まほろばblog

Archive for 2月, 2012

アグネス報告から

木曜日, 2月 9th, 2012

ニセコ町のお米とまほろばのエリクサー水をもって被災地へ。投稿日 2012年2月8日


二月八日(水) 晴れ

季節ごとに開催しているまほろば本店での自然素材手織り展、うさと展。
大盛況に終わりました。
中には、しゃぼん玉洗剤の支援物資を紙袋でもってきてくださった方や、支援金をわざわざ袋に包んで会場までもってきて下さった方、お買い物と一緒に募金して下さった方。あたたかいお言葉をかけて下さった方。みなさんのあたたかい御心を感じることが出来て、嬉しく思いました。

二月八日のフェリーにて東北、南三陸町に向かいます。

うさと展が終わった翌日、エリクサー水を18リットルを何十箱もの水を詰めて、積み込みました。


店舗営業中の忙しい中、大橋店長が、倉庫から箱を出してくださったり。。
スタッフのみなさまお騒がせしましたー。

何度となく被災地にもっていったエリクサー水。
一軒一軒特に高台の坂道の多いとこに回るので、重くて大変なのですが、持っていくと、話もはずみます。
北海道から運んできた。というと感嘆の声が!
そして喜ばれます。
水は、本当に重宝されてます。

ライフラインは、昨年七月に復旧したといえど、配管も急いで作ったというのもあるでしょう。家庭用の水の状態はよくない!というのが感想です。
出来るだけ、安心安全、おいしい水を飲んでほしいです。

ニセコ町役場から支援して下さった米。

5キロ入りで500キロあります。
お米も喜ばれることでしょう。
買いにいくとこも遠いし、(まだまだ近くに買い物に便利な商店はありません)毎日使うものなので。

12月の真狩村のイベントの時に、若者たちが積み込みを手伝って下さりました。

雪がちらついてますが、積み込みをして、夜のフェリーにて向かいます。

引き続き息の長い支援のほどよろしお願いします。

やんじーからのメッセージです。

いってきまーす。

文、写真 アグネス

 「天命追求型の生き方、

水曜日, 2月 8th, 2012

              
  白駒 妃登美 (結婚コンサルタント・マゼンダスタッフ)

       『致知』2012年3月号
          特集「常に前進」より
       ────────────────────────

この時、発病前に読んだ話を思い出しました。
 
人間の生き方には西洋の成功哲学に代表される
「目標達成型」とは別に「天命追求型」があるというのです。

天命追求型とは将来の目標に縛られることなく、
自分の周囲の人の笑顔を何よりも優先しながら、
いま、自分の置かれた環境でベストを尽くす。

それを続けていくと、天命に運ばれ、
いつしか自分では予想もしなかった高みに
到達するという考え方です。

そこでは、自分の夢だけを叶えるfor meより、
周囲に喜びや笑顔を与えるfor youの精神、
つまり志が優先されます。

私は天命追求型、目標達成型という視点で
歴史を捉えたことはありませんでしたが、
これからお話しするように、
天命追求型はまさに日本人が歴史の中で培った
素晴らしい生き方であることに、
闘病を通してようやく気づいたのです。
 

      * *

天命追求型に生きた歴史上の人物といえば、
豊臣秀吉はその好例でしょう。

秀吉は徳川家康、織田信長と比べて大きく違う点があります。

家康や信長が殿様を父に持つのに対し、
秀吉は農家に生まれたことです。

農民の子の秀吉が最初から天下統一を夢見たでしょうか。
通説によると、秀吉は
「侍になるために織田家の門を叩いた」
ということになっていますから、
おそらく若き日の秀吉は、
天下を取るなど考えてもいなかったに違いありません。
しかし、秀吉の人生はその夢を遙かに超えてしまうのです。

ご存じのとおり、秀吉は最初、信長に
“小者”という雑用係の立場で仕えました。

雑用係は、もちろん侍の身分ではありません。
けれども、信長が秀吉を雇い入れた時、
きっと秀吉は、農民の自分に
目をかけてもらえたことに胸を躍らせ、
心から感謝したのではないでしょうか。

