まほろばblog

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 「幻の養生書『病家須知』に迸る人間愛」

日曜日, 12月 11th, 2011

       
                   
              中村 節子 (看護史研究会会員、藤沢市立看護専門学校元校長)

        
               『致知』2007年6月号
                   「致知随想」より

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 江戸時代後期に、町医・平野重誠(じゅうせい)によって著され、
 それまでの看護法を集大成した
 日本初の看護書といわれる『病家須知(びょうかすち)』。
 
 貝原益軒の『養生訓』と並ぶ養生書の二大金字塔とされながら、
 その存在はほとんど知られていませんでした。

 書名が「病人のいる家」+「須く知るべし」
 から取られているように、内容は養生の心得に始まり、
 療養、介護、助産、さらには医者の選び方や
 終末期ケアについてなど多岐に亘ります

 昨年、看護史研究会が発足五十周年を迎えたのを機に
 「何か看護学生のために役立つものを」と考え、
 本書の現代語訳に取り組むことになりました。
 メンバーは二十代から七十代の専門家十数人です。

 現代語訳に取りかかる前に、
 私はまずこれを書いた平野重誠の人となりを知りたいと思い、
 図書館を訪ねてみました。
 
 しかし詳しい資料は見つかりません。
 方々を探し回った挙げ句、漢方の専門書に記されてあった
 名前だけを頼りに、歴史家の先生方七名に手紙を出しました。
 
 そうして、北里研究所東洋医学総合研究所の
 小曽戸洋先生から返信をいただけたことで、
 重誠の子孫の方とも連絡を取ることができ、
 埋もれていた歴史に一条の光が差し込んできました。

 著者・平野重誠の生年は一七九〇年。
 幼い頃から父親に医術を学び、
 徳川将軍家の主治医だった多紀元簡に師事するなど
 大変な秀才でしたが、官職には就かず、
 生涯を町医者として過ごしたといいます。

 一七一三年、『養生訓』の刊行を機に
 健康指南書が相次いで出されたものの、
 いつしか「医」は仁術から算術へと堕落し、
 人々の間にも健康はお金で買うもの、
 といった風潮が広まっていました。
 
 そうした世の流れに抗い、日本人が伝えてきた
 日常の心がけを基本に養生や看護の方法をまとめ、
 一八三二年に出されたのが『病家須知』でした。

 本書が他の養生書と異なるのは、
 重誠が実際に現場で行ってきた臨床体験や
 自らが試して効果を得たことを
 具体的に書き記していることです。
 
 大病後に夜寝つかれない人を眠らせる方法を
 挿絵入りで解説したり、産後の寝床の図を示したり……。

 医者は病気になった人を治療するのではなく、
 病人が回復に向かう過程を手助けしていくのが
 本来の役割であること。
 
 そして自分の健康を自ら維持し、
 未病で防ぐための養生法に、最も重点が置かれているのです。
 
 結果的にこれが最も医療費を安く済ませる手段に
 なるのではないでしょうか。

 中でも私が強く衝撃を受けたことが三つありました。
 
 
 一つは、およそ病気というものは、
 皆自分の不摂生や不注意が招くわざわいであること。
 
 
 二つ目は、摂養を怠らず、
 療薬を軽んじてはならないこと。
 
 
 三つ目は病人の回復は看病人の良し悪しで
 大きく変わる――「医者三分、看病七分」の考え方でした。
 
 これは私自身が老輩者を看護したり、
 家族の看護に十数年間携ったりした経験からも、
 実感としてありました。

 これまでの日本の近代看護は、ナイチンゲールをはじめ、
 欧米から移入されてきたことから教育が始まっていますが、
 『病家須知』の成立はそれから二十年を遡ります。
 
 人間が本来持つ自然治癒力を高め、
 それを引き出していくという日本独自の視点や
 看護の土壌が存在したのではないか、
 というのが私たち研究会の見方でした。

「日本を知ることは江戸を知ることである」と言われますが、
 江戸時代と現代とは共通する部分が数多くあります。

 重誠は薬の服用について
 「薬をみだりに飲んではいけない」、
 医者を選ぶ時は
 「常に勉強している先生を選ばなければならない」等と
 記述していますが、重誠自身がまさに
 そのように生きた人でありました。
 
