まほろばblog

Archive for 11月 9th, 2012

一語一得 その1

金曜日, 11月 9th, 2012

先日の、致知・札幌木鶏会の25周年記念会で、

「食事道」を提唱されている「玄米酵素」の岩崎輝明会長の講演があり、

また数冊本が売られていた。

その中に「一語一得」と題された日めくりがあった。

玄米菜食の氏とは道が違えども、含蓄ある言葉にしばし唸った。

① 病は全知識                                          釈尊

② 一病を持たざる者、正法を得ず。病を得て、真理に至る      日蓮宗々祖 日蓮

③ は長く、勤めは堅く、色うすく、食細うして、心広かれ  長命百歳 大僧正 天海

④ 医事、自然に如かず                      現代医学の祖 杉田玄白

⑤ 食は命なり。食正しくして健康なり。食は運命なり          易聖 水野南北

後日、あとを続けたい。

「うさと」秋展

金曜日, 11月 9th, 2012

すっかりお馴染みになりました「うさと展」。

昨日から始まった「うさと」も、午前中から大賑わい。

一日目にして大台に達する人気は相変わらず。

まさに服飾革命が、そこまで来ている。

その先鞭が「うさと」であろう。

これから、世界のアパレル業界の潮流が変わってゆくに違いない。

エスニックからユニバーサルへ、そしてエスニックへと。

まほろばの「小国寡民」は、もっと地場に体重を乗せた文化を取り戻さねばならないと言うだろう。

衣服も、また重要な生活のファクターだ。

そのあたりの消息を、来月号の「倭詩」で語っています。

11日〈日)最終時まで、どうぞ駆けつけてください。

北海能と能面

金曜日, 11月 9th, 2012

昨日は、札幌市教育文化会館で、新しい能舞台を設え、

北海道に因んだアイヌとの関わりを織り込んだ新作能「沙院」の発表がありました。

北海道とは馴染みの深い観世流シテ方、永島忠侈師の自作自演でした。

その案内をご紹介します。

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この度、能楽観世流シテ方、私こと永島忠侈は、

初めて北海道を題材にした新作能「沙院」(仮題)を書き上げ、

来る11月7日(水)、札幌市教育文化会館で私が会主をつとめる

「能の会」主催でお披露目いたす運びとなりました。

現行曲約200曲の能には、北は青森県までございますが、

北海道を舞台にした能は残念ながらございません。

いつか北海道を舞台にした新作能を作り上げたいと、考えておりました。

新作は江戸時代の北海道の歴史をひもとき、能特有の世界で表現したものです。

また、北海道の地で、初演できますことも喜びでございます。

多くの皆様にお楽しみいただけたら幸いです。

(実際の円空仏)

これは、歴史上、記念すべきことで、ことにアイヌのシャクシャインを

題材に取り入れ、戦いに没した御霊を鎮魂する儀式として、

この上ない供養になったのではないかと感じ入りました。

アイヌと和人の友好友和の証として、今回の会はすこぶる意義あり、

と認識して、参加出来たことを光栄に思ったほどでした。

これが、幾百年の歴史の淘汰によって、

さらに後代に引き継がれますよう祈るばかりです。

同じく観劇にいらした、名寄の松本冬水さんは3年ぶりの再会でしょうか。

懐かしくも、お元気そうで何よりです。

写真は、彼が面打ちした「小面」の花だそうです。

永島師に見せますと、絶賛されたということです。

本当に、そう思います。

実際に拝見して、魂が乗り移ったかのような衝撃的な対面、劇的な感銘でした。

これぞ、芸術品と言われるものの真骨頂であったような気がしました。

北辺の地にかような素晴らしい魂の面打ち師がいたのですね。

我が郷土の誇りにしたいと思います。

来年、再びと「松本冬水師の面と仏像と写真展」を企画したいと思います。

小さな観音、地蔵様もまた良いと聞きます。

また最近凝りだしました写真の自然風景も楽しみです。

彼のことです、とことん突き詰めたところまで追求することでしょう。

大国の脅しに屈することなく戦った若き指導者・北条時宗

金曜日, 11月 9th, 2012

◆  
 いまから800年ほど昔、
 日本への侵略を目論む超大国・蒙古のおどしに対して、
 毅然とした態度で立ち向かった若き指導者がいました。
 その若者の名は北条時宗、まだ17歳の青年でした。

 明治期に詠まれた元寇の和歌に次のようなものがあります。

  寇船(あだふね)を覆(かへ)しし風は武士(もののふ)の
  猛(たけ)き心のうちよりぞ吹く

 本日は『致知』12月号のインタビュー記事でも取り上げられた
『日本の偉人100人』の中から、
 元寇という未曾有の国難から日本を救った
 若き指導者・北条時宗の話をご紹介させていただきます。

    *     * 

「蒙古来襲の国難に立ち向かった鎌倉幕府の執権」 
 北条時宗(1251~1284年)

◎文永の役
 文永五年(1268)、
 蒙古(もうこ ※元)の国書を携えた高麗(こうらい)の使いが大宰府に現れます。
 既に中国北部と朝鮮半島の高麗を支配下においていた元は、
 表向きは友好を求めますが、
 その使者の来訪は明らかに我が国への軍事的恫喝(どうかつ)でした。
 18歳の時宗が執権職に就いたのは正にこの年です。

