まほろばblog

「人間の脳波を止めてしまう言葉」

9月 18th, 2011

        
       
            植松 努

                                    (植松電機専務)
        
            『致知』2011年9月号
             特集「生気湧出」より
             

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夢というのは自分で大好きなことを
やってみたいという思いでしょうね。
だったらやったらいい。それだけの話です。

大好きなことをしっかり持つには感動が一番です。

「やってみたい」「すごい」という心があれば、
夢はいくらでも見つかると思いますよ。

でも、その時にできない理由を
いくつも思いついてしまうんですね。

そして、そのできない理由すら考えなくなる最悪の言葉が

「どうせ無理」

なんです。
この言葉が人間の脳波を止めてしまう。
思考が止まると楽ですが、それだと何も始まらない。

「どうせ無理」

ではなく

「だったらこうしたらできる」

と頭を切り替えて考え続けることで
道は拓けると思います。

だけどモチベーションはやる気だけで
高まるものではないんですね。
物事に挑戦し、それを諦められない理由が、
僕の場合は火事場の馬鹿力の源になっています。

僕は「どうせ無理」という言葉が大嫌いです。
この言葉が人の可能性を奪い、その連鎖が
正しくて優しくて弱い子供たちに向かうと知っていますからね。

繰り返すようですけど、僕は「どうせ無理」という言葉を
この世からなくしたい一念で宇宙開発をしています。
目の前の壁が大きいほど、その思いは強くなります。

だから、毎日火事場の馬鹿力を
出すことができるんだと思います。

                  * *

開発の世界ではゼロから一を生み出すという
大変厳しい問題に挑戦することもありますね。

これは一を二にしたり三にしたりというのとは
比較にならない難しさです。

その時、従来のやり方を維持しようとしたら
負けが始まるんです。

過去のノウハウばかりでなく
時に自分自身すら否定してしまって
「これでいいのか」と本気で動き出す時に、
ゼロから一が生まれるのだ思います。

いまの日本に必要なのは、
その執念と元気なのではないでしょうか。

 「使命、懸命、宿命」

9月 17th, 2011

本日は、ホスピスケアの第一人者として、
   これまで二千五百名もの患者を看取り、
   生きる意味を追求し続けてこられた
   金城学院大学学長・柏木哲夫氏のお話を
   ご紹介いたします。

 
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            柏木 哲夫  (金城学院大学学長)
        
            『致知』2008年1月号
             特集「健体康心」より
            

                      ※肩書きは掲載当時です。

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 私には自分の人生を動かしていく三つの言葉があります。
 
 
 それは使命、懸命、宿命という言葉です。
 
 
 使命というのは、作家の三浦綾子さんが亡くなる前に
 テレビの取材で言われていて、すごいなと思った言葉なんです。

 三浦さんは、「使命というのは命を使うと書くでしょう」と
 おっしゃるんですね。
 
 
「私は小説を書くことが自分の使命だと思っているので、
 死ぬまで小説を書き続けます。
 
 いま私は体を病んでいますから、
 小説を一冊書いたらクタクタになって、
 ああ、命を使ったなと実感するんです。
 
 けれども、小説を書くということは
 自分にとって命を使うことで、それが使命なので、
 その使命を全うしたいと思います」

 と。この話を伺って、使命というのは
 命を使うということなんだと教えられました。

 それからしばらくして、今度は瀬戸内海のある小さな島で
 診療所をやってこられた老いた医者のことを知りました。
 
 七十五歳ぐらいですがまだお元気で、
 医療に恵まれない島の人たちのために
 自分の一生を捧げようと懸命に働いてこられたそうなんです。
 
 その方のことを知った時、懸命というのは
 命を懸けることなんだな、と思い至りました。

 その方は、自分の医師としての仕事に命を懸けてこられた。
 周りの人は、もういいかげんに都会に戻って
 のんびりしたらどうかと言うけれど、
 自分はここに骨を埋めるつもりです、
 それが私の宿命だと思います、と言われるんです。

 普通、宿命というとなんとなく
 ネガティブな感じがありますけれども、そのお話を聞いて、
 宿命というのは命が宿ることなんだと私は思ったんです。

 命を使い、命を懸けて、その結果
 命が宿るような人生を送る
 そんな生き方ができたらすごいな、と思うんです。

 「小さな街の本屋の生きる道」

9月 16th, 2011

      

