まほろばblog

Archive for 9月, 2011

「しばれ雪描く」

土曜日, 9月 24th, 2011

 

 

まほろばオリジナルサプリメント『アルカヌム』を作って頂いている

㈱コスモバイオスの菊池眞悟社長は、画家という別なお顔を持っている。

余技としては、プロ並みだが、その題材の雪シリーズは、見事に描き切っていて、

道民としては、子供のときから慣れ親しんだ風景として心に沁みるものがある。

私も中学一年生の時、油絵の具を初めて買ってもらって、

冬休みに、荒原にイーゼルを立てて、雪の風景を描いた。

ベトつく画面をどう持って、長い家までの帰路を辿ったのだろうか。

校舎の廊下に飾られていたあの画はその後どうなったのだろうか。

菊池さんの冬の絵を見て、しばし懐かしさに心をはせた。

(「しばれ雪描く」㈱コスモバイオ ¥1575)

香りの旅

土曜日, 9月 24th, 2011

エッセンチアの篠原先生が、フランスの香水の都・グラースへ、

香水の研修に参加されました。

世界中からパヒューマー養成コースに集まり、2週間学んだとか。

ますます、腕に磨きがかかったことでしょう。

ちなみに、世界の常識というか、参加者の認識では、香水の原料は、

合成香料が99%以上、天然香料は1%にも満たないということ。

まほろばオリジナル香水「古代の叡智」や「心の花束」が、

20種類以上、全て天然素材を使っているのは、

一般流通では、ありえないことだそうです。

認識を新たにしました。

blind

土曜日, 9月 24th, 2011

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『音楽家100の言葉』

土曜日, 9月 24th, 2011

沢辺 有司・著 

「この世界で一番不幸な人とは、自分の仕事に満足していない人だ」
(ジョン・レノン)

「人にはできないことというものがある」
「自分の持って生まれた性質と戦いたくはないんだ」
(ビル・エヴァンス)

「素晴らしい音楽を創造するためには、クソみたいなレコードを山
ほど聴かなきゃならないんだよ」(ミック・ジャガー)

「いったん金にだめにされたら、友達は得られない」(ボブ・マーリー)
(中略)多くのアフリカ移民の黒人が貧困・差別にあえぐジャマイ
カにあって、ボブはいつも、弱者の側にあった。差別される側、何
ももたない側に立ち、音楽を唯一の武器に闘った。そんなボブの言
葉がこれだ。もちろん本人は音楽的成功で高収入を得ていたが、金
に踊らされることはない。金を介した人間関係しか築けない人には
こう言った。「金を使い果たしたとき、あんたはおしまいだ」

「私が人を酷使するですって? いちばん酷使するのは自分自身で
すよ」(カラヤン)
(中略)メディアを駆使して大儲けしたカラヤンへの偏見は強く、
歌手もオーケストラも酷使する完璧主義者ぶりには批判の声が集ま
った。そんな批判に反論したのがこれだ。帝王カラヤンらしい言葉
である。彼は、つづけてこう言った。

「持っているものを出させることと酷使することははっきり違います」

「すべて偉大なものは単純である」  (フルトヴェングラー)

重要な問題は、すべて“この世”で解決しなきゃならないと思う。
死んでしまってから、どこだかよくわからない場所で解決するんじ
ゃなくてね」(ビリー・ジョエル)

「敵が、シーッと非難するのをやめたら、こちらは落ちめだってこ
とね」(マリア・カラス)

「望みを持ちましょう。でも、望みは多すぎてはいけません。多く
のことをなす近道は、一度にひとつのことだけすること」   (モーツァルト)

「あなたが音楽家になろうと思ったときから、あなたは音楽家なの
だ」(レナード・バーンスタイン)

「批評家がなんと言おうと気にしないことだ。これまで批評家の銅
像が建てられたことがあったかね」(ジャン・シベリウス)

「孤独や社会からの疎外感に悩んでいる人に、そう感じてるのはお
まえだけじゃない、おまえは決して間違っていないんだって教える
のが僕の務めなんだ」(マリリン・マンソン)