 使いはその後もたびたび来訪し、朝廷、幕府はそのつど評定を重ねましたが、
 あえて返書を送らぬまま、
 九州に所領のある御家人(ごけにん)たちに異国警護を急がせます。
 そして遂に文永11年10月、高麗軍と合わせて3万人の元軍は、
 900艘(そう)の船に分乗してまず対馬(つしま)を襲いました。
 
 対馬の守護代である宗助国(そうすけくに)は68歳の老将ですが、
 直ちに大宰府と壱岐に急使を送った後、80騎余りで大軍に立ち向かいました。
 昔も今も国境最前線のこの島で、
 最後の1騎まで奮戦しましたが半日持ちこたえるのが精一杯でした。

 上陸した元の兵たちは
「民家を焼き略奪殺戮(さつりく)を恣(ほしいまま)にし、
 婦女子を捕えて掌(て)に穴を穿(うが)ち、
 その穴を綱で貫いて船べりに数珠(じゅず)つなぎにした」
 と彼らの記録(『元史』)に記しています。

 続いて壱岐(いき)が攻撃されました。
 ここの守護代の平景隆(たいらのかげたか)は、
 対馬からの一報を得て大宰府へ援軍を要請し、
 100騎ほどで島内の樋詰(ひづめ)城に立て籠もって防戦しました。
 島民も続々と籠城に加わり一晩は凌(しの)ぎますが、
 やがて全滅してしまいました。

 こうしていよいよ10月20日(新暦の11月26日)に、
 元軍は博多湾西部から上陸し、
 先陣が博多に向かって赤坂(現在の福岡城址)まで迫って来ました。

 この合戦の様子は『蒙古襲来(もうこしゅうらい)絵詞(えことば)』に活写されています。
 その『絵詞』によると、
 御家人たちは大宰少弐(だざいのしょうに)の武藤景資(むとうかげすけ)を大将として
 博多の海辺側に集結し、
 景資は元軍がさらに博多に攻め寄せるのを待って迎え撃つようにと命令を下しました。
 
 この戦況は近年の研究で明らかになって来ました。
 それによると、10月20日中に少なくとも2度の合戦が行われ、
 日本軍が元軍を撃退し、百道(ももち)の海(博多湾)に追い落としたとのことです。
 大宰府攻略という目標は達せず、
「味方の体制が整わず、又矢が尽きた」(『元史』)ため船に戻った元軍は、
 その夜半に吹き荒れた暴風に押し流され一斉に退却してしまいます。

◎弘安の役
 文永(ぶんえい)の役の翌年に、
 鎌倉にやって来た元の使いを時宗は斬首(ざんしゅ)に処しました。
 そして再び来寇(らいこう)するに違いない元軍に備えて水軍を整備し、
 九州沿岸の防備を固めました。
 特に博多湾岸沿いに石築地(いしついじ)を築いた「元寇防塁(ぼうるい)」は、
 今日まで一部を留めて往時を偲ぶことが出来ます。

 やがて弘安(こうあん)4年(1281)、
 元の皇帝フビライは元軍、旧南宋軍、高麗軍合わせて4400艘、
 14万人の大軍を二手に分けて送り込んで来ました。
 弘安の役です。

 そのうち東路軍は志賀島(しかのしま)に上陸し、
 我が軍と激戦を繰り広げます。
 その後、長崎県鷹島(たかしま)に待機中だった江南軍と合流して
 総攻撃の機会を窺ううちに、
 閏(うるう)7月1日(新暦の8月23日)の大型台風によって
 壊滅的な打撃を受けてしまいます。

 二次にわたる元寇は、
 鎌倉幕府の政治、外交姿勢と九州御家人たちの奮戦に加え、
 暴風雨や台風という自然現象の後押しもあってはねのけることが出来ました。
 そしてこの自然現象はやがて「神風(かみかぜ)」と呼ばれるようになります。

◎時宗の人となり
 このように2度の国難を打破した鎌倉幕府の最高リーダーが時宗ですが、
 その事績を伝える資料は驚くほど少なく、本人の言葉もあまり残っていません。
 弘安の役後3年足らず、34歳の若さで急死しており、
 正に元寇撃退のために生を享(う)けたかの如(ごと)くです。

 元を迎え撃つ弘安4年の正月に、
 禅の師無学(むがく)祖元(そげん)が書して渡したという
「煩悩する莫(なか)れ」(一説では「妄想する莫れ」)はよく知られていますが、
 その祖元が時宗の葬儀で語った法語の一部を、次に掲げておきましょう。

【偉人をしのぶ言葉】
 訳――
 母に孝養を尽し、
 君に忠節を尽し、
 民には恵みの心を以って治め、
 参禅して深く悟る処がある。
 20年間天下の権を握っても
 喜怒を表に出すことが無くいつも沈着である。
 元寇を瞬(またた)く間に追い払ってもそれを自慢する様子もない
 (『仏光国師語録』四より)

 ――『日本の偉人100人(下)』より