まほろばblog

DESIGN WEEK 24~28 まほろば出店

10月 30th, 2012

 

札幌駅前、地下舗道空間にて24日から28日まで「デザイン・ウイーク」が開かれました。

建築、インテリア、ファッション、グラフィックなどあらゆるジャンルが、寄り集まって、

今後の札幌のまちづくりに、市民を巻き込んで、さまざまな提案をしました。

その中で、食品デザインとしてまほろばも推薦されて、参加させてもらいました。

まほろばの両隣には、ドイツ掃除機・コーボルトとアメリカのノニ製品を磯ご夫妻が出店されました。

お二人に助けられて、まほろばからは、工藤、大井、福田の三名が声を涸らして頑張りました。

意外と、野菜やりんご、オーガニック製品が売れて、店前は何時も人だかりとなりました。

まほろばのお客様も駆けつけて下さいましてありがとうございました。

札幌駅前にお住まいの長年のお客様、山本様は20年にもわたってコーボルトをお使いとのこと。

毎日、寄って応援して頂きました。ありがとうございました。

磯様も、旧来の友を得たような感激でした。

ともあれ、無事に5日間を終えることができました。

皆様の陰ながらの応援、ありがとうございました。

たまには、外の空気を吸うのもいいものですね。

「北海道の社長tv」に出演!

10月 30th, 2012

「北海道の社長tv」という全国版PR企画に推薦出演しました。

わずか10分間の内容ですが、言い尽くせたでしょうか。

HP上で、ブログの下にバーナーを貼り付ける予定です。

先ずは、

http://hokkaido-president.net/mahoroba-jp

で、ご覧下さい。

「倭詩」、THDさんで紹介される

10月 30th, 2012

トータルヘルスデザインさんの月刊誌「元気な暮らし」11月号に、

近藤会長による『倭詩』の紹介文を頂きました。

まほろばやエリクサーの背景を知る意味でも、是非お読み戴ければ、

より深い理解を得られるものと思います。

「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない」

10月 30th, 2012

中村 久子
          『致知』2012年11月号
               特集「総リード」より

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その少女の足に突然の激痛が走ったのは3歳の冬である。
病院での診断は突発性脱疽。肉が焼け骨が腐る難病で、
切断しないと命が危ないという。

診断通りだった。
それから間もなく、少女の左手が5本の指をつけたまま、
手首からボロっともげ落ちた。

悲嘆の底で両親は手術を決意する。
少女は両腕を肘の関節から、両足を膝の関節から切り落とされた。
少女は達磨娘と言われるようになった。

少女7歳の時に父が死亡。

そして9歳になった頃、
それまで少女を舐めるように可愛がっていた母が一変する。
猛烈な訓練を始めるのだ。

手足のない少女に着物を与え、

「ほどいてみよ」

「鋏の使い方を考えよ」

「針に糸を通してみよ」。

できないとご飯を食べさせてもらえない。

少女は必死だった。
小刀を口にくわえて鉛筆を削る。
口で字を書く。
歯と唇を動かし肘から先がない腕に挟んだ針に糸を通す。
その糸を舌でクルッと回し玉結びにする。

文字通りの血が滲む努力。
それができるようになったのは12歳の終わり頃だった。

ある時、近所の幼友達に人形の着物を縫ってやった。
その着物は唾でベトベトだった。

それでも幼友達は大喜びだったが、
その母親は「汚い」と川に放り捨てた。

それを聞いた少女は、
「いつかは濡れていない着物を縫ってみせる」と奮い立った。
少女が濡れていない単衣一枚を仕立て上げたのは、15歳の時だった。

この一念が、その後の少女の人生を拓く基になったのである。

その人の名は中村久子。
後年、彼女はこう述べている。

「両手両足を切り落とされたこの体こそが、
  人間としてどう生きるかを教えてくれた
 最高最大の先生であった」

 そしてこう断言する。

「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない」

「倭詩」三田さんのアイクリーンから

10月 29th, 2012

「札幌木鶏会」の事務局長をされている三田さん。

会社「アイクリーン」発行の季刊通信に、今回「倭詩」の感想が載っていました。

いつもふざけ合って、笑い合っている二人ですが、長い付き合いです。

月刊誌「致知」で、古典を何十年も勉強されている三田さん、心通じる嬉しい知己ですね。

伝説のホテルマン・高野 登 氏の名言

10月 29th, 2012

日本に「ザ・リッツ・カールトン・ホテル」と
     ホスピタリティの概念を根づかせた
     伝説のホテルマン・高野 登 氏の名言

                『致知』2012年11月号
                 特集「一念、道を拓く」より
      http://www.chichi.co.jp/monthly/201211_index.html