             二村 知子

       (隆祥館書店 取締役営業部部長)
             ※肩書きは『致知』掲載当時のものです

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 「お客と会話する書店」として新聞に紹介された我が家の店は、
 大阪の心斎橋から地下鉄で十分ほどの距離にあります。
 父が昭和二十七年に創業した、
 わずか十五坪の家族経営の小さな街の本屋です。

 出版不況に加え、大型書店やネット書店が台頭する中、
 地域の小規模書店には非常に厳しい状況が続いています。

 しかしありがたいことに当店には、
「本は隆祥館で買うと決めているから」と
大型店で見つけた書籍をわざわざ購入しに来てくださる方や、
遠く奈良から足を運んでくださる方などがおられます。

私が書店員になったのは、十六年前のことでした。

シンクロナイズドスイミングの日本代表選手として活動した後、
コーチ業に専念し非常にやりがいを感じていましたが、
経済的な自立は困難でした。
悩んだ末に、家業を継ぐことを決意したのです。

しかし当時の書店経営は曲がり角に来ていました。
コンビニエンスストアで雑誌が購入できる、
ネット書店が広がる、子供たちはゲームに夢中になるなど、
書店を取り巻く環境は厳しさを増す一方。
我が家の売り上げも下がり始めていました。

「両親が一所懸命築いてきた店を守りたい。
 コンビニに負けたくない。
 どうしたらうちで本を買いたいと思ってもらえるのだろう……」

必死に考えた結果、小規模店の利点を生かして
お客様のニーズに応えられるよう、
コミュニケーションを大切にすることにしました。

そのため、本をお求めになった方のお顔と
購入書籍を覚えるように努めました。

そうすることで、
「この前、あの雑誌を買ってくださった方だ」と
気づいた場合にはその最新号をお勧めできます。

また、「この本はあの方が好みそうだ」と思えば
注文がなくとも仕入れ、次回来店時にご紹介できます。

「この間紹介してくれた本、おもしろかったですよ」
と言ってくださる方も増え始め、会話が弾むことで、
お客様との繋がりが強くなっていきました。

時々店の手伝いをしてくれる学生の言葉に、
感動を覚えたこともあります。
無償では申し訳ないのでアルバイトをお願いしたところ、
断られる。

不思議に思うと、

「地方から出てきて、大阪の人はみな冷たいと思っていたけど、
 この本屋で大阪の人の温かさに初めて触れてほっとしました。
 元気になれるから手伝っているだけで、お金なんていらないです」

と言われました。

お客様を大切にしたい一心で、
時には卸問屋である出版取次を通さずに
直接出版社に注文を依頼することもあります。

いまでは小規模店に対しても
取次は柔軟に対応してくれますが、
十年ほど前は厳しい壁があり、
それを思い知らされる出来事がありました。

一大ブームになったあるベストセラーの
追加注文を取次が受けてくれず、
東京本社にお願いしても全く相手にしてもらえない。

当時ベストセラーは大型店に優先的に配本され、
中小の書店は入手困難な状況にありました。
お客様が欲しい本を手に入れられない。
あまりの悔しさに思わず涙がこみ上げてきました。

見かねた父から叱咤激励を受けても、
どう手を打てばよいのか分からない。

ある日、取次主催の講演会があることを知り、
藁にもすがる思いで参加しました。

そこで出版業界専門紙の発行人の話を聴き、
出版社の中には小規模店に対しても
大規模店と同様に対応してくれる人がいることを知ったのです。

なんとかなるかもしれない。
そう思った私は、初対面にもかかわらず
講演者にそのような方の紹介をお願いしました。

一か月後、ある大手出版社の営業部長が手紙をくださり、
その後やり取りを続けました。
その方はご自身の会社だけでなく、
出版業界全体のことを常々考えておられ、
そのためには全国に存在する街の小さな本屋を
守っていかなければならないという強い思いを持っておられました。

私はこんなことをお願いしてよいものだろうかと思い悩んだ末、
その方に直接電話をかけ、ベストセラーの注文を依頼しました。

すると当方の事情を理解し、
一定数を融通してくださったのです。

以来、出版社の営業の方と積極的に人脈をつくるようにし、
直接注文を増やしていきました。
販売実績を地道に積み上げていったことで
取次からの配本も受けやすくなりました。

