まほろばblog

『安岡正篤 活学百言』から

10月 28th, 2011

    
「どんなに仕事ができても、手柄があっても、それ故に地位を与え、
 禄を与えて人を支配させてはいけない人がある。
 又これといって仕事のできないでも、その地位にその人を据えておれば、
 自然に治まる人がある。
 これを使い分けることが東洋政治哲学の人事行政の根本問題である。
 これが賞禄有功(しょうろくゆうこう)である」

「人間の言葉で案外確かなものは酔中の言だといわれる。
 酔えば理性が麻痺(まひ)するために本当のことをいう。
 しかしそれでは余りに真実で生々しいから、
 約束で酔中の言はとりあげぬことにした。
 古人の粋(いき)なはからいではあるが、
 この酔態の中によくその人物を観ることができるものだ」

「賞禄有効」や「酔中の言」――。
これら日常の行動指針となる100の言葉が収められています。

また、

「『一燈照隅』とは、おのおのが、それぞれ一燈となって、
 一隅を照らす、則ち自分が存在するその片隅を照らすこと。
 (中略)
 聞くだけなら愉快だが、つまらない人間も
 「世界のため、人類のため」などと言います。
 あれは寝言と変わらない。寝言よりももっと悪い。
 なにも内容がない。
 自分自身のためにも、なんて大口きけるか。
 それよりも自分がおるその場を照らす。
 これは絶対に必要なことで、またできることだ。
 真実なことだ。片隅を照らす!
 この一燈が万燈になると、「万燈遍照」になる」
 

といった大局的な物の見方・考え方も説かれ、奥深い内容となっています。

    *     * 

編著者である安岡正泰氏は安岡師のご子息です。
本書では、ご家族だからこそ語れる貴重なエピソードとして
安岡師が戦犯に指名されかかった時の
家庭での鬼気迫る様子も「序」で描かれます。

選び抜かれた100の言葉をコンパクトにまとめた本書は
身近に置いておける座右の書、心の糧の書として、おすすめです。

 「先人たちの筆相が物語るもの」

10月 28th, 2011

        
       
  森岡 恒舟 (筆相研究の第一人者)
        
   『致知』2011年9月号
      ※肩書きは掲載当時です。

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その人の深層心理は、その人の書く字に表れ、
その人の字を見れば、その人の深層心理が分かります。
そして、その人の字を書く時の習慣、
つまり深層心理の習慣は、他の行動にも顔をのぞかせるのです。

       (中略)

源義経の字を見てみると、非常に個性的で、
まず左払いが大変長く突出しています。
http://ameblo.jp/otegami-fan/day-20110812.html

普通であれば深層心理が働いて一定の長さで
ストップさせるところを、
さらに突き抜けて伸ばすというのは、
人並みを超えて目立つわけですが、それで平気だということ、
目立つことが好きだということです。

実際に義経は、五条大橋で弁慶と大立ち回りをやったり、
鵯越の逆落としをやったり、
ことごとく世間の耳目を集める派手な行動をとっています。

深層心理としてそういうことを躊躇せず
やっていける人だったのです。

ただその一方で、義経の字はいずれも
右側へ転びそうなものが多いことも注目に値します。

こういう字を平気で書くところに、
あまり安定した状態を好まない深層心理が表れています。
むしろ転びそうな不安定な状態を自ら求めていたり、
転びそうになってもスイスイ乗り切って
そのことに気持ちよさを感じたりする傾向が見て取れます。

それが人間関係にも影響し、
頼朝との関係に破綻をきたしたとも考えられるのです。

        * *

突出するという点では、明智光秀の縦線下部の
引き延ばし具合も尋常ではなく、
これほど長い書き方は歴史上でも希です。

彼がもし枠の中に収まる程度の文字しか書かない人物であれば、
本能寺の変などという大それた事件は起こさなかったでしょう。
信長の逆鱗に触れてもひたすら謝り、
左遷先で堪え忍んで一生を終えたと思うのです。

