まほろばblog

「患者さんのベッドサイドに立つ資格」

11月 8th, 2012

      紙屋 克子 (筑波大学名誉教授)

              『致知』2012年11月号
               特集「一念、道を拓く」より
        http://www.chichi.co.jp/monthly/201211_pickup.html

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卒業後はまだ新しい領域だった脳神経外科を選びました。

半年くらい過ぎたある日、私は経管流動食
(意識障碍などで口から食事のできない患者さんに
  管を通して胃に栄養食を入れる)
を取り替えるために病室を順番に回っていました。

最後の部屋に入ると、脳腫瘍の術後、
意識が回復しない27歳の患者さんのベッドサイドに、
私と同年代の若い奥さんが3歳の女の子を抱き、
5歳の男の子の手を引いて立っていました。

私が作業を終えたちょうどその時、その人が

「こんなのは治してもらったことになりません!」

と、本当に激しい口調でおっしゃったのです。

私はご家族の悲痛な叫びを初めて聞き、
大変な衝撃を受けました。

その当時は、意識に障碍のある人の命を維持することにも
大変な努力が必要だったものですから、
一所懸命頑張っていた仕事に対して、
そんなことを言われるとは思いもよりませんでした。

「確かに命は助けてもらった。
  でも他人である看護師さんと妻の私を区別できないこの人、
 二人の子供が“お父さん”と呼んでいるのに応えないこの人を、
 家族の一員として受け入れて、私たちはこれから
 どんな人生を歩んでいったらいいんですか」って……。

脳腫瘍を摘出して命を助けたのは医師です。

でも彼女にとっての「治る」という意味は、
自分のところに夫が帰ってくることであり、
二人の子供に父親が帰ってくることだったのです。

私たち専門職が考える治療のゴールと、
ご家族の考える健康のゴールには
随分大きなギャップがあるのだと気づかされました。

その時、私は初めて看護本来の役割は何か。

何をすべき人間として、医師とは異なる資格を持って
患者さんのベッドサイドに立っているのかと考えたのです。

すると、彼女の発言の中にヒントがあって、
命を助けたのが医師ならば、
看護師の役割はこの家族のもとに夫と父親を帰すこと。

仕事をしたり学校に行ったり、
そういう役割を持つ存在として、
その人を社会と家族のもとに帰すのが
看護の仕事だと思い至ったのです。

※たくさんの反響が届いております。

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 この記事の中で次の言葉が、ストーンと心に入ってきました。

 「命を助けたのが医師ならば、
  看護師の役割はこの家族のもとに夫と父親を帰すこと」

 仕事を通じて自分の役割を本質にかえって考え、
 定義し、実践している。一人の人間の偉大さを知りました。
 このような考え方ができる人が多くなると、未来は明るいと思います。

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 ナースの大先輩のお言葉、感銘を受けました。
 そうなんです。教科書で勉強することもプロとして大切・・・。
 しかし、毎日、それぞれの人がそれぞれの感情をお持ちです。

 目の前の患者様、目の前の相手…
 何よりも学びを与えてくれる存在なんです。
 この記事を読んで嬉しくなりました。
 私が看護学生に伝えたかったことの1つです。

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脱原発セミナー2題

11月 7th, 2012

作家・五木寛之氏の幸福論

11月 7th, 2012

                『致知』2012年12月号
                 特集「大人の幸福論」より

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 ◆免疫学の世界的権威だった多田富雄さんと生前にお話をした時、
  医学は3年で一変する。3年前の教科書は通用しないくらいの
  勢いでどんどん進歩しているとおっしゃっていました。

  そんな時代に古い知識でくどくど言ってても仕方がない。
  もっと動的に物事を見なければダメだし、
  幸福論にしても永遠の幸福論なんてないんです。

 ◆コップに残った水を、まだ3割も残っていると考えるか、
  もう3割しか残っていないと考えるかという話があるでしょう。
  そしてまだ3割も残っていると考えるほうが
  ポジティブでいいんだと。
 
