まほろばblog

Archive for 8月 12th, 2013

今年も「芸森ハーベスト」、大貫さん唄います!

月曜日, 8月 12th, 2013

芸森ハーベスト

 

今年も「wine & music  芸森ハーベスト」開催します! 好評につき、今年は 2days で実施! おとなの音楽収穫祭を自然溢れる環境で、ゆっくり味わいませんか? 昨年の様子はこちら

<日時>

2013年 9月21日(土)、22日(日) ☆21日 open start 11:00 close 21:00予定 ☆22日 open start 11:00 close 18:00予定

<会場>

芸森スタジオ(札幌市南区芸術の森3丁目915-20)

<チケット料金>

◯前売券¥5,000(税込 ¥1,000分の買い物チケット付) ◯当日券¥5,500(税込 ¥1,000分の買い物チケット付) ◯2日間通し券¥9,000(税込 ¥2,000分の買い物チケット付) ※中学生以下無料 ※臨時バス随時運行:真駒内駅〜芸森スタジオ間 片道 ¥500 ※臨時バス随時運行:真駒内駅〜芸森スタジオ間 片道¥500 時間帯等詳細は追って発表します ※大型無料駐車場有り

<チケット発売日>

2013年 8月10日(土)

<チケット取扱い場所>

ローソンチケット Lコード 16455、チケットぴあ Pコード 209-846、e+、大丸プレイガイド、芸森スタジオにて発売

<出演アーティスト>

2013年 9月21日 大貫妙子 with 小倉博和 & 林立夫、MITCH、and more! 2013年 9月22日 大貫妙子 with 小倉博和 & 林立夫、福居良、MITCH、山木将平、and more!

21・22日出演アーティスト

【大貫妙子 with 小倉博和 & 林立夫】

 

大貫妙子さん白い服

大貫妙子

1973年、山下達郎らとシュガー・ベイブを結成。75年に日本初の都会的ポップスの名盤『ソングス』をリリースするも76年解散。日本のポップ・ミュージックにおける女性シンガー&ソング・ライターの草分けのひとり。その独自の美意識に基づく繊細な音楽世界、飾らない透明な歌声で、多くの人を魅了している。CM・映画音楽関連も多く、映画「Shall weダンス?」(監督:周防正行 96年)のメイン・テーマや、映画「東京日和」の音楽プロデュース(監督:竹中直人 第21回日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞)、映画「人間失格」劇中歌「アヴェ・マリア」(歌唱)や映画「マザーウォーター」主題歌(作詞・作曲・歌唱)など数多く手がけている。南極も含む 6大陸を旅した経験や、日々の暮らしの視点から、環境、エネルギー、食料などの問題についての発言も多く、農作業や、東洋医学に基づく健康管理を実践するという行動派でもある。今年デビュー40年の記念の年を迎え、エッセイ集の出版や、さまざまなライブ出演が予定されている。大貫妙子ホームページ

小倉博和

1960年香川県高松市生まれ。1982年ビデオの音楽、コマーシャルなどに楽曲を提供。プロとしての活動を始める。1990年桑田佳祐に才能を見いだされ「稲村ジェーン」音楽に参加。1994年桑田佳祐ソロアルバム「孤独の太陽」で全編にわたりサポートをする。その年の日本レコード大賞においてシングル「月」で日本レコード大賞・優秀賞を受賞、『孤独の太陽』でアルバム大賞を受賞した。1998年佐橋佳幸とのギター・デュオ 山弦  1st アルバム「JOY RIDE」リリース。JAPANESE FUSION SELCTION ベスト・レコード賞を受賞。これまでに 5枚のオリジナル・アルバムそしてLIVE DVD、アナログボックスをリリースしている。2005年小林武史、Mr.Children の櫻井和寿を中心に結成された Bank Band のメンバーとして、毎年静岡県つま恋にて開催される「ap bank fes」に参加。桑田佳祐、大貫妙子、福山雅治、槇原敬之など数多くのアーティストからの信望も厚く、スタジオ・ミュージシャン、作・編曲家・プロデューサーとして活躍する傍ら、近年では、ナチュラルハイ等、多くのフェスに単身参加し、観客を魅了するなど活動の場を広げている。

林立夫

1951年5月21日生まれ。東京都出身。AB型。1972年、細野晴臣、鈴木茂、松任谷正隆とキャラメルママを結成。のちにティンパンアレーと名を改め、ユーミン、吉田美奈子、いしだあゆみ他数多くのアルバムをプロデュース。70年代半ばに大村憲司、村上秀一、小原礼らとバンブーを結成。その後パラシュート、アラゴンなどバンド活動と共にスタジオミュージシャンとして数千曲のセッションに参加。2000年に細野晴臣、鈴木茂と Tin Pan を結成、アルバムリリース。 現在は、札幌でライフスタイルイベント『ttc』を主催する他、大貫妙子、小坂忠らとライブを楽しんでいる。