        * *

吉田松陰の筆跡には非常に行動力が感じられます。
そして右上がりの度合いが強いところから、
保守的で柔軟性に欠けるところがあり、妥協を嫌います。
http://ameblo.jp/otegami-fan/day-20110812.html
(※2つ目の画像をご覧ください)

そうした深層心理が、黒船に乗り込もうというような思い切った行動や、
己の信念を貫き、最後は斬首されるという結末を暗示しています。
かつて学生運動が盛んな頃、大学の構内に掲示されていた看板に、
松陰に似た筆跡がよく見受けられたものです。

        * *

東郷平八郎の筆跡は、偏と旁がグッと密着しています。
これは包容力があって多くの人を束ねるトップリーダーというより、
人の意見に左右されず、自分の信念を貫くタイプです。
http://ameblo.jp/otegami-fan/day-20110812.html
(※3つ目の画像をご覧ください)

中国では偏と旁の間を気宇、心の広さを表す空間と捉え、
なるべく間隔を広くとって書くのがよいとされています。

一方で技術者は偏と旁の間を狭く書く傾向があります。
寿司職人などは客の言いなりになっていたのでは
うまい寿司は握れません。

「俺の握りが嫌なら、よそへ行ってくれ」とばかりに
自分のやり方にこだわり、それを通すタイプは
偏と旁の間は広く書けないのです。

東郷の筆跡にもそういうところが見て取れ、
実際、寡黙でいろんな意見を取り入れてという
タイプではなかったようです。

彼がもし偏と旁の間を広く書くような人であったら、
バルチック艦隊が近づいているという情報が入ったら、
心の中にはこうすべきだ、ああすべきだと、
いろんな人の意見が入り込んで千々に乱れていたでしょう。

東郷はやはり周りの雑音を受け付けず、
こうだと決めたことを徹底する前線指揮官のタイプであり、
だからこそ最強のバルチック艦隊を撃破し、
日本を勝利へ導くことができたのだと思います。

        * *

最後に、経営者を一人だけ見てみましょう。

「経営の神様」と謳われ、経営者に限らず
様々な人にいまもなお多大な影響を与え続ける松下幸之助。
その筆跡は、小ぢんまりとまとめずにグッと大きく広げて書くのが特徴で、
心の内からほとばしり出るものが伝わってきます。
http://ameblo.jp/otegami-fan/day-20110812.html
(※4つ目の画像をご覧ください)

これは豊臣秀吉の書き方によく似ており
私は太閤相と呼んでいます。

また「助」という字の最終画が点になっていることから、
普通の人が考えつかないことを考え出す
アイデアマンであったことが窺えます。

さらに、縦線の上部への突き出しはそれほど際立っておらず、
包容力豊かなリーダーというより信念を持った技術者タイプです。

実際、細かいことに非常に厳しい人だったという話も聞いていますが、
それでも多くの人がついていったのは、
やはり太閤相にも表れているような人間的魅力があったからでしょう。

……………………………………………………………………
筆相を変えることによって、自分自身の運命をも
高めていくことができると言われる森岡氏。

『致知』9月号では、そのほか、聖徳太子や西郷隆盛、
大久保利通などの筆相についても解説いただきました。
ぜひご一読ください。

「プアなイノベーションより、優れたイミテーションを」

10月 27th, 2011

       
       
    佐々木 常夫

                  (東レ経営研究所特別顧問)
        
   『致知』2011年11月号
 連載「20代をどう生きるか」より
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二十代という年代は知識も知恵も不足しているため、
いろいろな回り道をし、時間をロスしてしまいがちです。