  だけど、あと3割しか残っていないという現実を
  きちっと勇気を持って見定めることも大事です。

 ◆喜び上手というのはとても大事です。
  だけど同時に悲しみ上手も大事なんです。

 ◆ちゃんと悲しむということは、
  笑うことと同じように大事なことなんです。
  ただ笑うだけじゃ無意味ですよ。涙も流さないとダメ。

 ◆フランクルは強制収容所の中で、一日に一回ジョークを言って、
    お互いに笑おうと決意してそれを実践したといいます。
    それはとても大事なことです。

    しかし、人の見ていないところで彼がどれだけ涙を流していたか。
  そこを見逃してはダメです。
  喜ぶことも、悲しむことも、両方大事なんです。

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(編集部より)

  80の坂を越えても長編小説に挑むなど、
  精力的な活動を続ける作家の五木寛之さん。

  若くして流行作家となり、常に新たな境地を切り拓いてきた
  五木さんの創作力の源泉やご自身の養生法などについて伺いました。

  先行きの見えない現代社会の中で幸せを掴むには
  どのように生きればよいか?
  親鸞の教えや、自らの体験から導き出された幸福論は
  数々の知恵に溢れています。ぜひご一読ください。

幻の魚「イトウ」

11月 6th, 2012

 

「すずき」さんは、時々うちに寄ってくれるのですが、

「いとう」さんは、初めてで、みな大慌てで、出迎えました。

何せ「まぼろし」さんですから、みな興味津々でした。

市場でも持て余したのか、私にお鉢が回って来て、

「まほろばさん、買ってーーーー!」と絶叫され、

止むなく哀れみの情を抱いて、仕入れた次第。

「まぼろし」とはいえ、どう食べるのか、みな意外と知らない。

それで、いろいろ調べるととんでもない魚だったのだ。

千島・樺太からニセコの尻別川を南限として、東北に生息していた種は絶滅。

しかし、道内ものだけは、鮭鱒と同じ、降海性をもって海に出るというから不思議。

そしてホッチャレみたいに、一回の産卵で死せず、何度も産卵を繰り返すというから驚き。

それも、雌雄とも相手を変えるというから、何とも・・・・・・のはなし。

それに巨大化して最長2.1mを記録したというから雑食でへびやねずみさえ喰らうという。

個体数は年々減少し、「キャッチアンドリリース」で釣っては放流するのが励行されている。

皮は固く、衣服や履物にも利用されていたという。

道理で、サバキの竹さんが「皮が硬いので、全部引きますよ」と今朝一番に言っていたっけ。

かように、生息数の減少はの第一原因が、河川の直線化と言われている。

蛇行した川の氾濫が大地を肥沃にし、生物種の数を豊かにした。

しかし、コンクリートによる護岸工事は、確かに災害による恐怖を遠のかせた。

しかし、目に見えぬ豊饒な生態系は狂い先細りしていった。

我々は、大切な何かと交換条件に、どうでも良い物を手に入れて喜んだのではあるまいか。

その末路が、今日の日本であり、世界であるのだろう。

郷里恵庭では、茂漁川の護岸を撤去し、昔ながらの緩やかな流れに戻し、草木を繁茂させた。

その結果、驚く程の失われた生命が、どこからともなく蘇って来たという。

毎秒何種類かの品種が、この地上から消えている。

イトウも、いつまでも北海道の河川に戻ってきて欲しいと願うばかりだ。

札幌木鶏クラブ25周年記念

11月 6th, 2012

3日(土)に、札幌木鶏クラブ創立25周年記念の大会があり、参加させていただきました。

ここ1年ほど、毎月の例会に出席できていなかったのですが、三田事務局長が、

「倭詩」を売るので、絶対出るようにとのお達しでした。

中村順三会長を初め、「玄米酵素」の岩崎会長、「土屋建設」の土屋会長の講演がありました。

次々と、中国古典の名言とともに、人生を切り開いて来られた先人の苦節のお言葉に、

襟を正し、また歩を新たにせねば、という気持ちが沸き起こってきました。

ありがたいことです。古典が現実生活に、経営に生きているんですね。

まさに鏡を見る思いでした。

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祝賀会では、三田さんが応援している札幌義大夫の「あしり座」さんが、三番叟を披露。

間近に見る、浄瑠璃人形。文楽に最も遠い文化圏・北海道。

そこで、頑張って学んでいらっしゃるみなさまに感激!!!

