできることを精いっぱいやることが
 人生で大切ではないのか」

と思ったのです。

それから私は『般若心経』に関する本を取り寄せ、
三百冊以上貪るように読みました。

驚くことに、小林先生の教えにすべて帰着していました。
理屈ではなく歩み続けることこそがその神髄だったのです。

ちなみに、山田悦子は奇跡的な回復を遂げ、
先生の言葉どおり一週間後に無事退院しました。

私には愛語の力を知る
忘れられない思い出の一つです。

「感性を研ぎ澄ませ 患者の声に謙虚に耳を傾ける」

9月 9th, 2013
 押川 真喜子(ハーフ・センチュリー・モア ケア部門統括責任者/
          聖路加国際病院訪問看護ステーション元所長)

              『致知』2013年9月号 
                   「致知随想」より

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一九九二年、三十二歳で
聖路加国際病院訪問看護科を立ち上げ、
その後ステーションに移行してから二十一年。

その間に私は約千人もの患者と出逢ってきました。

訪問看護では、年齢や疾患を問わず、
在宅療養患者のもとを訪れ、様々な処置を行います。

介護職でも対応できる入浴の介助から、
点滴等の医療処置、入院の判断をはじめ、
緩和ケアや終末期の看取りへの対応。

その裁量の大きさゆえ、訪問看護師の責任は重大です。

私は看護師生活の大半を訪問看護に捧げてきましたが、
大学卒業直後は「死を目の当たりにしたくない」
という理由から、保健師として保健所に就職しました。

そんな私の転機となったのは、
筋萎縮性側索硬化症(ALS)の男性との出逢いでした。

ALSは筋肉が萎縮し、全身麻痺になる難病です。
人工呼吸器が必要となるため長期入院を強いられ、
奥様は幼い子供をお義母様に任せて
献身的に看護されていました。

本人はもちろん、家族の負担は
計り知れないものだったと思います。

しかしそのような状況でも、
明るく気丈に振る舞う奥様に心打たれ、
病室を訪ねるうちに私は思わず口走っていました。

「何かあったらお手伝いしますから、
  なんでも言ってくださいね」

とは言え、病状から退院は無理だろう、
と内心思っていた私に奥様から電話が入ったのは、
三か月後のことでした。

「病院が廃業することになったの! 押川さん助けて!」

自分から申し出た手前、断ることもできません。
奮起した私は帰宅の願いを叶えるべく、
道を模索し始めたのでした。

しかし、当時は訪問看護という言葉すらなかった時代。
ALS患者の在宅看護を主張した私は、
保健所の中で完全に孤立してしまいました。

家族が分断され、長年辛い思いをしてきた方たちの
願いをなんとか叶えたい。

その一心で関係者の説得や機器の手配に奔走した結果、
保健所の所長が帰宅を許可してくださったのです。

「お父さんおかえり!」

当日、涙を流しながら子供たちに迎えられる彼を見て、
私は涙が止まりませんでした。
これが私の訪問看護の原点となったのです。

その後聖路加国際病院に移り、
院長の日野原重明先生に訪問看護の必要性を直訴。

先生はすぐ志に共感してくださいました。
しかし医師たちは看護師が医療処置をすることに
不安感を抱いており、処置の実演など、
技量を試されることも少なくありませんでした。

訪問看護の草創期は、血圧測定や簡単な問診のみを行う
「家庭訪問」が主流でした。

しかし、徐々にではありましたが、
私たちを必要としてくださる方は増え、
ケアの範囲も広がっていきました。

看護を始めて約十年が経った頃のことです。

経験を積んだ私は周囲から認められ、
いまにして思えば、過信していたのかもしれません。
そのような時、その後の仕事観を
決定づける出逢いが訪れました。

彼女は十七歳の白血病患者でした。
白血病は病状が悪化すると、毎日輸血が必要になります。
同様の状況だった彼女は、
ある時何度も注射に失敗するスタッフに不満をぶつけたのです。