だからこそ、たとえ雑用係の仕事にも
自分でできる工夫を施したのだと思います。

寒い日の朝、信長の草履を懐に入れて
温めてから出した話は有名ですが、
草履一つ出すにも喜んでもらえるようアイデアを加えたのです。

やがて足軽となってからも信長を喜ばせたい
という思いは変わらず、一層の信頼を得て侍に、
さらに侍大将、近江国・長浜城の城持ち大名へと登り詰めるのです。

私のことを振り返ると、目標達成に突っ走っていた時は、
確かに夢は叶いました。
受験勉強、就職活動、子育て、
すべてにビジョンを描き目標を立ててやってきました。

しかし、見方を変えれば夢しか叶わなかったのです。
夢を超えた現実はやってきませんでした。

では、秀吉はなぜ夢を超えることができたのでしょうか。
想像するに、秀吉は最初から天下取りなど考えず、
いつも“いま、ここ”に全力投球する生き方を
貫いたからだと思います。

自分の身の回りの人たちに
喜んでもらえることを精一杯やっていった。
その結果、周囲の応援を得て次々と人生の扉が開き、
天下人へと運ばれていったのではないでしょうか。

まさに天命追求型の人生だったのです。

○博多の歴女・白駒妃登美氏の公式ブログ
 http://ameblo.jp/hitomi-mazenda/

山下惣一さんとTPP

火曜日, 2月 7th, 2012

  佐賀県の農民作家・山下惣一さんが、

 よつば通信に、痛烈にTPP問題に対し、

 意見を述べられています。

 農業問題だけではないTPP,

 いかに亡国の協定であるかを、

 端的に明晰に語っておられます。

 お読みください。

世界デビュー第二弾!

火曜日, 2月 7th, 2012

「エッセンチア」世界デビューin NewYork

月曜日, 2月 6th, 2012

「エッセンチア」の篠原代表が、先日ニューヨークで開かれた

香水ショーで世界デビューを果たしました。

東洋の香り、日本の神秘が大人気で、

帰国後、既に十ヶ国からオファーがあったそうです。

柚子や檜など、欧米にはない香りは、きっと新しい香水の世界を切り開く

東洋の使者として映ったのでしょう。

次に、彼からの報告を聞きましょう。

エッセンチアの篠原康幸です。

1月30、31日とニューヨーク・マンハッタンで香水のショーケースが開催されました。

このショーケースは「ELEMENTS  SHOWCASE」と呼ばれ、

http://elements-showcase.com/

NYの香水ショーの中ではもっとも品格の高いものとして知られ、

ファッション誌や香水専門誌、バイヤー、香料会社など

約3000人の来場者がこの2日間で集まり会場を賑わさせました。

入場するには事前のエントリーが必要で、一見さんお断りのショーケースです。

今回、このショーのためにヨーロッパやアメリカなどから約60社が集まり、

それぞれのブースで雑誌の取材やバイヤーさんとの取り引きが活発に行われていました。
ただの香りにこんなに多くの人々が世界中から集まり、

真剣に討論会や取材が行なわれていた事には、

海外での香りに対する意識の高さに驚かされました。

ニューヨークは世界中のさまざまな人種が集まる場所で、

最先端の情報を収集、発信するには最適な場所と言われています。

地元の人に聞くと、ここ5年くらい前からオーガニックや自然のものに人々の関心がうつり、

一般のスーパーなどでもこれらのものを置くようになってきたと言っておりました。

安全で美味しいレストランの前には行列ができ、

美味しいものを食べるなら1-2時間くらいでも平気で待つようになったようです。

アメリカではファーストフードで知られるように、以前は食事をするのに待つという習慣はなかったそうです。

また、アメリカ人やヨーロッパの人達は日本文化や日本製品に対して憧れと信頼を持っており、

多くの人に柚子や紫蘇、檜の香料や日本文化について聞かれました。

今回のニューヨークでは「日本」と言うブランドへの信頼と日本文化への関心の高さに驚かされました。

以下のサイトでも香水を紹介していただきました。

www.cafleurebon.com/

 

http://www.cafleurebon.com/new-fragrance-review-di-ser-kaze-japanese-elements-at-elements-showcase/#comments

Another house that attracted a great deal of attention was DI SER, a Japanese perfume house founded by Yasuyuki Shinohara, who is also the perfumer.  DI SER offers three collections based on the Elements, Goddesses and Japanese Wood.  All scents in the line are composed of natural fragrance ingredients in plant-based alcohol and water.  

