手塩紅鮭「縦塩仕込み」入荷中!
12月 12th, 2012今年も、塩鮭のシーズン到来しました。
「手塩紅」売れ行き、順調です。
秋鮭は不漁に関わらず、南千島沖の沖獲り紅鮭は例年並みの漁獲。
現在、家庭では出刃包丁が姿を消し、鮭1本が捌けなくなりました。
そこで、今や「姿切り」が主流になって来ています。
目利き腕利きの加藤さんに依頼の塩漬け完了して、
今は出荷を待つばかりです。
味は絶品、みなさまに悦ばれています。
今年も、塩鮭のシーズン到来しました。
「手塩紅」売れ行き、順調です。
秋鮭は不漁に関わらず、南千島沖の沖獲り紅鮭は例年並みの漁獲。
現在、家庭では出刃包丁が姿を消し、鮭1本が捌けなくなりました。
そこで、今や「姿切り」が主流になって来ています。
目利き腕利きの加藤さんに依頼の塩漬け完了して、
今は出荷を待つばかりです。
味は絶品、みなさまに悦ばれています。
やんじーとアグネスさんが、28日から出立、6日に帰って来ました。
先日、まほろばへ報告に来られました。
仏画は無事に400枚配り終えられたということ。
今回、米(400kg)と仏画(400枚)、文房具(300セット)をもって行って、
みなさまが大変喜んで下さったそうです。
特に、國井さんの仏画は、二人で親しく配るほか、
仮設住宅の町内会長さんや、近間のお寺「徳性寺」のご住職が、
宗派を超えてご縁の方々に配って戴いたのです。
地域の人々と、仏画を通じて繋がることが出来、
心のケアが今必要とされる時期だったので、
とても感謝され、これも天意なのかと思われたということです。
仙台で「青葉神社」片倉宮司(伊達政宗の家臣、片倉小十郎の子孫)と出会われました。
ご先祖は、札幌の白石や道内に開拓に来られていたということ、ご縁があったのですね。
ボランテイアをする二人を大変評価され、今回の活動に対してこころから感銘されて、
「四国八十八ヶ寺 仏像画」(高橋聡作)をお返しに頂いたそうです。
神社の「東日本復興祈願」のポスターを頂き、店に貼る事にしました。
改めて、お二人と国井さんの菩薩行に感謝します。
生きる力と笑顔を生み出すのは
母の手のひらだった
占部 賢志 (中村学園大学教授)
『致知』2013年1月号
特集「不易流行」より
└─────────────────────────────────┘
大阪大学医学部の先生で玉井克人さんという方がいます。
玉井医師は「表皮水疱症(ひょうひすいほうしょう)」の専門家で、
この病気は全国で数百名ぐらいの難病中の難病といわれています。
通常、私たちの皮膚は三層から成っていて、
それがくっついているそうですが、
「表皮水疱症」はそれが不十分で、
夜、寝返りを打つだけで、皮膚がずれて破れてしまう。
ですから、いつも水疱ができるので、
それを一つひとつ専用の針で潰し、
軟膏を塗らねばならないそうです。
これを朝夕二回やるんです。そういう難病です。
玉井医師はこの研究と治療をずっと続けてきて、
信じられない現象に気づくんですね。
それは、この難病を背負っている子供たちが一人の例外もなく、
いつもみんな笑顔で実に明るいというのです。
あれだけの難病、しかも毎日激痛と闘っている。
いつ治るかも分からないのに、なぜこんなにも明るく、
逆にこちらが癒されるような笑顔を見せてくれるのか、
不思議でしょうがなかった。
ところが、その理由が分かったそうです。
それは、母と子の触れ合いによって活性化される
「スキンシップ遺伝子」
の働きなのだというのです。
要するに彼らは生まれた瞬間から
毎日毎日、朝夕二回、母が水疱を潰して、
全身に手のひらで軟膏を塗ってやるでしょう。
その母の手のひらが遺伝子に働きかけ、
情動の発達を促して、
あの優しい笑顔を生み出していたというのです。
それを玉井医師は「スキンシップ遺伝子」と呼ぶのです。
私はこの玉井医師のレポートを読んだ時、大変感動しました。
難病やハンディという大変な逆境を背負っていても、
人を癒し、明るく世の中を生きる力を生み出すのは、
母の手のひらなんだと。
目に見えぬ母の愛情には、
それだけの力を与えることが科学でも証明されたということです。
「降りてゆく生き方」の映画が、国内のみならず、
今や海外にまで、進出しています。
本店近くの「ちえりあ」で、1月19日に上映されます。
是非一度は、ご覧になって下さい。
前売りチケットは、まほろばでも扱っております。
また、メール、電話でもお申し込み戴けます。
