まほろばblog

Archive for 5月 15th, 2013

宇宙の理~二人展

水曜日, 5月 15th, 2013

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まほろばのお客様でもある画家の田口陽子さん。

この度「きみがよものがたり」という素敵な絵本を出版されました。

日本の国歌「きみがよ」の奥の意味を説いているようです。

それにちなんで、奈良さんとのコラボ展が開かれます。

ご案内いたします。

二人展 111

二人宇宙 2

「芸森ヨガ」

水曜日, 5月 15th, 2013

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まほろばでも行っている「ハタラージャ」ヨガの松本さんも出演する

芸術の森で行われるヨガフェステバル『芸森ヨガ』が開催されます。

どうぞ、実践されている、あるいはご興味のある方々はお越しくださいませ。

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「苗木即売会」17日から

水曜日, 5月 15th, 2013

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肌寒い中、 早くも苗木の季節を迎えました。

手稲山の雪が解ける頃が、その適期でしたが、まだ残雪があります。

購入してすぐ植え込まないほうが良いでしょう。

玄関内と外に朝夕出し入れしながら、外気に慣れさせながら、様子を見ましょう。

植えた後も、ビニールで囲いをするなどの養生が要ります。

寒温交互に来ていますので、油断のないようにお願い致します。

先ずは、17日(金)から始まります。

2題・原発関連映画

水曜日, 5月 15th, 2013

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「いかに恐怖心と向き合うか」

水曜日, 5月 15th, 2013
   竹内 洋岳(プロ登山家)

              『致知』2013年6月号
               特集「一灯照隅」より

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十四座完登というのは、
もちろん簡単に達成できる目標ではありません。
山というのは登る喜びもある一方、
一つ間違えれば命を落とす危険も内包しています。

では、その危険に対する恐怖心をいかに克服すべきか。
実は、恐怖心というのは克服したり
打ち消したりしてはダメなのです。

恐怖心があるがゆえに、それを利用して危険を察知し、
危険を避けて進んでいくのです。

私の中では、危険な体験を重ねる度に
恐怖心が積み重なっています。

しかし恐怖心が増すということは、
危険に対するより高感度なセンサーを手に入れるようなもので、
決して悪いことではないと思っています。

これから起こりうる危険を、いかにリアルに想像できるか。
その感覚をどんどん研ぎ澄ましていけたらいいと思っています。

もちろん、登山で相手にするのは大自然という、
人間のコントロールを超える存在です。

いくら自分が登ろうと意気込んでも、
天候に恵まれるなど自然の了解を
得られなければ登ることはできません。

私たちにできることは、自然の了解が得られた時に
すぐアクションを起こせるよう十分な準備をしておくことです。

登山の準備で大切なことも、やはり想像力です。
それは頂上に到達できるという想像ばかりでなく、
到達できずに引き返すという想像であり、
時には死んでしまうかもしれないという想像です。

そして死んでしまうかもしれないという想像ができるなら、
どうすれば死なずに済むかという想像をする。

死なないためにいかに多方面に、多段階に、
緻密に想像できるかということを、
私たちは山の中で競い合っているのです。

ゆえに想定外というのは山の中では存在しません。
想像が及ばなかった時、登山家は命を落とすのです。

――無能無才にしてこの一筋につながる

水曜日, 5月 15th, 2013
致知出版社社長・藤尾秀昭の「小さな人生論」
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┃□□□      2013/5/15 致知出版社(毎月15日配信)
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│130 │『致知』35年に思うこと――無能無才にしてこの一筋につながる
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『致知』は今年の9月1日発行の10月号で創刊満35周年になります。

私はこの雑誌の創刊の準備から編集に携わってきましたので、
『致知』一筋に35年の人生を歩いてきたことになります。

俳聖、松尾芭蕉は
「無能無才にしてこの一筋につながる」という言葉を残していますが、
この言葉はそのまま実感として、
体に溶け込んできます。

先日、タビオの越智会長にお会いしましたが、
愛媛県の中学を卒業し、大阪の靴下問屋に丁稚奉公に入り、
以来約60年、靴下一筋に歩まれ、
会社を今日業界の雄に育て上げられた越智会長の信条は、
「一生・一事・一貫」
だとおうかがいしました。

会社がうまくいき始めますと、
本業以外にいろいろな事に手を出したがる人が多いのが世の常ですが、
創業以来45年靴下一筋、
他には目もくれないで歩んでこられた、その姿勢に頭が下がります。

