まほろばblog

山中伸弥氏の名言

10月 4th, 2012

世紀の大発見「iPS細胞」の生みの親
        
         『致知』2012年11月号
           特集「一念、道を拓く」より
  http://www.chichi.co.jp/monthly/201211_index.html

──────────────────────────

 ◆  メンバーが本当に、「心」で動いてくれないとダメですね。
   決して給料が高いわけでもなし、
   ミッションは難しく、時間もかかる。

   だから心意気で動いてくれる人をどれだけ集められるかは
   本当に大切だなと感じます。

 ◆  独創的じゃなくてもいいからまず実験に取り組んでみて、
      その結果を色のない目で見られるかどうか。
   独創力を発揮できるか否かは、
   そこにかかっているんじゃないかと思います。

 ◆  新たな発見のためには、未来への投資が不可欠です。

 ◆  科学者として成功するためには、
  「VW(ビジョン&ワークハード)」が大事だと
   恩師から教わりました。

   長期的な展望としっかりした目標を持ち、
   懸命に努力を重ねればその一念は必ず叶うということです。

 ◆  大事なのは少しでも多くの知的財産を生み出すことで、
   欧米に対する競争意識を保ち、
   その競争意識を研究の促進へと繋げていくことです。
 

※対談では、世紀の大発見が生まれるまでの軌跡や
 日本がこれから進むべきなどについて
 貴重なお話をいただきました。

 どうぞ楽しみにお待ちください。

札幌木鶏クラブ・記念講演会

10月 3rd, 2012

致知出版社より、正式に記事転載の許可を頂き、

毎日のように、『致知』の訓文を掲載しております。

お陰様で、先人の心の軌跡を学び、毎日の糧とさせて戴いております。

この度、『致知』を学ぶ場としての「札幌木鶏会」の設立25周年を記念し、

札幌で講演会が開かれます。

どなたでも、ご参加できますので、是非ご出席ください。

講演会は無料です。

感謝デー/10月

10月 3rd, 2012

早いもので、既に10月の感謝デー。

今回も、盛り沢山の催し物。

先月、大好評の「指ヨガ」「チタン鍋」「ヘンプ・バンブー衣服」が両店で開かれます。

ニュジーの「レモンマートル」、「ジャラトラ・ハニー」。そして「インカインチオイル」。

また両店で「倭詩」のサイン会も行われます。

特価販売は5~600の目白押しで、記載できません。

内容を詳しく知りたい方は、Fax致しますので、ご連絡くださいませ。

「才能を私物化してはならない」

10月 3rd, 2012

   稲盛 和夫 (京セラ名誉会長・日本航空名誉会長)

       『致知』2012年10月号
          特集「心を高める 運命を伸ばす」より
   http://www.chichi.co.jp/monthly/201210_pickup.html

──────────────────────────

私は様々な方のおかげで若い頃に京セラを
軌道に乗せることができましたが、その過程で
「私の技術をベースに創業し、私が夜も寝ないで経営してきた会社だ」
という、一種の驕りが出たことがありました。

しかし、すぐに考えを改めて、
「才能を私物化してはいけない」と常々自分に言い聞かせてきたんですね。

京セラやKDDIを立派な会社にして、
JALの再建も果たして、確かに私には
少しは経営の才能というものがあったのでしょう。

しかし、そういう才能を私が持っている必要があったのだろうかと。

この社会は一つの演劇を演ずる劇場のようなものだと思っています。
劇団には主役を演ずる人、脇役を演ずる人、
大道具、小道具、衣装の準備をする人、
様々な役回りがあるわけです。

現代において、京セラやKDDIをつくる人は
必要だったかもしれないが、その才能は
別に私が持っている必要はなかった。

同じような才能を与えられた人がいれば、
JALの再建はその人物を中心に行われたと思うのです。

私はたまたまこの世界の創造主から才を与えられ、
役割を与えられた。

ならば、その才を自分のために使って
「俺がやった」などと自惚れてはならない。

やはり従業員のため、世のため人のために使う。
それがリーダーだと思い、これまでやってきました。

最近ことに強く思いましてね、夜、寝付いたらいつも
「こんなに素晴らしい人生を与えていただいたのだから、
  なんとか世の中にお返ししたい」と思っているんです。

盛和(せいわ)塾ではずっと
「心を高める 経営を伸ばす」というテーマを掲げていますが、
これは経営だけの話ではないと思っています。

「山崎ハコ」さんライブ

10月 3rd, 2012
三角山放送局の杉山社長から、ライブのお知らせが入りました。
すみません、この世界ほとんど疎くて知りません。
ただ、山崎ハコさんが出演ということですので・・・。
若い頃、何かで知った彼女の存在とその唄の暗闇の深さが印象に残っていました。
正直、あの華奢な体躯で、長生き出来るのだろうかと、
今思えば失礼なことを考えていましたが、
現在なおも、お元気で活躍されているご様子にホッとしました。
ファンも多かろうと思います。是非、ご参加くださいませ。
YouTube Preview Image
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
さて、10/11(木)に弊社のパーソナリティであり、
「時計台のある街」の作者、浅沼修さんの
コンサートがあります。
 