【MITCH】

13才よりトランペットを始める。
宮村聡、奥田章三、河村直樹 各氏に師事。1993年大阪音楽大学在学中に BLACK BOTTOM BRASS BAND を結成。1996年にポニーキャニオンよりメジャーデビュー。

国内外の様々なアーティストとの共演、ツアー、レコーディングに参加。

MITCH個人では1996年~2000年までKBS京都、FM-COCOLO、FM滋賀でラジオのDJとしても活躍する。2000年、BLACK BOTTOM BRASS BANDを脱退し、単身New Orleansへ渡る。現地ではTREME地区(6th ward)を拠点にセカンドラインパレード、ブロックパーティー、Tuba Fatsとのストリートライブに日々参加し、地元のコミュニティーに深く溶け込んだ生活を送る。 Newbirth Brass Band, Lil’Rascals Brass Band, Russell Batiste Band, All Thatなど、各バンドのレギュラーメンバーとしてクラブ、ツアー、セカンドライン、葬式、ジャズフェスティバル等で演奏。Ghetto の黒人社会の中で様々な経験を積み、音楽の幅を広げ、タフさを身に付けた。2000年以降、1年の半分は New Orleans で生活する。2002年 初ソロアルバム「MITCH」をリリース。2003年 京都市芸術文化特別奨励者に選ばれる。2004年春、公開の映画「この世の外へ~クラブ進駐軍」(阪本順治監督)では萩原聖人、オダギリジョー、村上淳、松岡俊介らとともに主演グループの1人に抜擢され映画デビュー。役作りのために短期間で体重を10kg以上減量し、麻薬に溺れて死んでいくジャズトランペッター浅川広行役を見事に演じている。
2008年 2ndアルバム「MITCH ORLEANS」をリリース。 河内音頭 本家鉄砲節 鉄砲光丸師に弟子入り。音頭取り「河洲虎丸」としても修行中

22日出演アーティスト

【福居良】

1948年 平取町生まれ。18歳でアコーディオンを始め、22歳の時ジャズピアノを始める。1976年 1stアルバム『Scenery』。1977年に 2ndアルバム『Mellow Dream』を発表。1982年上京し、自己のトリオで新宿ピットイン・吉祥寺サムタイム・名古屋ラブリー等で活動。1986年 帰札。1989年 パリのジャズクラブ「ル・プティ・オポルチュン」に招かれ、1週間出演し好評を博す。1991年 HTB-TV「スクリーンHOT情報」にレギュラー出演。1995年 3rdアルバム『MY FAVORITE TUNE』発表。また、この年バリー・ハリス(p)のレギュラーメンバーであるリロイ・ウィリアムス(ds)ライル・アトキンソン(b)を招き、スーパートリオコンサートを主催。1996年 HBC-TV「オホーツク厳冬紀行」出演。山形県蔵王ジャズフェスティバルにスーパートリオで出演。1999年 4thアルバム『福居良 in New York』を発表。

【山木将平】

1989年札幌生まれのソロアコースティックギタープレイヤー。13歳よりギターを弾き始め、インストとブルースにのめり込む。オープンチューニングやスラッピング、タッピングなどの特殊奏法を用いて作曲・演奏活動を行っている。2010年 SAPPORO CITY JAZZでベストプレイヤー賞受賞。2011年 1st Album「NORTH WIND」リリース2012年 2nd Album「The Next SHOw Time」リリース2012年 7月『SAPPORO CITY JAZZ 2012 WHITE ROCK MUSIC TENT LIVE』出演(SOLD OUT) 2012年 8月『RISING SUN ROCK FESTIVAL 2012 in EZO』出演(BOHEMIAN GARDEN)現在、日本だけに留まらず、定期的に世界各国でライブ活動を行なっている。

<出店舗>

近日第一弾発表!お楽しみに!

<主催>

芸森ハーベスト実行委員会

<協賛>

HAJ(株)北海道アルバイト情報社

<協力>

芸森スタジオ、(株)WESS、札幌国際短編映画祭、他

<お問合せ>

芸森スタジオ 011-206-7355(月〜金 10:00-18:00)


 

「人生のメンバー外になるな」

月曜日, 8月 12th, 2013
 森 士(もり・おさむ=浦和学院高等学校硬式野球部監督)

