まほろばblog

Archive for 7月 27th, 2013

重ね煮レシピと極意

土曜日, 7月 27th, 2013

kasaneni

黄金の龍展

土曜日, 7月 27th, 2013

黄金龍 2 黄金龍1

「北方領土」昆布を!

土曜日, 7月 27th, 2013

kaigara_konbu2

覚えていらっしゃいますか。

活〆鮮魚を扱い始めた頃、その船主の歯舞まで取材に駆けつけたことを。

その「誠良丸」の吉田さんのお兄さんが、あの有名な「棹前昆布」を送ってくださいました。

2008-01-11 最涯の海から

http://www.mahoroba-jp.net/about_mahoroba/tayori/oriorino/oriorino13.htm

 

oriori2008-1_r29_c02[1]

 

その昆布のいわれを少し解説しますね。

 

歯舞 貝殻島(北方領土)産 

  早煮 棹前昆布

 

● 歯舞の海の目の前は北方領土である。

成昆布が解禁される(棹入れ)前の6月頃採取されるナガ昆布を棹前と呼び、

葉が薄く柔らかい。

その灯台の立つ貝殻島での棹前昆布漁は、北海道水産会と

ロシア連邦漁業委員会との間に民間協定を結び、

入魚料を支払っての厳しい採取でもあります。

毎年6月のわずかな期間にしか採取されず、

また一般市場には出回らない大変貴重な昆布です。

oriori2008-3_r15_c01[1]

● 沖縄では、江戸時代からの昆布ロード中継地の影響で、

昆布消費量は日本一です。

そして、そのほとんどは、この成熟前の貝殻島産・棹前昆布が使用されております。

水だけでも簡単に柔らかくなり、味わいは日本一との評判です。

oriori2008-1_r14_c10[1]

● 今年は、例年になく流氷が長く居座り、

しかも6月1日の初出漁日に雪が降るなど寒気が続きました。

昆布の成長が思わしくなく、来年度以降のために、

年15回出漁の所、1回で漁を打ち切った大不漁の年でした。

 

oriori2008-1_r22_c03[1]

《料理法》

水洗い後、料理に応じ、昆布を切り、約15分程度水炊きした後、
お好みに合わせ味付けして、お召し上がりください。

昆布巻き、結び昆布、おでん、煮しめ、佃煮、

湯豆腐、野菜の煮合わせ、味噌汁の具など。

 

kaigara_konbu

 特別価格1パック ¥980

大間の鮪、買い取りました!

土曜日, 7月 27th, 2013

SONY DSC

今朝、大間の本マグロ110kgを買い取りました。

道内物が少しづつ出回り始めていますが、まだまだ高嶺の花。

境港の本マとインドネシアのバチが競られる中、最後に2本の大間の本マグロ。

このような大物は、ほとんどが大手に引き取られ、小売は入手できません。

 

SONY DSC

 

すし処サッポロさんは、年末数百kgの本マグロを300万円以上で買い取るそうです。

そうなると、売値は¥5000/g前後のとても庶民の手に届かないところにあります。

しかし、今回驚くほど安値で仕入れることが出来たのです。

セリで値が入った時、誰も手を挙げなかったので、

衝動的に名乗りを上げました。

こんな博打的な買いに走ったのは初めてでした、何せ110kgの大物なので。

 

2013072706120000.jpg

 

今すぐ食べても、味が乗っていません。

3,4日置くと、じわーと旨味が滲んできます。

丁度、来週の売り出しの頃が、買い頃、食べ頃です。

特売のメイン商品になります。

2013072706090000.jpg

津軽海峡の一本釣りの醍醐味!

是非とも、ご家族でご賞味あれ!!

SONY DSC

(奮闘する竹市さん。出刃で、何とか解体、スゴ技です!)