DI SER also represents the growing consumer interest in natural perfumery, which was well-represented at this Elements Showcase

「誰しもが自分の中のエベレストを登っている」

月曜日, 2月 6th, 2012

      
       
   栗城 史多 (登山家)

             『致知』2012年3月号
              特集「常に前進」より
         ─────────────────────────────

マッキンリーを登頂してからは、
とにかく無我夢中で世界の最高峰を登り続けました。

ただ、その中で感じたのは、
登山がいかに孤独な世界であるかということでした。

頂に立った時の感動や山で得た学びを、
帰国後友人に伝えようとしても、
まったく理解してもらえなかったんです。

だからよく登山は観客なきスポーツとか
非生産的行為といわれるんですが、
やっぱりこの感動を多くの人と共有したい。

どうにか伝えられる方法はないかなと思っていた時に、
偶然、あるテレビ局から
「インターネットの動画配信をやりませんか」
というお話をいただいたんです。

2007年、世界第6位の高峰、
ヒマラヤのチョ・オユーを登る時でした。
ただ、一つ問題があって、番組のタイトルが
「ニートのアルピニスト 初めてのヒマラヤ」
という名前だったんです(笑)。

それで、日本全国のニートや引きこもりの方から
たくさんメッセージをいただきました。

「おまえには登れない」とか、中には
「死んじゃえ」とかですね。
そういう悪いメッセージばかり。

それでも1か月以上かけて登っていきました。
しかし、頂上付近で天気が悪くなってガスがかかってしまい、
断念せざるを得なかったんです。

それで一回、5,300メートル地点にある
ベースキャンプまで下りていきました。

するとまた、誹謗中傷の嵐です。
「ああ、やっぱりダメだった」
「夢って叶わないんですね」と。

いったん8,000メートルまで行くと、
もの凄く体が衰弱するんです。
酸素が3分の1なので、気圧も3分の1になり、
体の水分がどんどん外に抜けてしまう。

そのため脂肪だけでなく筋肉まで落ちて、
全然力が入らなくなるんです。

ただ、このまま終わるのはどうしても悔しかった。
私は3日だけ休養を取り、再アタックしました。

そして、5日間かけて頂上につくことができたんです。

すると、それを見ていた人たちの言葉が
180度変わりました。

それもただ、「栗城は凄い」とかではなく、
「僕も本当は夢があって、諦めていたけど、
  もう一回やろうと思いました」とか
「私も何か始めようと思いました」と。

で、その時に思ったんです。

「ああ、自分だけが山に登っているんじゃない。
 皆それぞれ、見えない山を登っているんだな」
 
 
って。

講演会をしていても、
「この間の試験受かりました」
「夢叶えました」と、
私のところに報告に来てくれる人が多いんです。

先日も、41歳でようやく教員試験に受かって
先生になれたという方が報告にきてくださったりしました。

その人にとっては教員試験が見えない山であり、
エベレストです。

そして、誰しもが自分の中のエベレストを登っているわけです。
勿論、中には挫折してしまった人もいるでしょうが、
私はそういう人たちと夢を共有して、

「自分はできない」「無理だ」

と思っている心の壁を取っ払いたい。
見えない山に挑戦し、ともに成長していきたい。
それが私の目指す登山なんです。

自然食品の裾野を拡げよう!

日曜日, 2月 5th, 2012

『万歳市』3日目、昨日まで好調な客足。

寒さにも関わらずありがたいことです。

二階の「うさと展」も引きも切らさず、賑わっています。

口コミで、随分客数が増えたという事です。

明後日から、ヤンジーチームは、再びと東北支援に旅立ちます。

明日、エリクサー水を18Lポリで50ほど積んで行きます。

本店では、㈱食ライフの峯社長さん三人が無肥料・無農薬原料の

お米や大豆などで作ったポン菓子やオコシ、お茶、黄粉などを即売されました。

こういう催し物は、初めてとのこと、お客様と対面して、手応えがあったそうです。

良かったですね、次は厚別店ですね。

大和さんが、様子を見て、その場でシュークリームを作り始める。

カスタードクリームの一杯入った中味と味の濃いシューに感動!

