まほろばblog

Archive for 3月, 2012

「営業の3つのポイント」

月曜日, 3月 19th, 2012

      
  津田 晃 (野村證券元専務)

    『致知』2012年4月号
   連載「二十代をどう生きるか」より

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 営業とは何だろうか。
 
 私は三つのポイントがあると考えている。

 まず押さえなければならないのは、
 給料についての認識である。
 
 辞書には事業主が使用人に対して払う報酬とあり、
 給料は会社からもらっているという認識が一般的だが、
 それは間違いである。
 
 給料はお客様からいただくものである。

 二つ目は、営業とは単に物を売りさばくことではない。

 お客様の問題を解決するソリューション・ビジネスで
 あることを心得なければならない。

 ドラッカーは企業の目的を顧客の創造と説いているが、
 これは営業にそのまま当てはまる定義である。
 駅前に立って一万円札を九千五百円で売ればどんどん売れるだろう。
 
 しかし一万円札を一万十円で売るのが営業である。
 そのためにはその価格に納得していただけるだけの付加価値を
 お客様に提供しなければならないのである。

 三つ目は継続力である。

 将棋で前人未踏の七冠を成し遂げた羽生善治氏は、
 「才能とは情熱や努力を継続できる力」とおっしゃっている。
 営業もコツコツと弛まぬ努力を続けた者こそが勝利を掴む。
 
 そこへプラス・ワンの努力を加えると、
 成功はより確かなものになる。

 例えばきょう予定していた十本の電話をかけ終え、
 さて帰ろうかという時に思い直してもう一本かけてみる。

 そのもう一本で注文がとれたりするものなのだ。
 一週間で五本、ひと月で二十本、
 プラス・ワンの努力の積み重ねは、
 いずれ大きな財産となって返ってくる。

 一所懸命努力していると、いろんな壁にもぶつかるだろう。
 しかしそこで立ち止まって悩んでいても物事は解決しない。
 行動してこそ物事は前へ動き出すものだ。
 
 そして迷ったらしんどいほうの道を選ぶこと。
 これを若い頃から鉄則としてきたことで、実力も養われ、
 運も味方にすることができた。

 全力疾走ができるのは若いうちだけ。
 このことを自覚して、とにかく自分の仕事に
 精一杯打ち込んでほしい。
 
 自分の入りたい会社に入れなくとも悩むことはない。
 実際、その会社が将来にわたって存続する保証は
 まったくないのだ。
 
 就社ではなく、本来の意味での就職へと頭を切り替え、
 縁あって入った会社で、与えられた職に全力を尽くし、
 その職においては一日も早くプロの域に達することである。