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奥田シェフ、再びと

金曜日, 9月 23rd, 2011

『人生をひらく秘訣 ― 渋沢栄一と人間学』

金曜日, 9月 23rd, 2011

         藤尾 秀昭 

          (『致知』編集発行人)

「利に放りて行えば怨み多し」  ―という言葉が『論語』(里仁第四)にあります。

利益本位で物事を行ってゆくと、人の怨みを買うことが多い、という意味です。

サブプライムローンによる経済破綻は、

2500年前の孔子の忠告を無視した人間の業の現れといえます。

我が国の実業界の先達たちは一様に、

そのことを熟知していたが故に浮利を追うことをきつく戒めています。

論語と算盤の両方を大事にした渋沢栄一もその一人です。

その渋沢の『論語と算盤』をやさしく解説した

『渋沢栄一「論語と算盤」が教える人生繁栄の道』(渡部昇一著)がいま

八重洲ブツクセンターで3週間連続のベストテン入りを果たしています。

この本は渋沢流の人生をひらく秘訣を説いた本といえます。

渋沢はこの本の中で、

「高尚な人格をもって得た富や地位でなければ、完全な成功とはいわない」

と言い切っています。そして、

「人格を修養する方法は仏教もキリスト教もあるが、

自分は儒教に接してきたので、忠信孝悌の道を重んずることが

大いに権威ある人格養成法であると信じている」

と語っています。

忠信孝悌は『論語』が重んじた人としての徳目です。

とは、中する心、即ち何事にもまごころを尽くす、

全力をつくすという一ことです。

この忠が人に向かった時に、恕(おもいやり)になります。

は信頼、信用です。

信がなければ、あらゆるものが成立しない。

は親孝行をすること。

孝は人格の基礎を創る。即ち、運命を創る基となるものです。

さらにいえば、孝は親子のみならず、新と旧、上と下が連続統一することです。

二者の断絶するところに、生命の発展はありません。

は目上の人に従順であること。

この4つの徳目の実践、修得にこそ、人生はひらく―

渋沢が体験から得た哲学です。

話は転じます。

先日乗ったタクシーの運転手さん。

その方の本職は葬儀屋でひまな時にタクシーに乗るそうですが、

こんな話をしてくれました。

「本業のお客さんの話ですが、その男性は1年前、

母親が亡くなった時に父親から1億円の遺産をもらった。

1年たち今度は父親が亡くなったわけですが、

お金がないから火葬だけにしてくれたらいいという。

両親が汗水たらして貯めて息子に残してくれた遺産を

僅か1年もたたないうちに使い切ってしまった。

若い人ではない。50前後の人です。哀れなものですね」

この事実は何を教えているのでしょうか。

お金というものは、それにふさわしい人格の人が持たなければ、

その価値を生かし切れないということだと思います。

古来より『論語』と並び、人格向上に志す人の読むべき本といわれた

『大学』は全篇これ、人生をひらく教えに満ちていますが、その一節に、

「徳は本なり。財は末なり」

と書かれています。

財は大事です。人間にとって宝です。しかし、その大事な宝も

「本末」からいえば「末」であって、「本」は徳だというのです。

その通りです。

徳がなけれぱ、巨万の富を得ても空しく使い果たすに終わります。

まず、徳を身につける、それを「修身」といいます。

自らの身を修めていない人に人生はひらかない。

『大学』の教えの真髄です。

では、どうしたら身を修めることができるのか。

そのポイントを『大学』はこう指摘しています。

「忠信以て之を得、騎泰以て之を失う」

この意味は『致知』本誌ですでにしていますので省略しますが、

『大学』の中でも白眉の一文です。

出典は忘れましたが、これと似たような言葉があります。

厳己以成、騎己以敗

 

別に説明はいらないと思いますが、己を甘やかせず、

厳しく律していくことで物事は成功する。

しかし、騎慢になり、つつしみ、謙譲さを失うと、

必ず足を掬われ人生に敗れる―ということです。

科学的技術はめざましい進歩をとげていますが、

人間の本質は2,3千年前も今もそう変わらない。

私たちが人間学を学ぶ所以もそこにあります。

(二〇〇九年六月一日配信)