西尾 正則 (鹿児島大学大学院理工学研究科物理・宇宙専攻教授)
『致知』2012年12月号
致知随想より
└─────────────────────────────────┘
二〇一〇年五月二十一日、午前六時五十八分。
鹿児島県の種子島宇宙センターから
H‐2(※正しくはローマ数字/以下同)Aロケット十七号機は
打ち上げられました。
このロケットには金星探査機「あかつき」とともに
三機の人工衛星も搭載されており、その一つが、
私がプロジェクトマネージャを務める研究グループの開発した
「KSAT」です。
KSATのミッションは、大気中の水蒸気の分布を解析し、
局地的な天気予報を行うこと。一辺僅か十センチの立方体で、
重さ約一・四キロという超小型の人工衛星です。
鹿児島はロケット打ち上げ基地を有する日本で唯一の県。
しかし、ここ鹿児島に、宇宙産業に携わる企業はあまりなく、
九州の研究施設としては初めて小型人工衛星の打ち上げに
漕ぎ着けることができました。
とはいえ、私はもともと宇宙工学に関しては全くの素人でした。
専門は電波天文学。人工衛星を使って天体観測に影響する
地球大気の様子を調べようというものです。
この成果を利用し、最近よく耳にする
ゲリラ豪雨や雷をもたらす雲の発生などを早く、
正確に捉えるべく、教え子である
鹿児島大学の学生たちとともに研究に励んでいました。
当初はアメリカの携帯電話衛星が出している電波を使って
観測していたのですが、衛星本来の目的と違った利用方法のため、
どんな強さの電波を出しているかなど、
大事な情報を提供してくれません。
「これでは観測に限界がある。
ならば、いっそのこと、自前の衛星をつくろう」
それがすべての始まりでした。
ちょうどその頃、一辺十センチの超小型衛星でも
宇宙で動くという話を耳にした私は、
「小型衛星であれば地元の企業の協力を得て、
自分たちで開発できるはずだ。
これに挑戦し、成功させることで、
誰も見たことがない世界を見てみたい」
と思い立ったのです。
さっそく地元の工業技術センターや企業が集まる
セミナーなどに足を運び、賛同者を募っていきました。
すると、渕上ミクロという電子部品メーカーの東郷会長や
当時工場長だった佐藤哲朗さんたちから、
「面白いね。一緒にやろうじゃないか」
と声を掛けていただきました。
それだけでなく、佐藤さんは親しくしている
関連企業の技術者を掻き集め、
とりまとめに奔走してくださったのです。
そうしてプロジェクトチームが始動したのは二〇〇五年。
しかし、集ったメンバーは衛星それ自体は
つくったことのない方ばかり。
まさにゼロからのスタートでした。
何から始めればいいのかも分からず、最初はああでもない、
こうでもないと徒らに話し合いを重ねていましたが、
「いや、話しているよりも、まずは一回つくってみよう」
ということで、アルミニウムの塊を切り出し、
実物を見ながら衛星をつくっていきました。
地元の小さな企業の技術者たちと学生たちが協力し、
試行錯誤を重ねた末にKSATは誕生。
二〇〇八年七月、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の
公募に合格し、H‐2(※)Aロケットへの
搭載が決定したのです。
ところが、それで完成ではありませんでした。
搭載が決まってからもJAXAの審査を何度も受けなければならず、
打ち上げまでの二年間は、改良に明け暮れました。
審査の一つに安全審査というものがあります。
これは、どんな状況にあっても、壊れたり、
爆発したりせず、親衛星に百%悪影響を
もたらさないことが求められるのですが、
すべて書面で証明しなければなりません。
実験を行い、データを抽出し、書面に書く。
ひたすら文字との格闘です。
そのような審査を経て、問題点を解消し、
精度の高い衛星に仕上げていきました。
打ち上げ当日は、大学の教室にスクリーンを設置し、
打ち上げイベントを実施。早朝にもかかわらず、
地元の小中学生が三百人も集まってくれました。
カウントダウンの前に命名式を行い、
当初のプロジェクト名だった「KSAT」に代わって
「ハヤト」という愛称がつけられました。
ハヤトはまさに我われプロジェクトチーム、
そして鹿児島県民の夢を託して、宇宙へと飛び立っていったのです。
打ち上げは成功。高度三百キロ地点で
ハヤトはH‐2(※)Aロケットから分離され、
地球周回軌道に入りました。
ところがその後、通信は途絶え、
行方不明になってしまったのです。
