まほろばblog

Archive for 4月, 2012

「ゾウのはな子が教えてくれた父の生き方」

日曜日, 4月 8th, 2012

  山川 宏治 (東京都多摩動物公園主任飼育員)
 
     『致知』2007年5月号「致知随想」
      ※肩書きは『致知』掲載当時のものです
           

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■「殺人ゾウ」の汚名
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 
 武蔵野の面影を残す雑木林に囲まれた
 東京・井の頭自然文化園に、
 今年還暦を迎えるおばあちゃんゾウがいます。
 
 彼女の名前は「はな子」。
 私が生まれる以前の昭和24年に、
 戦後初めてのゾウとして日本にやってきました。
 
 当時まだ2歳半、体重も1トンにも満たない
 小さくかわいい彼女は、
 子どもたちの大歓声で迎えられました。
 
 遠い南の国、タイからやって来たはな子は
 たちまち上野動物園のアイドルとなりました。
 ところが、引っ越し先の井の頭自然文化園で、
 はな子は思いがけない事故を起こします。
 深夜、酔ってゾウ舎に忍び込んだ男性を、
 その数年後には飼育員を、踏み殺してしまったのです。
 

「殺人ゾウ」──。
 

 皆からそう呼ばれるようになったはな子は、
 暗いゾウ舎に4つの足を鎖で繋がれ、
 身動きひとつ取れなくなりました。
 
 餌をほとんど口にしなくなり、
 背骨や肋骨が露になるほど身体は痩せこけ、
 かわいく優しかった目は人間不信で
 ギラギラしたものに変わってしまいました。
 
 飼育員の間でも人を殺したゾウの世話を
 希望する者は誰もいなくなりました。
 空席になっていたはな子の飼育係に、
 当時多摩動物公園で子ゾウを担当していた
 私の父・山川清蔵が決まったのは昭和35年6月。
 それからはな子と父の30年間が始まりました。
 

「鼻の届くところに来てみろ、叩いてやるぞ!」
 

 と睨みつけてくるはな子に怯むことなく、
 父はそれまでの経験と勘をもとに何度も考え抜いた結果、
 着任して4日後には1か月以上
 繋がれていたはな子の鎖を外してしまうのです。
 
 そこには
 
「閉ざされた心をもう一度開いてあげたい」、
 「信頼されるにはまず、はな子を信頼しなければ」
 
 という気持ちがあったのでしょう。
 
 父はいつもはな子のそばにいました。
 出勤してまずゾウ舎に向かう。
 朝ご飯をたっぷりあげ、身体についた藁を払い、
 外へ出るおめかしをしてあげる。
 
 それから兼任している他の動物たちの世話をし、
 休憩もとらずに、暇を見つけては
 バナナやリンゴを手にゾウ舎へ足を運ぶ。
 話し掛け、触れる……。
 
「人殺し!」とお客さんに罵られた時も、
 その言葉に興奮するはな子にそっと寄り添い、
 はな子の楯になりました。
 
 そんな父の思いが通じたのか、
 徐々に父の手を舐めるほど心を開き、
 元の体重に戻りつつありました。
 
 ある日、若い頃の絶食と栄養失調が祟って歯が抜け落ち、
 はな子は餌を食べることができなくなりました。
 自然界では歯がなくなることは死を意味します。
 なんとか食べさせなければという、
 父の試行錯誤の毎日が始まりました。
 
 どうしたら餌を食べてくれるだろうか……。
 考えた結果、父はバナナやリンゴ、サツマイモなど
 100キロ近くの餌を細かく刻み、
 丸めたものをはな子に差し出しました。
 
 それまで何も食べようとしなかったはな子は、
 喜んで口にしました。
 食事は1日に4回。1回分の餌を刻むだけで何時間もかかります。
 それを苦と思わず、いつでも必要とする時に
 そばにいた父に、はな子も心を許したのだと思います。
 
 定年を迎えるまで、父の心はひと時も離れず
 はな子に寄り添ってきました。
 自分の身体ががんという病に
 蝕まれていることにも気づかずに……。
 
 はな子と別れた5年後に父は亡くなりました。
 後任への心遣い、はな子へのけじめだったのでしょう。
 
 動物園を去ってから、父はあれだけ愛していたはな子に
 一度も会いに行きませんでした。
 

■亡き父と語り合う
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 
 思えば父の最期の5年間は、
 はな子の飼育に完全燃焼した後の
 余熱のような期間だったと思います。
 
 飼育員としての父の人生は、
 はな子のためにあったと言っていいかもしれません。
 
 残念なことに、私には父と一緒に遊んだ思い出がありません。
 キャッチボールすらしたことがないのです。
 家にじっとしていることもなく、
 自分の子どもよりゾウと一緒にいる父に、
 「なんだ、この親父」と
 反感を持つこともありました。
 