札幌時計台内の札幌ご当地ソング、
時計台が登場する歌のなかにも
STVアナウンサー喜瀬ひろしさんが歌った
レコードのコーナーがあります。
 
バックに、安田裕美さん、
ゲストに山崎ハコさんをお迎えします。
 
10/11(木)開場18:30 開演19:00
料金:前売3,000円 当日3,500円
会場:レンガの館(西区八軒1条西1丁目2-5)
JR琴似駅徒歩1分
主催:三角山放送局
 
ぜひ、お越しください、お待ちしています。
 
ご都合付きそうでしたら、ご検討くださいませ。
チケット取り置きしますので、当メールに
ご返信いただければ幸いです。
なにとぞ、よろしくお願い申し上げます。
 
 
***********************************
〒063-0841札幌市西区八軒1条西1丁目1-26
株式会社らむれす 三角山放送局
代表取締役社長 杉澤洋輝
TEL011-621-8610 FAX011-621-9458

「ぽのぽのマーチ」と「ほのぼのマルシェ」

9月 30th, 2012

後藤さん、ご来店!

9月 30th, 2012

先日、韓国の後藤吉助さんが、突然来店されました。

大相撲の蔵前国技館で「日韓友好海苔」を売られているためである。

『倭詩』が発刊されたので、急遽、羽田から千歳の便に飛び乗って来道されたという。

お会いしたのは、ものの10分ほどの短い間であった。

そのために、わざわざ足を伸ばせるものであろうか、後藤さんの赤心に又もや、涙した。

今、竹島問題で、彼の地で暮らすのは大変で、今までつきあってきた業者や隣近所が、

急に冷たくなって、よそよそしくなってしまったという。

日韓の軋轢は、現場では相当苛烈を極めているらしい。

何とも、心苦しい。

それでもこれにめげず私に触発されたのか、

後藤さん、ご自分の半生を本にしたいと意欲的である。

早速、同じ出版のIDPさんを紹介し、和泉社長とお会いしたという。

何でも、現場を見て欲しいということで、韓国取材に相成ったとか。

きっと素晴らしい内容の半生記が上梓されることでしょう。

ますますのご活躍を祈るばかりです。

(小雨けぶる中、名残惜しい、お別れでした。)

サバ異変!

9月 29th, 2012

秋口に獲れる道産の「さば」は、毎年、2、3回の市場入荷で終了する。

ところが、今年は異常なほど、毎日のように水揚げされ、セリ落とされる。

道東・釧路沖の脂の乗りは、他の比でなく抜群の旨さだ。

だから、まほろばでも「〆さば」に加工して、毎日のように店出ししている。

なんでも海水温が平年の4.6度も高い22.5度の最高記録だそうで、

プランクトンが繁茂し、格好の餌場になって南下しないらしい。

さんまもご他聞に漏れず、三陸にはなかなか下らず、

初期の不漁を挽回している。

ここ何日かで、急速に秋の気配がして来て、

心配の鮭の母川帰りも、万度に近く戻って来ているという。

ホッと、胸を撫で下ろす。

自然界のこういう変化、ダイナミズムで、大きいうねりが、

人間も、世界も活性化してゆくのだろう。

変化の中に常道を観たい。

まほろばでは、年末オリジナル「〆さば」「開きサバ」を企画している。

「ブックル ドレイユ」大貫さんCD

9月 29th, 2012

フランス語でイアリングという意味のタイトル「ブックル ドレイユ」のCDアルバム。

聞けば、あの「Sall we dance?」から始まって、聞きなれた彼女の名曲が、

イアリングのキラメキのように、ちりばめられています。

それぞれが、キラキラと固有の輝きを放ちながら。

何か、ホット息抜きに聴くのには最高ですね。

今、店内にかけていますが、パーと空気が和らいで店内が明るく変わります。

大貫さんが送ってくださった自選の名曲・名アルバムもあなたのおそばに、どうぞ・・・・・。

(まほろば 扱い ¥3.000)

 「紙芝居は我が命」

9月 29th, 2012

        杉浦貞(プロ街頭紙芝居師)

                『致知』2012年10月号
                      致知随想より

└─────────────────────────────────┘

まだ誰もいない公園を背に、
よく音のとおる拍子木を打ちながら街を回る。

二十分もすれば、子供たちが公園に集まり出す。
子供たちが自らの感覚で小さい子は前、
大きい子は後ろの順で座りだせば、
いよいよ街頭紙芝居の始まりだ。

街頭紙芝居は、マンガ一巻、続き物の物語一巻、
最後にとんちクイズ十問が出て、
正解者は水飴券がもらえるという決まりで行われる。

もっとも紙芝居はただ子供たちを喜ばせればよいと
いうものではない。

例えば水飴券は一週間後にしか使えないため、
その間子供たちには我慢することを教えている。

また、クイズでの「ハイ」の返事は、
私の目を見てしないとやり直しをさせている。
元気な返事が子供たちの自立心を育て、
友達関係を良好に築く原点となるのだ。

私はプロの街頭紙芝居師としてこの道三十二年、
毎週十二か所以上、年間六百回以上紙芝居を
上演することを生活のためのノルマとしてきた。

しかも駄菓子の値段を三十二年間、
一度も値上げすることなく一律五十円を守り続けているのだ。

だが最盛期だった昭和三十年代に
紙芝居師が全国に五万人いたのもいまは昔。

現在、紙芝居で生計を立てているプロの街頭紙芝居師は
八十一歳になる私一人のみだが、
二百年の歴史を持つ紙芝居という、
日本独自の文化を担っているという気負いはない。

