まほろばblog

Archive for 8月 4th, 2013

「夏の陣」『ピースエイト』サポーター

日曜日, 8月 4th, 2013

 

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今回、初登場の「ピ-スエイト」サポーター。

グラファイトシリカを刷り込んだ素材。

これは、エリクサーに搭載しているシリカブラックと同じもの。

生育光線の遠赤外線効果が他の鉱物に比較して、理想黒体に最も近い優れもの。

超微粉末をセラミック素材に練りこんで焼成したものとその鉱物を入れています。

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先頃、エベレスト登頂に成功した三浦雄一郎氏。

これを装着して、体が温まり、足がすっきりしたため、

早速遠征チーム15人分を発注されて、みな付けられたという。

何はともあれ、三浦さんの登頂成功、おめでとうございます。

いささかでも、このサポーターがお役に立てられたのであれば、嬉しいことです。

これから無限に拡がる予感のある逸品です。

ジーエス・サイエンス社の誠実な野川社長の健闘を祈ります。

夏の陣、最終日『ノニリーフティー』

日曜日, 8月 4th, 2013

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「夏の市」最終日、好天に恵まれての日曜日。

本店では、磯ご夫妻による「ノニティー」の試飲会が行われている。

お二人のさわやかな笑顔に誘われて、次々とノニ葉のおいしい口ざわりにニコリ。

昨日も大貫妙子さんが飲まれて「このティーは何?」と、美味なる風味を愛でられていた。

抗酸化力の強い、この飲み物を日常に、どうぞ。

 

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「ノニリーフティー」1箱20p ¥2625

   お試しパック  4p入  ¥525(税込み)

 

 

 

「娘が残した九冊の日記」

日曜日, 8月 4th, 2013
        植木 誠(教研学習社代表)

              『致知』2005年7月号
               致知随想より

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二十二年前、十一歳だった娘の亜紀子は
「ママ、ごめんね……」という言葉と九冊の日記帳を残し、
この世を去りました。

三歳で白血病を発病し、人生の大半を闘病生活に費やした
彼女の最期は、穏やかで安らかなものでした。
しかし私の胸の中に去来したのは、
罪悪感以外の何ものでもありませんでした。

当時私は中学校の国語の教師をしていましたが、
二十二年前といえば日本中の中学が荒れに荒れ、
私の赴任先も例外ではありませんでした。

昼間、学校で生徒指導に奔走し、
ヘトヘトになって帰宅すると、娘が一晩中、
薬の副作用で嘔吐を繰り返す。

あるいは妻から「きょうは亜紀子が苦しそうで大変だった」と
入院先での容態を聞かされる。

「俺はもうクタクタだ。一息つかせてくれ」

と心の中で叫んでいました。
そしてある日、妻にこう言ったのです。

「治療はおまえに任せる。俺は学校で一所懸命仕事をする。
  経済的に負担をかけないようにするから、任せておけ」

もっともらしく聞こえるでしょう。
しかし本心は「逃げ」でした。

彼女を失い、初めて治療に関して
「見ざる・聞かざる」の態度を取り続けたことへの
罪の意識が重く重く圧し掛かってきました。

なぜ、もっと一緒に病気と闘ってやらなかったのだろう。
俺は罪人だ……。

もういまさら遅いけれども、
彼女の八年の闘病生活と向き合いたい。
その思いから、娘が残した九冊の日記帳に手を伸ばしたのでした。

「十二月二日(木)

  今度の入院からはいろいろなことを学んだ気がします。
  今までやったことのない検査もいろいろありました。

  でも、つらかったけど全部そのことを
  乗りこえてやってきたこと、
  やってこれたことに感謝いたします。

  これはほんとうに、神様が私にくれた一生なんだな、と思いました。
  きっと本当にそうだなと思います。
  もし、そうだとしたら、私は幸せだと思います」

「二月十日(木)

  早く左手の血管が治りますようにお祈りいたします。
  そして日記も長続きして、元気に食よくが出ますように。
  また、いつも自分のことしか考えている子にしないで下さい」

点滴点滴の毎日で左手の血管が潰れ、文字は乱れていました。
それでも一所懸命書いたこの一文に
十一年間の彼女の人生が象徴されているようで、
私にはとても印象に残りました。

あれは彼女が亡くなる数日前のことでした。

朝、妻に頼みごとをして仕事へ行きましたが、
その日は検査や治療で忙しかったらしく、
夕方私が病院に着いた時、まだ手つかずのまま残っていました。

「きょうは忙しくてできなかった」

と妻に言われ、一瞬ムッとした顔をしましたが、
娘はそれを見て、

「ママやってあげて。私のことはいいから」

と言ったのです。

命が尽きるその時まで自分のことだけを
考えている子ではありませんでした。

すべて読み終えた時、私は胸を打たれました。

普通に学校にも通いたかったでしょう。

こんなに苦しい闘病生活を送らなければならない
運命を恨みたくもなったでしょう。

しかし日記には同じ病室の子どもたちを思いやる言葉や、
苦しい治療に耐える強さをくださいという祈りの言葉、
明日への希望の言葉、そんな強く美しい言葉ばかりが
記されているのです。