 ところが家庭を顧みずに働く父と同じ道は
 絶対に歩まないと思っていたはずの私が、
 気がつけば飼育員としての道を歩いています。
 
 高校卒業後、都庁に入り動物園に配属になった私は、
 父が亡くなった後にあのはな子の担当になったのです。
 
 それまでは父と比べられるのがいやで、
 父の話題を意識的に避けていた私でしたが、
 はな子と接していくうちにゾウの心、
 そして私の知らなかった父の姿に出会いました。 
 
 人間との信頼関係が壊れ、敵意をむき出しにした
 ゾウに再び人間への信頼を取り戻す。
 
 その難しい仕事のために、
 父はいつもはな子に寄り添い、
 愛情深く話し掛けていたのです。
 
 だからこそ、はな子はこちらの働きかけに
 素直に応えてくれるようになったのだと思います。
 
 一人息子とはほとんど話もせず、
 いったい何を考え、何を思って生きてきたのか、
 生前はさっぱり分かりませんでしたが、
 はな子を通じて初めて亡き父と語り合えた気がします。
 
 私は「父が心を開かせたはな子をもう1度スターに」と、
 お客様が直接おやつをあげるなど、
 それまでタブーとされてきた
 はな子との触れ合いの機会を設けました。
 
 父、そして私の見てきた
 本来の優しいはな子の姿を多くの方々に
 知ってほしかったのです。
 
 人々の笑顔に包まれたはな子の姿を
 父にも見てほしいと思います。

「和合の杜」から

土曜日, 4月 7th, 2012

先日、教育文化会館で行われた「産業用大麻についてのフォーラム」での

武田邦彦教授の講演会に出席したら、元まほろば自然農園で働いていた

南君が、わざわざ東川から参加された。

何年ぶりだろうか。丁度居た穂積厚別店店長とのツーショット。

元気そうで、麻栽培にも取り組みたいとのこと。

最近、HPも立ち上げたとの知らせが入った。

http://www.wagounomori.info/

そんな折、今朝、栃木県鹿沼市の浄土宗のお寺、静悦さんからお手紙を戴いた。

お念仏宗で、麻にも関わりがあり、今度6月に開かれる「日本麻フェスティバル」の

ご案内を戴いた。参加される方は、是非見聞されて下さい。

「奇跡の避難所はかくて生まれた」

土曜日, 4月 7th, 2012

      
  千葉 恵弘
   (石巻の避難所「明友館」リーダー)

     『致知』2012年5月号
       特集「その位に素して行う」より

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その日僕は石巻の実家に戻り、
母との食事を済ませてのんびり過ごしていました。

そんな中で突然これまで経験したものとは
桁違いの大きな揺れが起こって。

ただ、津波に対する意識は石巻の人には
ほとんどなかったと思うんです。

あのチリ地震(1960年)でも
津波は町に入ってこなかったといいますから。
とにかく丈夫で倒壊のおそれがない所に
逃げ込みたいという気持ちだったと思います。

明友館は石巻市不動町にある勤労者余暇活用センターという
施設の呼称で、当時10名ほどの職員が勤務していました。

指定避難所まで行くには1キロ以上の距離があり、
お年寄りには負担が大きい。

町内では倒壊による二次災害を避けるため、
明友館に逃げ込むよう我われが誘導していきました。
そんな感覚でしたから、あの津波が実際に上がってきた時には、
もうまさか! という感じでしたね。

建物の周りに津波が押し寄せる、瓦礫が流れ込む、
人が流されてくる……、
建物から覗ける範囲の視野でしたが、
水がじわじわ上がってきて、
1階にいた人が津波に追われながら駆け上がってくる。

ただ、いま自分の目で見ていること以外にはなんの情報もなく、
これが嘘か本当かも、何を信用していいのかも分からない状態でした。

その時、明友館には約140人避難民がいて
うち120人ほどはお年寄りでした。

それこそ足元もおぼつかないようなお年寄りで、
動けるのは10数人程度。

しかも明友館は指定避難所ではないため、
ラジオもなければ携帯電話も通じない。
食べる物も飲む物もなく、
とにかくそこでじっとしているしかない。

体を伸ばせるスペースもなかったので、
ギュウギュウ詰めで皆、三角座りをしていました。

※千葉氏はこの状況から、いかに避難所を運営し、
 不安に怯える避難民を統率していったのか?
 詳しくは『致知』5月号(P38~43)をご覧ください。

コーボルト「真空圧縮パック」新発売!

金曜日, 4月 6th, 2012

ほこりのケーキ!?