「人生をひらく」

金曜日, 9月 23rd, 2011

藤尾 秀昭 (『致知』編集発行人)

       『致知』二〇〇九年七月号より

人生をひらくとは心をひらくことである。

心をひらかずに固く閉ざしている人に、人生はひらかない。

「ひらく」には、開拓する、耕す、という意味もある。

いかに上質な土壌もコンクリートのように固まっていては、

よき種を蒔いても実リを得ることはできない。

心をひらき、心を耕す・・・人生をひらく第一の鍵である。

社会教育家の田中真澄さんが講演でよくされる話がある。

人間の能力は、知識、技術、そして心構えの三辺で表される。

どんなに知識と技術があっても、心構えが悪ければ、能力は出てこない。

すべては底辺の心構えいかんにある。

さらに、よき心構えは積極性×明朗性で表される、という。

なるほど、と思う。消極性×陰気では何事も成し得ない。

『致知』三十余年、これまでにご登場いただいた幾多の先

達のことを思うと、田中さんの言葉がよく理解できる。確

かに人生をひらいた人には共通した心構えがあった。

その一は、「物事を前向きに捉える」

物事を後ろ向きに捉えて人生をひらいた人はいない。

その二は、「素直」

宮大工の小川三夫さんは高校卒業後、「法隆寺の鬼」「最後の宮大工」

といわれた西岡常一棟梁に弟子入り。

修業時代は棟梁の言葉にすべて「はい」と従った。

そしていまや社寺建築の第一人者である。その経験からいう。

「批判の目があっては学べません。

素直でなければ本当の技術が入っていかないですね」と。

心にわだかまりがある人は人生を歪める。

多くの先達がいっていることである。

その三は、「感謝の念を忘れない」

人生の成功者に共通した資質がこれである。

成功者は呪いたくなるような境遇をも、

この境遇が自分を育ててくれると感謝している。

その四は、「愚痴をいわない」

自分が出したものは自分に返ってくる。宇宙の法則である。

愚痴ばかりいっている人は、愚痴ばかりの人生になる。

心構えに関する田中真澄さんの卓見がある。

「心構えというのは、どんなに磨いても毎日ゼロになる能力である。

毎朝歯を磨くように、心構えも毎朝磨き直さなければならない」

人生をひらく第二の鍵である。

『論語』と並ぶ古典『大学』は全編これ、人生をひらく教えに満ちている。

中でも心に響く一文がある。

「必ず忠信以て之を得、騎泰以て之を失う」

真心を尽くしてすれば何事も成功するが、

反対におごり高ぶる態度ですれば必ず失敗する、ということである。

人生をひらく第三の鍵といえよう。

最後に、二宮尊徳の言葉。

「太陽の徳、広大なりといえども、芽を出さんとする念慮、

育たんとする気カなきものは仕方なし」

発憤カこそ人生をひらく源であることを忘れてはならない。

「誇り高き消防団」

木曜日, 9月 22nd, 2011

 