 彼の生きた時代は、ちょうど和蘭から
 西洋医学が入ってきた頃でしたが、
 重誠は治療の役に立ちそうなことは何でも取り入れ、
 普段の治療に役立てています。

 その克己的な生き方は、医聖と呼ばれた
 ヒポクラテスの「医の倫理」にも通じるものがありますが、
 これを言行一致させ、その通りに生きていくのは
 並大抵のものではありません。
 
 重誠は自分がした辛い思いを子孫には
 させたくないとの考えからか、
 孫の代まで医者を継がせることはしませんでした。

『病家須知』には、先に述べた養生の心得などの他に、
 健康を保つための食事や病気をした時の食事療法、
 子どもを育てる心得、病気が伝染る理由、
 消化不良や吐き下し、吐血、ひきつけ、脳梗塞、
 動物から咬まれた時、切り傷など、
 日常生活で起こり得る病の対応、
 婦人病、懐妊時の心得から無事に子どもを産ませることまで、
 実に事細かに記されています。
 
 そして片目を失明していたにもかかわらず、
 各漢字の横には小さな小さな文字で、
 素人にも読めるよう意味振り仮名が打ってありました。

 重誠はそんな自身の生き方を
「世話焼き心で、いても立ってもおられない性格」
 と自嘲気味に語っていますが、その根本には、
 人々を何とかして救いたいという
 重誠の迸るような情熱と人間愛とがあったのでしょう。

 現代は簡単に自殺をしたり、
 人を殺めたりしてしまう時代です。
 
 私は助産師をしていたせいか、
 人間は一人ひとりが選ばれて
 この世に誕生しているわけですから、
 どんなに辛い思いをしても、
 人間として生きてこそ価値があると考えます。
 
 子どもたちには、踏まれても踏まれても
 強く生きていく雑草のような存在であってほしい。
 
 その逞しい元気な体と心をつくるのは、
 やはり大人の責任であると思うのです。

『病家須知』の現代語訳完成は、
 皆様の健康づくりのための
 一滴の雫のようなものかもしれません。
 
 しかし、それを読んだ人たちがいかに内容を吸収し、
 自分の中に広げていってくださるか――。
 それが私たちの願いであり、
 人々の健康と幸福を心から願った
 重誠の切なる祈りではないかと思うのです。

 「念々死を覚悟してはじめて真の生となる」

土曜日, 12月 10th, 2011

      
       
  寺田 一清 (不尽叢書刊行会代表)

     『致知』2012年1月号
      特集「生涯修業」より
      
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私ももう85歳でしてね。
人生のゴールが見え出してからというもの、
森先生の教えの根本真理ともいうべき、

「人生二度なし」

という言葉が一層心に染みてまいるようになりました。

先生の、

「念々死を覚悟してはじめて真の生となる」

という言葉など、最初はピンとこなかったんですが、
この頃はその凄さを感ぜざるを得ませんね。

それから、私が今日あるのは森先生に
立腰、腰骨を立てることの大切さを
教えていただいたおかげです。

22、3歳の頃は結核で寝ておった病弱な私が、
立腰によって85歳のいまも全国を
回って講演させていただいておりまして、
森先生への感謝の念から、
講演にお招きいただくと必ずこの立腰をお伝えするんです。

初めて自宅にお招きした時に、
急に立ち上がり対坐している
私の腰のあたりをグッと押されたんです。

普通に真っ直ぐ坐るのではないんですね。
椎の4番と5番を弓を張るように
キュッと締めなければならないんです

森先生は、人間として大事なことの一つは、
いったん決心したら、石にかじりついても
必ずやり遂げる人間になることだとされ、
その秘訣として常に腰骨を立てている
人間になることを説かれています。

森先生の教えの中で、
立腰が一番重要な位置を占めると私は思います。

85歳になったいま、いよいよこの立腰を究め、
広めたいというのが私の心願なのです。

 「また鬼になる」

金曜日, 12月 9th, 2011

             
       
   工藤 光治 (白神山地マタギ)
        