木曜日, 4月 5th, 2012

A: 部屋のほこりでした。

すごい!ですね。ケーキと見まがうほどの厚い埃の層。

信じられない!と言うかも知れませんが、2Fでデモをした時も、

一押ししただけで、ゴミのすごい厚みに、みなビックリ仰天!

https://www.mahoroba-jp.net/newblog/?m=20120222

これは、今日普及している掃除機では、この性能は望めません。

何故ですって?

それは、今回の感謝ディーで配布されますコーボルトのちらしに

詳しく載っていますよ。

(コーボルトのミニ掃除機を持つ磯深雪さま)

春の感謝ディー!突風と共に

木曜日, 4月 5th, 2012

明日6日から8日までの3日間。

今回の感謝祭「ありがとうの日」も、盛り沢山のサービス品!

自然化粧品のリマ・ナチュラルさん、レモンマートルのパークヒルさん、

食ライフさんの説明販売会や、まほろば新作ジャムの試食会があります。

30%はもとより、40,50、66、80%と、とんでもない破格値もあります。

まほろばオリジナル『蜂さん』¥9800⇒¥6860の30%引きになっております。

とにもかくにも、凄まじい商品の質と数ですので、漏れなくおこし下さいませ。

「究極のスープ」

木曜日, 4月 5th, 2012

      
  鈴木 紋子 (湘南教育研修センター副理事長)

     『致知』2012年6月号
      特集「その位に素して行う」より

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昭和五十年頃、鎌倉の荒れた中学校へ
赴任した時のことです。

皆からゴムまりをひどくぶつけられるなどのいじめに遭い、
しゅんとしている一年生の子がいました。
私は生徒指導担当として
「先生が付いてるから頑張りなさい」と励ましてきましたが、
三年生になるとあまり姿を見掛けなくなりました。

進路相談の行われた十二月、
彼の母親が私の元へ来てこう言いました。

「うちの子は休みが多く、点数が悪いから
 どこの高校も受けられないと担任に言われました」

その子はとても育ちのいい子だったのですが、
ある日級友からお菓子を万引きしてこいと命じられました。
学校へ行くとまた何を言いつけられるか分からないから、
次第に足が遠のいてしまったというのです。

自責の念を覚えた私は、ある私立高校まで行って事情を話した上、

「受験までに必要な勉強の基礎を、
 全部私が責任を持って教えておきますから、
 受験させていただけませんか」

とお願いし、以来二人三脚で猛勉強の日々が始まりました。

周囲に気づかれないよう暗くなった夜七時頃に彼の家へ出掛け、
英国数の基礎からみっちり三時間教えては
十時半の最終バスで駅へと向かう。

電車を降りるとタクシーは一時間待ちの行列です。
仕方なく夜道を四十五分かけて歩き、
十二時過ぎに帰宅する日々が続きました。

あんまりくたびれるのでバスの中でも眠り込み、
「お客さん、終点ですよ」の声で起こされるのが日課でした。
その甲斐あって彼は高校に無事合格し、
卒業後はイタリア料理店で働くようになりました。

その頃、我が家では主人が胃を全摘し、
肝臓がんも併発するなど、闘病生活で
体はひどく痩せ細っていました。

私は台所でいろいろなスープを作っては
主人に飲ませるなどしていましたが、
私自身も疲労からくるたびたびの目眩に悩まされていました。

前述の教え子が訪ねてきてくれたのは、
そんなある日のことです。

「ご主人様がご病気と聞いて
 チーフにスープの作り方を習って持ってきました。
 これ一袋で一食分の栄養がとれます」

と、一抱えもあるスープを手渡してくれたのです。

私は感激のあまりしばらく何も言葉が出ず、

「……これが本当の神様だわ」

と呟いて、わんわん声を出して泣いてしまいました。

すると、その子がまだ中一だった頃、

「皆にいじめられても頑張るのよ」

と私が肩を叩いて励ましたのと同じように、

「先生、泣かないでください」

と私の背中を叩いて慰めてくれたのです。

その後も彼はスープがなくなる頃になると家を訪ねてくれ、
おかげで余命三か月と言われた主人が、
三年も生き長らえることができました。

私はこのスープを「究極のスープ」と呼んでいますが、
人間同士の世の中がそうしてお互いに
尽くし合ってやっていけたらどんなにかよいだろう、
と思ったことでした。

「なごみしお麹」オリジナル塩麹販売!!