ただ、私のように失敗を重ねてきた人間は、
次は失敗をしないようにと心掛けるため、
三十代に入るとそれほど失敗をしなくなります。

そして管理職になって人を使うようになると、
そこで人間は飛躍的に成長していくものだと感じています。

自分自身を振り返って最も成長したと思われるのは
三十代後半から四十代にかけてでしたが、
本当は二十代の時にもっと伸びなければいけないと考えています。

そしてそのためには二十代の時に
どんな人が周りにいたかが重要になってくる。

しかし会社の中では皆、自分自身の仕事に追われているため、
メンターとなってくれるような人はほとんどいません。

従ってその年代には、この人ならと思える人を自ら探しに行き、
私を指導してくださいとお願いをすればよいでしょう。

当時の私が行わなかったのはその点で、
せっかく優秀な人がたくさん周りにいたのだから、
その人たちに教えを請うようにしていれば、
もう少しよい二十代が過ごせたのではないかと反省しています。

また、仕事を早く覚えるための秘訣は、
優れた人のやり方を真似るということです。

尊敬する上司が朝何時に出社するのか、
お客様とどう接しているのか、
どんな電話のかけ方をしているのか、等々。

私はよく

「プアなイノベーションより、優れたイミテーションを」

と述べていますが、一般的な会社の仕事で、
創造性を求められる仕事はほとんどありません。
従って、優れた仕事をしている上司や先輩のやり方を
注意深く観察し、どんどん真似ていけばよいのです。
http://www.chichi.co.jp/monthly/201111_pickup.html#pick6

金兵直幸 作品展

10月 26th, 2011

この度、斜里の山奥から南幌に居を移して、

新しい創作活動を始められた金兵ご夫妻。

奥様は、フランス修行パテシエの転向、和菓子職人。

その羊羹は、絶品中の絶品!

そしてご主人は、寡黙で誠実なお人柄の直幸さん、工芸家です。

11月初めに、札幌で作品展が2週間ほど、開かれます。

どうぞ、お誘い合わせの上、新境地をご堪能下さい。

 「四運を一景に競う」

10月 26th, 2011

  瀬戸内寂聴さんも、青山俊董尼の著書

        【悲しみはあした花咲く】(光文社版)に

       次の様な推薦文をしたためておられます。

『青山俊董尼は、私の一番尊敬している尼僧さまです。きびしい修行をされ、若い尼僧さんたちを導かれています。この法話は若い人たちの迷いや悩みに答え、やさしい言葉で語られています。きっとあなたを救ってくれるでしょう』

     
       
            青山 俊董 (曹洞宗尼僧)
        
            『致知』2004年9月号
             特集「恕」より
            

                                        ※肩書きは掲載当時です。

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(人生で一番大事だと思うことを
 一つだけ挙げてほしいとお弟子さんに聞かれたら、
 何とお答えになりますか?)

「慈悲」や「恕」以外でなら、
私がよく好んでサインするのは、

「投げられた ところで起きる 小法師(こぼうし)かな」

です。起き上がり小法師、つまり達磨さんが
ボーンと投げられたそこがいかなる場所であろうとも、
正念場として起き上がる。

腰を据えてまっすぐ正面を見据える、という意味です。

われわれはだいたい人生がうまくいかないとぐずったり、
うまくいくとのぼせ上がったりして、年中姿勢が崩れます。

しかし、いかなる場所でもぐずらない、
追ったり逃げたりしない、のぼせ上がらない、ダウンしない。
どういう状態であっても、しゃきっと姿勢を正せ という意味です。

        * *

同じような意味で、

「四運(しうん)を一景(いっけい)に競う」

という道元禅師の言葉もあります。

四運というのは、季節で言ったら春夏秋冬
人生で言ったら生老病死

人生はいろいろ移り変わっていきます。

愛する日もあれば、憎しみに変わる日もある。
成功する日もあるし、失敗する日もある。
寒風吹きすさぶような中で
じっとしていなければならない日もある。

その時、多くが一喜一憂して、
追ったり逃げたりするわけです。

しかし一景というのは
「同じ姿勢」という意味で、
生も死も健康も病気も愛も憎しみも成功も失敗も、
全部同じ姿勢で受け止めよ ということですね。

だいたい、人生の移り変わりなんて
一目では見えませんからね。
愛する日は憎む日がくるとは思えない。
健康な日は病気で苦しむ日がくるとは思えませんでしょ。

いかなることが起こっても、そこで姿勢を正す。
人生なんていろいろあったほうが豊かでいいんです

人生の調度品を揃えるような気で
楽しませてもらいましょう と思っています。

心に響く言葉

10月 25th, 2011

● 白鵬 翔 (第69代横綱)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   

   相撲が終わってしまえば日本が終わる。
   そういう強い気持ちが、私にはあるんです。

 
  