自分たちは精いっぱいやっているのに……。
そんな思いがよぎり、
私はついこう漏らしてしまったのでした。

「私たちも頑張っているのだから、
  少しくらい我慢してくれてもいいのでは」

それを聞いた彼女は、

「私には、優しいけど何度も失敗する看護師さんではなく、
  怖くても一回で処置をしてくれる看護師さんが必要です」

と、涙ながらに訴えました。

病院では、失敗しても
はっきり拒否されることはありませんでした。

長期療養してきた彼女ゆえの切実な叫びに、
私は奈落の底に落とされたような衝撃を受けました。

生死と隣り合わせの人を相手にしているからこそ、
常にプロフェッショナルであることが求められる。

彼女の一言から私は、訪問看護師として
忘れてはならない三か条を掲げました。

「客観的に自分やスタッフの力量を判断する」

「患者の価値観を尊重する」

「感性を研ぎ澄ませる」

一人ひとりの死に様は、その人の生き様とも言えると思います。
その瞬間を最善のものにするためには、経験を積み、
理論を学ぶことも重要ですが、それをどう生かすかは、
私たちの力量次第です。

感性を研ぎ澄ませ、謙虚な姿勢で患者の声に耳を傾ける。
以来私は、これらを訪問看護の基本として、
仕事に打ち込んできました。

「病気になったことはとても悲しかったけど、
  あの時間が私たちにとって一番の宝物で、
  それは主治医と押川さんのおかげです」

約九か月の看護の後、彼女は亡くなりました。

しかし、最後に家族がそう言ってくれ、
多くの学びを残してくれた彼女の存在は
いまも私の心の支えになっています。

そして今年三月、私は訪問看護ステーションを卒業しました。
あえて自分が退くことで、後進に伸びてほしいと願い、
さらに高齢化が進む日本の将来を見据えて、
介護施設の介護職を統括する現職に就きました。

訪問看護でカバーできる部分は限られている一方、
団塊の世代の高齢化が進めば、看る側も看られる側も
認知症を患っている「認認介護」も問題になってくるでしょう。

しかし、介護施設での介護や看取りは
まだ整備されていないのが現状です。

これまでの経験を生かして、
多くの人が自身の生を全うできる施設づくりに貢献したい。

その実現のために、これからの看護師生活を
捧げていきたいと思います。

「芸能生活で支えにしてきた言葉」

9月 9th, 2013
    黒柳 徹子(女優・ユニセフ親善大使)

              『致知』2013年10月号
               特集「一言よく人を生かす」より
      http://www.chichi.co.jp/monthly/201310_pickup.html#pick1

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私にはあんまり、こうしたい、ああしたいと
いう野望はないんです。

いまここにあるものを、
どうすれば切りひらいていけるかという
考えで生きてきたので。

ただ、努力はしますよ。

俳優の渥美清さんは私の芝居を
よく見に来てくださったのですが、感想は

「お嬢さん、元気ですね。元気が一番」

といつもそうでした。

また長年指導していただいた
劇作家の飯沢匡(ただす)先生も、
台本をどう演じればよいかを伺うと

「元気におやりなさい。元気に」

とおっしゃった。

その頃は元気だけでいいのかなと思ったんですが、
いまとなれば、どんなに才能があっても、
結局、元気でなきゃダメなんだということが分かるんです。

「元気が一番」という渥美さんの言葉も
随分私の力になっていますが、
もう一つ仕事をしていく上で大事にしているのが、
マリア・カラスの言葉です。

二十世紀最高のオペラ歌手と謳われた彼女が

「オペラ歌手にとって一番必要なものはなんですか」

と聞かれた時に、こう答えたというんです。

「修練と勇気、あとはゴミ」と。

彼女は生前、四十ものオペラに出たんですが、
楽譜を見ると分かるように、
それぞれに物凄く細かい音がある。

しかし彼女はその全部に対して
「絶対にこれでなければダメだという音を、私は出してきた」
と言い切っている。要はそれくらいの修練をし、
身につけてきたということでしょう。