頑張ってください!!!

全道各地から各部会の方々が参集されて、大盛会でした。

その中でも、北見部会の須藤裕美さんは、防災会社の社長さん。

数年前、「致知随想」で、私の書いた『小国寡民』に同感されたとかで、

「倭詩」を5冊も買ってくださいました。

そして、ふきのとうさんの佐藤社長や香遊生活の舟山社長とは、お知り合いでした。

世間は狭いです、みな仲間なんですね。

その日、道内道外の経営者の方々と知り合いになり、大変勉強になりました。

三田さんのご紹介もあり、持っていった本が完売して、ビックリしました。

ありがたいことです。

多くの異業種の方々と交友しながら、心を磨いてゆかねばなりませんね。

これらのご縁に大感謝でした!!!

「うさと展」inまほろば24’秋

11月 6th, 2012

明後日8日(木)より、秋の『うさと展』が始まります。

ヤンジー&アグネスが張り切っています。

月末の東北震災支援に向けての準備で、うさと展協力で、

何かのお役に立てば、嬉しい限りです。

来月の自然医学連載に「うさと」のことを書きました。

私も、10月京都のうさとイヴェントに参加して、

うさぶろうさんの生き方の本質が見えたので、

そこを綴りました。

これは、本当にすごいことを実践されていると感動し、

まほろばもより本腰を入れます。

みなさん、4日間お楽しみにしてくださいね。

天才建築家・ガウディの遺志を継承する

11月 6th, 2012

    彫刻家・外尾悦郎氏の幸福論

        『致知』2012年12月号
          特集「大人の幸福論」より

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 ◆ この34年間、思い返せばいろいろなことがありましたが、
   私がいつも自分自身に言い聞かせてきた言葉がありましてね。

  「いまがその時、その時がいま」というんですが、
   本当にやりたいと思っていることがいつか来るだろう、
   その瞬間に大事な時が来るだろうと思っていても、
   いま真剣に目の前のことをやらない人には決して訪れない。
 
   憧れているその瞬間こそ、実はいまであり、
   だからこそ常に真剣に、命懸けで生きなければいけないと思うんです。

 ◆ 人は答えを得た時に成長するのではなく、
   疑問を持つことができた時に成長する。

 ◆ 仕事をしていく上では「やろう」という気持ちが何よりも大切で、
   完璧に条件が揃っていたら逆にやる気が失せる。
   たやすくできるんじゃないか、という甘えが出てしまうからです。

 ◆ 本来は生きているということ自体、命懸けだと思うんです。
   戦争の真っただ中で明日の命も知れない人が、
   いま自分は生きていると感じる。

   病で余命を宣告された人が、
   きょうこの瞬間に最も生きていると感じる。

   つまり、死に近い人ほど生きていることを強く感じるわけで、
   要は死んでもこの仕事をやり遂げる覚悟が
   あるかどうかだと思うんです。

 ◆  当たり前のことを単に当たり前だと言って済ませている人は、
   まだ子供で未熟です。それを今回の震災が教えてくれました。

   本当に大切なものは、失った時にしか気づかない。
   それを失う前に気づくのが大人だろうと思うんです。

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(編集部より)

  不世出の建築家アントニオ・ガウディが設計した
  「サグラダ・ファミリア教会」。

  着工から130年の歳月を経たいまなお未完のまま工事が続く
  壮大な聖堂の建設に、日本人として参加してきたのが
  彫刻家・外尾悦郎氏です。

  外尾氏に初めてお目にかかった時、
  全身から漲る強烈なエネルギーに圧倒されました。

 「この仕事がうまくいかなければ明日はない」という過酷な世界の中、
  一回一回、「これが最後の仕事だ」という思いで
  真剣勝負をし続けてこられた方だけが持つ迫力ではないかと思います。