 

 

 

 

 

銭湯画に富士のお山

土曜日, 7月 27th, 2013

風呂富士山

 

まほろば本店の近くに「笑福の湯」という老舗の銭湯がある。

私は、体がこわばると、直行して心身ともにほぐす、・・・・

いわば、かかりつけの医者ならぬ、かかり湯の湯治場なのだ。

何せ、43度以上もある湯が中心にデンと構えてあり、

ものの何秒も耐えられるか、すぐ降参して飛び上がる御仁が多い。

そこで、水を足すやからがいると、

すかさず「バカヤロー!水を入れる奴がいるか!!」との怒声が飛び交う。

途端に、威勢のいい喧嘩がはじまるのだ。

と言っても、そんな修羅場は、そうあるものでないが、とにかく皆日参するファンが多い。

ボーリングして当てた鉱泉水が、これまた冷たい上に冷たい。

サウナの後の、この冷水浴がなんともたまらないのだ。

今どきの、あちこちに乱立するビッグな大衆浴場大繁盛の中で、

こじんまりとした昔風のここに戻ってくる人が多い。

 

熱源に廃材を使っていることも、人気の的になっているのかもしれない。

年中、材木をきらさないのだから、いかに建て替える家が多いことか。

これもリサイクルのエコ精神で、廃棄料がかかる土建やさんは大助かりだと言う。

熱にも、ガスや重油にない本物さを感じるのか、湯のぬくもりが全く違うのだ。

熱さと冷たさが同居するこの銭湯は、

小さくとも、多くの人の心をしっかと掴んで離さない。

 

中島画家 1

この3月の雪の夜、例の如く風呂に入り、サウナで座っていると、

見知らぬ隣の旦那と、モソモソと話し始めた。

実はその日、入ってビックリしたのだが、風呂場に富士山の絵が描かれてあった。

いかにも、昔の風呂やさんに、舞い戻った感じなのだ。

何と、そのおやじさんこそ、昨日から一日で男女の風呂場に見事に絵を書き上げた絵師だったのだ。

聞くところによると、日本に2人の風呂絵師しかいなくなったと言うことだ。

そこで、「どこにお住まいで」と聞くと、

「東武練馬の自衛隊の近くだ」と、のたまわれる。

「えっ、私、若い頃、その辺に住んでいました」とばかり、急に心が接近しだした。

「ところで、男湯のこの富士山、どこから描いたのですか」と訊ねると、

「あぁ、そこは富士吉田の手前、登山口から描いたんだ」。

「えぇ、うちのじいさんが生まれたところですよ」。

と、たわいのない話の中にも、因縁を感じて、

こうして居るのも、何か眼に見えない糸で繋がっているんだなーと感心してしまった。

 

nakajima kiji2

 

それから、しばらくして、地方紙にその画が話題になり、

ある茶道の先生から戴いた「なごみ」という雑誌に6pにわたって、

あの時の絵師さんが載っていて、びっくり。

中島盛夫さんという有名な画家で、全国をかけづり回っているとか。

その数ヶ月後に、富士山が「世界文化遺産」に認定され、その前触れだったのか。

確かに、富士山の絵をを眺めて、いい気持ちになって、

一日の疲れを癒している今日この頃の私であります。

 

中島画家 3

 

大貫さんのコラム

土曜日, 7月 27th, 2013

大貫さんのコラム。

札幌のあれこれを綴られていました。

大貫妙子さん 1

大貫妙子 2

 

草むしり・芝刈り応援隊、登場!!

土曜日, 7月 27th, 2013

佐々木造園

「母との葛藤」

土曜日, 7月 27th, 2013
 藤原 咲子(高校教師・エッセイスト)
              『致知』2007年2月号
               致知随想より

image12[1]

私は昭和二十年、終戦の一か月前に
満州国新京市(現在の中国長春市)で生まれました。

終戦後、父が捕虜収容所に送られたため、
母は数多くの死体が横たわる中、
一人で幼い二人の兄の手を引き、
生まれたばかりの私をリュックの中に隠して、
命からがら引き揚げ船に乗り込んだといいます。

