まほろばblog

Archive for 11月 22nd, 2012

23・24日、チャリティー講演会&お好み焼

木曜日, 11月 22nd, 2012

フェアトレードからみる世界貿易と食、農

木曜日, 11月 22nd, 2012

「インカインチ・オイル」のアルコイリスさんからメールで、

先日行われた「土と平和の祭典」のご報告がありました。

http://www.tanemaki.jp/saiten2012/

ことに、トークステージで大橋代表が発言されているので、

是非、ご覧下さい。

当会は、去る11月18(日)に開催された土と平和の祭典に出展致しました。
お陰様でたくさんの方々にブースに来ていただき、活動紹介ならびに商品販売、
インカインチオイル+旨塩麹を使用した新しいレシピを提案させていただくこと
ができました。http://www.arcoiris.jp/index.html

とりわけ、「フェアトレードからみる世界貿易と食、農」と題したトークステー
ジは大好評で、
その映像がアップロードされましたので、URLを共有させていただきます。

http://www.ustream.tv/recorded/27103792/theater

トークステージには、フェアトレード分野において第一線で活躍している、
拓殖大学の長坂教授、ぐらするーつの鈴木代表、NPOアプラの野川氏、
オクスファーム・ジャパンの森下氏、当団体の大橋理事(5分と41分頃に登場)
の5名が出演しています。

友産友消」(ともさんともしょう)をキーワードに、フェアトレードの今後の
あり方や方向性について、
それぞれの視点で話し合われ、その展望や可能性を見いだせるトークテージに
なっています。

ぜひご覧いただければ幸いです。

当会の次回出展予定のイベントは、2013年3月2日(土)に開催される
「オーガニックショー ポラン広場東京2013」になります。
開催のお日にちが近くなりましたら、ご案内させていただきます。

年末に向かい何かとご多忙のことと存じますが、今後ともご支援を賜りますよう
宜しくお願い申し上げます。

NPO法人 アルコイリス
広報・マーケティング 大河トレイシィ
〒271-0096 千葉県松戸市下矢切72
TEL: 047-361-6375 FAX: 047-361-6395
E-mail: marketing@arcoiris.jp

「中谷宇吉郎&治二郎展」in江別

木曜日, 11月 22nd, 2012

岡潔先生の親友が、考古学者・中谷治二郎さんだった。

彼のお兄さんが、あの雪博士・宇吉郎博士。

フランス留学時代に知り合い、何時も一緒に語り合い、

そこで初めて、岡先生は、友人という存在を知ったと言う。

だが、彼が不治の病を得て、由布院で療養して死するまで、

岡先生は、度々見舞って、心が離れなかった。

その治二郎さんと宇吉郎さんの二人展が江別で開かれている。

是非、行きたいと思う。

30日までである。

小泉博士、絶口調!Ⅱ

木曜日, 11月 22nd, 2012

さすが、道新・山崎記者(女性)、1時間半を適切にまとめて、お見事!!

要領を得て、素晴らしい内容。

日本人は、魚菜中心の食生活で、バランスよく生きてきたんですね。

キーワードは、バレニン、アルギニンですヨ!!

小泉博士、絶口調!Ⅰ

木曜日, 11月 22nd, 2012

「家族が欲しかった。あたたかい家族がいつも欲しかった」

木曜日, 11月 22nd, 2012

           安藤 大作 (安藤塾塾長)

                『致知』2012年12月号
                 特集「大人の幸福論」より

└─────────────────────────────────┘

僕自身も両親が離婚しまして、幼い頃から
「自分が惨めだ」とずっと思い続けてきたんです。

とはいっても、それに気づいたのはずっと後で、
子供の頃から人よりも目立とう目立とうと頑張ってきたのも、
いま思うと不安や惨めさ、温かい家庭を持つ人を
恨めしく思う気持ちを埋め合わせようとしていたのでしょうね。