『致知』は心を磨く、人物を創るということをテーマに
一事一貫してきた雑誌です。

即ち、人間学の追究です。

その道を35年追い求める中で、実にたくさんのすぐれた先達の生き方、
遺した言葉に触れ得たことは、まさに冥利に尽きるというものです。

この道一筋に歩ませていただいた者の至福を感じています。

一生を道元禅の研究に生きた田里亦無(たざと やくむ)氏から聞いた話ですが、
シモーヌ・ヴェイユというフランスの思想家が

「与えるというものではないが、、
 人に是非渡しておかねばならぬ 
 大事な預りものが私の内にある」

といっているそうです。
すばらしい言葉だと思います。

私自身も先達から手渡された大事な預り物を『致知』を通して、
心を込めて、後世に手渡していきたいと念願しています。

ちなみに、『致知』の7月号の特集テーマは
「歩歩是道場」(ほほこれどうじょう)です。

禅の言葉ですね。
特別な場所を道場とするのではなく、
日常のあらゆる場を自分を鍛える道場としていけ、という教えです。

そういう心構えで生きていけば、
あらゆる場が自分を高めていく修養の場になるということです。

これに似た言葉に
直心是道場(じきしんこれどうじょう)があります。

「維摩経」(ゆいまきょう)にある有名な言葉です。
光厳童子(子どもではなく、求道にめざめた人)が
路上で維摩居士(伝道の奥儀をきわめた在家の人)に会います。

童子が「どちらからこられましたか」と聞くと、
「道場から来た」と答えます。
童子は修行のためにどこかいい場所はないかと探していたので、
「それはどこにありますか」とききます。

その時、維摩が答えたのが先の言葉です。
「直心是道場」

直心とは、素直な柔らかい心ということです。
心さえ、素直に調(ととの)っていれば、
あらゆるところが道場になる、ということです。

伸びる人はあらゆる場を生かして伸びてゆくというのは
『致知』の取材を通して感じたことですが、
そういう人たちはこの言葉を体現した人であったということでしょう。

禅語にはさらに
「歩々清風起こる」という言葉もあります。
一歩一歩、歩いたあとに清風が起こる。
至り難い世界ですが、そういう一歩を歩んでいきたいものです。

「守拙求真(しゅせつきゅうしん)」

水曜日, 5月 15th, 2013
        平櫛弘子(小平市平櫛田中彫刻美術館館長)

              『致知』2013年5月号
               致知随想より

└─────────────────────────────────┘

数え百八で命尽きるまで彫刻に情熱を燃やし続けた
祖父・平櫛田中。

私は、祖父が晩年を過ごした自宅
「九十八叟院」(東京都小平市)に開設された
美術館で館長を務め、その芸術と人生をご紹介しています。

明治五年、現在の岡山県井原市の田中家に生まれた祖父は、
十一歳で平櫛家へ養子入りしました。

しかしながら家業が傾き、小学校卒業後に
丁稚奉公を余儀なくされ、
また当時不治の病であった結核を患うなど、
苦労の末に二十代半ばで彫刻の道に入りました。

平櫛田中の号は、平櫛家と田中家の姓を組み合わせたものです。

他の芸術家に比べて遅いスタートでしたが、
代表作である「転生」「五浦釣人(ごほちょうじん)」など、
生涯に手掛けた作品は数百点にも上りました。

わけても六代目尾上菊五郎丈をモデルに取り組んだ
「鏡獅子」は、昭和十一年より構想を練り、
二十四年に菊五郎丈が鬼籍に入った後も制作を続け、
二十年もの歳月を費やして完成させた畢生の大作です。

書も手掛けていた祖父には、
「寿 七十不踰矩(ことぶき しちじゅうにしてのりをこえず)」
という作品があり、七十にしてまだ規範を超えない、
すなわち自分はまだ道半ばであるという心境を
表現しています。

そして百八歳で亡くなった時には、
あと三十年以上は制作を続けられるだけの材が
確保してありました。

まさに不撓不屈、創作に懸ける凄まじいばかりの祖父の意欲は、
やはり仕事が心底好きであったところから
生じたものであることは言うまでもありません。

祖母が嫁いできた時、
祖父の身の回りには行李一つしかなく、
しかもその中には創作の参考に切り抜いた
新聞しか入っていなかったといいます。

生活は質素で衣食にほとんど執着がなく、
夜九時頃に床に入り、夜中の一時半から二時頃には
布団から抜け出して新聞の切り抜きを始め、
後はひたすら作品に向かう毎日。

八十を過ぎても上野桜木町の自宅から
葛飾のお花茶屋に設けたアトリエに一人で通い続けました。

高齢ゆえに家族はいつも帰りを心配し、
夜の八時頃に祖父の下駄の音が聞こえてくると
胸をなで下ろしたものです。

夏はアフリカの探検隊のような帽子をかぶり、
甚平に足袋。
その独特の出で立ちがいまも懐かしく脳裏に甦ります。