ある人気雑誌の場合、お客様のために在庫が切れないよう、
売れ残りは買い取る覚悟で出版社に
追加注文をお願いし続けました。

取次からの毎月の仕入れ数も増加し、
数か月後には売り場面積百倍近い大型店を抑え、
関西地区で売り上げトップになったこともあります。

私の好きな言葉に、

“人を動かすのはお金ではなく、そこに傾ける情熱だ”

というものがあります。

「うちの店を選んでくださったお客様に喜んでいただきたい」。

その思いで、手探りながらも必死に取り組んでいるうちに、
手を差し伸べてくださる方が現れました。
お客様に助けていただいたことも数え切れません。

最近は電子書籍も本格的に普及し始め、
いずれ街の本屋はなくなるといわれたこともあります。

内心非常に不安ですが、希望を失ってはいません。
シンクロの選手時代、井村雅代元日本代表監督から、
「絶対に諦めてはいけない」と身に染みるほど
教えていただいたからです。

最近読んだ記事の中に、大規模店しか残らないといわれた
ニューヨークの書店の中で
個性ある街の小規模店にこそ元気がある、
というものがありました。

そういう書店を目指したい――。

お客様との距離が近い特長を生かし、
きょうもお一人おひとりに
本の魅力や読書の素晴らしさをお伝えしていきます。

                『致知』2011年3月号「致知随想」

「危機管理」

9月 16th, 2011

  佐々淳行 

(初代内閣官房内閣安全保障室長)──────────────────────────────────

 (政府は)やはり安全保障会議設置法を早急に適用すべきです。
 これによって各省庁が縦割りでバラバラにやっていた取り組みが
 内閣に集中できるんですよ。

 僕は内閣安全保障室長在任中の一九八六年十一月に起きた
 大島三原山の噴火でこの法律を使ったんです。

 噴火の後、最初は国土庁に十九省庁を集めて
災害対策会議が始まりました。

災害の名称をどうするかとか、
日付を元号にするか西暦にするかとか、
そんな会議を延々とやっているんです。

地元の町に溶岩が迫る様子をNHKが生放送していて、
一万三千人が大爆発で死亡するかもしれないという時にですよ。

そこで僕は内閣官房副長官の藤森昭一さんと一緒に
クーデターを起こしました。

藤森さんが中曾根康弘さんに
「伴走いたしましょう。総理」と進言したんです。
伴走というのは国土庁の災害対策会議とは別に
安全保障会議設置法による安全保障会議を
立ち上げるという意味です。

国土庁ではとても手に負えない事態に備えて、
後藤田正晴官房長官の総指揮で
別の動きを始めることを決めたわけですね。

ところが、後藤田さんは
「安保会議設置法もまだできたばかりで
 難しい局面があるかもしれないけれども、
 佐々君、君やれ」と。

中曾根さんも
「全責任を俺が負うから、おまえ指揮しろ」と言うんですよ。

僕自身には何の権限もありませんが、
総理の命令ということであればやむを得ません。
指揮を執らせていただきました。

すぐに都知事の鈴木俊一さんに
海上自衛隊出動要請を促しました。
さらに島民を避難させるのに必要な
民間のフェリーなども含め約四十隻を編成し、
南極に行く途中の観測船「しらせ」まで
現地に向かわせたんです。

一万二千トンの「しらせ」が救援に来るわけでしょう。
島民は、その姿を見ただけで安心しましてね。

国土庁の災害対策会議が終わった午後十一時四十五分頃、
僕たちはすでに島民に避難指示を出していました。
それで午前四時までには全島民一万人と観光客三千人を
全員船に乗せました。

その頃には東京の公立学校などを確保し
毛布や握り飯の準備が進められていた。
これが危機管理というものです。

       『致知』2011年6月号
        佐々淳行氏と渡部昇一氏の対談記事より

「やんじー基金」ありがとうございます

9月 15th, 2011

(やんじーブログより・・・ アシリレラさん(左)やyae(加藤登紀子さんの娘さんで歌手)さんなどと・・・)

今も、精力的に救援活動されているやんじーグループ。

十勝での種まきやコミューン造りなど、相変わらずの忙しさ。

http://mouth-mountain.greenwebs.net/ (やんじーHP/ブログ)

お蔭様で、みなさまから「やんじー基金」(8/2~9/14)