    『致知』2012年1月号
      特集「生涯修業」より

 http://www.chichi.co.jp/monthly/201201_pickup.html#pick4

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(マタギは)一人前になるまでは時間がかかるんですよ。
五年、十年なんてものじゃないです。
先輩たちの後を付いて歩いて、山を歩く技術を見て習う。
長い時間がかかるのですが、
そうやって身についたものは一生離れません。

そうすると自然と一体となれるんです。
すると、何でも採り過ぎず、
次の世代へまた次の世代にも残すような
採り方ができるようになります

それは言い詰めれば自己規制であり、足るを知る生き方です。

そこには山の神様の信仰があるわけです。
白神の山にあるものはすべて山の神様からの授かり物だと。

ですから、たくさんある場所に行って、
誰も見ていないからといって、
それを採り尽くすようなまねをしても
神は絶対に見ていると。きっと罰が下るから、
そういうことはするなと教えられてきました。
だから、白神山地の恵みは
いまも尽きることなく山の宝となっています。

         (略)

ハンターは獲れる時はいくらでも撃つわけです。
しかも、まずそうな肉はそのへんに捨てていったりする。
マタギは自分たちが担いで帰れるぐらいのものをいただいたら、
そこでお終いなんです。決して欲張ることはない

私たちマタギに撃たれた熊は心臓一撃で一瞬で死ぬんです。
だからほとんど出血はない

どういうことかといえば、ハンターの人たちは、
もしかしたら当たるかもしれないという
生半可な思いで銃を撃ちますが、
我われは熊が憎いから撃つんじゃない。
生きていくために熊が必要だから撃つのです

熊が苦しむことなく一瞬であの世にいけるよう、
必ず一発命中で即死させられる確信がなければ撃たないわけです

憎くもない動物を殺すためには
鬼のような心になって、一瞬で相手を殺す。
ですから、動物を殺すたびに鬼になる。
マタギとは「又鬼」なのだと教わりました。
http://www.chichi.co.jp/monthly/201201_pickup.html#pick4

「苦悩は人生の肥やしとなる」

水曜日, 12月 7th, 2011

       
       
    福島 智 (東京大学先端科学技術研究センター教授)
        
      『致知』2012年1月号
        特集「生涯修業」より
  

http://www.chichi.co.jp/monthly/201201_pickup.html#pick6

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【記者:ご自身では障害や苦悩の意味を
    どのように捉えていますか】

障害を持ったことで、私は障害者のことを
少しは考えるようになりました。

やはり何がしかの関係を持ったこと、
広い意味での当事者になったことが
その大きなきっかけになりました。

また、自分にとっての苦悩は他者との
コミュニケーションが断絶されることでしたが、
これも実際に体験してみて初めて分かったことでした。

苦悩を体験することの凄さは、
苦悩の一つのパターンが理屈抜きに分かること。
もう一つは、苦悩する人たちが抱えているものを
想像しやすくなるということですね。

挫折や失敗をすることはしんどいし、
できるだけ避けたいけれど、
おそらくほとんどの人が人生のどこかでそれを経験する。

いくら避けようとしても必ず何がしかのものはやってくる。
だから来た時にね、

“これはこれで肥やしになる”

と思えばいいんですよ。

私が子供の時代には、まだ日本にも
たくさんあった肥溜めは、
臭いし皆が避けちゃうけれど、
それが肥やしとなって作物を育てた。

一見無駄なものや嫌われているものが、
実は凄く大切なことに繋がるということでしょう。
これは自然界の一つの法則だと思います。

       * *

同じようなことをアウシュビッツの収容所を生き抜いた
フランクルが述べています。

彼はいつ死ぬかも分からないという極限状況の中でも、
苦悩には意味があると感じていたようですが、
それは彼一人だけの思いではなかった。

あの過酷な状況下で、自分以外の他者のために
心を砕く人がいたように、ぎりぎりの局面で
人間の本質の美しさが現れてくる時がある。

もちろんその逆に、本質的な残酷さや醜さを
見せることもありますが、
人間はその両方を持っているわけですよね。

おそらく彼は苦悩をどう受け止めるかというところに、
人の真価、人間としての本当の価値が
試されていると考えたんじゃないかと思うんです。

苦悩というフィルターをかけることで、
その人の本質が見えてくると。

フランクルの主張で最も共感を覚えるのは、
その人が何かを発明したり、
能力が優れているから価値があるということよりも、
その人が生きる上でどんな対応をするか

苦悩や死やその他諸々の困難に
毅然と立ち向かうことが最高度の価値を持つ、
といった趣旨のことを述べている点です。

したがって、障害を持ったことや病気をしたこと自体に
意味があるのではなく、それをどう捉えるかということ。

身体的な機能不全を経験することも、
それ自体に大きな意味があるんじゃなく、
それを通してその人が自分自身や他者、
あるいは社会、あるいは生きるということを
どのように見るかが問われているのだと思います。
http://www.chichi.co.jp/monthly/201201_pickup.html#pick6