両親が離婚した後、僕は父親の再婚相手との生活に
馴染めないで母親の元に送られたそうです。

だけど、その母も結局は九歳の僕と妹を
伊勢に置いて東京に行ってしまう。

それから僕たちは福祉施設を経営する母の知人の女性に育てられました。
この女性は皆から「先生」と呼ばれていて
僕たちをとても大事にしてくれたんですが、
仕送りが滞って親や安藤家の悪口を言われる時は惨めでしたね。

「見返したい」「でも構ってほしい」
「僕は惨めじゃない」「甘えたい」……。
そんな複雑な感情が湧き上がってくるんです。

悔しかった僕は新聞配達のアルバイトをして、
稼いだお金は全部先生に渡していましたよ。

ある時から、僕たちの家に先生の知人の山本さんという女性と
四人の子供たちが一緒に住むようになりました。

この山本さんは僕たちの第二の育ての親でもあるのですが、
先生と一緒に家庭問題に悩む人の会を立ち上げると、
やがて各地から家族ぐるみでやってきて
生活を始める人まで現れました。

中学一年から高校三年までこの大家族で育ったことは、
とても大きな体験だったと思っています。

長野の大学に入学した後も目立ちたい、
チヤホヤされたいという思いは相変わらずでした。

だからスキーやサーフィンなど仲間に
注目されそうなものにはすぐに飛びついた。

その頃の僕はいつも元気印で、皆の注目を集めていれば
世の中を上手く渡っていけると本気で考えていたんです。

ところが、就職にことごとく失敗しまして、
特別扱いされない世界、どうにもならない世界があることを
知るんですね。

そしてこの時、幼少期から満たされない心を
埋めよう埋めようとして頑張ってきた
自分の生き方にようやく気づくんです。

そうすると心を埋めるためだけに生きた自分が
猛烈に空しく思えてきて、最後にはとうとう死を決意しました。

いまも台風シーズンになると思い出すのですが、
一九九〇年九月、超大型の台風が松本を直撃した時、
僕は夢遊病者のように誰もいない暴風雨の街を彷徨いました。
もうどうにでもなれ、という思いでしたからね。

だけどとうとう死にきれずに、ずぶ濡れのまま
アパートに帰りました。

そして、気がつくと、部屋にあったまっさらなノートに
湧き上がる思いを一気に書き殴っていたんです。

「家族が欲しかった。あたたかい家族がいつも欲しかった」

とめどなく言葉が溢れて、ノートはたちまち埋め尽くされました。
臭いものに蓋をしていたというか、幼い頃から抱いていた感情が
際限なく湧き出るのが自分でも不思議でしたね。

ノートをつけ始めて三週間後くらいでしょうか、
僕は一大決心をしました。

決別してもいい。
二度と会えなくてもいい。
心のコブとなっている母と本音でぶつかり合いたいと思ったんです。

母はそれまで一切長野に来ることはありませんでしたが、
「とにかく来てほしい」と松本の僕のアパートに呼び、
泣きながら訴えました。

「俺は寂しかった。惨めだった。
 お母さんの悪口は聞きたくなかった。
 親は好きだ。だから俺は頑張った。
 バカにされたくなかった。辛かった……」

と。いい年した大人がですよ。

【記者:お母様はなんと?】

「ごめんね。ごめんね」を繰り返しながら
いつまでも泣いていましたね。

そうやって一晩中語り明かして明け方になった頃に
母の辛さ、弱さも分かってきました。

母自身も片親で育ち、寂しさを紛らわすかのように
音楽にはまり、離婚した後は、我が子に寂しい思いをさせるのを
覚悟で音楽の夢を求めて東京に出てきていたんです。

僕は母の泣く姿を見ながら

「受け入れられた」「深く愛されている」

という安堵感に包まれていました。

母を松本の駅に送り、アパートに帰る時の
清々しさといったら半端ではなかったですね。
世の中がキラキラ輝いているというか。
僕が心の縛りから解放されたのは、この時からです。