水曜日, 4月 4th, 2012

エリクサー、除染の原理が・・・・

水曜日, 4月 4th, 2012

桜井よしこさんの記事に、福島県川内村での山中における水の除染状況を

報告していたが、そのメカニズムがエリクサーのそれと相似しているので掲載したい。

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「 「村に帰ろう」と村長が呼びかけた福島県川内村、いわなの里を訪れて 」

『週刊ダイヤモンド』 2012年3月31日号

「村に帰ろう」と全村民に呼びかけた福島県川内村の遠藤雄幸村長にお会いしてきた。

3月20日の春分の日、郡山駅で待ち合わせると、

駅正面の放射線量を示す掲示板には毎時0.423マイクロシーベルトと表示されていた。

これは年間3.7ミリシーベルトに相当する。

日本人は自然界から年平均1.4ミリシーベルトの放射線を浴びているが、

世界には自然放射線量が年平均10ミリシーベルトを超える所も少なくない。

国際放射線防護委員会(ICRP)は、原発事故など不測の事態から平常に戻る過程における

許容放射線量を年間20ミリシーベルトから1ミリシーベルトの間と定めている。

郡山駅前の放射線量は、十分この範疇に入る。

「この数字、覚えておいてくださいね」と、遠藤村長が言った。

車でしばらく走り、いまだ雪化粧の残るあだたら連峰を左に見ながら常磐道に入った。今年は川内村も雪が多く、通常は積雪10センチメートルほどだが40センチメートルも積もったそうだ。だが、さまざまな意味で厳しい冬が過ぎた今、春が四方八方から語りかけていた。木々は今にも萌え出すかのように準備を整えていて、俳句や短歌の季語そのもののように、山々が笑っていた。

峠を越えて川内村に入った。もともとの人口は3000人、面積2万ヘクタールの9割が山林で、その多くがきちんと間伐されていた。手入れされた山林は見るからに美しい。もうひと月もすれば山菜やキノコが勢いよく育ち、さぞかしにぎやかな山になるだろう。だが、この豊かな山に入るには放射線量の厳しいチェックが必要なのが現実だ。

深い森と山は冷たく美味な水も生み出してきた。

村人は井戸を掘って、山の恵みの清澄な水で暮らしてきたが、

水はどんな影響を受けたのだろうか。

「水質検査はもう何回もしました。放射能は全く検出されていません」

遠藤村長はさらに言った。

「セシウムが森にも落ちたのは確かです。

木々の葉にくっついたセシウムは落葉すれば、木の葉にくっついたままそこにとどまります。

水中のものは泥に吸着してそこにとどまります。

しかし水には溶け出さないのです」

原発と放射能問題の専門家、奈良林直・北海道大学大学院教授が説明した。

「セシウムは極めて細かい微粒子なのですが、吸着性が高いために、

空中を飛んで人家の屋根や木の葉にくっつきます。

水に落ちれば水底に沈みますが、粘土と非常にくっつきやすく水底にとどまります。

セシウムの微粒子が地中に潜ることも考えられますが、

地中に浸透する過程で粘土質の土層にくっついてしまう。

つまり、土の層が濾過層となって、井戸水からはセシウムが取り除かれるのです」

この説明に私自身、驚いた。

水源地である山林が汚染されれば、即、水も汚染されると、私も考えていたからだ。

遠藤村長にそう言うと、彼が弾むように応えた。

「ここは村の観光地のいわなの里です。

豊富な湧水でイワナを育て、たくさんの人がイワナ料理に舌鼓を打った場所です」

山からの湧き水が音を立てて流れ込み、勢いよくしぶきを上げる。

水中で素早く動く黒い影はイワナである。

「この水は昔も今もきれいです。ここの放射線量を見てください。

それを郡山駅前の数字と比べてください」

いわなの里は0.178マイクロシーベルトだった。郡山駅は0.423マイクロシーベルトだった。遠藤村長が「数字を覚えていて」と念を押した意味がようやくわかった。その後、村役場前を含めて数カ所で川内村の放射線量の数値を確認したが、いずれも郡山駅の2分の1以下だった。

放射線量の低い所から高い所に川内村の人たちは避難させられ、現在に至っているのだ。菅直人、枝野幸男両氏らの政権以来、この皮肉な本末転倒は現在も正されていない。なんという政治の無策無能だろうか。

醗酵とは情緒なり・・・・THD講演会

水曜日, 4月 4th, 2012

土日の31,1日、大阪と東京でTHDさん主催の講演会を無事終えました。

当日、寺田当主の都合で、婿さんの優専務さんが代役、見事に責を果たし、

24代も頼もしく、将来も安定ですね。

1時間の講演予定が、倍に急遽変更、ゆっくり唄も交えながら、お話しすることが出来ました。

日本の良さを、若い方々にお伝えしたいと思い、色々な角度から説いてみました。

醗酵王国は、心の醗酵文化でもあったのですね。

何時かまた、この内容をお伝えする機会があればと思います。

この日に用意した「へうげ味噌」や、新発売の「なごみしお麹」も、あっという間に完売。

今、へうげ味噌を5tを仕込んで、年間供給できるようにしました。

「なごみしお麹」もTHDさんでは、7月頃から再販されます。

お楽しみに。