  津波が近づくなか、

  宮城県南三陸町防災対策庁舎2階にとどまり、

  防災無線を通じて町民に避難を呼びかけた

  遠藤未希さん一享年24一の語は涙を誘った。

  ただ、遠藤さんと交代して最後の最後まで

  避難を呼びかけた上司がいたことはあまり知られていない。

  同町危機管理課課長補佐の三浦毅さん(享年51)。

  「10mの津波が来ます。皆さん、逃げてください!」

  それが、母のすゑ子さん(75歳)が

  最後に聞いた息子の声だった。

「未希さんの懸命の声が途中で息子に代わり、

3度目の呼びかけの途中で

『ガガガッ』という雑音でかき消されました。

息子の声は呼びかけというより叫びに近かった。

あまりのショックで記憶が暖味ですが、

夫が『流された……。家族を守って流された……と言ったことだけ憶えています」

町民からは「毅さんの声を聞いて助かった。地域の英雄だ」

という感謝の声が多く寄せられた。

「それは、親として誇りに思います。

でも一方で、なんで逃げてくれなかったのか、

という無念が消えなくて……。

夫は常々、津波が来たらとにかく逃げろと息子に説いていました。

『誰も悪くねえ。逃げられなかったのが悪い。親の言うこときかねえで』

と憎まれ口を叩いて、私が泣いていると

『まだ泣いてんのか』と怒るけど……。

心の中では夫も泣いています」

わが子を失うという最大の悲しみを多くの人が味わった。

なかでも全校生徒の約7割の命が奪われた、

宮城県石巻市立大川小学校の悲劇は広く知られる。

震災後、東北各地では自衛隊に先がけて地元の消防団が救助と遺体捜索に当たった。

大川地区を担当する石巻市河北消防団第4分団の団員の多くは、

わが子を失った痛みに堪えながら活動した。

紫桃千聖ちゃん(当時5年生)の父親・紫桃隆洋一47歳)さんもそのひとりだ。

「娘は早い段階で遺体が上がりました。見つけてくれたのは地域の方。

団員のなかには自分の子を見つけた人もいます。

私だけでなく、自分の子が上がっても皆が捜索を続けました。

ここらには『子供は地域の子』という意識が残っているんです。

東北のあらゆる土地で、消防団員が必死に頑張った。

私は個人としてではなく、誇り高い消防団の一員として、

そのことを伝えておきたいと思います」

(週間現代8月20,27日号)

「津波てんでんこ」

木曜日, 9月 22nd, 2011

   三陸地方に伝わる「津波てんでんこ」という言葉。

   津波に襲われたら、親兄弟も捨てて「てんでんに」逃げろ、

   それが命を守る方法だ、という意味だ。

 一族の全滅を避けるためには正しい教えだが、

  3月11日、この禁を破った英雄が東北にたくさんいる。

  新日鉄釜石に勤務する森闘志也(としや)さん(34歳)。

これまで取材をほとんど拒否していたのは、

「目の前にいたのに助けられなかった人もいるから」だった。

あの日、職場で被災した森さんも波にさらわれたが、

川のフェンスに引っかかって九死に一生を得た。

一度会社に戻ろうと周囲を見ると、茶色い濁流に車、船、家が流されている。

振り返った瞬問、漂流している男性の姿が見えた。

近くにあったロープを掴んで、森さんは駆けだした。

その姿を見た同僚は「森は死んだ」と思った。

「濁流を泳いで渡り、男性を助けようとすると、

近くの車に女性が3人閉じこめられていた。

ドアを開けようとしても水圧で開かない。

丸太でフロントガラスを叩いてもへこむだけで割れない。

車はガレキに引っかかって止まっているだけで、

いつ流されるかわからない状態でした」

極限状態で、森さんは自分でも信じられないパワーを発揮した。

一拳でサイドのガラスを割り、中から女性を引っ張り出しました。

出したはいいけど岸まで距離がある。

丸太にロープを結び、僕は岸に戻ってロープを引っ張って

丸太ごと女性3人をたぐり寄せました。

女性たちは、大学に入学したての娘さんと友人、

母親の3人ということでした」。

森さんはこの女性たちも含め10人近くの命を救った。

(週間現代8月20,27日号)

生きること、死ぬことについて

水曜日, 9月 21st, 2011

川口 由一

(赤目自然農塾 主宰)

生きるのは大変だ。

生きている間は生きなければならないゆえに、本当に大変だ。

生まれてきたすべてのいのち達、生きている間は生きる営み自ずからにして、死にたくないのが基本である。

この基本の営みが、老い、やがて死への営みでもある。

生きること、死ぬことは、自ずから然らしむることであるが、

当人にとっては人生における最大の困難時である。
生まれることなく滅することのない絶対の存在である宇宙に、地球が生まれて47億年。

今日も生き続けている。太陽が誕生して50億年前後だろうか。

今日も生きて営み続けており、その営み自ずからにして、やはりもれることなき死滅への営みである。

不生不滅にして有り続ける宇宙に、人類が誕生して数十万年、数百万年生き続け、

親から子へと巡ること自ずからにして、やはり死滅への営みである。

一人ひとりの百年前後の生きる営みしかり、すべて生まれてきたもの自ずからにして、

生きる営みが成長、成熟、老、死への営みである。
この絶対の定めのなかで、それぞれの生の期間が過不足なく絶妙に定まっており、

それぞれが我がいのちを生きている間は生きている。
人類も与えられた生の期問を生きて全うすること自ずからであるはずだ。
一人ひとりの百年前後もまたしかりであるが、この百年前後の時空間を生きることは本当に難しい。
滅びることなくよくここまで人類は生き続けてきたものだ。