宇宙空間を彷徨うハヤトをなんとしても見つけ出そうと、
管制室から宇宙に向けてひたすらアンテナを向け続けました。
そして、十日目にしてようやく、
ハヤトからの電波を受信することができました。
「ハヤトは生きている」。
そして、いざ観測モードに切り替えようとした矢先に、
再び見失ってしまいました。
その後、ハヤトは大気圏に再突入し、
儚くも燃え尽きてしまったのです。
しかし、私たちのチャレンジはまだ終わっていません。
現在は二〇一三年の打ち上げに向けて、二号機を制作中。
次こそ観測を成功させ、どんな苦難でも
必ず乗り越えられることを伝えたいと思っています。
私はよく学生に
「宝くじは買わなければ当たらない」と言っています。
目の前にチャンスが訪れた時に、
「自分には身に余る」「失敗したらかっこ悪い」と躊躇し、
チャンスを自ら潰すことがあってはならない。
自分の可能性を信じて挑戦して初めて、
新しい世界が見えてくるのではないでしょうか。
中條 高徳 (アサヒビール名誉顧問)
『致知』2013年1月号
リレー連載「巻頭の言葉」より
└─────────────────────────────────┘
暑かった平成二十四年の夏も終ろうとする頃、
分厚い包みが届いた。
京都府綾部市の川北千代子さんからのものであった。
お会いしたこともない方々から、
毎日のように講演の感動や、拙著の読後の喜びを
伝えてくださるお手紙をたくさんいただくので、
すぐにはどなたか思い出せなかった。
お手紙を読むや、この老いの身も心も
電気ショックに打たれたような衝撃を受けた。
この世の出来事かと身をつねるほどの感動であった。
筆者の早朝の靖国詣では数十年に及ぶ。
若い頃、遊就館の「親子の像」の隣の
展示ショールームに飾られている
一通の遺言状に釘付けになった。
「妻千代子へ」という、
しっかりした筆跡の遺言状であった。
十八年十二月一日とある。
筆者はその一か月前の十一月三日、
教育総監から陸軍士官学校合格の電報を受け、
勇躍国家のために尽くせると身も心も燃えていた。
遺言状はその頃のものである。
「兼(かね)テ軍人ノ妻トシテ嫁グ前ヨリ覚悟ナシ居リシコトト思フガ
決シテ取乱(とりみだ)スコトナク
武勲ヲ喜ンデ呉(くれ)ヨ
ヨク仕ヘテ呉タ事ヲ心ヨリ感謝シテイル
短イ期間デハアツタガ誰ヨリモ
可愛イ妻トシテ暮シタ事ハ忘レナイ
飽ク迄(まで)川北家ニ踏止(ふみとどま)ツテ
御両親ニ仕ヘテ呉(く)レ」
入隊前日認(したた)ム 川北偉夫(まさお)
数十年前のことであった。
同年代の男としてこの遺言状に触れた瞬間、
涙が滂沱と流れた。
筆者も結婚していただけに男の気持ち、
その切なさが痛いほど伝わってきた。
国家の防人として出征する男の公の決意と
新婚間もない可愛い妻との別離の切なさの間に立って、
「川北家に止まって両親に孝養を尽くせ」としか
再婚拒否の意を伝えることができなかった戦時下を思うと、
戦争の罪深さと男の切なさが身に沁みる。
筆者は幾度となくこの遺言状の前に額(ぬか)ずいて
涙を重ねてきた。
なんとその千代子さんの手紙が届いたのだ。
「千代子は生きています。
八十五歳で幸せに生きています」
との嬉しい感動のお手紙であった。
この度、まほろばではオリジナルの「エゾシカ肉製品」を加工販売することになりました。
エゾシカ協会のプレミアム肉の狩猟・屠殺・加工基準に則って製品化したものです。
勿論、無添加で、特に塩は『七五三塩』を使用しています。
種類は、
① 『エゾ鹿肉 ウインナーソーセージ』 10本 180g前後
② 『エゾ鹿肉 クラコウ(フランクフルト)』 3本 180g前後
③ 『エゾ鹿肉 クラコウボロニア』 1本 200g前後
④ 『エゾ鹿肉 サラミ』 2本 110g前後
⑤ 『エゾ鹿肉 ジャーキー』 40g前後
⑥ まほろばオリジナル 『エゾ鹿肉加工肉』セット (①~⑤1点づつ)
試食販売会を、この度の「歳末大売出し」で行います。
価格はその時に、発表致します。
(只今、鋭意、製造中です!!)
・・・・・一口知識・・・・・
春一番、ロシア・南千島沖で「流し網漁」で取れた北洋紅鮭。
この急速冷凍した生紅鮭を、まほろばで、ルイベ用に加工処理しました。
一般のルイベは、秋鮭や養殖物や鱒が多いのですが、
何と言っても、紅鮭は脂質が高く、旨みも鮪のトロのようで美味です。
是非、年末、正月には、この「紅鮭ルイベ」をご堪能下さい。
『刺身用・紅鮭ルイベ』 100g ¥260