  ぜひ本誌のインタビュー記事から、
  外尾氏の“熱”を感じ取ってください。
  http://www.chichi.co.jp/monthly/201212_pickup.html#pick3

……………………………………
○サグラダ・ファミリアとは?
……………………………………

 正式名称はサグラダ・ファミリア贖罪教会。
 聖母マリアの夫ヨセフを信仰する教会として1882年に着工。
 翌83年、前任者が辞任したことによりガウディが引き継ぐこととなり、
 没後その遺志は弟子たちに委ねられた。

 設計図が残っていないため、ガウディの建築思想を想像する形で
 建設は進められている。

 完成すれば170メートルを超す「イエスの塔」など
 18の塔と3つの門を持つが、完成するのは
 数十年後とも数百年後ともいわれる。

感謝!3.11チャリティーお好み焼き

11月 5th, 2012

3日(土)に、開かれた「東日本大震災チャリティーお好み焼き」。

多数の方々の義援金を頂きまして、ありがとうございました。

60名さまのご購入で¥30、000を頂くことができました。

全額、ヤンジー「災害支援ネットワーク北海道」に、

この月末、南三陸行の活動諸費に当てさせて頂きます。

また、毎日少しづつ戴いておりますエリクサー基金も

お役に立てさせて頂きますので、よろしく了解のほど、お願い申し上げます。

詳細は後日させていただきます。

それにしても、何事も経験は無駄にならず。

穂積店長の若き日の経験が、尊くも皆様のお役に立っています。

若者よ、苦労は買ってでもしましょうね。

「九十五歳の回想 ~人生は蒔いた種のとおりに~」

11月 5th, 2012

        折小野 清則
       (おりこの・きよのり=折小野農園代表者)

                『致知』2012年11月号
                       致知随想より

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鹿児島県薩摩郡さつま町の山間に
「折小野(おりこの)ひがん花ロード」という道があります。

毎年秋のお彼岸の頃になると、
約四キロにわたり道の両側にひがん花が一斉に咲き誇ります。

もともとこの道は舗装されていない山道でした。

いまから十五年前に立派なコンクリートの道をつくっていただき、
当時八十歳だった私は何らかの感謝の思いを伝えたいと思いました。
そこで生命力と繁殖力の強いひがん花の球根を
人知れず植えていきました。

一つずつ、一尺(約三十センチ)置きに。
最初の年は誰も気づきませんでした。
二年が経ち、三年が経った頃、村の人たちが

「なんであの道の両脇に
 あんなにたくさんのひがん花が咲くんだろう?」

「誰がやったんだ?」

と話題になっておりました。私の近隣の方が、

「そういえば、清則さんが毎朝暗いうちから出掛けていた」

という話から、私が植えていたことが知れることとなりました。

いつしか噂は広まり、季節になると
遠方からわざわざ見に訪れる方もいるそうです。

現在は下草の手入れなどは町役場が行ってくれて、
「折小野ひがん花ロード」という大きな看板もつくってくれました。
九十五年間懸命に生きてきて、このように皆さまに
喜んでいただけることが何より誇らしく思います。

私は大正六年、この集落で農家を営む
折小野栄の長男として生まれました。

私も農家になるものとばかり思っていましたが、
十五歳の時に人生の大きな転機が訪れました。
地元からシンガポールに出て、漁業で成功された「南海の虎」
こと永福虎さんが私の中学校に講演にいらしたのです。

講演終了後、校長室に呼ばれました。

先生はこう言いました。

「折小野君、君は外国に行きたくはないか」

なぜ私が呼ばれたのかは分かりませんが、私はすぐに
「はい、行ってみたいです」と答えました。

永福さんは
「外国に行ったら十年は帰れないぞ。それでもいいのか」
とおっしゃるので、「はい、構いません」と申しました。

外国に行ったら何かいいことがあるように思ったのです。

いまにして思えば、両親はよくぞ長男の私を異国へ出したものです。
現代ではシンガポールも飛行機ですぐでしょうが、
当時、田舎に住む両親にとって月の世界へ送り出すような
感覚だったのではないでしょうか。