  
● ヴィクトール・E・フランクル (精神科医)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   

   人間誰しもアウシュビッツ(苦悩)を持っている。
    しかしあなたが人生に絶望しても、
      人生はあなたに絶望していない。
      
     あなたを待っている誰かや何かがある限り、
     あなたは生き延びることができるし、自己実現できる

● 土田 和歌子 (車椅子マラソン選手)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   

   生きていると誰だっていろんなことがあります。
   その時、ドッと落ち込んだとしても、
   どん底はいつまでも続かない。
   
   むしろその時が人生を開花させるチャンスなんです。

   

● 昇地 三郎 (105歳 しいのみ学園理事長・園長)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   

  私は自分との決め事で、

  「愚痴を言わない」
  「悲しさ、苦しさを踏みつけ、
   明るい太陽を目指して生きていく」

   の二つをどんな時も守り通すようにしてきました。

● 蔡 雪泥 (功文文教機構総裁/台湾で公文式をスタート)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   

   人生で大切なことは、
   いつでも楽しい顔をしていることです。
      顔に唾をかけられたら、かけ返してはいけない。
      拭ってもいけません。乾くまでじっと待つのです。

   そういう人が、最後には人生の勝利者となると思います。

「受け継ぐ中国料理の伝統」

10月 24th, 2011

       
       
       
            佐藤 孟江

        (さとう・はつえ=正宗魯采傅人特級大師)

        
          『致知』2006年5月号より

……………………………………………………………………

 済南をご存じでしょうか。
 北京の南三百五十キロ、黄河のほとりにある中国山東省の省都で、
 戦前は上海のように開かれた国際都市でした。
 
 私はそこで生まれ、育ちました。
 両親は宮城県仙台の出身ですが、
 済南に渡り会社を営んでいたのです。

 子どもの頃の楽しみは屋台や露店めぐりでした。
 めぐり歩くだけでなく、焼餅や饅頭を買って
 口をもぐもぐさせるのです。

 家は人の出入りが多く、父はコックを雇っていました。
 どんなふうに料理するのか、その仕事ぶりに私は興味津々でした。
 中国では「ニンチーフワンチーラマ」(ご飯を食べましたか)が
 「ニンハオ」と同じような挨拶の言葉になります。
 
 中国人は食を大事に楽しむ国民なのです。
 いつか私も同じ感覚を身につけたようです。

 ところが私が十二歳になった昭和十二年、
 日中戦争が始まりました。
 
 済南では日本人も中国人も分け隔てなく平和に暮らしていて
 戦争など思ってもみないことでしたから、
 知人や使用人の中国人と思わず顔を見合わせてしまいました。
 
 それでも日本人は帰国することになり、
 私たち一家は両親の郷里の仙台に戻りました。
 
 しかし、済南に危険がないと分かると、
 ほどなく両親は中国に帰りました。

 ただし、私だけは残されました。
 やはり教育は日本でと考えたのでしょう。
 仙台第二高女に入学し、寄宿舎生活をすることになったのです。
 
 しかし、私は耐えられませんでした。
 原因は食事です。
 
 寄宿舎のそれが口に合わず、
 済南の食べ物が恋しくてならないのです。
 一年我慢しましたが、どうにもたまらずに、私も中国に戻りました。
 
 済南には日本軍が進駐していて、
 以前よりは緊張感がありましたが、
 日常生活にさほどの変化はありませんでした。
 
 よくは分かりませんが、中国人社会に顔の広い父は
 日本軍と蒋介石の国府軍と毛沢東の共産党軍の間を取り持って、
 戦闘が起こらないように努めていたようです。

 そんな中で、私は済南の女学校から
 女子師範学校に進みました。
 
 もっとも勉強はそっちのけで、関心があるのは
 もっぱら料理。中国人家庭の台所をのぞいたり、
 屋台で出合った内臓料理に夢中になったり。
 そんなことばかりしていました。

