後藤翁、来訪
月曜日, 3月 11th, 2013
先月、88歳の米寿祝いを銀座で挙げた後藤吉助さん。
突如、昨日まほろばに一人でいらして、ビックリ!
それは一昨日、プロに依頼した式のDVDが完成したので一番先に見て欲しいからという理由で、
わざわざ、韓国経由東京羽田から飛行機に乗っての来訪。
レセプションで代読された賛辞が会を盛り立ててくれたという理由だけの事で、恐縮の至り。
それにしても今時、前後の採算も度外視で、こんなことをして下さる翁に感動するばかりだった。
昼食の席では、五月に出される著作と一緒に添付するCDの自作演歌を歌われた。
その屈託の無いおおらかさと、底抜けの明るさ、正直さと誰にも負けない健康!
大正生まれの吉助翁には、まだまだ生きて、今の世に活を入れてもらわねばなりません。
後藤さん、まだまだ生きてご活躍ください!!!
大先輩ながら、心の知己を得て幸せです。



藤本 猛夫(作家、詩人)
『致知』2013年4月号
特集「渾身満力」より
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藤本さんの実家は藺草(いぐさ)の専業農家。
日中は畑仕事にかかり切りになるご両親は、
ベッドから一人で起き上がることも、
車椅子に乗ることもできない
藤本さんの面倒を見ることができず、
七歳の時、断腸の思いで病院に預ける決断をした。
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入院した日のことはいまでも忘れられません。
「帰りたい」って泣き叫ぶ私を残して、
父と母は看護師さんに促されて病室から去っていきました。
私は保育士さんに抱きかかえられて、
二人の寂しそうな後ろ姿を、窓からじっと見つめていました。
毎晩消灯を迎えると、両親のことが恋しくなるから、
「家に帰る」って泣き叫びましたね。
でもありがたいことに、病院のスタッフの方々が
私のことをとても温かく迎えてくれました。
他の患者仲間たちともたくさん遊んだり、
喧嘩をしたりしながら、深い関わりを持って
生活することができました。
だからこの病棟は私の家で、
一緒に暮らしている人たちは
家族のように思っているんです。
周囲の支えのおかげで、特に病気を
意識することもなかったんですが、
養護学校の小学部を卒業する少し前に、
呼吸する筋力が衰えて人工呼吸器を離せなくなり、
それまで休んだことのなかった学校を
二週間以上も休みました。
その時に、自分の人生は長くないんじゃないかなとか
思ったりして、初めて死というものを
見つめるようになったんですね。
毎週末には両親が自宅から車で一時間半もかけて
見舞いに来てくれていました。
体調がなかなか回復しなくて、
いらだちを募らせていた私は、
母がつくってきてくれたお弁当を
「食べたくない!」って
ベッドのテーブルから払いのけてしまいました。
母は「元気そうでよか」と言いながら、
床に散らばった好物のハンバーグとか
唐揚げを片づけてくれ、帰って行きました。
病室を出ていく母の背中を、
私はやりきれない思いで見送りました。
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そんな藤本さんの心を癒やしてくれたのが詩歌だった。
藤本さんの通った病院に隣接する養護学校には、
詩歌を専門とする教師が在籍していた。
中学部の一年の時、「母」をテーマに
詩を書くことになりました。
私は、週末になる度に手づくりのお弁当を持って
見舞いに来てくれる母の優しい笑顔を思い浮かべながら、
こんな詩を綴りました。
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