「93歳現役画家の流儀」

水曜日, 12月 7th, 2011

             
       
 堀 文子 (日本画家)
        
   『致知』2012年1月号
    特集「生涯修業」より
      

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【記者:堀さんの絵が世間で評価され始めたのはいつ頃からですか】

評価されたかは知りませんが、女子美術専門学校を出てからまもなく、
出品した絵が賞を受けて騒がれた時期もありました。

その時に、自分が若い女だから騒ぐので、
こんな言葉に乗っていたら大変だ。
ある時期を過ぎたら誰も振り向かなくなる
という自覚がありました。

大抵は若い時ちやほやされて、ダメにされるんです。

自分を堕落させるのもよくするのも自分なんだ、
と考えていますから。

誰かにすがっていたら、その人の言うなりじゃないですか。
人それぞれ姿形が違うように、運命も皆違うのですから、
誰もしないことを開拓しなければダメだと思っています。

ですから安全な道はなるべく通らない。
不安な道や未知の道を通っていくとか、獣道を選ぶとか。
大通りはつまらないと思っている人間で、
それがいまでも続いています。

そういう性質ですから、画家としては
食べることができませんので、
絵本を描いたりして生業を繋いできた。

ただ、それもやってるうちにちやほやされて、
児童の教育委員会などに出されることになってきました。
だから「これはいけない」と思って絵本の仕事はやめました。

そうやって、どこへ行ってもちやほやされないように、
上手にその道を避けて生きてきたわけです。

【記者:絵の腕はどのようにして磨いてこられたのですか?】

磨いてなんかいません。それはいい絵を描きたいですが、
いい絵を描こうといってできるものじゃない。
感覚というものは努力したってダメなんです。

絵は他の人から学ぶことはできない。
ただ、自分のだらしなさが直に現れます。
ですから自分がいつも未知の谷に飛び込むこと。
不安の中に身を投げていなければダメだと思っております。
いつも不安の中に身を置いて、
昨日をぶち壊していくということです。

ですから学ぶよりも「壊す」というのが私のやり方です。
そして、過ぎたことを忘れることです。

きょう出品したものはお葬式が済んだ後ですから、
もう一度はやれません。やれば悪くなるに決まっています。

人は「もう一度あの絵を描いてください」と言いますが、
慣れると確かにうまく見えますが、それはコピーです。
描いた本人には気が抜けていて、
魂が入っていないのが分かる。
同じ感動は繰り返せないということです。

もしかしたら私の中に、
まだ芽を吹かないものがあるかもしれない、
ひょっとしたら、まだ思いがけないものが潜んでやしないかと、
いまだにそんなことを考えています。

そのためにはいつも自分を空っぽにしておかないと
新しい水は入ってこないんです。
私に勉強の仕方があるとすれば、
いつも自分を空っぽにしておくということです。

心に響く言葉

月曜日, 12月 5th, 2011

 特集「生涯修業」より、
  http://www.chichi.co.jp/monthly/201201_words.html

………………………………………………………………………………

     ● 田中 宰

(松下電器産業元副社長・阪神高速道路前CEO兼会長)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  

  時代の先を読む先見性、洞察力、そしてそれに基づく
 「変化への対応」「日に新た」の実践、
  これはあらゆる経営者にとって欠くことのできない素養である。

  国といえ、事業といえ、このことを忘れた時、
  必ずその組織は衰退し滅亡する。

 
  
  
  ●  工藤 光治 (白神山地マタギ)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   昔からこの山で暮らしてきた人たちの思想は、
   山の恵みに生かされているという思いなんです。
   すべて山のものを頂いて、生かされているのです。