私は毎年一回、舞台をやるんですが、
その時にはやはりね、
「修練と勇気、あとはゴミ」と思いますよ。

そのためには一か月半の稽古をし、
二千行におよぶセリフを覚えなければならない。

だから皆と飲みに行くことも、
ご飯を食べに行くこともなく、
稽古場から家に帰って、
あとはずっとセリフを覚えたり勉強をしたりで、
全神経をそこに集中させていく。

もう一つ、これはイギリス人の方が教えてくれたのですが、

「ある人が飛躍して才能を発揮する時には、
 皆が寝ている時にその人は寝ていなかった」

という言葉があるんです。
つまり努力をしたということでしょう。
でも並の努力ではそこまでいきません。

いざ!市場へ

9月 6th, 2013

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「富士古文書」開陳

9月 6th, 2013

 

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先週25日に、富士吉田市大明見の宮下本家にて、

先代当主逝去以来、初の開陳の天縁に預かった。

森下敬一自然医学会会長と増川いづみ博士と共に間近に

見る古文書の圧倒的な量感に息を呑んだ。

 

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翌日の鼎談は、増川博士の小淵沢の旧邸にて。

また528Hzによる精妙にして深遠なるヒーリングを受けた。

詳しくは、国際自然医学誌の後号を。

 

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「砂時計の詩」

9月 6th, 2013
 山本 富士子(女優) 

              『致知』2013年10月号
               特集「一言よく人を生かす」より

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私は亡くなった主人と
毎年バースデーカードを贈り合っていたんですけれども、
主人は必ずそこに素敵な言葉を記してくれたんですね。

その一つが砂時計の話だったんです。

『産経新聞』の一面に、
「朝の詩」という一般読者の方が投稿する欄があって、
主人はそこへ投稿された「この秋」という詩に
大変感銘を受けて、「砂時計の詩」と題して
バースデーカードに引用し贈ってくれたんです。

       砂時計の詩

 一トンの砂が、時を刻む砂時計があるそうです。

 その砂が、音もなく巨大な容器に積もっていくさまを見ていると

 時は過ぎ去るものではなく

 心のうちに からだのうちに積りゆくもの

 と、いうことを、実感させられるそうです。

 時は過ぎ去るものではなく

 心のうちに からだのうちに積りゆくもの

私はこの言葉に出合うまでは、
時は過ぎ去るものと考えていました。

こうして牛尾さんとお話ししている時も
もちろん刻々と過ぎていきます。

だからこそこの一瞬一瞬を大切に、
一日一日を大切に、いい刻を
自分の心や体の中に積もらせていくことが大事で、
それがやがて豊かな心やいい人生を紡いでいってくれる。

そう受けとめて、一日一日を精いっぱい生きる、
きょう一日を精いっぱい生きることの大切さを
改めて実感させられました。

とても感動したものですから小さな紙に書いて、
お財布に入れていつも持ち歩いているんです。

※島根県の仁摩サンドミュージアムに設置されている
 一トンの砂時計。ちょうど一年の時を刻むそうですが、
 なぜこのような砂時計がつくられたのでしょうか?

農園ボランティア・杉村さんからのおたより

9月 6th, 2013

杉村さま

 

前略

先日は農業研修において、御多忙中にもかかわらず、

懇切丁寧な御指導を頂き、誠にありがとうございました。

 

「札幌最後の秘境」と、どなたかが言っておられた

小別沢での研修及び八軒での下宿生活は、一生忘れられないと思います。

 

トマトやキュウリの収穫、草刈、堆肥播き等、

作業は大変でしたが楽しい経験をさせて頂きました。

少しでも勉強になるように専務や農場長が気遣いをしてくれたのが、

うれしかったです。

 