 私の義父は丁稚奉公からたたき上げて青果業で成功を収め、
 群馬県の業界理事長まで務めた人物だった。
 
 義父と酒を飲むと、いつも壊れたテープレコーダーのごとく
 
 
 「上見て励め、下見て暮らせ」
 
 
 と繰り返し言い聞かされた。
 
 理想を高く掲げ、辛い時には
 自分より苦しい立場の人を思って気持ちを切り替え、
 頑張ってほしいとの願いであった。
 
 その後決まって言われたのが次の言葉だった。

連載「倭詩/やまとうた」始まる 自然医学誌

日曜日, 3月 18th, 2012

「森下自然医学」4月号から、再びと連載が開始されました。

前「北の空から」から「倭詩」とタイトルを替えました。

北のローカルから発言しても、やはり言っていることは、

日本の事に尽きるな、と感じていました。

「まほろば」の店名も、「倭は国のまほろば・・・・」から来ていますし、

何よりも森下会長がおっしゃる呉越の地方が日本=倭の故郷で、

そこから大挙、先祖が日本に流入して来たことを如皋(ルーカオ)長寿視察で明かされました。

以前は、中国の属国としての「倭奴」と蔑称された「倭」のイメージがありますが、

倭を解字すると、「人は女性に委ねる」と書いて、

これからは、まほろばが説いて来た『母性の時代』を象徴する字なんですね。

正に『大和の和』は、『倭の精神』となります。

これからも、愛する日本のあれこれを綴って行きたいと思います。

昨年、世界第6長寿郷に認定された如皋。

新しいタイプの「都市型長寿郷」として、世界からも注目されつつあります。

この度、5・27から6・1にかけて「国際自然医学・海外大学講座」が如皋で開かれ、

研修参加者を募っております。

詳しくは、次号と言うことですが、お心にかけておいて下さい。

最後に、会長の「巻頭随想」。

普段の食医関係のことにあらずして、あの「リンゴの唄」の顛末を綴ったもの。

その厳しい背景にあって、断腸の想いで生れた唄であったことを初めて知る。

並木さんの哀しみを越えた歌声だったことも、改めて知り歴史の裏に感銘。

あらゆることに、語るに語れない事ごとがあるものと思った次第。

 「イチロー選手の目標設定術」

日曜日, 3月 18th, 2012

  奥村 幸治 
(NPO法人ベースボールスピリッツ理事長、宝塚ボーイズ監督)

   『致知』2010年6月号「致知随想」
   ※肩書きは『致知』掲載当時のものです

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オリックスで打撃投手を務めていた頃、
不調に陥った選手に

「投げましょうか?」

と声を掛けると、ほとんどの場合、

「頼む」

と答えが返ってきた。
練習することによって、少しでも不安を取り除きたい
と思うのが人情というものだろう。

そんな中、私の申し出に一人だけ
首を振った選手がいた。
当時20歳だったイチロー選手である。

試合後にその理由を尋ねてみたところ、彼は

「僕はこんな心境で試合に臨みたいんです」

と言う。

「どんなに好きな野球でも、毎日続けていると、
 もう疲れた、きょうは嫌だなと思う時ってないですか? 
 そうなっては、自分の能力って
 絶対に発揮できないですよ。
 バットが持ちたくて持ちたくてしょうがない。
 そういう心境で、僕は試合に臨みたいんです」

そして彼はこう後を続けた。

「初めてお父さんとキャッチボールした時、
 どんな気持ちになりましたか? 
 またやりたいなと思ったでしょ。
 その気持ちなんですよ。
 そういう気持ちが自分でしっかりつくれれば、
 絶対に技術って向上していくと思いますよ」

イチロー選手のプロ入り3年目の年、
彼の専属打撃投手となった私は、
寮生活で1年間寝食をともにし、
多くのことを教わった。

彼と初めて出会ったのは、
私が20歳、彼が19歳の時だった。

初めてそのバッティングを見た時、
年下にこんなに凄い選手がいるのかと舌を巻いたが、
最も驚いたのは、彼が一軍に上がってきてからのことだった。

キャンプ期間中、二軍でプレーしていたイチロー選手は、
夕方に練習を終えると、早々に眠りに就いた。
そして皆が寝静まる深夜にこっそり部屋を出ると、
室内練習場で数時間の特打ちをするのを日課としていた。

ところがシーズンが始まり、一軍入りを果たした彼は、
全くと言ってよいほど練習をしなくなってしまったのである。

不思議に思って尋ねてみたところ

「体が疲れ過ぎるとバットが振れなくなるから」

とのことだった。

一軍でまだ何の実績もない選手が、
自分のいまやるべきことは何かを
ちゃんと理解して行動している。

私の知り合いにもプロ入りした者が数名いたが、
彼の取る行動や言葉のすべては、
他とは一線を画すものだった。

例えばこんな調子である。

「奥村さん。“目標”って高くし過ぎると
 絶対にダメなんですよね。

 必死に頑張っても、その目標に
 届かなければどうなりますか?
 諦めたり、挫折感を味わうでしょう。

 それは、目標の設定ミスなんです。

 頑張れば何とか手が届くところに
 目標を設定すればずっと諦めないでいられる。
 そういう設定の仕方が一番大事だと僕は思います

 
二軍時代のイチロー選手は、
マシン相手に数時間の打撃練習をしていたが、
普通の選手に同じことをやれと言っても、
それだけの時間、集中してスイングすることはできない。