¥83.454を、送金することが出来ました。

ありがとうございました。この場をかりてお礼申し上げます。

引き続き、ご協力のほど、よろしくお願いいたします。

継続は真心なり。

一過性に終わることなく、末永く運動を続けて参りたいと思います。

「へうげもの」に味噌紹介される

9月 15th, 2011

利休が大成させた茶の道。

これをを継承しつつ大胆かつ自由な気風を好んだ「へうげもの」こそ山城大名、古田織部であった。

その奇想天外な茶器は今も珍重され、製作・建築・造園などにわたって「織部好み」と呼ばれ、

その一大流行を安土桃山時代にもたらした。

その生涯を描いた漫画『へうげもの』。

『へうげみそ』の由来でもあった。

想定外の味噌。

これぞ古田織部も「あっつ!!!」と

驚くべき味噌であったのだ。

詳しくはまほろばHP 「『NEWへうげみそ』完成!!」

をご参読のほどを。

http://www.mahoroba-jp.net/about_mahoroba/tayori/topix/topix201109heuge.html

『へうげもの』作者・山田芳裕氏より・・・・・

http://www.facebook.com/photo.php?fbid=268109116547163&set=pu.214712495220159&type=1#!/photo.php?fbid=268109119880496&set=pu.214712495220159&type=1&pid=945116&id=214712495220159

札幌市の自然食品の店〈まほろば〉の宮下社長が、究極の新製品をお送りくださいました。

『へうげもの』にインスパイアされたとのこと。

けっこうカラダに気をつかう山田芳裕、大感激です。

ネーミング中の「NEW」がサイコーとのこと。

味噌としてはかなり高価ですが、それだけ渾身の逸品と見た。

興味のある方はお求めください

http://www.facebook.com/photo.php?fbid=268109116547163&set=pu.214712495220159&type=1#!/photo.php?fbid=268109116547163&set=pu.214712495220159&type=1&pid=945115&id=214712495220159

★☆ 『一流たちの金言』の金言 ☆★

9月 15th, 2011

  

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●松下幸之助(パナソニック創業者)
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   商売というのは、不景気でもよし、
   好景気であれば、なおよしと考えなければいけない。
   商売上手な人は、不景気に際して
   かえって進展の基礎を固めるものだ。

●城山三郎(作家)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   普通にやるんじゃない。大いにやるのでもない。
   とことん徹底して、事が成るまでやめない。
   そういう「魔」としか言いようのない情熱、狂気。

   根本にそれがあるかないかが、
   創業者たり得るか否かの分水嶺でしょう。

●永守重信(日本電産社長)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    物事を実現するか否かは、
    まずそれをやろうとした人が
    “出来る”と信じることから始まる。
 
    自ら“出来る”と信じたときに
    その仕事の半分は完了している。

●塚越寛(伊那食品工業社長)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  私が思うに、積極的な生き方をする人が運をつかむ。
  信州言葉で「ずくのある生き方」ということになるかな。

  積極的な生き方とは、進んで汚れ役だとか、
  苦労だとかをかって出る人、
  急がば回れという生きざまを持つ人に運がついてくる。

●桜井章一(雀鬼)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  私はね、人間というのは「準備、実行、後始末」が
  大事だと言っているんです。

  物事を行うということは、
  すべて「準備、実行、後始末」なんです。
  ところが、後始末をできる大人が、いまは皆無ですね。

●藤居寛(帝国ホテル顧問)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   信用、すなわちブランドを構築するには10年かかる。 
  しかし、そのブランドを失うのはたった10秒なのです。

  そして失った信用、ブランドを盛り返すには
  また10年かかるということです。
  長い時間をかけてつくり上げたブランドも、
  たった10秒で崩れます。

  帝国ホテルではこれを
  「10・10・10(テン・テン・テン)の法則」と
  言っています。

●今野華都子(タラサ志摩スパ&リゾート社長)
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  自分を育てるための三つのアプローチ――。

  まずは笑顔、
  次に「ハイ」と肯定的な返事ができること、
  人の話を頷きながら聞くということ。

  最低限この三つができているかどうかで
  人生が大きく違ってきます。

●貴城けい(女優)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  《ブスの25箇条》
  
  ・笑顔がない
  ・お礼を言わない
  ・おいしいと言わない
  ・目が輝いていない
  ・精気がない
  ・いつも口がへの字の形をしている
   (以下略)

