まほろばblog

「究極のスープ」

4月 5th, 2012

      
  鈴木 紋子 (湘南教育研修センター副理事長)

     『致知』2012年6月号
      特集「その位に素して行う」より

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昭和五十年頃、鎌倉の荒れた中学校へ
赴任した時のことです。

皆からゴムまりをひどくぶつけられるなどのいじめに遭い、
しゅんとしている一年生の子がいました。
私は生徒指導担当として
「先生が付いてるから頑張りなさい」と励ましてきましたが、
三年生になるとあまり姿を見掛けなくなりました。

進路相談の行われた十二月、
彼の母親が私の元へ来てこう言いました。

「うちの子は休みが多く、点数が悪いから
 どこの高校も受けられないと担任に言われました」

その子はとても育ちのいい子だったのですが、
ある日級友からお菓子を万引きしてこいと命じられました。
学校へ行くとまた何を言いつけられるか分からないから、
次第に足が遠のいてしまったというのです。

自責の念を覚えた私は、ある私立高校まで行って事情を話した上、

「受験までに必要な勉強の基礎を、
 全部私が責任を持って教えておきますから、
 受験させていただけませんか」

とお願いし、以来二人三脚で猛勉強の日々が始まりました。

周囲に気づかれないよう暗くなった夜七時頃に彼の家へ出掛け、
英国数の基礎からみっちり三時間教えては
十時半の最終バスで駅へと向かう。

電車を降りるとタクシーは一時間待ちの行列です。
仕方なく夜道を四十五分かけて歩き、
十二時過ぎに帰宅する日々が続きました。

あんまりくたびれるのでバスの中でも眠り込み、
「お客さん、終点ですよ」の声で起こされるのが日課でした。
その甲斐あって彼は高校に無事合格し、
卒業後はイタリア料理店で働くようになりました。

その頃、我が家では主人が胃を全摘し、
肝臓がんも併発するなど、闘病生活で
体はひどく痩せ細っていました。

私は台所でいろいろなスープを作っては
主人に飲ませるなどしていましたが、
私自身も疲労からくるたびたびの目眩に悩まされていました。

前述の教え子が訪ねてきてくれたのは、
そんなある日のことです。

「ご主人様がご病気と聞いて
 チーフにスープの作り方を習って持ってきました。
 これ一袋で一食分の栄養がとれます」

と、一抱えもあるスープを手渡してくれたのです。

私は感激のあまりしばらく何も言葉が出ず、

「……これが本当の神様だわ」

と呟いて、わんわん声を出して泣いてしまいました。

すると、その子がまだ中一だった頃、

「皆にいじめられても頑張るのよ」

と私が肩を叩いて励ましたのと同じように、

「先生、泣かないでください」

と私の背中を叩いて慰めてくれたのです。

その後も彼はスープがなくなる頃になると家を訪ねてくれ、
おかげで余命三か月と言われた主人が、
三年も生き長らえることができました。

私はこのスープを「究極のスープ」と呼んでいますが、
人間同士の世の中がそうしてお互いに
尽くし合ってやっていけたらどんなにかよいだろう、
と思ったことでした。

「なごみしお麹」オリジナル塩麹販売!!

4月 4th, 2012

エリクサー、除染の原理が・・・・

4月 4th, 2012

桜井よしこさんの記事に、福島県川内村での山中における水の除染状況を

報告していたが、そのメカニズムがエリクサーのそれと相似しているので掲載したい。

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「 「村に帰ろう」と村長が呼びかけた福島県川内村、いわなの里を訪れて 」

『週刊ダイヤモンド』 2012年3月31日号

「村に帰ろう」と全村民に呼びかけた福島県川内村の遠藤雄幸村長にお会いしてきた。

3月20日の春分の日、郡山駅で待ち合わせると、

駅正面の放射線量を示す掲示板には毎時0.423マイクロシーベルトと表示されていた。

これは年間3.7ミリシーベルトに相当する。

日本人は自然界から年平均1.4ミリシーベルトの放射線を浴びているが、

世界には自然放射線量が年平均10ミリシーベルトを超える所も少なくない。

国際放射線防護委員会(ICRP)は、原発事故など不測の事態から平常に戻る過程における

許容放射線量を年間20ミリシーベルトから1ミリシーベルトの間と定めている。

郡山駅前の放射線量は、十分この範疇に入る。

「この数字、覚えておいてくださいね」と、遠藤村長が言った。

車でしばらく走り、いまだ雪化粧の残るあだたら連峰を左に見ながら常磐道に入った。今年は川内村も雪が多く、通常は積雪10センチメートルほどだが40センチメートルも積もったそうだ。だが、さまざまな意味で厳しい冬が過ぎた今、春が四方八方から語りかけていた。木々は今にも萌え出すかのように準備を整えていて、俳句や短歌の季語そのもののように、山々が笑っていた。