むしろいまの仕事は我が天分であり、
楽しくてやめられないというのが本音だ。

初めて街頭紙芝居を見たのは二十歳の時だった。
石川県羽咋市という田舎から身一つで大阪に出てきた私は、
その日も日雇いの仕事を終え、
大道芸が並ぶ盛り場をあてもなく歩いていた。

ふと広場の片隅に年配の老人が子供や婦人たちを集めて
何かをしているのに気がついた。
聞けば紙芝居屋といって、いっぱしの職業だという。

肉体労働だけが生きる道だと考えていた自分には、
口先一つで生活ができると知った時の
驚きと感動はいまも忘れられない。

紙芝居師を志したのは勤めていた会社が
倒産する一年前、四十八歳の時だった。

すでに紙芝居師は街からほとんど姿を消していたが、
かつて二十歳の時に大阪で偶然出会っていた
紙芝居への潜在意識に火がついたのだ。

最初は祝祭日に知人から道具一式を借り、
家から遠く離れた公園で見よう見まねで上演した。

当時紙芝居師は乞食の一つ上と蔑視され、
家族は私が近所で紙芝居を演ずることを嫌がったからだ。
そんな最中に会社が倒産。

過去二度倒産の憂き目を味わった私にとって
新たな職探しは気が重く、
その反動からかますます紙芝居にのめり込んだ。

だが失業保険が切れる頃になると、
家族の強い反対もあって焦りが募り、
職探しで紙芝居を一週間ほど休んだことがあった。

すると街で私を見つけた子供たちが
しきりに紙芝居をせがんでくる。

いつの間にか、子供たちとの間に仲間意識が芽生えていたのだ。
私の紙芝居を待つ子供たちがいる――。

この瞬間、腹が決まった。

「明日必ず行くから待っとれ!」。

紙芝居屋として生きていこうという
強烈な人生の決断が生まれたのだ。

しかし現実は厳しい。
私の収入が減ったため、妻はパートに、
そして子供二人は高校生になると
バイトに出ざるを得なくなった。

将来への不安が常につきまとい、
それまでの温かい家庭の雰囲気は消え、
殺伐とした空気が漂うようになった。

さらに追い討ちをかけるように、
紙芝居に子供が集まらなくなってきた。

いま思えば紙芝居がマンネリ化していたのだが、
それでも雨さえ降らなければ
毎日、毎日公園へと夢中で出掛けていった。

一月下旬、その日は朝から雪だったが、
午後から急に晴れ間が差すとすぐに街中へ飛び出す。

しかし、目指す市営団地の広場には
雪が積もり誰も集まらない。

いたたまれない気持ちでその場を去ろうとした時、
一人の女の子が自転車置き場の隅からそっと現れた。

私の顔をじっと見つめ、

「おっちゃん、水飴ちょうだい」

と百円玉を差し出してきた。

私は自分が惨めでしょうがなかったが
しぶしぶ水飴をつくった。

そしてもう一本水飴を求めたその子に
「おっちゃん、ご飯食べられるんか」と言われた時には、
私のさもしい心が見透かされてしまったように感じ、
逃げるようにその場を後にした。

その子のことが頭から離れぬままに
十日ほど過ぎただろうか。

ふと自分は心のどこかで子供たち相手の商売を
馬鹿にしていたことに気がついた。

お菓子を買ってくれるのは大人ではなく子供たちなのだ。
自分たちの仲間だと思って対等な気持ちで
水飴を買ってくれる子供たちは、
私の生活の神様なのだ。

そう閃いた瞬間、心が晴れ晴れとして気持ちが
どんどん前向きになるのを感じた。
そして子供たちが喜んでくれることだけを
四六時中考え続けるようになって、
俄然紙芝居が面白くなってきた。

それからは「村田兆治物語」など
意欲的に新しい紙芝居の題材にも取り組んだ。

今年二月には新作「応答せよはやぶさ」を持って、
毎月一週間、東北三県の復興支援ボランティア紙芝居を実践し、
老人や子供たちに諦めない心の大切さと
生きる勇気や感動を伝えている。

きょうも街のいつもの広場や公園で
拍子木を合図に私の紙芝居が始まる。

辛いことは幾度もあったが、
紙芝居師としての自負心や楽しさと、
溢れる感性を武器にその時その時の道を切り開いてきた。

プロ紙芝居師とは、子供たちとの友情を創造し、
深め合える神聖な職業だ。

そして仕事を通じて人格を磨き高め、
紙芝居道の確立に命を燃やすことが私の生きる道なのである。