              『致知』2013年9月号
               致知随想より

└─────────────────────────────────┘

二〇一三年四月三日、春の甲子園で
我われ浦和学院高等学校は初めて頂点に立った。

苦節二十二年――。
振り返るといろいろなことが頭の中を駆け巡る。

その都度目の前に敵が現れ、
思うようにいかないことの連続であったが、
生徒や家族、守るべき存在がいたからこそ
頑張ってこられたのだろう。

今回優勝できた一番の要因は私自身の意識にあると思う。
まだまだ未熟だが、やはりトップに立っている
人間の器を広げないと組織は伸びていかない。

教育とは自分自身を磨くことだと日々実感している。

甲子園優勝は夢のような瞬間だった。

しかし、それ以上に私が誇っていることは、
この二十二年間、春夏秋とある埼玉県大会で
決勝戦に行っていない年が一度もないということだ。

毎年生徒が入れ替わる高校野球では、
時としていい選手が集まらないこともある。

だからといって、「今年は諦めて来年勝てばいい」という
チームづくりは一切してこなかった。

集まってくれた生徒が常に主人公であり、
とにかくいま目の前の代に懸ける。
その積み重ねが成果に繋がったのではないだろうか。

私が今日あるのは上尾高校時代の恩師・野本喜一郎監督が
いてくださったからに他ならない。

大学時代、私は怪我に泣かされ、
このまま選手として続けるか、指導の道に進むか悩んでいた。

野本監督は上尾高校から浦和学院高校に移られていたが、
そんな時、野本監督から
「もし指導者を志すなら、手伝わないか」と
声を掛けていただいた。

ところが、である。

大学四年の時、野本監督はすい臓がんで亡くなってしまった。
その年、浦和学院は初の甲子園出場を果たし、
ベスト4まで勝ち進んだのだが、秋の大会では一回戦負け。

選手たちは恩師を亡くした悲しみに
打ちひしがれていたようだった。

そんな彼らの姿を見た時に、学校さえ違うものの、
同じ師のもとに集った一人の人間として、
残された後輩たちに何か手助けができないだろうかと思い、
師の亡き後の浦和学院高校を守り立てようと決めた。

五年間のコーチ指導を経て、
監督に就任したのは一九九一年、二十七歳の時。

以来、負けたら終わりという勝負の世界に
ずっと身を置いてきた。

その中で何が勝敗を分けるのかと考えると、
それは瞬間的集中力の継続、に尽きるのではないかと思う。

私はよく生徒たちに

「野球とは人生一生のドラマを二時間に凝縮したもの」

と言っている。

その時その時の決断が後の人生を大きく左右するように、
野球の試合も一瞬のパフォーマンス次第で
状況は目まぐるしく変化していく。

例えば……

「果決」こそリーダーの条件

月曜日, 8月 12th, 2013
         松川昌義(日本生産性本部理事長) 

                『致知』2013年9月号
                 連載「私の座右銘」より

president[1]
心の支えとなる座右の銘を持つことは、
山あり谷ありの人生を歩んでいく上で
非常に大事なことだと思います。

特に逆境に立たされた時、そういう言葉が自分を鼓舞し、
果敢に立ち向かっていく力を与えてくれるのです。

組織を導くリーダーとして、
私が常に反芻(はんすう)してきたのは、
陽明学者・張詠(ちょうえい)の言葉です。

「事に臨むに三つの難あり。

 能く見る、一なり。

 見て能く行う、二なり。

 当に行うべくんば必ず果決す、三なり」

事に臨む、変化に対応していくには
三つの難しいことがあります。

一つは対象をよく見て
的確に判断するための観察力、調査力。

二つ目はそれを行動に移す実行力。

しかしそれだけでは不十分で、
その上にさらに重要なのが果決であるということです。

これは、日本生産性本部における私の上司であり、
人生の師とも仰ぐ牛尾治朗会長が、
安岡正篤先生から教わった言葉として
お話しくださったものです。

安岡先生は、果決という言葉の意味を、
次のように説いてくださったそうです。

果物の木に咲いている花を
すべて実らせてしまってはいい果実は採れない。

どの花を残すかを考え抜き、勇気を持って決断し、
選んだ花から立派な実を育てなければならないと。

よし、これでいこう。
折しも強い危機の最中にあった私の心に、
この言葉はストレートに響き、肚を固めることができたのでした。

それは、私が日本生産性本部の理事長に就任した
二年前のことでした。

その年の三月に発生した東日本大震災により、
予定していたプロジェクトの多くが中止や規模縮小を
余儀なくされ、経営は赤字転落。

このまま手をこまねいていては
生産性本部の存続そのものが危うくなる――
損傷した日本生産性本部のビルを見上げながら
強い危機感を抱いていた頃に教わったのが、
この果決という言葉でした。

日本生産性本部は昭和三十年、
経済同友会の設立に尽力された郷司浩平さんが、
当時まだ生産性の低かった日本企業の近代化を
促進するために設立された財団法人です(現在は公益財団法人)。

しかし、その後社会情勢は大きく変わり、
時代にそぐわない事業が増えてきたにもかかわらず、
旧弊を引きずりなかなか思い切った改革に
踏み出せずにいました。

理事長就任前から牛尾会長の熱心なご指導を受け、
ピンチをチャンスに変えよと繰り返し
説いていただいていた私は、
この震災を機に事業再生に
根本から取り組もうと決意を固めたのです。

そこで六月に理事長に就任すると、
私は「事業再生タスクフォース」を立ち上げ、
既存の百の事業を徹底的に精査し、
各々の経常利益まで分析しました。

その分析結果をもとに、
私は一つひとつ存続の可否を決断。

まさしく果決を実践したのです。
それは容易な作業ではなく、考えに考え、
思い悩んだ末に決断を下した体験から、
私は果決という言葉の重さを実感したのでした。