   また、マタギの世界では事故で血を流すのはいいけれども、
   人と争って血を流すのは一番の恥とされました。

寺田 一清  (不尽叢書刊行会代表)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   「つねに腰骨をシャンと立てること――
    これ人間に性根の入る極秘伝なり」

    私が今日あるのは森信三先生に立腰、腰骨を
    立てることの大切さを教えていただいたおかげです。

    森先生は、人間として大事なことの一つは、
    いったん決心したら、石にかじりついても
    必ずやり遂げる人間になることだとされ、
    その秘訣として常に腰骨を立てている
    人間になることを説かれています。

荒井 桂 (郷学研修所 安岡正篤記念館副理事長兼所長)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   安岡正篤先生による「知識、見識、胆識」
   という有名な教えがあります。

   知識がいかにあってもさほど意味はない。
   人間はどんな志を持ち、何を目指して
   この二度とない一生を全うするかという観点に立つ時、
   知識が見識になる。

   しかしその見識は、実践して生かしていかなければ
   意味がなく、そのためには勇気と決断がいる。
   それを伴った見識が胆識であると。

やんじー復興支援「お礼炊き出し」

日曜日, 12月 4th, 2011

この「年末大売出し」の3日4日の2日間、

本店と厚別店において、やんじーの「お礼炊き出し」が行われた。

雨・雪の降りしきる大変な状況の中での奉仕にお礼申し上げます。

3:11からの東日本復興支援活動に対しまして、皆様から

多大なるご援助を頂きまして、誠にありがとうございました。

この場を借りまして、感謝申し上げます。

私達も、ヤンジーの現場を初めて見て、そのご苦労が忍ばれます。

またこの7日には、東北に向けて出発します。

この年末を迎え、寒さが一段と厳しくなるこの季節、

どうぞ、安生に乗り切りますように祈ります。

また、皆様と伴に、応援しましょう。

「記憶術のすすめ」

日曜日, 12月 4th, 2011

  
                   
        友寄 英哲 (ともより・ひであき
       円周率暗唱の元ギネス記録保持者)

  『致知』2006年4月号
       「致知随想」より

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 私の脳はごく普通だと思います。
 特に暗記が得意だったということもありません。
 
 子どもの頃はもっぱら丸暗記でしたが、
 二十歳ぐらいになるとそれもままならず、
 学生時代、シェークスピアの長台詞を覚える宿題が
 なかなかできず弱りました。

 ある日、黒板に書いた数字を暗記してみせる
 老大道芸人に出会いました。
 
 飛びついて買った十ページほどのガリ版刷りの冊子には、
 連想を使った暗記法が書いてありました。
 こういう方法もあるんだとすっかり記憶術に魅せられました。
 これがそもそもの始まりです。

 大学を出て、ソニーに入社しました。
 海外と折衝する営業が仕事でした。
 
 面白半分に一千桁の円周率を三年かかって覚え、
 やっと暗記できたのは三十歳。
 これは仕事に役立ちました。

 宴会芸で披露すると結構受けて、人脈も広がり
 商談も進むのです。

 四十五歳の時でした。
 
 
 「カナダの若者が円周率八千七百五十桁を暗誦し、
  ギネスブックに申請」
  
  
 という記事を読んだのです。
 
 こんな世界記録があるんだと知り、
 自分にもできそうだと挑戦することにしました。
 
 一万五千百五十一桁を暗誦して
 世界記録を立てたのは翌年のことです。

 ところが、世界には強豪がいて
 次々とギネス記録を塗り替えます。
 
 それならとさらに挑戦し、シーソーゲームを繰り返して、
 円周率四万桁暗誦の世界記録を立てたのは五十四歳の時でした。
 これは八年間ギネスブックに記載されました。
 
 いまのギネス記録は原口證さんという方の
 八万三千四百三十一桁です。
 人間の記憶力は底知れません。
 近い将来十万桁、二十万桁を超えるのも
 夢ではないと思っています。

 暗記の方法は紙幅に限りがあるので、
 宣伝めいて恐縮ですが、詳しくは
 私の本を読んでもらうことにしましょう。
 
 近著には『脳を鍛える記憶術』(主婦の友社)があります。
 要はイメージを結合させたり、
 馴染み深いものを活用して連想をふくらませ、
 ストーリー仕立てにして覚えていくのです。
 これは経験豊富な高齢者に有利な記憶法です。

