まほろばblog

Archive for 9月 22nd, 2011

「誇り高き消防団」

木曜日, 9月 22nd, 2011

 

  津波が近づくなか、

  宮城県南三陸町防災対策庁舎2階にとどまり、

  防災無線を通じて町民に避難を呼びかけた

  遠藤未希さん一享年24一の語は涙を誘った。

  ただ、遠藤さんと交代して最後の最後まで

  避難を呼びかけた上司がいたことはあまり知られていない。

  同町危機管理課課長補佐の三浦毅さん(享年51)。

  「10mの津波が来ます。皆さん、逃げてください!」

  それが、母のすゑ子さん(75歳)が

  最後に聞いた息子の声だった。

「未希さんの懸命の声が途中で息子に代わり、

3度目の呼びかけの途中で

『ガガガッ』という雑音でかき消されました。

息子の声は呼びかけというより叫びに近かった。

あまりのショックで記憶が暖味ですが、

夫が『流された……。家族を守って流された……と言ったことだけ憶えています」

町民からは「毅さんの声を聞いて助かった。地域の英雄だ」

という感謝の声が多く寄せられた。

「それは、親として誇りに思います。

でも一方で、なんで逃げてくれなかったのか、

という無念が消えなくて……。

夫は常々、津波が来たらとにかく逃げろと息子に説いていました。

『誰も悪くねえ。逃げられなかったのが悪い。親の言うこときかねえで』

と憎まれ口を叩いて、私が泣いていると

『まだ泣いてんのか』と怒るけど……。

心の中では夫も泣いています」

わが子を失うという最大の悲しみを多くの人が味わった。

なかでも全校生徒の約7割の命が奪われた、

宮城県石巻市立大川小学校の悲劇は広く知られる。

震災後、東北各地では自衛隊に先がけて地元の消防団が救助と遺体捜索に当たった。

大川地区を担当する石巻市河北消防団第4分団の団員の多くは、

わが子を失った痛みに堪えながら活動した。

紫桃千聖ちゃん(当時5年生)の父親・紫桃隆洋一47歳)さんもそのひとりだ。

「娘は早い段階で遺体が上がりました。見つけてくれたのは地域の方。

団員のなかには自分の子を見つけた人もいます。

私だけでなく、自分の子が上がっても皆が捜索を続けました。

ここらには『子供は地域の子』という意識が残っているんです。

東北のあらゆる土地で、消防団員が必死に頑張った。

私は個人としてではなく、誇り高い消防団の一員として、

そのことを伝えておきたいと思います」

(週間現代8月20,27日号)

「津波てんでんこ」

木曜日, 9月 22nd, 2011

   三陸地方に伝わる「津波てんでんこ」という言葉。

   津波に襲われたら、親兄弟も捨てて「てんでんに」逃げろ、

   それが命を守る方法だ、という意味だ。

 一族の全滅を避けるためには正しい教えだが、

  3月11日、この禁を破った英雄が東北にたくさんいる。

  新日鉄釜石に勤務する森闘志也(としや)さん(34歳)。

これまで取材をほとんど拒否していたのは、

「目の前にいたのに助けられなかった人もいるから」だった。

あの日、職場で被災した森さんも波にさらわれたが、

川のフェンスに引っかかって九死に一生を得た。

一度会社に戻ろうと周囲を見ると、茶色い濁流に車、船、家が流されている。

振り返った瞬問、漂流している男性の姿が見えた。

近くにあったロープを掴んで、森さんは駆けだした。

その姿を見た同僚は「森は死んだ」と思った。

「濁流を泳いで渡り、男性を助けようとすると、

近くの車に女性が3人閉じこめられていた。

ドアを開けようとしても水圧で開かない。

丸太でフロントガラスを叩いてもへこむだけで割れない。

車はガレキに引っかかって止まっているだけで、

いつ流されるかわからない状態でした」

極限状態で、森さんは自分でも信じられないパワーを発揮した。

一拳でサイドのガラスを割り、中から女性を引っ張り出しました。

出したはいいけど岸まで距離がある。

丸太にロープを結び、僕は岸に戻ってロープを引っ張って

丸太ごと女性3人をたぐり寄せました。

女性たちは、大学に入学したての娘さんと友人、

母親の3人ということでした」。

森さんはこの女性たちも含め10人近くの命を救った。

(週間現代8月20,27日号)