広い世の中から見れば、一人の少女の死に過ぎませんが、
この日記から得る感動は親の贔屓目ではなく、
誰もが同じ気持ちを抱くだろうと思いました。

私は彼女へ対する懺悔の気持ちと相まって、
「娘の日記を世に送り出したい」と思い至りました。

そうして教職を辞して出版社を設立、
娘が残した日記をまとめ出版したのです。

各マスメディアが取り上げてくださったおかげで反響を呼び、
映画化もされました。

たくさんの激励のお手紙をいただき、
それを励みに今日まで毎年一冊ずつ彼女が残した日記を
出版し続けることができました。

もちろん、行き詰まりそうになったことはたくさんあります。

十一年前には映画の製作会社が倒産し、
フィルムが紛失しかけたことがありました。
それをなんとか見つけ出し、
財産をはたいて版権を買い取りました。

映画技師の資格を取り、平成五年からは
自主上映会と同時に講演を行う形で全国を行脚しています。

人は私のことをただの「親ばか」だと思うかもしれません。

しかしこの二十二年間、
私は娘の日記によって生かされてきました。

読者の方や講演先とのご縁をいただき、さらに

「感動した」

「これからもあっ子ちゃんのことを伝えてください」

という励ましの言葉をいただける。
それがいまの私の支えです。

娘の亜紀子は短くとも最期まで前向きに、
他の人を思いやって生き抜きました。

本当はもっと生きたかったはずですが、それは叶わなかった。

そんな女の子がいたことを、
出版や講演を通して世に伝えることで、
あたかも人間の命が弄ばれているかのような
現代社会に対し、命の尊さを訴えたいと思っています。

先日、私の講演もついに百回目を迎えましたが、
その会場は偶然にも娘が亡くなるまで通った小学校でした。
遥か後輩にあたる子どもたちが、
「一日一日を大切に生きたい」という感想をくれました。

私の活動は世の一隅を照らすことしかできませんが、
どんなことがあっても続けていかなければならない
という気持ちを新たにしました。

「怒涛の人生 ~かく乗り越えん~」

日曜日, 8月 4th, 2013
      

       尾車 浩一(日本相撲協会巡業部部長・理事)

          『致知』2013年9月号
           特集「心の持ち方」より
   http://www.chichi.co.jp/monthly/201309_pickup.html#pick2

尾車浩一HP[1]


【記者:十年前にもご登場いただきましたが、
    大変お元気な印象が強かっただけに、
    昨年、脊髄損傷で四肢麻痺になられたという
    報道を聞いて大変驚きました】

私、昨年の二月に相撲協会内の巡業部長に就任したんです。
平成六年から巡業部に籍を置き、
自分なりに改革する点がいっぱいあるなと思ってきました。

三月の本場所を終え、部長として初めて四月に巡業を迎えました。

スタートの四月一日は伊勢でした。
神宮に集まった全力士の前で巡業の責任者として
私なりの決意を述べました。

相撲界は不祥事やらいろいろあったと。

だからお客さんは本当に相撲界が変わったのか、
変わっていないのか、ちゃんと見ている。
俺も精いっぱい頑張るから、みんな一緒についてきてくれ。
とにかく真剣な取り組みを見せようと。

奈良を経て、四月三日と四日は
福井県小浜で二日間の興行でした。
市内の体育会に養生用のブルーシートを張って、
そこに土俵を設置して開催したのです。

そして二日目の出来事でした。
きょうも巡業がうまくいってほしい。
そんな思いで会場内を歩いて視察していたんです。

ふと、土俵のほうが気になったんですね。
ひょいっと、土俵のほうを見ながら
前方を確認せずに歩いていたのが災いしました。

足がブルーシートのつなぎ目に引っかかって、
バターンと。

どんなふうに倒れたのか自分では覚えていないけれども、
転倒して、気づいたら床に仰向けになっていました。

ああ、転んでしまった。
立ち上がろう、と思っても、体に力が入らないんですよ。
あれ? 動かないと。

周囲の人たちに上体を起こしてもらいながら、
手足に「動け、動け」と指令を出したけれども、
残念ながらピクリともしなかった。
「あぁ、これはえらいことになったな」と思いました。

【記者:その時、既に起こった事の重大さに気づいていらしたのですね】

これは後から分かることですが、この時、
私は首を強打して脊髄を損傷してしまったんです。

四肢麻痺状態で動かない体を救急車に乗せられて、
小浜市内の病院へ。

そうして検査、検査が続いて、
MRIの狭い箱の中に入れられた時、涙が出てきました。
どういう涙と言ったらいいのかな……。

情けないのか、悲しいのか、よく分からないけれど、
天井を見ながら涙がポロポロと出てきたことは覚えています。

翌朝、ヘリの手配がつかず、
民間の救急車でストレッチャーに寝たまま
東京の慶應病院へと向かいました。

駆けつけた女房と、小浜の病院の先生が
同乗してくれていましたが、
聞けば到着まで八時間もかかったといいます。

その間、私は「なんで自分がこんなことに」
という情けない思いと、ただただ女房に
「すまない」という、それだけでしたね。

※尾車氏はいかにこの苦境を乗り越え、
 奇跡といわれる回復を果たしたのか?

 詳しくは、まもなくお手元に届く
『致知』9月号(P26~30)をご覧ください。
http://www.chichi.co.jp/monthly/201309_pickup.html#pick2