それがなぜ彼には可能なのかといえば、
私はこの「目標設定の仕方」に
あるのではないかという気がする。

イチロー選手には自分にとっての明確な目標があり、
その日にクリアしなければならない課題がある。

その手応えをしっかりと自分で掴むまで、
時間には関係なくやり続けるという練習のスタイルなのだ。

私が彼の基盤として考えるもう一つの要素は、
継続する力、つまりルーティンを
いかに大切にしているかということである。

ある時、イチロー選手に
こんな質問をしたことがあった。

「いままでに、これだけはやったな、
 と言える練習はある?」

彼の答えはこうだった。

「僕は高校生活の3年間、1日にたった10分ですが、
 寝る前に必ず素振りをしました。
 その10分の素振りを1年365日、3年間続けました。
 これが誰よりもやった練習です」

私は現在、少年野球チームの監督を務めているが、
それと比して考えてみると、
彼の資質がいかに特異なものであるかがよく分かる。

例えば野球の上手な子にアドバイスをすると
何をやってもすぐできるようになる。
下手な子はなかなか思うようにいかない。

ところが、できるようになったうまい子が、
いつの間にかその練習をやめてしまうのに対し、
下手な子は粘り強くそれを続け、
いつかはできるようになる。

そして継続することの大切さを知っている彼らは、
できるようになった後もなお練習を続けるため、
結局は前者よりも力をつけることが多いのである。

その点、イチロー選手は卓越したセンスを持ちながらも、
野球の下手な子と同じようなメンタリティを持ち、
ひたすら継続を重ねる。
私はこれこそが、
彼の最大の力になっている源ではないかと思う。

2000年に結成した私の少年野球チームは
当時9名の部員だったが、
現在100名を越える数になり、
その中から多くの甲子園球児が生まれていった。
現在、プロで活躍している
田中将大投手もその一人である。

彼らには自分がイチロー選手から学んだことを
折に触れては話し、野球に取り組む姿勢として
それを生かしてほしいと伝えてきた。

自分で目標を持ち、
それに向けての継続を怠らなければ、
必ず次の段階へと自分を
押し上げていくことができる。

そしてそれは、人生を生き抜く力にも
繋がっていることを、
野球を通して伝えていければと考えている。

『St、Farmer’s Jam』『農仙果醤』

土曜日, 3月 17th, 2012

St、Farmer’s Jam」。

「聖なる農人のジャム」・・・・こう書くと、連想するのが故・福岡正信翁しかありません。

あえて、農聖と冠したのは、まほろばが初めてかもしれません。

農聖・福岡正信翁へのオマージュとして、このジャムママレードを作りました。

丁度、福岡自然農園では雑柑が揃うのも終わりの頃。

甘夏、宮内・大谷伊予柑、八朔、文旦、ネーブル、清見柑、金柑、

小林柑、スィートスプリング、ひめまり、レモンの12種類。

それに、一二三糖と果糖を加えました。

これを、中国語で農業の仙人(聖人)による果醤(ジャム)、

『農仙果醤』と名付けました。

ジャムというより、果肉や皮が原型で入ったたっぷりのママレードです。

ケーキの達人、大和シェフによる手作りは、その勘所を押さえた妙にして絶妙。

実に、自然で豊かな福岡翁の哲学と美味が迫って来ます。

我田引水とはいえ、こういう素材の質と取り合わせは、

世界を見てもないと思います。

福岡先生でこそ成し得た、農の遺産でもあります。

それを結晶化した『St、Farmer’s Jam』

『農仙果醤』を広くご愛用下さい。

200g ¥890

「“無言館”設立秘話」

土曜日, 3月 17th, 2012

       
       
          野見山暁治(洋画家)

             『致知』2012年4月号
              連載「生涯現役」より

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【記者:野見山さんは戦没画学生の作品を集めた
   「無言館」の創設にも携わっておられますね】
   