 それが分かった時、父は激怒しました。
 
 しかし、父も変わっていたと思います。
 私の料理への関心が分かると、
 済南で一番大きい泰豊楼に連れて行き、
 知り合いのオーナーに私を厨房で使ってくれるように頼んだのです。
 
 頼みは受け入れられました。

 もっとも、女は厨房に入れないという掟のようなものがあり、
 最初、老板(厨房の親方)の態度は冷たいものでした。
 
 でも、どんな下働きでも私には楽しくてなりません。
 そんな私の様子に、これは本気だと老板も認めたのでしょう。
 厳しく鍛えてくれるようになりました。
 私は十七歳でした。

 それからの私は修業ひと筋でしたが、
 生活面ではいろいろなことがありました。
 
 私は父の厳命で、茨城出身の将校と結婚しました。
 もっとも新婚生活は二か月ほどで、
 彼は戦場に行ってしまいましたが。
 また父がにわかに健康を損ね、亡くなってしまいました。
 そして終戦です。

 日本に帰らなければなりません。
 それを知った老板は、できるだけ引き揚げを延ばすように言い、
 山東料理の真髄である魯采(ろさい)を私に叩き込みました。
 それは怖いほどでした。
 
 私が作った料理を試食した老板が、
 「確かな舌を持っているね」とうなずいてくれた時の嬉しさは、
 いまでも忘れられません。
 
 日本の土を踏んだのは昭和二十三年四月でした。
 結婚生活は破綻しました。
 
 彼は戦場で手を血で汚すようなことがあり、
 心に傷を負っていたのです。人格が一変していました。

 私は上京し、いくつかの仕事を経て、
 昭和四十四年、高田馬場に小さな店を出しました。
 
 その時、「きみには料理がある」と
 力づけてくれたのがいまの夫です。
 
 夫はそれまで勤めていた都庁を辞め、
 私のもとで一から魯采の修業を始めたのです。
 
 真の山東料理は砂糖もラードも、
 もちろん化学調味料も使いません。
 味付けは塩と天然の香辛料だけ。
 だからこそ食材の美味が最大限に引き出され、
 身体にいい料理になるのです。

 その後、店は新宿二丁目、赤坂と移りました。
 美味しさが評判になり、有名な方々も
 顧客になってくださって繁盛しました。
 
 店を大きくしたらとかチェーン展開をしたらとか
 勧められたりもしました。
 しかし、そのつもりはありません。
 老板に叩き込まれた味を守っていくのが使命と考えているからです。

 私が済南に里帰りするような感じで初めて旅行したのは、
 昭和五十六年でした。
 
 国共内戦と文化大革命の影響は大きく、
 何よりも驚いたのは、老板に教わった山東料理が
 砂糖もラードも使うというふうで、
 すっかり失われていたことです。
 その老板にはどうしても会いたかったのですが、
 行方知れずでした。

 私と夫が山東料理の真髄を伝えていることを知り、
 中国山東省政府は魯采特級大師を公認、
 正宗魯采傅人の称号を贈ってくれました。

 私はいま、四谷で予約客だけをとる小さな店を出し、
 また料理教室で教えています。
 あの老板に叩き込まれた山東料理の魯采を日本で守り、
 ふたたび中国に蘇らせる。
 
 そうなったら、行方知れずの老板も
 どんなに喜んでくれるでしょう。
 そんなことを夢見ているのです。

プロに学ぼう!エゾシカ肉親子料理教室

10月 23rd, 2011

エゾシカ料理教室開催しています。
直近が11月6日 他にもありますので是非ご参加ください。無料です。
詳細は下記に掲載しています。
http://www.yezodeer.com/shikanohi/class.html