たくさんのたくさんの人が生まれて、生きて死に、生まれて生きて今日に続いている。
人が、地球上の生物が…、地球が、月が、太陽が、星々が、すべての物質が、

生まれ死に、生じ減するこの営みの舞台である宇宙は、

広大無辺の空間であり、無始無終の時代であり、姿形はない。

空間における時間の流れは、すなわちいのちの営みであり、

この営みに目的はない。

地球の、太陽の、星々の、人の、鳥の、、蝶の、花の…、

生滅、生死、いずれも無目的の営みからのものである。

この無目的の宇宙で生き、この混沌混乱の人間社会で生きてゆくことは本当に大変であり難しい。

ゆえに「死にたくない」を生きる営みの根源に抱きながらも、

「生きることから逃避する」「死を好む」「正しいものを好まず誤れるものに心惹かれる」

「生きているいのちを損ね傷つけることを喜ぶ」「生きる舞台である環境を破壊することに積極的になる」

「生きることを放棄して怠惰に親しむ」「死に至る退廃に魂を喜んであずける」…等々の性をも抱く私達人間であり、

数十万年、数百万年の歴史を混沌のなかで生きてきた人類であるが、現代に至るほどに生きることを放棄し、

死臭の発す退廃にとりつかれること顕著となり、死に向かって急いでいる。

今日のこのいのち本来の墓本から外れた生き方にほ、もちろん人類の寿命の全うはなく、

一人ひとりの心身健全にして厳かなる人生の全うもない。

真の幸福も平和もあり得ない。

人としての心豊かな情緒美しい行為行動からの日々の喜びもない。

生きることの意味も意義も悟り知ることなく、他を愛し他の存在を尊び感謝の思いの湧き出ずることもない。

生きることがさらにつらく困難となり、暗闇から抜け出すことができなくなる。
何があっても生きている間は生きなければならない。

生きるに正しい道を得てである。道を得ずして生きることはできない。

人間以外のすべてのいのち達は道からはずれない。

私達人間もいのちある生物として、いのち達の舞台、この宇宙自然界生命界を、損ねることなく、破壊することなく、

また他を侵すことなく、慈悲深い情緒豊かな人間として、心平和に、魂の根源から静かに智恵深く、

足るを知って生きなければならない。

正しいいのちの道、人の道、我が道を得たならば、生きて全うすることが本当に楽しく、生きることの困難はしりぞく。

人類白ら不幸に陥ってはいけない。

いのちを観ることのできない今日の科学文明、自然から大きく遊離した都市文明、

いのちを大切にしない物質文明、生きることの真の意味と意義を見失い消費を盛んとする経済優先の人間社会は、

精神を退廃に蝕ませ生命力を衰退させ、死に向かって突っ走り、死臭を放ちつつ、

なおあらぬものに執着するものだ。
川口 由 (かわぐち よしかず)
昭和14年、奈良県桜井市の専業農家に生まれる。慣行農業に23年問従事した後、自然の営みに添った真の生き方を求め、自然農と漢方医学に取り組んで33年となる。現在は自然農と漢方医学を求める人達に応え指導する。赤目自然農塾主宰。主な著書「妙なる畑に立ちて」(野草社)、「自然農から農を超えて」一カタツムリ社一、「自然農という生き方」一共著・大月書店)、「自然農」(共著・晩成書房一、「自然農への道」一編共著・創森社一他。ビデオ「妙なる巡リのなかで」一ナチュラルファーミングプロジエク上他。記録映画「自然農川口由一の世界」一フィオーナ・グループ現代一