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 ◆  99℃は熱いお湯だけれども、あと1℃上がって100℃になると、
   蒸気になって、蒸気機関車を動かす力が出る。
   しかし、99℃ではまだ液体だから蒸気機関車は動かせない。
   この1℃の違いを意識しながら仕事をすることが、
   リッツ・カールトンの仕事の流儀でした

 ◆  「想像力に翼をつけないと夢には届かない」
    という言葉があるのですが、
    やっぱり夢に届くには想像力を働かせるしかないと思うんです

 ◆  やっぱり男はね、気を働かせられないとダメなんですね。
   僕は気遣いと気働きは違うと思っているんです。
   女性は細やかな気遣い、心配りが大切ですが、男がするのは気働き。
   木下藤吉郎(豊臣秀吉)が織田信長の草履を温めていたのは、
   気遣いじゃない。あれはしたたかな気働きです

 ◆  リッツ・カールトンがいま評価されている理由は、
   そういう日常の小さなこと、
   日本人として当たり前のことをやり続けて、
   自分たちの当たり前のレベルを上げていっているという、
   それだけなんです。
   それだけで感性は磨かれていきます。

 ◆  目の前のことに
   これ以上ないほどに真剣に取り組めば必ず道は拓けるし、
   自分が思いもよらなかった場所に運ばれていく
 

「塔和子を歌う」

10月 28th, 2012

 沢 知恵 (さわ・ともえ=歌手)

                『致知』2012年11月号
                       致知随想より

└─────────────────────────────────┘

いまから十六年前、二十数年ぶりに会った人たちに
「知恵ちゃんなの? 大きくなって」と迎えられました。

最後に会ったのは私が四歳の頃、私には何の記憶もないのに、
皆さんが大粒の涙を流して歓迎してくれるのです。
戸惑いながらもその涙の意味にハッと思い当たりました。

瀬戸内海の小さな島に牧師だった父に連れられていったのは、
生後六か月の一九七一年夏のことでした。

そこで迎えてくれたのはハンセン病元患者の人たちです。
戦後まもなく発見された特効薬プロミンによって
完治していたにもかかわらず、
当時ハンセン病は感染や遺伝の恐れがある病気と考えられていて、
患者は隔離生活を送っていました。

子供をつくることも禁止され、
断種、堕胎などの強制手術もされていたのです。

それゆえ患者の人たちは赤ちゃんを
見たり触ったりすることはありませんでした。
だからこそ「大島に赤ちゃんが来た日」は
強烈な印象を与える事件だったのでしょう。

そこに思いが及んだ瞬間、
私の目から一滴の涙がこぼれ落ちました。

以来、四国や中国地方で仕事があると、
決まって大島青松園を訪ね、皆さんと親交を深めてきたのです。

大島へ通うようになり、三年ほど経った頃でしょうか、

「塔和子さんのことはご存じ? 
 塔さんはあなたのことをよく覚えているよ」

と入所者の方から言われました。
私も塔さんのことはよく知っていました。

塔さんは療養所の入所者自治会が発行している
月刊誌『青松』に詩を発表されていました。
ご自身もハンセン病を患いながら、
しかし病気のことにはほとんど触れず、それでいて
私を射抜くような言葉を詩にしている。

少ない文字数にもかかわらず、
圧倒的なオーラを放つそのページに、
なんという迫力のある詩を書く詩人だろうと圧倒されていました。

ある時、思い切って病室を訪ねてみると、
パジャマ姿のおばあさんがベッドに横たわっていました。

その姿からはあれほど力強い詩を書く詩人には
とても見えませんでした。

しかし私が「沢です」とご挨拶した途端、
「沢先生のお嬢さんなのね」とおっしゃり、
後光が立ち上るような印象を受けたことをいまでもよく憶えています。

以来、大島へ行くと必ず塔さんのお部屋にも
顔を出すようになり、いつしか一番長く話をするのが
塔さんになっていました。

お訪ねするととにかく詩や芸術の話ばかり、
頭から爪先まで全部詩で埋まっているような人でした。

「あなたも歌手でしょ、詩も書くのでしょ」と言いながら、
ものを生み出す苦しみや詩を書く喜びなどを
たくさんたくさん話しながら、私を励ましてくださいました。

塔さんとお会いしてしばらく経った二〇〇一年、
大島で初めてのコンサートを開きました。

島の外から大勢の人に来ていただいて
療養所を肌で知ってもらいたい、
そんな思いから行った企画でした。

その頃にはいつか塔さんの詩を
歌えたらいいなと漠然と考えていました。

それからおよそ十年が経ちました。

私も四十歳に近くなり、いろいろな経験も積みました。
改めて詩を読んでみると、塔さんが詩で
何を言おうとしていたのか、その切なさが
心に沁みてくるようでした。

塔さん自身、ご高齢で寝たきりということもあり、
まだお元気なうちに歌いたいという気持ちもありました。

最初は軽い気持ちで詩集を読み始めましたが、
いったん読み出すとじっくりと全部読まずにはおれませんでした。

塔和子という人にとって、その詩は命そのものであり、
私が塔和子を歌うことは即ち塔和子を生きることなのだ――。
そう思い至った時、私は肉声でこれを発してみなければ
いけないと感じました。