   
 戦後二十年が経ち、僕が四十五歳頃のことですが、
 NHKから戦没画学生の特集を組みたいからと
 ゲスト出演の依頼があったんです。

 その後、出版部から画集にしたいので、
 遺族の家を回ってくれないかと相談がありました。
 それでゲストに出た三人で手分けし、
 十五軒ずつ回ったんですがね。

 三軒目に亡くなった親友の家を訪ねたら
 「あなた、どうして生きて帰れたんですか」
 とお母さんが言う。
 
 その時に、僕は何か自分だけが
 うまく生き延びたような気がしてね。

 息子を亡くし悲嘆に暮れている人を、
 俺は見物しに回っているじゃないかという
 後ろめたさがありました。

 そしてその家から帰る時のことです。

 玄関にあったコートに袖を通そうとするとお母さんが
 
 「向こうを向きなさい」
 
 と言って着せてくれたのはいいんですけど、
 その手がね、離れないんですよ。ずうっと。
 こう、僕の背中を触って…。
 
 長年待ち侘びた子供が帰ってきたという、
 その実感なんだなぁ。

  僕はもう耐えられなくなってね。
  翌日NHKに行って、頼むから降ろしてくれ。
  とても回れないと言ったんですが、
  それなら代わりの人を推薦してほしいと。
 
  でも自分が途中で放り出して
  人に頼むことなんてできないから、
  結局続けて回ることにしたんです。

 
 やがてNHKから『祈りの画集』という本が出ました。
 すると窪島誠一郎という人が、
 以来、十何年とその本を持っていて、
 何回も何回も読み返したというんです。
 
 そしてこの人たちの絵を集めて、
 美術館をつくりたいから協力してもらえないかと言ってきた。

 僕は彼に、よしなさいと言いました。
 労力や時間やお金がかかるのはもちろん、
 行った先々で、もうこれは止めにしたいという
 切ない思いになる。
 
 なにしろ当時は戦没者の遺族を回る詐欺が
 横行していましたから。
 
 僕が訪ねていくと
 
 
 「どうせ、金をせびりに来たんだろう。
  おまえさん、いくら欲しいんだ?」

 などと言われる。
 画集を作りたいと言っても
 
 
 「写真を撮ったらすぐに帰れ。後は一切関わらない」
 

 とか。
 
 
 ところが彼はね、何度言っても、
 やると言って聞かないんですよ。
 俺は協力しない、二度と回る気がしないと言っても、
 
 
 「どんなことでも覚悟していますから」
 
 
 と言って聞かない。
 
 でも僕はね、実はそういう人が現れるのを待っていたんです。
 これだけ言ってもやると言うなら、
 この人は本当にやるな、やってくれるなと思った。

 僕はその十年前にいろいろな家を回った時、
 こんな別れ方を遺族の方としているんです。
 
 
 「私たち夫婦が死んだら、
  戦死したこの弟の絵はどうなるか分からない。
  それじゃ私たちは死にきれません。
  
  お願いします。待ってますから。
  保存する機関を探して必ず連絡ください」
  
  
 「……分かりました」。
 
 
 そう言わないと帰れない家が何軒もありました。
 これでやっとあの方たちとの約束を果たせると思いました。

 そして窪島さんと一緒に全国を回ることになったんですが、
 彼がまた周到な人で、美術館設立への思いを
 前もって文章に託して、皆に配っていたんです。

 最初に栃木の農家を訪ねた時は、
 爺さんが森の前に立って我われを待っていた。
 
 そしてこう言った、僕に。
 ぎゅっと強く手を握ってね。
 
 
 「あれから十八年間ずうっとあなたが来られるのを
  待っておりました。
  弟の絵を預かるところを必ず探してくるとおっしゃったから」。
  
  
 僕はその時にね、こういう人がいるんだから
 こうして生きててよかったな、
 これはどうしても美術館を
 つくらなきゃいけないと思いました。
 

馬酔木あせび

土曜日, 3月 17th, 2012

まほろばは花卉も扱っている。

お花や鉢物など、・・・・春の苗木時には、玄関前が、

パッと花咲いたように輝く。まるで浄土の園にいるような感じだ。