プロに学ぼう!エゾシカ肉親子料理教室
 <エゾシカをもっとおいしく、身近に>
自然に育まれたエゾシカ肉は、北海道が自慢できるヘルシー食材。
親子で作れるかんたんレシピで、癖のないおいしさを無料体験してみませんか?
「エゾシカ肉」のいいところは…
★ヘルシー:牛レバーより鉄分が多く、鶏ムネ肉なみの低脂肪高タンパク。
★安心安全:衛生ルールを厳守した、安心安全なお肉です。
★エコ:おいしいだけでなく、自然と共存する森の恵みです。
■2011年11月6日(日)10:30~12:30
会場/札幌市南区民センター 2階調理室 (南区真駒内幸町2丁目2-1)地下鉄南北
線真駒内駅歩6分
小学3年生以上の親子10組(先着順) 受講料/無料
メニュー/エゾシカのミートボールプレート(実習と試食、シカのお話あり)
講師/塚田宏幸さん(中央区「BARCOM札幌」シェフ)

■お申し込み先
社団法人エゾシカ協会  tel 011-611-8861 へお問い合わせください。
ホームページからも申込FAX用紙をダウンロードできます!
http://www.yezodeer.com/shikanohi/class.html
■締切 10月27日(木)

「亡き母に背中を押され」

10月 23rd, 2011

       
       
            中井 惠美子 (中井生活経済研究所CEO)

        
               『致知』2004年6月号より

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 病院が建て替えや改修などの
 資金調達を目的に発行する病院債。

 医療とかけ離れた世界にいた私が、
 その発行の一号と二号を手がけることになった背景には
 母の存在があります。

 母は痴呆になった父を一人で看ていました。
 当時、私は都市銀行の総合職として忙しく、
 また自分の家庭もあったので、
 たまにしか顔を出すことができませんでした。
 
 すると今度は母が体調を崩し入院。
 肝臓の病で命に関わるものではないが、
 痴呆が進行していると説明を受けました。
 なんと、知らぬ間に母までもが痴呆になっていたのです。

 そうして私の両肩に両親の看護が圧し掛かってきました。
 入院中の母の世話をしながら、
 父を預かってくれる先を探さなければなりません。
 
 仕事と家事をしながらの介護、入所先探しは過酷で、
 一日も早く母が元気になってくれることを
 願ってやみませんでした。
 
 ところが、母の容態はよくなるどころか悪くなる一方。
 変だな、おかしいと思った私は、
 レントゲンを他の病院へ持ち込んで診断してもらいました。
 すると誤診が判明したのです。
 
 実は悪性のがん細胞が隠れていて、
 余命幾ばくもないと宣告をされました。
 誤診を恨むより、まず早急に転院と考えた私は、
 肝臓医療で日本一と言われる病院に転院させました。
 
 ところが、です。
 様子を見に行くと、集中看護室に横たわる母の手が、
 ベッドに縛り付けてありました。
 
 聞けば酸素の吸流量を調べようと指に器具をはさむと、
 母が嫌がって外すからだと言います。
 
 不信感を募らせながらも、
 「日本一の病院だから」と自分に言い聞かせ
 治療に期待しましたが、高齢だし、痴呆だし、と言って
 期待していたほど熱心には治療をしてくれません。
 
 ただ死を待つだけの日々が過ぎていきました。
 最期をゆったりと過ごさせてあげたいと思い、
 ホスピスに移そうかと考えた時期もありました。
 
 しかしホスピス側は
 
 「入所する本人が、自分が死ぬとわかった上で
   ここに入りたいという意思表示がなければ
   受け入れられない」
  
 と言います。退院したら出身地である
 四国のお遍路に行きたいと夢を膨らませている母に、
 どうして「あなたは死にますよ」などと告げられるでしょうか。
 
 どこへも行き場がなく、袋小路に迷い込んだような思いでした。
 時々母は私に看護してほしいと言うことがありました。
 
 そうなれば当然仕事を辞めなければなりません。
 振り返れば、挫折の多い銀行員生活の中で、
 何度辞めようと思ったか分かりません。
 
 しかしその都度、母が「もう少し頑張ってみなさい」と
 優しく背中を押してくれました。
 
 娘がはしかになれば替わって面倒を看てくれたのです。
 母の協力がなければ絶対に続けることはできませんでした。
 その母が最期の願いとして私に
 看護してほしいと願っているのです。
 
