「デッドライン仕事術」
木曜日, 3月 14th, 2013 吉越 浩一郎(トリンプ・インターナショナルジャパン元社長)
『致知』2013年4月号
連載第29回「二十代をどう生きるか」より
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香港での体験は、私のビジネス人生に
大きな影響をもたらした。
現地の同僚に同じ歳の二十九歳のドイツ人がいた。
驚いたことに、彼は着任早々自分の秘書を
探すことから始めたのだ。
日本の会社の常識では考えられないことであり、
私は彼に冷ややかな視線を送っていた。
ところが、いったん仕事を始めると、
彼は自分の仕事をどんどん秘書に振り分け、
私の何倍もの実績を上げ始めたのである。
衝撃を受けた私は、ボスが出張して
時間を持て余していた秘書に頼み、
レターをタイプしてもらうことにした。
私が時間をかけてようやくひねり出した拙い英文を渡すと、
彼女は当時の最新式電動タイプライターに向かうや、
凄まじいスピードでタイプし始めた。
ものの一分も経たないうちに
持ってきてくれたレターを見ると、
見事に洗練された英文に書き換えられている。
私は同僚が秘書を雇った意味が理解できた。
秘書に投資をすることばかりではない。
生きたお金の使い方をして仕事の効率を上げることは、
自分の成長を促し、ひいては会社のために
なることを私は学んだ。
もう一つ学んだことは、
常にデッドライン(締め切り)を設けて
仕事をすることの重要性である。
香港のオフィスには、社主である
トーマス・ベンツが考案した
木製の「デッドライン・ボックス」が
各自に配布されていた。
ボックスの中は月ごとに仕切られていて、
直近三か月の仕切りの中は、
さらに一日から三十一日まで日ごとに区切られている。
会社の仕事にはすべてデッドラインが設けられており、
書類はそのデッドラインの日にファイルしておく。
相手から必ずその日に連絡が入るからだ。
逆に自分が担当のデッドラインのついた
仕事のファイルは手元に置いて片っ端から片づけていき、
終えたものからデッドラインの日に入れておく。
おかげで常にデッドラインを意識して
仕事をする習慣が身についた。
例えば会社の始業時間の一時間前に出社して
ひと仕事する。
始業までに何が何でも終わらせなければ、
それ以降の仕事に支障を来すため、
一所懸命集中して取り組むことになる。
いわゆる“締め切り効果”が発揮され、
時間内にはちゃんと終えることができるのである。
そうして仕上げた仕事は質が低いかというと、
決してそんなことはない。
ダラダラ時間を費やした仕事より格段に質も高い。
そういう集中する仕事のやり方を、
平素からの習慣にすべきなのである。

















藤本 猛夫(作家、詩人)
『致知』2013年4月号
特集「渾身満力」より
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藤本さんの実家は藺草(いぐさ)の専業農家。
日中は畑仕事にかかり切りになるご両親は、
ベッドから一人で起き上がることも、
車椅子に乗ることもできない
藤本さんの面倒を見ることができず、
七歳の時、断腸の思いで病院に預ける決断をした。
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入院した日のことはいまでも忘れられません。
「帰りたい」って泣き叫ぶ私を残して、
父と母は看護師さんに促されて病室から去っていきました。
私は保育士さんに抱きかかえられて、
二人の寂しそうな後ろ姿を、窓からじっと見つめていました。
毎晩消灯を迎えると、両親のことが恋しくなるから、
「家に帰る」って泣き叫びましたね。
でもありがたいことに、病院のスタッフの方々が
私のことをとても温かく迎えてくれました。
他の患者仲間たちともたくさん遊んだり、
喧嘩をしたりしながら、深い関わりを持って
生活することができました。
だからこの病棟は私の家で、
一緒に暮らしている人たちは
家族のように思っているんです。
周囲の支えのおかげで、特に病気を
意識することもなかったんですが、
養護学校の小学部を卒業する少し前に、
呼吸する筋力が衰えて人工呼吸器を離せなくなり、
それまで休んだことのなかった学校を
二週間以上も休みました。
その時に、自分の人生は長くないんじゃないかなとか
思ったりして、初めて死というものを
見つめるようになったんですね。
毎週末には両親が自宅から車で一時間半もかけて
見舞いに来てくれていました。
体調がなかなか回復しなくて、
いらだちを募らせていた私は、
母がつくってきてくれたお弁当を
「食べたくない!」って
ベッドのテーブルから払いのけてしまいました。
母は「元気そうでよか」と言いながら、
床に散らばった好物のハンバーグとか
唐揚げを片づけてくれ、帰って行きました。
病室を出ていく母の背中を、
私はやりきれない思いで見送りました。
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そんな藤本さんの心を癒やしてくれたのが詩歌だった。
藤本さんの通った病院に隣接する養護学校には、
詩歌を専門とする教師が在籍していた。
中学部の一年の時、「母」をテーマに
詩を書くことになりました。
私は、週末になる度に手づくりのお弁当を持って
見舞いに来てくれる母の優しい笑顔を思い浮かべながら、
こんな詩を綴りました。
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