 人間には記憶に適したリズムがあります。
 
 三秒間です。
 三秒間に収まるフレーズはすうっと頭に入ります。
 だから三秒間に収まるようにフレーズを切り、
 その三秒間に集中するのです。

「一一九二」を「いい国」として覚える
 日本に古来伝わる語呂合わせは
 数字の記憶法として非常に優れたものです。
 
 私はこれを補足発展させ、
 「友寄式――仮名置換法」を作りました。
 
 これを円周率暗誦の過程で何度も練り直した結果、
 大勢の人が楽に数字を記憶できる実践的なものになりました。

 それにしても、人間の脳は忘れるように
 できているのだとつくづく思います。
 でも、忘れるままにしておいては記憶はできません。
 
 本当に記憶したいものはタイミングを見計らって
 復習する必要があります。
 ちょっと忘れかけた頃覚え直すことがコツです。
 
 覚える内容により異なりますが、最初は五分後、
 次は一時間後かもしれません。
 試していくと、自分にぴったりの復習のタイミングがつかめます。

 おまえは仕事をしないで円周率の暗記を
 やっていたのかと言われそうですが、
 私は真面目なサラリーマンで、
 仕事はきちんとやっていました。
 
 暗記に使ったのは片道一時間半、
 往復三時間の通勤時間です。
 
 コースを細かく区切り、あの電柱までに十桁、
 八百屋さんの前までに十桁、
 電車に乗れば次の駅までに十桁、
 というふうにして覚えていくのです。
 
 覚えていなければそこで立ち止まり、
 覚えるまで先へ進みません。
 会社は遅刻できないから懸命です。
 集中するには細切れの時間がいいのです。

 円周率を暗記して何の役に立つのだ、
 馬鹿馬鹿しくないのか、とよく言われました。
 
 人に言われている分にはどうということもないのですが、
 私自身が自分で馬鹿馬鹿しくなってしまって、
 一か月ほどやめたことがあります。
 
 だが、やめてほかに役に立つことができた
 というわけではありません。
 通勤の三時間は無意味に過ぎただけでした。

 いいことがいっぱいあったことに気づきました。
 
 まず健康になりました
 私は低血圧で、八時間寝ても
 しばらくはボーッとしていたのですが、
 昼間円周率の記憶で脳をフル回転しているため
 熟睡するせいか、六~七時間の睡眠ですっきり目覚め、
 活気に満ちて一日を過ごすことができるのです。
 
 人脈が広がった のも記憶術をやったおかげです。
 集中力も持続力もつきました。
 それに使命感と言えば大げさになりますが、
 
 「世の中の役に立つ記憶術を生み出したい」
 
 と燃えるものが湧き起こってきました。

 円周率を暗記するのは馬鹿馬鹿しいことではないと
 心底から納得できた時、私は変わりました。
 何事にも前向きになり、朝が待ち遠しく、
 毎日が楽しくてならなくなりました。

 それでも壁に突き当たります。
 円周率四万桁を一応覚えた頃、
 実際に暗誦してみると約三十か所間違えました。
 
 そこを覚えなおし再挑戦してみると
 今度は別な場所を三十箇所間違えます。
 約一年半この傾向が続き人間の弱さを思い知りました。
 
 それでもめげずに続けていたら
 間違える箇所が激減し
 本番では何とか間違えなく暗誦できました。
 
 「継続は力なり」という言葉は
 本当の本当だと身をもって知りました。

 人間の脳は加齢と共に衰えるといいます。
 
 しかし、これは迷信だと思います
 私は七十三歳になりますが、若かった頃に
 なかなか覚えられなかったものが、
 いまはすんなり頭に入ってきます。
 
 人間の脳は加齢で衰えるのではなく、
 使わないから衰えるのではないでしょうか。

 年間五千人の脳を診ているという
 お医者さんが私の脳を調べ、
 二十歳の脳だと太鼓判を押してくれました
 
 脳は使えば発達するという私の実感は、
 真理なのだと思います。

 私は「七十歳代で、円周率五万桁をどの桁からでも暗誦可能」
 を目指し日々特訓をしています。
 
 
 
