獨 樂 吟
月曜日, 7月 22nd, 2013獨 樂 吟 橘 曙 覧
| たのしみは草のいほりの筵(むしろ)敷(しき)ひとりこゝろを靜めをるとき
たのしみは常に見なれぬ鳥の來て軒遠からぬ樹に鳴(なき)しとき
たのしみはあき米櫃に米いでき今一月はよしといふとき
たのしみはまれに魚煮て兒等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時
たのしみはそゞろ讀(よみ)ゆく書(ふみ)の中に我とひとしき人をみし時
たのしみは雪ふるよさり酒の糟あぶりて食(くひ)て火にあたる時
たのしみは書よみ倦(うめ)るをりしもあれ聲知る人の門たゝく時
たのしみは世に解(とき)がたくする書の心をひとりさとり得し時
たのしみは錢なくなりてわびをるに人の來(きた)りて錢くれし時
たのしみは炭さしすてゝおきし火の紅(あか)くなりきて湯の煮(にゆ)る時
たのしみは心をおかぬ友どちと笑ひかたりて腹をよるとき
たのしみは晝寝せしまに庭ぬらしふりたる雨をさめてしる時
たのしみは晝寝目ざむる枕べにことことと湯の煮(にえ)てある時
たのしみは湯わかしわかし埋火(うづみび)を中にさし置(おき)て人とかたる時
たのしみはとぼしきまゝに人集め酒飲め物を食へといふ時
たのしみは客人(まらうど)えたる折しもあれ瓢(ひさご)に酒のありあへる時
たのしみは家内(やうち)五人(いつたり)五たりが風だにひかでありあへる時
たのしみは機(はた)おりたてゝ新しきころもを縫(ぬひ)て妻が着する時
たのしみは三人の兒どもすくすくと大きくなれる姿みる時
たのしみは人も訪ひこず事もなく心をいれて書(ふみ)を見る時
たのしみは明日物くるといふ占(うら)を咲くともし火の花にみる時
たのしみは小豆の飯の冷(ひえ)たるを茶漬(ちやづけ)てふ物になしてくふ時
たのしみはいやなる人の來たりしが長くもをらでかへりけるとき
たのしみは田づらに行(ゆき)しわらは等が耒(すき)鍬(くは)とりて歸りくる時
たのしみは衾(ふすま)かづきて物がたりいひをるうちに寝入(ねいり)たるとき
たのしみはわらは墨するかたはらに筆の運びを思ひをる時
たのしみはほしかりし物錢ぶくろうちかたぶけてかひえたるとき
たのしみは神の御國の民として神の敎(をしへ)をふかくおもふとき
たのしみは戎夷(えみし)よろこぶ世の中に皇國(みくに)忘れぬ人を見るとき
たのしみは鈴屋大人(すすのやうし)の後(のち)に生れその御諭(みさとし)をうくる思ふ時
たのしみは數ある書(ふみ)を辛くしてうつし竟(をへ)つゝとぢて見るとき
たのしみは野寺山里日をくらしやどれといはれやどりけるとき
たのしみは野山のさとに人遇(あひ)て我を見しりてあるじするとき
|
|
フランシスコ・ザビエル上陸の地、鹿児島。
一九九八年一月十一日、その中心部にあるザビエル記念聖堂で
「感謝のミサ」が執り行われました。
ザビエル渡来を記念して、
一九〇八年に建てられた石造り聖堂は
太平洋戦争で焼失。
その後、一九四九年の渡来四百年祭に合わせ、
木造聖堂として再建されるのです。
しかし、五十年にわたって人々を見守り続けてきた
木造聖堂も、老朽化のため建て替えられることに
なったのでした。
感謝のミサは同時に「お別れのミサ」でもあったのです。
文化財修復を専門とする私は、
木造聖堂の建築的価値をよく理解していました。
天井を高くするトラス工法などは、
同時代の教会には見られない独自の構造でした。
建て替えに向けた話が進む中、
地元の市民や信徒の方々からは
旧聖堂を残したいとの声が上がっていたものの、
私は新聖堂建築の建設委員でもあり、
資金面から旧聖堂の保存・移築までは
言い出すことができないでいたのです。
私の活動の原点には、学生時代に洗礼を受けた
カトリックの信仰があるのだと思います。
「人間を大切にする」という教えが、
先人から受け継いできた文化を
守っていきたいという想いに繋がっているのでしょう。
また、伝統的建造物が次々と破壊されていく高度成長期に、
「古いもの」の修復に黙々と取り組んでいた
恩師の姿も忘れられません。
「長い間存在してきた建築物を無駄に壊してはいけない。
せめて壊す前にお別れの挨拶をするとか、
なんらかの形に留めることが人間として大事なことなのだよ」
文化財修復には外観のみならず、
それを造った先達に想いを馳せ、
創意工夫の意味を損なわないことが
大切なのだと教わったのでした。
ただ、それまでの私は、
学者の立場からの見解は述べても、
自ら資金などを工面し文化財を守る
ということはありませんでした。
しかし、消えゆくザビエル聖堂を前にして、
人を頼むばかりであっては
無責任ではないのかとの想いが湧いてきたのです。
一九九七年秋、六十歳を迎えた私は、有志とともに
「ザビエル聖堂を文化財として再生させる会」を結成。
翌一月、解体しながら調査を行う許可を得て、
聖堂内部へと入りました。
そこで私たちが目にしたのは、
昭和二十四年当時の最先端技術を駆使した
職人たちによる第一級の仕事だったのです。
特に漆喰仕上げなどの施工技術の美しさには
思わず目を奪われました。
この技術を次世代に伝えなければならない――。
調査を経て、私の心は完全に移築再生へと傾いたのでした。
再生へと動き出した時、
ある知人からこう言われたのを思い出します。
「再生なんて無謀だよ。結局自分が苦しむだけだよ」
と。事実、移築予定先の福祉施設に解体した部材を
運んだものの、理事長の突然の交代で計画は白紙に。
資金も人手も、無いもの尽くしの出発となったのでした。
しかし、懸念された事業資金は、
知人六百人に寄付を募る手紙とその取り組みをまとめた
『聖堂再生』を送り、さらに私自身の大学の退職金の
半分を注ぎ込み工面。
これにより欲得抜きで聖堂再生に懸けている想いが
周囲に伝わったのかもしれません。
市民の方たちが手伝いに来てくれるようになり、
方々から大きな寄付が集まり始めたのでした。
移築先についても、思いがけないことが起こりました。
事情を知った福岡県宗像市にある修道院の神父様から
「私たちの敷地に建ててはどうか」と申し出があったのです。
//////////////////////////////////////////////////
まほろばブログに土田先生のことが書かれています。