「百里への道の半分は九十九里」

9月 15th, 2011

       
       
            小田豊四郎(六花亭製菓代表取締役)
        
            『致知』1993年1月号
             特集「奇蹟」より
            

                    ※肩書きは掲載当時です。

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【記者:最も厳しかった時期はいつごろでしょうか?】

やはり、(母の弟から)事業を引き受けた当時が
一番厳しかったですね。
二十一から二十三歳までの三年間です。
寝る間も惜しんで働きました。

そのときに私を支えてくれたのは、
札幌の千秋庵のご主人からいわれた二つの言葉でした。

一つは

「ともかく一所懸命に働け」、

もう一つは

「どんなに高くてもいいから一番いい原料を使って、
 だれにも負けない一番おいしいお菓子を作れ。
 百しか売れないときには利益がなくても、
 五百売れるようになると必ず利益が出るようになる」と。

この二つの言葉を、いまも経営の基本方針にしております。

困ると、「札幌のご主人からこんなことをいわれたな。よし
もう一遍頑張ろうか」ということで、非常に頼りになりました。

【記者:最初の三年間を乗り越えたきっかけのようなものは
    ありましたか?】

はい。三年間、母と二人で毎月、支払いに追われ、
売り上げは伸びずで、

「豊四郎、なかなか儲からんから駄目だろうか」

と母がいえば、私が

「せっかくここまで頑張ったんだから、もう少しやってみよう」

といい、私が

「おっかさん、やめようか」

といえば、母が

「いやいや、このお正月、クリスマスから
 年の暮れをやってみたら何とかなるかもしれない」
 
 
という具合に、お互いに積んだり崩したりしながら
やっとやっていましたんですがね、
昭和十四年の夏に、お金にいよいよ詰まってしまいました。

そして二人でようやくやめる話がついたんです。

それが八月のことで、九月に札幌の原料屋さんが来まして、
私の顔を見るなり

「おっ、おまえは金が欲しいな」というのです。
「わかりますか」といいましたら
「う一ん、おまえの顔に書いてある」というのですね(笑)。

そして「いくら欲しいんだ」というので

「五百円あったら当座の借金は返せる」

と話したら、

「五百円貸してやるから、
 これを借金を払うのに使っては駄目だよ。
 これで砂糖を買ってこい」

というのです。

それで砂糖屋さんに買いにいきました。
大きな馬車に二台分はありましたね。
そうしましたら、その年の十一月に
物価統制令が施行になりましてね。
それで砂糖が配給になったんです。

本当に間一髪でした。
それまではお菓子を買ってくださいといって売りにいったものが、
砂糖が配給になりますと、お菓子も配給になる。

配給になると、もらっておかないと損ということになり、
皆さん配給券を持って買いにこられる。
つい先だってまでは作っても売れずに処分していたのが、
全部売り切れになる。

戦争のおかげというととんでもないのですが、
僕の場合は本当に戦争のおかげで危機一髪のところを
何とか乗り越えたのです。

いま、社内の者にもよく話をするのですが、
やっぱり最後まであきらめないで、
本当に最後の力を振り絞ってやってこそ、
人生の味のようなものがあるような気がします。

百里への道の半分は五十里ではなくて、
九十九里が半分ですね。

実にタイミングよく恩人ともいうべき人が現れ、
まさに奇蹟のようなものですが、
それも、その前の三年間のどん底の経営、
いわば九十九里の努力の下地があったからこそだと思っています。

『宮下文書』が「ムー」に

9月 14th, 2011

4,50年もの長い間、刊行し続けている学研の『ムー』。

その10月号に「宮下文書」が大きく取り上げられ、

25頁にわたって掲載されている。

記者の方に、本家との仲介をして、晴れて記事となった。

ご興味のある方は、ご一読のほどを。

畠山さん、北の海へと

9月 14th, 2011

http://www.mahoroba-jp.net/about_mahoroba/tayori/topix/topix201109funbe.html

「まほろばたより 9月号」に、島田編集長が記した

『フンベの伝言』の伝承者・畠山さんが、

シンクロしたかのように、道新に掲載された。

その悲しみの山海を越えて、

再びと海に生きるアイヌ漁師の真精神に学びたい。

(記事をクリックすると拡大します)