峠を越えて川内村に入った。もともとの人口は3000人、面積2万ヘクタールの9割が山林で、その多くがきちんと間伐されていた。手入れされた山林は見るからに美しい。もうひと月もすれば山菜やキノコが勢いよく育ち、さぞかしにぎやかな山になるだろう。だが、この豊かな山に入るには放射線量の厳しいチェックが必要なのが現実だ。

深い森と山は冷たく美味な水も生み出してきた。

村人は井戸を掘って、山の恵みの清澄な水で暮らしてきたが、

水はどんな影響を受けたのだろうか。

「水質検査はもう何回もしました。放射能は全く検出されていません」

遠藤村長はさらに言った。

「セシウムが森にも落ちたのは確かです。

木々の葉にくっついたセシウムは落葉すれば、木の葉にくっついたままそこにとどまります。

水中のものは泥に吸着してそこにとどまります。

しかし水には溶け出さないのです」

原発と放射能問題の専門家、奈良林直・北海道大学大学院教授が説明した。

「セシウムは極めて細かい微粒子なのですが、吸着性が高いために、

空中を飛んで人家の屋根や木の葉にくっつきます。

水に落ちれば水底に沈みますが、粘土と非常にくっつきやすく水底にとどまります。

セシウムの微粒子が地中に潜ることも考えられますが、

地中に浸透する過程で粘土質の土層にくっついてしまう。

つまり、土の層が濾過層となって、井戸水からはセシウムが取り除かれるのです」

この説明に私自身、驚いた。

水源地である山林が汚染されれば、即、水も汚染されると、私も考えていたからだ。

遠藤村長にそう言うと、彼が弾むように応えた。

「ここは村の観光地のいわなの里です。

豊富な湧水でイワナを育て、たくさんの人がイワナ料理に舌鼓を打った場所です」

山からの湧き水が音を立てて流れ込み、勢いよくしぶきを上げる。

水中で素早く動く黒い影はイワナである。

「この水は昔も今もきれいです。ここの放射線量を見てください。

それを郡山駅前の数字と比べてください」

いわなの里は0.178マイクロシーベルトだった。郡山駅は0.423マイクロシーベルトだった。遠藤村長が「数字を覚えていて」と念を押した意味がようやくわかった。その後、村役場前を含めて数カ所で川内村の放射線量の数値を確認したが、いずれも郡山駅の2分の1以下だった。

放射線量の低い所から高い所に川内村の人たちは避難させられ、現在に至っているのだ。菅直人、枝野幸男両氏らの政権以来、この皮肉な本末転倒は現在も正されていない。なんという政治の無策無能だろうか。

醗酵とは情緒なり・・・・THD講演会

4月 4th, 2012

土日の31,1日、大阪と東京でTHDさん主催の講演会を無事終えました。

当日、寺田当主の都合で、婿さんの優専務さんが代役、見事に責を果たし、

24代も頼もしく、将来も安定ですね。

1時間の講演予定が、倍に急遽変更、ゆっくり唄も交えながら、お話しすることが出来ました。

日本の良さを、若い方々にお伝えしたいと思い、色々な角度から説いてみました。

醗酵王国は、心の醗酵文化でもあったのですね。

何時かまた、この内容をお伝えする機会があればと思います。

この日に用意した「へうげ味噌」や、新発売の「なごみしお麹」も、あっという間に完売。

今、へうげ味噌を5tを仕込んで、年間供給できるようにしました。

「なごみしお麹」もTHDさんでは、7月頃から再販されます。

お楽しみに。

HozumiーMama 吉本舞台に!

4月 3rd, 2012

土日にかけての大阪・東京でのトータルヘルスデザインさんの講演会に行って参りました。

大阪の会場には、穂積厚別店長のご両親が、参加されました。

とても美味しいハモとえびのバッテラ寿司をお父さんが作って下さって持参。

トータルさんの皆さんとすごい職人技に舌鼓を打ちました。 

ご馳走さま、ありがとうございました。

そして、またまたお母さんが、あの吉本に出演されます。

見違えるように、痩せて美しくなられてビックリ!!!

何か目的があると、人間って変われるものかと驚いた次第です。

左写真のエイジングスターの前列左の一番きれいな若い女性ですよ!!