当然私にその時の記憶があるわけではありませんが、
ほどけかけたリュックの隙間から見えた北極星と、
引き揚げの異様な空気はなぜか鮮明に覚えています。

壮絶な引き揚げで衰弱した母は、帰国後病の床に臥しました。
死病と恐れられた肺結核でしたから、
子どもたちは近寄ることを許されません。

事情のわからない私は、
ただただ母の温かい愛情が欲しくて、
窓越しに母の様子を見ていました。

幼稚園から帰った私に「咲子、おいで」と言って、
木綿の布団をそっと開けてくれる母の姿を
どれだけ夢見たでしょうか。

病との闘いに奇跡的に打ち勝った母は、
やがてその壮絶な引き揚げ体験記
『流れる星は生きている』を書き上げ、
作家藤原ていとして一歩を踏み出しました。

だがそこにいたのは私がずっと待ち続けてきた
温かくて優しい母ではありませんでした。

幼子三人の命を失うことなく
引き揚げという苦境を乗り越え、
成功者として社会から讃えられる母だったのです。

私は兄たちよりずっと厳しく育てられました。

少しでも甘えようものなら

「あんなに苦労して連れて帰ったのに、
  いつまでもわがまま言うんじゃないの」

という言葉が返ってきました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

お母さん、どうしてそんなに怒るの、私が嫌いなの?
引き揚げ時の栄養失調で多少の言葉の遅れがあり、
友達とうまく話すこともできず、
学力でも兄たちに追いつけない私は、
いつの間にかすべてに自信を失っていました。

と同時に、私が生まれたことが母には
不満だったのではないかと、
様々な憶測が頭の中をよぎるようになりました。

子どもの頃の私の楽しみは何よりも読書でした。

図書室や家庭の書棚にあるいろいろな本を引っ張り出しては、
本の世界に浸りました。

しかし、母の『流れる星は生きている』だけは、
どうしても手に取る勇気がありませんでした。
幼い頃、一体何があったのか。
その疑問が解かれるのが恐かったからです。

しかし、中学受験が間近に迫った十二歳の頃、
そのストレスから逃げるように
『流れる星は生きている』を読んでいる自分に気付きました。

そしてその本の中で私のことを描写している
数行を発見したのです。

「咲子が生きていることが、必ずしも幸福とは限らない」

「咲子はまだ生きていた」

ああ、お母さんはやっぱり私を愛していなかった……。
一人の赤ん坊を犠牲にし、
二人の兄を生かそうとしていたのです。

これを読んだ時はしばらく声を失い、
呻き声をあげていました。

たった数行が母の私への不信を生み出し、
それから五十年もの間、母への反抗が続きました。

私は火がついたように母に食ってかかり、
母を責めるようになりました。

母が涙を流し、

「あんたなんか連れてこなきゃよかった」

と言うまで諍いは終わりませんでした。

三年前の平成十五年、私は整理をしていた書庫から
偶然にも『流れる……』の初版本を見つけました。

約五十年ぶりに茶色の木皮の紋様のカバーを開くと、
そこには「咲子へ」という見慣れた母の字体がありました。

「お前はほんとうに赤ちゃんでした。
 早く大きくなってこの本を読んで頂戴、
 ほんとうによく大きくなってくれました。母」

現在と変わらぬ美しい字体で書かれたこの一行は、
強く閉ざした私の心をひと突きにし、
私の中の何かが崩れ落ちるのを感じました。

十二歳の時に目に留まった
「まだ咲子は生きていた」の一文は
母の落胆ではなく、劣悪な状況下で
健気に生きていた私への感動だったのだと
この時ようやく気付いたのです。

母に対する気持ちが和らぎ始めたのはそれからです。

そんな母もいま米寿を迎え、
数年前から認知症に侵されています。
病状が進むにつれて母は穏やかになり、
反発していた私にも優しく接するようになりました。

病が進み始めた頃、伊豆の別荘に母と何度も行きました。
駿河湾と富士山が見渡せる場所に車を停め、
漁船の走る海を母と眺めました。

私は一歩後ろへ下がり、母の病状を観察するかのように

「ほら、イカ釣り漁船が行くねぇ」

と話しかけました。すると母は、

「バカだねぇ、お前は。あれは引き揚げ船だよ」

と力強い眼差しで海を見ているのです。

この時の母の横顔に思わず私は息をのみこんで、
涙を抑えることができませんでした。

たった一人で幼子三人と日本に引き揚げた時の母の孤独感、
人に言えない苦労が刻まれた横顔に強い寂寥感を感じたのです。

その寂寥感は私の中のそれと重なり合い、
気がつくと私は母をこの上なく
いとおしく思うようになっていました。

人が人を許し、人に優しくすることを知った時、
初めて人は心の静まりの中に真実が見えてくる――。

母はそれを身をもって私に伝えてくれた気がします。
認知症は私にじっくり母と向き合うきっかけを
与えてくれました。

私を一人前にするために厳しく育ててくれた母に、
いま心から感謝しています。

image7[1]

(父は作家の新田次郎氏、母が藤原ていさん、
そして兄が「国家の品格」を書かれた藤原正彦氏)