まほろばblog

大間の鮪、買い取りました!

7月 27th, 2013

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今朝、大間の本マグロ110kgを買い取りました。

道内物が少しづつ出回り始めていますが、まだまだ高嶺の花。

境港の本マとインドネシアのバチが競られる中、最後に2本の大間の本マグロ。

このような大物は、ほとんどが大手に引き取られ、小売は入手できません。

 

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すし処サッポロさんは、年末数百kgの本マグロを300万円以上で買い取るそうです。

そうなると、売値は¥5000/g前後のとても庶民の手に届かないところにあります。

しかし、今回驚くほど安値で仕入れることが出来たのです。

セリで値が入った時、誰も手を挙げなかったので、

衝動的に名乗りを上げました。

こんな博打的な買いに走ったのは初めてでした、何せ110kgの大物なので。

 

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今すぐ食べても、味が乗っていません。

3,4日置くと、じわーと旨味が滲んできます。

丁度、来週の売り出しの頃が、買い頃、食べ頃です。

特売のメイン商品になります。

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津軽海峡の一本釣りの醍醐味!

是非とも、ご家族でご賞味あれ!!

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(奮闘する竹市さん。出刃で、何とか解体、スゴ技です!)

 

 

 

 

 

銭湯画に富士のお山

7月 27th, 2013

風呂富士山

 

まほろば本店の近くに「笑福の湯」という老舗の銭湯がある。

私は、体がこわばると、直行して心身ともにほぐす、・・・・

いわば、かかりつけの医者ならぬ、かかり湯の湯治場なのだ。

何せ、43度以上もある湯が中心にデンと構えてあり、

ものの何秒も耐えられるか、すぐ降参して飛び上がる御仁が多い。

そこで、水を足すやからがいると、

すかさず「バカヤロー!水を入れる奴がいるか!!」との怒声が飛び交う。

途端に、威勢のいい喧嘩がはじまるのだ。

と言っても、そんな修羅場は、そうあるものでないが、とにかく皆日参するファンが多い。

ボーリングして当てた鉱泉水が、これまた冷たい上に冷たい。

サウナの後の、この冷水浴がなんともたまらないのだ。

今どきの、あちこちに乱立するビッグな大衆浴場大繁盛の中で、

こじんまりとした昔風のここに戻ってくる人が多い。

 

熱源に廃材を使っていることも、人気の的になっているのかもしれない。

年中、材木をきらさないのだから、いかに建て替える家が多いことか。

これもリサイクルのエコ精神で、廃棄料がかかる土建やさんは大助かりだと言う。

熱にも、ガスや重油にない本物さを感じるのか、湯のぬくもりが全く違うのだ。

熱さと冷たさが同居するこの銭湯は、

小さくとも、多くの人の心をしっかと掴んで離さない。

 

中島画家 1

この3月の雪の夜、例の如く風呂に入り、サウナで座っていると、

見知らぬ隣の旦那と、モソモソと話し始めた。

実はその日、入ってビックリしたのだが、風呂場に富士山の絵が描かれてあった。

いかにも、昔の風呂やさんに、舞い戻った感じなのだ。

何と、そのおやじさんこそ、昨日から一日で男女の風呂場に見事に絵を書き上げた絵師だったのだ。

聞くところによると、日本に2人の風呂絵師しかいなくなったと言うことだ。

そこで、「どこにお住まいで」と聞くと、

「東武練馬の自衛隊の近くだ」と、のたまわれる。

「えっ、私、若い頃、その辺に住んでいました」とばかり、急に心が接近しだした。

「ところで、男湯のこの富士山、どこから描いたのですか」と訊ねると、

「あぁ、そこは富士吉田の手前、登山口から描いたんだ」。

「えぇ、うちのじいさんが生まれたところですよ」。

と、たわいのない話の中にも、因縁を感じて、

こうして居るのも、何か眼に見えない糸で繋がっているんだなーと感心してしまった。

 

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それから、しばらくして、地方紙にその画が話題になり、

ある茶道の先生から戴いた「なごみ」という雑誌に6pにわたって、

あの時の絵師さんが載っていて、びっくり。

中島盛夫さんという有名な画家で、全国をかけづり回っているとか。

その数ヶ月後に、富士山が「世界文化遺産」に認定され、その前触れだったのか。

確かに、富士山の絵をを眺めて、いい気持ちになって、

一日の疲れを癒している今日この頃の私であります。

 

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大貫さんのコラム

7月 27th, 2013

大貫さんのコラム。

札幌のあれこれを綴られていました。

大貫妙子さん 1

大貫妙子 2

 

草むしり・芝刈り応援隊、登場!!