関西方面のみなさま、是非楽しいショーをご覧になってくださいね。

「神は細菌に宿る」

4月 3rd, 2012

             中村 貴司 (リ・クーブ顧問)

        『致知』2012年4月号「致知随想」
         ※肩書きは『致知』掲載当時のものです

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 数年前、和歌山のある食品工場では、
 大手飲料メーカー数社から製品の製造を請け負い、
 年間約五千トンもの茶の搾りかすが出ていた。
 
 工場ではその全量を産業廃棄物として扱ってきたが、
 時代の流れとともにリサイクル化の必要性が叫ばれ始めた。

 担当者はいくつもの業者に生ごみ処理機の導入テストを行い、
 堆肥化を図ったそうだが、いずれも排水処理や騒音、
 悪臭などの問題に直面し、頭を悩ませていた。

 そこで弊社が開発した業務用生ごみ処理機を持参し、

 「二十四時間以内に九十%以上が消滅し、
  余剰菌床は肥料になります」
  
 と伝えたところ、皆、半信半疑の様子だった。
 しかし翌日処理機の中を見て、
 「おぉ」と驚きの声が上がったのである。

 弊社が開発した生ごみ処理機は、
 自然界の土壌から抽出した特定土壌菌を特殊培養して配合した
 「クーブ菌」という細菌を用いる。
 
 それによって食品廃棄物を水と炭酸ガスに素早く分解し、
 消滅させてしまうのである。
 野菜くずなどであれば、ほんの数時間で分解消滅ができる。

 現在、滋賀県のもやし工場や鳥取県の
 大手食品スーパーなどに弊社の大型機が導入されるなど、
 全国からも少しずつ問い合わせをいただくようになった。

 これまでも生ごみ処理機を製造していたメーカーは
 多くあったが、導入後に悪臭などの諸問題が発生し、
 結局一過性のブームに終わってしまった。
 
 その理由は、開発者が微生物というものの世界を
 あまりにも知らな過ぎたことにあるだろう。

 私が環境問題に取り組み始めたのは、
 三菱重工業に勤務していた昭和四十六年頃、
 三十代前半のことだった。
 
 その数年前より日本では公害が社会問題となり、
 公害対策基本法や水質汚濁防止法など様々な法律が生まれ、
 大企業には専門の管理者を置くことが義務付けられた。

 私も新たにそうした部署に配属となり、
 微生物などの研究をしていたが、
 その後に偶然出会ったのが河野良平という技術者だった。
 
 彼もまた生ごみ処理機を開発するにあたり、
 悪臭等の問題に頭を悩ませていたが、
 微生物の世界についてはまったくの素人だった。
 
 そこで私がきちんと説明をしていくと、
 河野氏もなるほどそうかと合点がいったようだった。

 人間の性格が一人ひとり皆違うように、
 細菌もそれぞれ異なる性質を持っている。
 また、人の体調が毎日変わるように、
 細菌の体質も日々変化している。
 
 それほど繊細な対象を扱っているにもかかわらず、
 その研究が十分になされないまま
 処理機の開発がスタートしてしまったため、
 思うような結果が得られなかったのである。

 環境の世界は、どれか一つの分野を
 専門的に勉強すればよいというものではない。

 例えば私は環境に関連した国家資格を二十以上持っているが、
 自分の勉強したものが少しずつでも脳の中に残っていると、
 次の時代に何がキーワードとなるかを知る
 大きな手がかりとなる。

 これからは、微生物がどのように
 我われに関わってくるかといったことをきちんと検証し、
 いかに産業に生かしていくかが大切で、
 その主たるものの一つが生ごみ処理機ではないかと私は思う。

 江戸時代、江戸の街はパリと同じく百万都市といわれた。
 しかしそれぞれの街の生活様式は随分と違う。
 
 なかでも廃棄物、特に屎尿に関しては顕著である。
 パリではあちこちで用を足す人が絶えず、
 こんな悪臭が出てはたまらないという理由で下水道が整備された。

 一方の日本はこうである。
 徳川家康は百万の人間を食べさせていくために、
 疲弊していた関東ロームの土地に作物をつくることを考える。
 家康は屎尿をいかに有価物に変えるかを考え、
 屎尿を腐敗させて土に還元することで土壌を豊かにし、
 そこに作物を植え、人々の食料を確保しようとした。