シンガポールでは二年間は事務所の手伝いをしましたが、
三年目からは志願して漁船に乗り、赤道を越えて
南シナ海やインド洋にも行きました。

その後、新たにできた製氷所のチーフエンジニアとして
働いていた時、大東亜戦争が勃発したのです。

当時シンガポールは英国領でしたから、私たちは捕虜となって、
灼熱の国インドの収容所へと送られました。
食料はない、連日四十度を超す暑さで、
毎日二~三人の日本人が死んでいきました。

この収容所には子供もおりました。
最初は一緒に連れられてきた先生が教えていましたが、
昭和十七年に第一次交換船によって帰国された方が多く、
その選にもれた子女は教育を受けられないままでした。

キャンプ内でただぶらぶらと過ごす子供たちは遊ぶことにすら
情熱を失った様子でした。このままではいけない。
二十代前半だった私は文学青年だったこともあり、
先生に推挙されました。

「日本の子供たちに負けるな」を合言葉に、灼熱の中、
必死で勉強し合ったことが昨日のように思い返されます。

敗戦を迎えた時が私の人生で一番の危機であったかと思います。
敗戦を伝えに磯貝陸軍中将と沢田連隊長がお見えになり、
私は悲しみのあまり自殺したいと思いました。

ところが「あの二人は偽者で、本当は日本は勝っているはずだ」と
言い出す者が現れ、賛同する者も多く、
子供たちに敗戦と伝えた私たちも襲撃され大怪我をする始末。

犯人を出すようにという厳しい命令も聞かず、暴動化し、
鎮圧するために、向こうの兵士が五十名ほど入ってきました。

「日本は勝っているのだから、銃を撃つはずがない」

棒を持って向かっていった人たちは、たちどころに撃たれました。
私にもその血しぶきが飛んでくるほど間近で十七名が死にました。

そこで奇跡的に助かり、板子一枚下は
地獄の船で日本へ帰国。敗戦直後の地元で貧しい中で農業に従事。

同時に女性ばかりだった生命保険の仕事もやり、
鹿児島県一になったこともありました。

山間の集落なので水田には向かず、
皆が苦しんでおりましたので、思い切って新たに山を開墾し、
ミカン畑に切り替えたこともございます。

その間、十七歳だった長男を水死で失い、ひどく落胆しましたが、
翌年次男が誕生するということもありました。

これまでの人生、いつ死んでもおかしくなかったのに
不思議と九十五歳の今日まで生かされてきました。

思いがけないことの連続でしたが、
しかし蒔かぬ種は生えぬよう、
諦めの種からは諦めの人生、
希望の種からは希望の人生、
感謝の種からは感謝の人生になるのだと思います。

私が植えたひがん花は時期が来たら必ず花を咲かせます。
その花が、私がこの生の役目を終えた後も
村の人たちの心を和ませることができたら、幸せに思います。

「百度と九十九度の違いを意識する」

11月 5th, 2012

      高野 登 (人とホスピタリティ研究所主宰)

                『致知』2012年11月号
                 特集「一念、道を拓く」より
      http://www.chichi.co.jp/monthly/201211_index.html

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最初に齋藤泉さんの存在を知ったのは
僕がまだリッツ・カールトンにいた頃でした。

山形新幹線で驚異的な売り上げを誇る乗務員がいると。
しかも二か月更新のパート契約の立場だという記事を週刊誌で見て、
「こういう仕事の仕方をされている人がいるんだ」と。

リッツ・カールトンで我われが考えている立ち位置と
似ているなと思って興味があったんです。

リッツ・カールトンでは九十九度と百度の違いを
意識しているんですね。

九十九度は熱いお湯だけれども、
あと一度上がって百度になると蒸気になって、
蒸気機関車を動かす力が出る。

しかし、九十九度ではまだ液体だから蒸気機関車は動かせない。
この一度の違いを意識しながら仕事をすることが、
リッツ・カールトンの仕事の流儀でした。

だから最初に齋藤さんの記事を読んだ時、
この人は百度だと思った。

百度の仕事とは、誰もがしている仕事を、
誰も考えないレベルで考え、
懸命に汗を流さないと見えてこない世界です。