7月 27th, 2013

佐々木造園

「母との葛藤」

7月 27th, 2013
 藤原 咲子(高校教師・エッセイスト)
              『致知』2007年2月号
               致知随想より

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私は昭和二十年、終戦の一か月前に
満州国新京市(現在の中国長春市)で生まれました。

終戦後、父が捕虜収容所に送られたため、
母は数多くの死体が横たわる中、
一人で幼い二人の兄の手を引き、
生まれたばかりの私をリュックの中に隠して、
命からがら引き揚げ船に乗り込んだといいます。

当然私にその時の記憶があるわけではありませんが、
ほどけかけたリュックの隙間から見えた北極星と、
引き揚げの異様な空気はなぜか鮮明に覚えています。

壮絶な引き揚げで衰弱した母は、帰国後病の床に臥しました。
死病と恐れられた肺結核でしたから、
子どもたちは近寄ることを許されません。

事情のわからない私は、
ただただ母の温かい愛情が欲しくて、
窓越しに母の様子を見ていました。

幼稚園から帰った私に「咲子、おいで」と言って、
木綿の布団をそっと開けてくれる母の姿を
どれだけ夢見たでしょうか。

病との闘いに奇跡的に打ち勝った母は、
やがてその壮絶な引き揚げ体験記
『流れる星は生きている』を書き上げ、
作家藤原ていとして一歩を踏み出しました。

だがそこにいたのは私がずっと待ち続けてきた
温かくて優しい母ではありませんでした。

幼子三人の命を失うことなく
引き揚げという苦境を乗り越え、
成功者として社会から讃えられる母だったのです。

私は兄たちよりずっと厳しく育てられました。

少しでも甘えようものなら

「あんなに苦労して連れて帰ったのに、
  いつまでもわがまま言うんじゃないの」

という言葉が返ってきました。

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お母さん、どうしてそんなに怒るの、私が嫌いなの?
引き揚げ時の栄養失調で多少の言葉の遅れがあり、
友達とうまく話すこともできず、
学力でも兄たちに追いつけない私は、
いつの間にかすべてに自信を失っていました。

と同時に、私が生まれたことが母には
不満だったのではないかと、
様々な憶測が頭の中をよぎるようになりました。

子どもの頃の私の楽しみは何よりも読書でした。

図書室や家庭の書棚にあるいろいろな本を引っ張り出しては、
本の世界に浸りました。

しかし、母の『流れる星は生きている』だけは、
どうしても手に取る勇気がありませんでした。
幼い頃、一体何があったのか。
その疑問が解かれるのが恐かったからです。

しかし、中学受験が間近に迫った十二歳の頃、
そのストレスから逃げるように
『流れる星は生きている』を読んでいる自分に気付きました。

そしてその本の中で私のことを描写している
数行を発見したのです。

「咲子が生きていることが、必ずしも幸福とは限らない」

「咲子はまだ生きていた」

ああ、お母さんはやっぱり私を愛していなかった……。
一人の赤ん坊を犠牲にし、
二人の兄を生かそうとしていたのです。

これを読んだ時はしばらく声を失い、
呻き声をあげていました。

たった数行が母の私への不信を生み出し、
それから五十年もの間、母への反抗が続きました。

私は火がついたように母に食ってかかり、
母を責めるようになりました。

母が涙を流し、

「あんたなんか連れてこなきゃよかった」

と言うまで諍いは終わりませんでした。

三年前の平成十五年、私は整理をしていた書庫から
偶然にも『流れる……』の初版本を見つけました。

約五十年ぶりに茶色の木皮の紋様のカバーを開くと、
そこには「咲子へ」という見慣れた母の字体がありました。

「お前はほんとうに赤ちゃんでした。
 早く大きくなってこの本を読んで頂戴、
 ほんとうによく大きくなってくれました。母」

現在と変わらぬ美しい字体で書かれたこの一行は、
強く閉ざした私の心をひと突きにし、
私の中の何かが崩れ落ちるのを感じました。

十二歳の時に目に留まった
「まだ咲子は生きていた」の一文は
母の落胆ではなく、劣悪な状況下で
健気に生きていた私への感動だったのだと
この時ようやく気付いたのです。