先日、「あせび」の鉢が入荷した。

そのすずらんが連立したような可憐な感じが、何とも良かった。

「馬酔木」と書く「あせび」と謂えば、さだまさしの『まほろば』が思い起こされる。

馬酔木(あせび)の森の馬酔木(まよいぎ)に
   たずねたずねた 帰り道

牛馬がこの花を食べれば、毒性成分で酔ったようになることで、馬酔木の字が当てられたという。

若き男女の恋の迷いと、散策する奈良・春日野の森が響き合っています。

アセビ馬酔木)を調べると 多くの草食ほ乳類は食べるのを避け、食べ残される。

そのため、草食動物の多い地域では、この木が目立って多くなることがある。

たとえば、奈良公園では、鹿が他の木を食べ、この木を食べないため、アセビが相対的に多くなっている。

食物は、自ら動けないので、自分の身を守るために毒ガスなどを出す。

これを自然(漢方)農薬とも謂うが、虫や動物を避けて生き延びるための培われた智慧だ。

 可憐さゆえの、健気な防御本能だ。

この鉢には、「屋久島あせび」とあり、一層いとおしく感じた。

   寝ぐらを捜して鳴く鹿の
   後を追う黒い鳥鐘の声ひとつ
   馬酔の枝に引き結ぶ
   行方知れずの懸想文(けそうぶみ)

「ゴボウ茶で心も体も20歳若返る」

土曜日, 3月 17th, 2012

      
 南雲 吉則 (ナグモクリニック院長)

   『致知』2012年4月号
     連載「大自然と体心(たいしん)」より
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 10数年前、当時30代後半の私は、
 身長173センチ、体重77キロの立派なメタボ予備軍。
 いつも腹回りが苦しく、心臓に負担がかかっている
 感覚がありました。
 
 さらに、ワキガ体質で、加齢臭も気になり出していました。

 ところが、18年経って現在56歳の私は、
 体重62キロをキープ。
 メタボリックシンドロームとは程遠く、
 ワキガも加齢臭もまったくありません。
 当時より、見た目も体の中身も、気持ちまでも若返っています。

 初対面の人に私の年齢を言うと、たいてい驚かれます。
 どうも実年齢より20歳くらい若く見えるようなのです。
 ためしに、体の各部分が何歳くらいに相当するか
 調べてみたところ、脳年齢が38歳、骨年齢は28歳、
 血管年齢は26歳という結果になりました。
 
 どうして私が若さを保ち続けることができているのでしょうか。

 私の生活習慣は実にシンプルです。
 
 
 「腹六分の食事」

 「早寝早起き」
 
 「通勤時のウオーキング」
 
 
 の3つを柱に、規則正しい生活を続けているだけです。
 
 サプリメントを飲んだり、ハードなトレーニングを
 課しているわけでもありません。
 
 ただ、この生活習慣を強力にサポートし、
 その効果をアップさせてくれているものがあります。

 それが「ゴボウ茶」です。

 私がゴボウ茶と出合ったのは40代半ばでした。
 当時の私はひどい便秘症で、トイレでいきむと不整脈になり、
 生命の危機さえ感じていました。
 
 家系的にも祖父が52歳で心筋梗塞で亡くなり、
 父も62歳で倒れてリタイア。
 自分もいずれそうなるのでは、と不安になり、
 まずは知り合いの農家の方に便秘を治す方法を相談したところ、
 教えてもらったのが「ゴボウ茶」だったのです。

 作り方を教わり、飲み始めると、便秘が治るどころか、
 なんだか体が元気になったような気がするのです。
 
 鏡で見ると肌つやもよくなって、
 どこか生き生きとした感じです。
 
 「これはすごい!」と、ゴボウの成分について調べてみたところ、
 ゴボウには人間を若返らせ、元気にする栄養分が
 たくさん含まれていたことが分かりました。

         * *

 
  ゴボウ本体に含まれる食物繊維は野菜の中でもダントツ。
  しかも、ゴボウには朝鮮人参並みの
  漢方薬成分が含まれています。
  以下にその素晴らしい効果をご紹介します。