研修最後日の握手は忘れません。

御土産に頂いた野菜はほとんど生でかじりました。

今後は、「まほろば自然農園に」として、

何か役立つ情報や研究があればご協力させて頂きます。

 

末筆ながら、まほろばの益々のご発展を心よりお祈り申上げます。

宮下専務、福田農場長、武藤さん、池田さん、本当にありがとうございました。

 

草々

杉村 浩昌

平成25年9月3日

 

浪花昆布「佃真」さん

9月 5th, 2013

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神戸の「浪花昆布『佃真』」さんの小濱社長が、水産新聞社の永原社長と共に

わざわざ本店にお越しになられました。

三代に亘って、昆布の佃煮屋さんとして家業を引き継いでおられます。

北前船で関西方面に運ばれた昆布は、当時から道外消費量が道内に比較して圧倒的でした。

当然、昆布加工は、ほとんどが京都大阪の京阪神方面に集中しています。

原産地での加工屋さんが極端に少ないのは、明太子と同じですね。

それと、香り高い文化圏で育てられた昆布の食文化も、品質が高く、

製造法も精緻を極めて、他の追従を許しません。

その厳しい業界で生き残った浪花昆布さん。

ほとんどが函館・尾札部の真昆布のみで加工しています。

今年は、殊のほか、昆布の生育が悪く、これは全道的傾向で、利尻は壊滅的だそうです。

先回、お知らせした歯舞の棹前昆布は10数回の出漁を、たった1回で終了したと言います。

サンマ、さば、さけなどの漁獲量も軒並み低迷して、サンマは7割減というからビックリです。

やはり、2,3℃高い海水温は異常で、この温暖化のあおりを昆布も食っている訳です。

元の海に還るのを願って止みません。

 

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「ちりめん山椒」   80g ¥680

「鰹しぐれ」     80g ¥410

「かみかみこんぶ」  20g ¥280

 

ポチポチ黒餅とうきび

9月 5th, 2013

3,4年前、道新に黒餅とうきびのことが出ると、

早朝から閉店まで電話が鳴り止まなかった。

これほどの反響は、後にも先にもなかった。

 

黒餅とうきび

 

ところが、今年は更新種を隣の我満さん

(盤渓スキー場や周辺の開拓者)に、その畑で作ってもらっています。

今、毎朝出荷で採れ採れとうきびが店頭に並んでいます。

片や、黄色のピーターコンを作っていますが、

何とその中に、黒粒がポチポチ混ざっているではないか。

そして、味わいが、モチモチの食感。

これは、今までにない味わいで、みな感動します。

自然は、このようにダイナミックに変貌を遂げて、

刻々として同じ時がない、同じ物がない。

だから素晴らしい!

ところが、それぞれに違うと、扱いが難しい。

それで、製品の統一規格が始まった。

それが、農産物にも及び、その品質サイズの色分けは、

日本は異常に、細かく厳しい。

これは世界の非常識で、およそ戦前戦後すぐの市場にはなかった。

これからは「みんな違って、みんな良い」時代で、

黄とうきびに、少々黒ポッチが入っていても、苦情は言わないでくださいね。

大いに楽しんで、自然の醍醐味をいささかなりとも、味わってください。

 

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この黒餅とうきびに感動した歌手のある方。

昭和の懐かしい歯応えと味わいに、万歳です!

 

9月感謝デー!

9月 4th, 2013

9月の感謝デーが6日から始まります。

特価!目玉!が目白押しでみな安過ぎます。

「自然食品が、もっと庶民の手に」をスローガンに頑張っています。

30、40、50、70%offといった物までの品揃い。

ことに、これから本格的販売になる寿都のカネキさんの

無添加水産加工品を一挙に20%引きにして

ご試食価格としています。

一度ご賞味くださいませ。

 

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イヴェントは

レモンマートル、サラダマスター鍋、レモンマートル、

ジャラハニー、OGスパイス&ティー各社がいらしてくださいます。

また、厚別店では「うさと展」が開かれます。