明日から「サラ」のチョコレート作りに入ります。

完成が、また楽しみですね。

毎月、東京からムソーの小林さんが助っ人に来て下さいます。

何時も、皆様に品物をお安く提供出来るのも、卸会社さんの御蔭です。

この場を借りて、厚く感謝申し上げます。

こうした地道な積み重ねが、自然食品を市民に広く拡げています。

今や、自然食品は高い、という既成概念は壊れつつあります。

少しでも市民感覚に近付くように双方努力して行きたいと思います。

どうぞ、これからも見守って頂けますよう、よろしくお願い申し上げます。

 「未来は歴史の上にある」

日曜日, 2月 5th, 2012

   唐澤 るり子 (唐澤博物館代表)

    『致知』2011年10月号「致知随想」
     ※肩書きは『致知』掲載当時のものです

…………………………………………………………………

 東京練馬の閑静な住宅街の一角に、
 江戸から昭和にかけての教育資料を展示する
 唐澤博物館があります。
 
 当館は私の父、教育史研究家・唐澤富太郎が
 長い歳月をかけて収集した数万点におよぶ研究資料の中から、
 特に選りすぐった七千点余りを展示しています。

 日本で最初に使われた国語教科書や第一号の卒業証書、
 時代を映す通知簿、児童作品、玩具など、
 当時実際に使われていた実物の資料がぎっしりと並んでいます。

 驚くべきことに、これらの夥しい資料は、
 富太郎が五十歳を過ぎてから個人で全国各地を巡り
 収集したものです。
 
 そして平成五(一九九三)年、富太郎八十二歳の時、
 自宅収蔵庫を改築して唐澤博物館を開館。
 
 晩年、「これらのものは執念で集めた」と語ったように、
 富太郎は教育史研究という一点に人生を懸けた人物でした。

 
     * *

 唐澤富太郎は明治四十四(一九一一)年、
 新潟の出雲崎に生まれます。
 生来、探求心が旺盛で、学業・操行ともに優秀だった富太郎は、
 小学生時代すでに「将来は必ず博士になる」と志を抱いていました。
 
 その後十四歳で上京し、師範学校で研究に没頭。
 更に学位論文で中世仏教教育を研究したことで
 仏教観が身体に沁みこみ、その後の研究姿勢に大きな影響を与えます。

 唐の禅僧・百丈懐海の言葉

 「一日不作一日不食」(一日作さざれば一日食らわず)
 
 
 を自ら揮毫し、仕事部屋に掲げ、研究に没頭していました。
 給料はすべて研究に費やし、貧しかったためスーツは一着だけ、
 破れるまで新しいものは買わないほどの徹底ぶりでした。

 また、研究生活には盆も正月もなく、
 いつも「引っかかったら鬼だぞ」と言って
 仕事場に籠もるのです。
 
 取り掛かったら一心不乱、研究に専念する。
 まさに、自他ともに認める「研究の鬼」でした。

 戦後、日本教育史に携わるようになった富太郎は、
 昭和三十年から三十一年にかけて
 『教師の歴史』『学生の歴史』『教科書の歴史』の
 近代教育史三部作を出版し、脚光を浴びます。
 
 その後、世界の教科書に目を向け、
 五十四か国の教科書を収集し、
 三十六年『世界の道徳教育』を発刊します。


 
 

 この本が世界から注目され、翌年ユネスコの招聘に応じて
 ドイツで講演を行っています。

 その折に欧米十六か国の教育現状を視察したのですが、
 最後に辿り着いたボストン美術館で衝撃を受けます。
 
 そこで日本庭園を背景に展示されていたのは
 江戸期の浮世絵や調度品で、西洋にはない
 日本独自の美の素晴らしさを再認識しました。
 
 同時に、日本の文化財が海外に流出し
 注目を集めているにもかかわらず、
 当の日本人が日本のよさをあまり理解していない
 愚かさに憤りを覚えるのです。

 ボストンから帰国した富太郎が
 戦後の教育史研究を改めて見て気づいたのは
 「児童が不在である」ということでした。
 当時は教育制度や法令といった
 上から目線の研究ばかりが為されていたのです。