 「人間の脳の力に限界はない。
  あるとしたらそれは自分があきらめた時」。
  
  
  必ずできると信じています。

心に響く言葉

土曜日, 12月 3rd, 2011

特集「生涯修業」より、
 
………………………………………………………………………………

● 鈴木 章 (ノーベル化学賞受賞者・北海道大学名誉教授)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   

  チャンスを生かすには、注意深い心、
  一所懸命にやろうとする精神、
  それから謙虚であることが大切です。

    何か結果が出て、それを自分の偏った見方で
    捻じ曲げたりせず、正直に見ること。
    そういう積み重ねがあって初めて何%かの確率で、
    幸運の女神が微笑んでくれる機会に恵まれるかどうか、
    というのが我われの世界です。

 
  
  
● ドナルド・キーン (日本文学研究者)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   人生に大切なことは、私の場合は
   やはり有意義な仕事をすることでしょうね。
      私は自分の仕事をとおして外国人の日本に対する理解が
      深くなったことが一番の誇りであり、喜びなんです。

●福島智(東京大学先端科学技術研究センター教授)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   

   人間の理解の及ばない何ものかが生命の種をもたらし
   我われがここに生きているとすれば、
   この苦悩、私の目が見えなくなり、
   耳が聞こえなくなるという特殊な状況に
   置かれたことには何かしらの意味があると思いたい。

●堀文子(93歳の日本画家)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   絵は他の人から学ぶことはできない。
   ただ、自分のだらしなさが直に現れます。

      ですから自分がいつも未知の谷に飛び込むこと。
      不安の中に身を投げていなければダメだと思っております。
      いつも不安の中に身を置いて、
      昨日をぶち壊していくということです。

被災者の自殺…孤立防ぐ対策を

土曜日, 12月 3rd, 2011

住職、作家・玄侑宗久さんインタビュー全文(上)

 東京電力福島第一原発の事故はいつ収束し、いつふるさとに戻れるのか。先の見えないストレスを抱える福島の被災者の心境を、福聚(ふくじゅう)寺(福島県三春町)住職で芥川賞作家の玄侑宗久さんに聞きました。(佐藤光展)

 ――東日本大震災を境に、福島の人たちはどう変わりましたか。

画像の拡大

 「深刻な心の分裂が起こっています。例えば、飯舘村は津波や地震でやられたわけじゃない。高い放射線量のために、住民は避難したのです。だから今も『除染後、必ず村に帰る』という思いが強い」

 「しかし、心の中では『戻れないかもしれない』とも感じている。そのため誰かが、『戻れるはずはない』と言うと過剰に反発します。心に封じ込めた不安を口にする人が許せないんですね。だからこそ国は、土壌が汚染されたすべての町の徹底的な除染と共に、戻れなかった時のための代替地を早急に確保しなければいけない。分裂した心には、両方が同時に必要なのです」

 ――震災の影響で、檀家(だんか)からも自殺者が出たと聞きました。どのような原因ですか。

 「ある男性は、福島県内のタバコの作付け中止が発表された翌日に、命を絶ちました。うつ病を患い、長く働けなかったのですが、親戚のタバコの作付けだけは手伝っていた。それが奪われてしまったのです。自分の家のお墓が地震で壊滅的に壊れたことにショックを受け、自殺した若い女性もいます」

 ――周囲から見れば、それほど深刻に思えないことでも、自殺の引き金になるのでしょうか。

 「自殺は竜巻のようなものだと思います。竜巻を人工的に起こす装置を見たことがあるのですが、四方向から風を送って発生させていました。自殺も最低、四つくらいの原因が絡んで起こるのではないでしょうか。亡くなった二人は、持病や震災の影響などで、既に三つの深刻な原因を抱えていたのだと思います。追い込まれている被災者はほかにも多く、仮設住宅での生活が四つ目の原因とならないように、孤立を防ぐ対策など十分な支援が必要です」

2011年12月1日 読売新聞)

玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)
 1956年、福島県生まれ。慶応大学中国文学科卒。様々な職業を経て京都天龍寺専門道場に入門。現在は福島県三春町の福聚寺住職。2001年、「中陰の花」で芥川賞を受賞。東日本大震災復興構想会議のメンバー。