塔さんの分厚い三巻の全集には
およそ千編の詩が収められています。

そのすべてを声に出して読みました。
まる三か月がかかりましたが、
私にとってなんと幸せで豊饒な時間だったことでしょう。

その中から八つの詩を選び、最初に曲がついたのが
「胸の泉に」という詩でした。

かかわらなければ

この愛しさを知るすべはなかった

この親しさは湧かなかった

(中略)

何億の人がいようとも

かかわらなければ路傍の人

私の胸の泉に

枯れ葉いちまいも

落としてはくれない

 
十代で発症して瀬戸内の小さな島に送られ、
隔離された塔さん。

世間との関わりを断たれた生活を余儀なくされながらも、
彼女は「かかわらなければ、かかわらなければ」と
魂の声を上げている。

人と関わることによって生まれる幸も不幸も、
陰も陽もすべて受け入れて生きる覚悟がそこには示されています。

塔さんは私に「言葉を生み出すことは苦しいことなのよ」と
何度かおっしゃったことがあります。

自身の弱さや情けなさを嘆いている詩もたくさんありますが、
見栄や虚飾を排し、自分にも他人にも神様にも嘘をつかず、
真っ直ぐに、正直に生きていく。

悩みも苦しみも弱さもすべて自分で引き受けて生きていく
本当に自立した女性のあり方を、
私は塔さんから教えていただきました。

幸せも喜びも苦しみも悲しみも、
ささやかな日常の中に全部あるんだよ。

希望を見出したかったら、その日常を丁寧に生きていくことだよ。

塔さんとの特別な交わりを許された幸運に感謝しながら、
その詩に込められたメッセージを
これからも永く永く歌っていきたいと思っています。

○誌面未公開。孤高の詩人・塔和子さんのPHOTO&
 沢知恵さんとの貴重なツーショット写真はこちら
 http://ameblo.jp/otegami-fan/

「業即信仰」

10月 27th, 2012

  米倉 満 (理容「米倉」社長)

           『致知』2012年11月号
                 致知随想より
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私の祖父・米倉近が弱冠二十二歳で
理容「米倉」を開業したのは大正七年のことでした。

後に近の義父となる後藤米吉は、
当時西洋理髪の本場といわれた英国で理容技術を習得し、
「三笠館」という理髪店を開業した人物でした。

その義父と同じ理容の道を志し、日本橋に店を構える
「篠原理髪店」に祖父が弟子入りしたのは、年の頃十三歳。
両親と別れての暮らしはさぞ寂しかったことでしょう。

しかし、一人前になるまで家には戻らないと修業に専念し、
二十一歳になるまでの八年間一度も
親と顔を合わせることはありませんでした。

独立開業する際には、修業中に祖父の腕を見込んだ
名士たちの後押しもあって、
築地の精養軒ホテルの一角という一等地で開業。

関東大震災で店が焼失したことで、
銀座の中央通に移りましたが、
「米倉」は一流のお客様を相手にして、
満足させる銀座の床屋だという矜持が祖父の力の源でした。

実際、店には日本画家の伊東深水氏、作曲家の山田耕筰(こうさく)氏や、
陶芸家の川喜田半泥子(かわきた・はんでいし)氏をはじめ、
個性溢れる一流のお客様が顔を連ねる理容店として賑わい、
今日に至るまで多くの名士の方に親しまれてきました。

その中には松下電器(現パナソニック)の
創業者・松下幸之助氏もいらっしゃいましたが、
かつて松下氏はほとんど容貌を気にされず、
頭髪もぞんざいだったそうです。

ある時、そんな松下氏と初めてお会いする機会があった祖父は、
即座に

「あなたはあなたの顔を粗末にしているが
  これは商品を汚くしているのと同じだ。

 会社を代表するあなたがこんなことでは会社の商品も売れません。
 散髪のためだけに時間をつくるというような心掛けがなければ、
 とても大を成さない」

と言い放ったといいますから大したものです。

もちろん祖父の言葉に悪意は微塵もなく、
むしろ自らの仕事に対する誇りから生まれたものといえるでしょう。

仕事に打ち込む中でお客様を満足させたいという
姿勢を貫いてきたからこそ、経営の神様に対しても
思いの丈をぶつけることができたのだと思います。

「誠にもっとも千万で、至言なるかな」

と口にした松下氏は、祖父の言葉に意気を感じられたのでしょう。
祖父との出会いを機に身だしなみにも気を使われるようになり、
「米倉」をご贔屓くださるようになったのです。