 平成十四年三月三十一日付で私は銀行を退職。
 早速、母に辞令を見せに行き、
 「明日からはちゃんと面倒看るからね」と言うと、
 母は嬉しそうに笑っていました。
 
 しかし、遅すぎました。
 三十一日の夕方、母は永遠の眠りにつきました。
 
 もう少し早く辞めればよかった。
 あんな死なせ方でよかったのか。
 私の胸の中は無念と終末医療に対する疑問でいっぱいでした。
 
 といって、誰かを恨むわけではなく、
 どの先生も一所懸命力を尽くしてくださったことは
 重々分かっていました。
 
 しかし、医療そのものは患者や私たち家族の思いと
 かけ離れたところにあったことは事実です。
 
 また、私も両親が病に倒れ、初めて医療を意識しました。
 知識がないために医者の言うなりだったり、
 無意味に不安感を募らせました。
 
 結局、これまで互いに接する機会がないことが
 すべての問題点だったのです。
 健康なうちから医療法人と接する機会はないだろうか。
 
 答えを求め様々な医療セミナーへ出席し、
 私の前職を知った日本医療法人協会の方から
 病院債の研究を依頼されました。
 
 病院債を発行すれば、医療法人は債務者となり、
 当然財務体質や経営指針、経営計画や返済計画を
 明確に説明しなければなりません。
 
 逆に債権者である購入者は、
 患者や家族の視点から改善案をどんどん提案できる。
 また、銀行や郵便局では、
 自分の貯蓄金が見ず知らずの企業への融資となっているのか、
 道路の舗装に使われているのか、まったく分かりません。
 
 しかし、病院債なら自分の投じたお金で病院に
 老人介護施設ができた、新しい設備が導入された、
 など確実に目に見える形となって現れる喜びもあります。
 
 微力で歩みは遅いかもしれません。
 しかし、医療法人に風穴を開ける原動力になると信じています。
 
 私の試案に基づき、二月に売り出した病院債第一号は
 介護施設の増築を目的に四千九百万円、
 第二号は電子カルテと駐車場の増設を目的に一億二千万円。
 いずれも完売で、病院債に対する社会的な期待を感じました。
 
 病院債は持っているお金の一部を活かし、
 自分の願うほうへ病院を動かすことができます。
 その総意が大きくなれば、
 社会だって変革できるかもしれないのです。
 
 長く金融界で働いてきた私にとって、
 お金を通じてより良い社会の実現に貢献できることは
 何より嬉しく、亡き母が背中を押してくれているように感じています。

 「ドラッカー7つの教訓(後編)」

10月 22nd, 2011

       
       
     上田 惇生 (ものつくり大学教授)
        
        『致知』2003年12月号
         特集「読書力」より
            

     ※肩書きは掲載当時です。

────────────────────────────────────

世界のビジネス界に大きな影響を与えているドラッカーですが、
その思想形成に当たっては人生の中で
七回の精神的な節目が訪れたことを著書の中で述べています。

その七つの経験から得た教訓を最初に列記すると、
以下のようになります。

 一、目標とビジョンをもって行動する。

 二、常にベストを尽くす。「神々が見ている」と考える。

 三、一時に一つのことに集中する。

 四、定期的に検証と反省を行い、計画を立てる。

 五、新しい仕事が要求するものを考える。 

 六、仕事で挙げるべき成果を書き留めておき、
     実際の結果をフィードバックする。

 七、「何をもって憶えられたいか」を考える。

………………………………………………………………………………………………
※ここからが本日の内容です↓
………………………………………………………………………………………………