 それに対して富太郎は、現実にその時代を生き、
 教育を受けた児童そのものに視点をあてた研究にこそ
 意味があると考えました。
 
 そして子供たちが実際に使ったノート、筆箱、
 ランドセル、教材、教具など、
 児童を取り巻くありとあらゆるモノを通して、
 その実態に迫ろうとしたのです。

 ここから全国各地を巡り教育資料を収集するという
 新たな研究生活が始まります。

 当時の日本は、終戦によって価値観が一変し、
 新しいものばかりが追求された時代です。
 
 一度は捨てられ埃にまみれたような教育資料を
 宝の如く大事に両手で抱え、自宅に持ち帰る日々が続きました。

 前例のない型破りな研究に、同業者からは
 冷淡な目で見られることもあったようです。
 それでも富太郎は資料保存の意義を熱心に語り、
 全国の教え子や教育関係者を巻き込んで収集にあたったのです。

 富太郎は
 
 
 「モノにはそれをつくった人、使った人、
  大事にとっていた先人の知恵や心がこもっている。
  それを感じ取ることが大切である」
  
  
 と常日頃から口にしていました。
 百万言を費やしても、実物の持つ情報量には
 敵わないというのです。
 
 そのため、新しいものばかり取り入れ、
 古いものは捨てるという当時の軽薄な風潮が
 許せなかったのでしょう。
 
 そして常人には理解し難いような収集活動に奔走することで、
 高度経済成長で商業主義に蝕まれる危険性に
 警鐘を鳴らそうとしたのでした。

 唐澤コレクションの中には、
 戦前どこの小学校にもあった奉安殿
 (教育勅語や御真影を納めるため学校の敷地内に造られた施設)や
 教育内容の一変を象徴する墨塗りの教科書もあります。

 GHQの占領政策によって戦前の教育が否定されて以来、
 当の日本人が自らの教育の実態を省みることが
 少なかったのではないでしょうか。
 
 歴史の真実を物語るこれらの資料を遺した功績は
 大変意義深いものだと感じます。

 生前、富太郎はよく
 
 
 「未来は歴史の上にある。
  過去を知らずして未来はつくれない」
  
  
 と申しておりました。
 
 父・富太郎が自らの命のすべてを懸けて
 後世に遺してくれたものを、
 一人でも多くの方々に伝えることが私の役目であり、
 使命であると感じています。

ミニ豚運動会?!in興農ファーム

土曜日, 2月 4th, 2012

1月25,26日と、中標津の興農ファームで、「知床新農業フォーラム」が開かれた。

26日はあいにくまほろばの新年会で、中途退席して1時に向かった。

雪道を延々と約8時間、着く頃は暗闇の中から国後島や羅臼岳が青白く浮き出ていた。

このような厳寒の中を35年もの間、戦い続けて来たのか、という感慨が沸いた。

本田代表の壮絶な有畜農産業への挑戦は、漸く曙光と共に実を結ぼうとしているのだ。

その発表の場である両日の意味は重くして重い。

報告は後日に譲るが、この概要は今月の「まほろばだより」を読まれたい。

甲子園の15面もある壮大な酪農地に、完全放牧された野生化した逞しい牛達の生き抜く力と、

豚たちの元気の良さにほっとする。

自由に走り回れる豚の本来の健康さというものを見せてもらった。

そして、次代の農業の在り方を示して頂いた。

万歳市!!!

土曜日, 2月 4th, 2012

2月の「ありがとう市」『万歳市』は、只今雪と寒気の中、

沢山の方々にお越し戴いております。

暦の上では、立春ですが、例年にない厳しい寒さ。

ムソーの小林さんが、昨夜千歳空港に降り立った時、

-18℃だったとか。

そんな中めげずに、皆様にご来店頂き、感謝の気持ちで一杯です。

上では、ヤンジー&アグネスご夫婦が「うさと展」で頑張っています。

次から次へとお客様が2階に上がり、うさとファンの多さにビックリです。

一度着ると、体も心も楽になって、手放せなくなるようです。

そういう私も、勇気を出して着ています。

てらいがあって、気恥ずかしく、小心者なんですね。

売上金の一部が、東日本支援にも繋がっています。

今月のまほろばたよりには、『福島の奇跡、奇跡の福島』と

題した一文の報告がありますので、お読みください。