<ダイエット・美肌効果>
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 ゴボウを皮ごと水にさらすと出てくる真っ黒な汁。
 これは灰汁ではなく、皮に含まれる
 「サポニン」というポリフェノール成分で、
 朝鮮人参の薬効成分とほぼ同じなのです。

 サポニンの「サポ」は「シャボン」と同じ語源に由来し、
 界面活性作用を持っています。
 
 石鹸の泡が油に吸着して洗い流すのと同様に、
 ゴボウに含まれるサポニンが体内のコレステロールや
 脂肪に吸着して、洗い流してくれます。
 
 この界面活性作用によって太りにくい体に
 体質を改善することができます。

 さらに、ゴボウ茶を飲み始めると肌がきめ細かくなります。
 皮脂の分泌が抑えられ、毛穴が小さくなるためです。
 
 また、サポニンには強い「抗酸化作用」があり、
 老化の原因となる「活性酸素」を除去し、
 肌の修復力を高め、老化の進行も抑えてくれます。

その他、がん・糖尿病予防、血行促進・整腸作用、
ゴボウ茶の作り方や、その効果を倍増させる秘訣など……、

エゾ鹿と丹頂鶴

金曜日, 3月 16th, 2012

イタリア料理素材 2

金曜日, 3月 16th, 2012

ジェノベーゼ・ペースト  270g ¥1.832

国産のフレッシュバジルとイタリア産のグラナバダーノチーズ、オリーブオイルから

作ったペースト。パスタソース以外にも、温野菜サラダのドレッシングや

ソテーした肉や魚のソースなど幅広くご利用いただけます。

セミドライトマトオイル漬け(オーガニック) 200g ¥834

南イタリアさんの完熟トマトを天日で半乾燥させ、香草と共にオイル漬けにしました。

甘みと旨みが凝縮した味わいで、そのままおつまみに、パスタやピッツアの具に、

またはつぶしてソースなどにお使いいただけます。

 

本当に、この隠れ味、隠し道具があれば、來客もビックリしますよ。

家庭でレストランの腕が振るえます。

金曜日, 3月 16th, 2012

金子みすゞが関東大震災の翌年に詠んだ詩

カテゴリー:感動する話

矢崎節夫(金子みすゞ記念館館長)

      

(『致知』2011年7月号 特集「試練を越える」より)

金子みすゞは関東大震災の翌年に次のような詩を詠んでいます。

去年のきょう
 ―大震記念日に―

 
 去年のきょうは、いまごろは、
 私は積木をしてました。
 積木の城はがらがらと、
 みるまにくずれて散りました。
 
 去年のきょうの、くれがたは、
 芝生のうえに居りました。
 黒い火事雲こわいけど、
 お母さまお瞳がありました。
 
 去年のきょうが、暮れてから、
 せんのお家は焼けました。
 あの日届いた洋服も、
 積木の城も焼けました。
 
 去年のきょうの、夜更けて、
 火の色映る雲のまに、
 白い月かげみたときも、
 母さま抱いててくれました。
 
 お衣はみんな、あたらしい、お家もとうに、建ったけど、
 去年のきょうの、母さまよ、私はさびしくなりました。

      * *

 みすゞは関東大震災発生時は
 下関にいましたから直接の影響は受けていません。
 
 それでも震災から一年を経て、
 昨年の今日の出来事を深く思うことで、
 被災された人たちの悲しみの一端を
 担おうと考えたのでしょう。
 
 当時お母さんを亡くした子供のことを思って
 一篇の詩を詠んだのです。

 自分が幸せな環境にいても、
 悲しんでいる人のことを自然と思うことができたみすゞ。
 
 二十歳にして、既に自他一如の考えを
 根底に持っていたということは、やはり驚嘆すべきことと思います。