四つ目の節目は新聞社勤務時代でした。

当時、ドラッカーが大きな影響を受けたのは編集長でした。
この編集長は毎週末、部下一人ひとりと差しで
一週間の仕事ぶりについて、また一月と六月には
半年間の仕事ぶりについて話し合いました。

優れた仕事から始まり、一所懸命やったこと、
反対に一所懸命やらなかったことなどを次々に取り上げ、
最後に失敗やお粗末な仕事ぶりは徹底して批判しました。

この中で記者たちは、今後の仕事で

「集中すべきことは何か」
「改善すべきことは何か」
「勉強すべきことは何か」

を探るのです。

彼がこの差しの討議の意義に気づいたのは、
随分時間が経ってからでした。

アメリカに移り、大学教授やコンサルタントの仕事を
始めてからだといいます。

以来、夏になると二週間ほど時間をつくり、
コンサルティング、執筆、授業について一年を反省し、
次の一年の優先順位を決めるのが習慣になりました。

          * *

五つ目の経験は「新しい仕事が要求するものを考える」
大切さを知ったことです。

ロンドン時代に証券会社から投資会社に移った時、
上司からこう言われます。

「君は思っていたよりもはるかに駄目だ。あきれるほどだ」と。

やがて彼は叱責の理由が、新しい仕事に移ってからも、
証券アナリストとしての仕事ぶりから
抜けきれないことにあったと気づきます。

これをきっかけに、新しい仕事に取り組む際は、

「この仕事で成果を上げるには何をしなくてはならないか」

と自問するようになるのです。

          * *

六つ目はアメリカでヨーロッパ史を学んでいた時、
近世のヨーロッパで力をつけていた
カトリック系のイエズス会とプロテスタント系のカルヴァン派の二つが、
奇しくも同じ方法で成長を遂げたことを知ったことでした。

両派の修道士や牧師は何か大きな仕事をする時には、
期待する成果を書き留め、一定の期間が過ぎた後、
結果と期待を見比べることで自分は何ができるか、
何が強みかを知っていたのです。

ドラッカー自身、この方法を実践し自らの強みを知り、
それをいかに強化するかに努力しています。

          * *
          

ドラッカーが七つ目に挙げた経験は、
小学校の頃、宗教の先生から聞かされた言葉でした。

「何をもって憶えられたいか」です。

同じことは彼が四十代の頃、父親と、その教え子であって、
かつ友人である経済学者シュンペーターとの会話でも耳にしたといいます。
ドラッカーの父はシュンペーターに質問しました。

「自分が何によって知られたいか、いまでも考えることはあるかね」と。

というのは、シュンペーターは若い頃
「ヨーロッパ一の美人を愛人にし、ヨーロッパ一の馬術家として、
  そしておそらくは世界一の経済学者として知られたい」
と言っていたからです

その質問に対するシュンペーターの答えは

「昔とは考えが変わった。
 いまは優秀な学生を一流の経済学者に育てた教師として知られたい。
 理論で名を残すだけでは満足できなくなった。

 人を変えることができなかったら、
 何も変えたことにはならないから」

というものでした。

ドラッカーはこの会話から

「人は何によって知られたいかを自問自答しなくてはならない」

「その答えは年を取るごとに変わっていかなければならない」

「本当に知られるに値することは、人を素晴らしい人に変えることである」

の三つを学んだのです。

彼のこの七つの経験のうち三つまでが
読書によって培われたものでした。

彼は若い頃からハンブルク市立図書館の本を
全部読んだのではないかと言われるほど大変な読書家でした。

二十九歳の時の処女作『経済人の終わり』に、
プラトン、ソクラテスなどのギリシャ哲学から
ヒトラー、ムッソリーニまで二百人以上の思想と言葉が
紹介されていることをみても、それが理解できます。

数々の著書が生まれる背景に、
膨大な読書に培われた知識があることは
疑う余地がありません。  (談)

http://youtu.be/qhEJzHsgc-8