私が理容師としてまだ駆け出しの頃、
祖父の鞄持ちとして熊本県の阿蘇まで赴いたことがありました。

現地では松下電器の代理店を集めた年に一度の大会が開催されており、
祖父はそこに招かれたのでした。

宿泊先でのことです。

二人きりになった晩、祖父は堰を切ったように
自らの歩みを語り始めました。

既に晩年を迎えていた祖父は、
特別に私に伝えたいという思いがあったのでしょう。
その中にはこんな話がありました。

祖父の母は大変信仰心の厚い方で、

「おまえの守り本尊は観音様であるから、
 毎月十八日はお参りに行きなさい」

と言われた祖父は母の言いつけをよく守っていました。
ところがある月の十八日の朝、祖父は寝坊をしてしまい、
慌ててお参りを済ませるも開店時間に間に合わないことがありました。

ちょうどその時分に店を訪れた松竹の大谷竹次郎氏は
祖父の不在を知り、後日改めて来店された際、
開口一番こう聞かれました。

「君は何か自信をなくしたことでもあるのか」と。

祖父が驚いて聞き直すと、大谷氏は
観音様にお参りに行くことそれ自体はよいが、
開店中に主人が留守とはどういうことか。

お客様に不自由をさせて、ご利益などあるだろうかと懇々と諭され、
最後に

「客商売は、客が店の信者なのだ」

とおっしゃったそうです。

祖父は我が身を恥じたといいます。
お客様を差し置いて観音様をいくら拝んでも、

ご利益などあろうものかと。そして理容業という生業に打ち込むことが、
そのまま信仰になりうるのだという確信を得たのでした。

業即信仰。

祖父はこの時の教訓をこの四文字に込めたのです。

このことに関連して、世の中にある無数の業には、
それ自体に良し悪しがあるわけではなく、
その業を行う者の人格のいかんによって良し悪しが決まる。

それゆえに理容師は、理容の技術を磨き高めることはもちろん、
教養を身につけ、お客様と誠実に相対する中で、
理容師的人格を高めることの大切さも訓えられました。

また祖父は、日頃から

「毎日が開業日」

と口癖のように言っていたことを思い出します。
店というのは古くなると惰性に流れだらしなくなるから、
毎日が開業日のように新鮮な気持ちで場を清めれば、
自然と仕事に励む気分が湧き上がってくるというのです。

理容「米倉」は四年前に創業九十周年を迎え、
その間祖父の業に対する信仰心の如き思いは
父、叔父を経て四代目である私へと受け継がれてきました。

業を高めることが、そのまま自己を高めることになる――。

これが理容師として、四十年間歩み続けてきた私の実感です。

業即信仰という祖父の祈るような仕事に対する姿勢を胸に、
理容師として生涯を全うできるよう
これからも一途に歩み続けたいと思います。

吹奏楽のカリスマ指導者・丸谷明夫氏の名言

10月 25th, 2012

全国最多24回の金賞受賞・
      吹奏楽のカリスマ指導者・丸谷明夫氏の名言

                『致知』2012年11月号
                 特集「一念、道を拓く」より
      http://www.chichi.co.jp/monthly/201211_index.html

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 ◆ 子供たち一人ひとりがその気になって本気でかかってきよったら、
   少々下手な者同士でもかなりいいところまで行きますよ。
   
   例えは悪いですが、
   一人ひとりが自爆する覚悟で向かってくるのと、
   最新兵器を持った数人がいて他にやる気のない大勢が
   集まっているのとでは大分差がつきます。

 ◆ 指揮棒に合わせて完璧に吹くだけなら
   型どおりの演奏にしかならない。
   それぞれの持ち味を生かしながら、
   結果として合わさった音が生き生きしている。

   これが日本一になれるかなれないかの差です。

 ◆ 中途半端な苦労をしている奴でひねくれているのがよくいますが、
   もうズタズタに、生きるか死ぬかの苦労をした奴は、
   そんなものをも超越してしまって本当に純粋になるでしょう。
   そういう子に育てたいんです。

 ◆  子供は喜びや幸せは誰かが
   運んできてくれるような気でいるんですが、
   そんなはずはないわけで、
   苦労した者が苦労した分だけちゃんと喜べるようになっている。

   

 ◆  我われもとかく能率のいい方法や、
   すぐ上達する方法を考えがちなんですが、
   そういうものはなくて、やっぱり変わった手、
   相撲でいえば猫騙しなんかを使わず、
   がっぷり四つの寄り切り、
   譜面に書いてあることにきちっと応える王道――王の道、
   それを貫いていくしかないと思うんです。
 

今日からデザインウイーク、まほろば出店!

10月 24th, 2012