 一説によると、人間の腸内には約百種類の菌と、
 百兆個もの腸内細菌が存在するという。
 
 祖母は私の幼い頃、
 
 
 「便所は人間にとって神聖な場所や。
  そこを出てくる時はちゃんと頭を下げて出てこいよ」
  
 とよく話していた。
 そのおかげで私は幼い頃から、
 微生物に対する敬虔な気持ちを持つことができたのだと思う。

 ある方の話によると、大便の中にあるのはほとんどが生菌で、
 完全に分解できないものはわずか三%ほどしかないのだという。
 そういう様々な菌の助けを借りて
 人間の体が維持されている。
 
 生ごみ処理機においても、攪拌機の中の環境を整え、
 活力ある細菌の居場所をつくってあげることが
 何より大事になってくるのではないかと確信している。

 いま世の中には、多くの生ごみ処理機が
 倉庫に眠ったままになってしまっていると聞く。
 我われのクーブ菌を有効活用していただくことによって、
 その処理機に再び生命を与えることができれば、
 おそらくこの産業は飛躍的に伸びていく。
 
 それが地球環境の保全へと繋がっていけば、
 開発者としてこれに勝る喜びはない。

「小林秀雄先生への質問」

4月 3rd, 2012

この占部さんと同じ経験が私にもある。

高校2,3年の頃、札幌に、小林秀雄さんが講演にいらした。

ちょっとほろ酔い気分で、話し始めたのが、確か「私の人生論」ではなかったか。

その老成した風格に、若かった私も魅了させるものがあったのだろう。

その後、手紙を差し上げた覚えがあるが、自分の人生において、

物事の観方を教えてくれた恩師であることには変わりない。

こういう先師が無くなったこの頃は寂しいともいえる。

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   占部 賢志 (中村学園大学教授)

      『致知』2012年5月号
     連載「語り継ぎたい美しい日本人の物語」より

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筆者が初めて小林秀雄さんの謦咳に接したのは、
昭和48年11月8日のことでした。

文藝春秋社主催の文化講演会が宮崎県延岡市で開かれることとなり、
講師として中村光夫や水上勉、那須良輔の三氏とともに
小林さんがやって来るという情報を友人が仕入れてきたのです。
ちょうど大学3年の時です。

演題は「文藝雑感」というありふれたものでしたが、
舞台の袖から小林さんが現れると、
文字通り釘づけになってしまいました。

一番前列の真ん中の席に座っていた筆者には
小林さんの眼が印象深く残っています。
人生の一切を見尽くした達人の眼差しとは
こういうものかと感じ入ったものです。

講演の中身はこの頃連載中の本居宣長を中心としたもので、
岡潔の学問や梅原龍三郎、中川一政などの芸の妙味にも言及。
1時間は瞬く間に過ぎました。

講演が終了したのは夜の九時過ぎ、
筆者は講演担当者に小林さんの宿泊先を密かに聞き出し、
現地で落ち合った友人を誘ってホテルに向かうことにしたのです。
小林さんに何としても伺いたいことがあったからです。

ホテルに着いてみると小林さん一行は戻ってはいません。
何でも延岡名物の鮎を肴に一杯やっているのだそうです。

1時間半程待った頃でした。
玄関前に数台の車が横付けされ、
名士の一群がどっと入ってきました。

小柄ながら風格のある小林さんは一目で分かります。

よし、今しかない、そう思うや中に割って入り、
小林さんの行く手を遮ったのです。

周囲は何事かと立ち止まりました。
まごまごしてはいられない。
蛮勇を奮い起こしてこう切り出したのです。

「先生、非礼であることは承知の上ですが、
 どうしても質問したいことがあって、
 お待ちしておりました」

と。

一蹴されると思いきや、小林さんは筆者の顔をじっと見つめられる。
そして、「いいえ、構いませんよ。何でしょうか」と応じられたのです。

疲れているから御免蒙るよと言われて当然にも拘わらず、
相手をして下さった。これが筆者の生涯を決めた瞬間でした。

質問の趣旨はこうでした。

「先生は、歴史を知るとは
 自己を知ることだとおっしゃっていますね。
 この意味が今一つ分からないのです。
 どうして自己を知ることになるのでしょうか」

「醗酵は情緒なり」THD講演会

3月 29th, 2012

オリジナルジャム3種発売!

3月 29th, 2012

「セイント・ファーマーズ・ジャム『農仙果醤』」 200g ¥890

「苺のきもち」                   200g ¥750

「伊予柑ママレード」               180g ¥680

「豆食」ディナーOPEN!!

3月 29th, 2012

まほろばでも卸をしている「豆食」さん。

この度、ディナーも始められました。

是非、ご近所の方々は、お誘いの上、お越し下さいませ。