母に対する気持ちが和らぎ始めたのはそれからです。

そんな母もいま米寿を迎え、
数年前から認知症に侵されています。
病状が進むにつれて母は穏やかになり、
反発していた私にも優しく接するようになりました。

病が進み始めた頃、伊豆の別荘に母と何度も行きました。
駿河湾と富士山が見渡せる場所に車を停め、
漁船の走る海を母と眺めました。

私は一歩後ろへ下がり、母の病状を観察するかのように

「ほら、イカ釣り漁船が行くねぇ」

と話しかけました。すると母は、

「バカだねぇ、お前は。あれは引き揚げ船だよ」

と力強い眼差しで海を見ているのです。

この時の母の横顔に思わず私は息をのみこんで、
涙を抑えることができませんでした。

たった一人で幼子三人と日本に引き揚げた時の母の孤独感、
人に言えない苦労が刻まれた横顔に強い寂寥感を感じたのです。

その寂寥感は私の中のそれと重なり合い、
気がつくと私は母をこの上なく
いとおしく思うようになっていました。

人が人を許し、人に優しくすることを知った時、
初めて人は心の静まりの中に真実が見えてくる――。

母はそれを身をもって私に伝えてくれた気がします。
認知症は私にじっくり母と向き合うきっかけを
与えてくれました。

私を一人前にするために厳しく育ててくれた母に、
いま心から感謝しています。

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(父は作家の新田次郎氏、母が藤原ていさん、
そして兄が「国家の品格」を書かれた藤原正彦氏)

総合食品誌に「へうげ醤」が!

7月 26th, 2013

 

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「総合食品」という食品業界誌の「気になる商品」に『へうげ醤」が取り上げられました。

常識破りの醤油は、一般食品でも話題になったようで、有り難いことです。

取り扱っていただく卸先も決まり、さらに努力して参りたいと思います。

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「自分の仕事に命を懸けなさい」

7月 25th, 2013
加藤 彰彦(沖縄大学人文学部福祉文化学科教授)

              『致知』2005年6月号
               致知随想より

────────────────────────────────┘

二十代最後の年、放浪の旅から戻ると
一枚のハガキが届いていました。

「万難を排し、ただちに来られよ」

差出人の名前は「森信三」とありました。

大学卒業後、小学校の教師になった私は
子どもたちと過ごす時間が何よりも幸せでした。
教師はまさに天職でしたが、
唯一私を苦しめたのは通信簿でした。

クラスには跳び箱を跳べる子もいれば
跳べない子もいます。

跳べない子たちは、自発的にお昼休みも返上して
一所懸命練習します。
すると、一週間もすれば跳べるようになる。
それは音楽でも鉄棒でも掛け算でも同じです。

しかし成績表をつける時はすんなりできた子が5、
 一所懸命努力して、やっとできるようになった子が1か2……。

「どうしても納得できません。
  少なくともうちのクラスに1や2の子はいません」

私は校長へ申し出ましたが、
「それが決まりですから」の一言でした。

結局、正規の通信簿と別に、
一切評価を書かない私からの手作り通信簿を渡し、
良心のバランスを保っていました。

        * *

そうして五年目、ハッと気づいたことがありました。

私は子どもたちに
「北海道は寒いんだよ」「沖縄は暖かいんだよ」と、
さも知っているかのように教えていましたが、
本当はその寒さも暖かさも経験したことがないのです。

自分はもっと社会を知らなければならない。
そして、「これからどう生きていったらよいか」を
探さなければならない。
その思いを抑えきれず、私は教壇を去り、
放浪の旅へと出たのでした。

北は北海道から南は沖縄まで、
八百屋、土木作業員、サンドイッチマンなど、
ありとあらゆる仕事をしながら、
気の向くままに転々としました。

旅も終盤に差し掛かり、長崎まで流れ着いた時、
お世話になった方から、

「それで、君はこれからどうするの」

と聞かれました。

「もう一度教師をやろうかなと思っています」

と答えると、

「それならこの人に会いなさい。
 教師をやるならこの人抜きでは語れない」

そうして紹介されたのが、森信三先生でした。

私はその場でハガキを書いてポストへ投函。
再び放浪しながら自宅へ戻ると、
森信三先生から冒頭の内容のハガキが
速達で届いていたのでした。

私は取るものも取りあえず
先生のご自宅へ駆けつけました。

当時私は二十九歳、先生は七十歳に近かったと思います。
先生は私を部屋へ招き入れると、

「さあ、こちらへ!!」

と言って、私を上座へ座らせました。
その一連の動作から、先生の「出会い」に対する気迫を感じ、
ただただ圧倒されるばかりでした

その後、何度もお会いするようになりましたが、

先生はいつも毅然としていて、孤高の人でした。
別れ際は

「未練が残りますから、きょうはここで。じゃ」

と言って、決して振り返らずに歩いていかれる。
おそらく、すべてにおいて未練を断ち切って
生きてこられたのでしょう。

厳しい生き方を貫いてこられた背中を見送っていると、
駆け寄って抱きしめたくなることもありました。

        * *

その後、私は中学時代の恩師の勧めで、
横浜の寿町にある生活相談所の職員になりました。
横浜の寿町といえば、有名なドヤ街です。
生活相談所の職員とはいっても、
結局あらゆる相談に応じました。

小学校もろくに通えなかった人もたくさんいて、
勉強がしたいという彼らの要望に応え、
私は無認可の夜間学校を作って教壇に立ちました。
本当に昼も夜もない忙しさでした。

森先生はいつも私を気にかけてくださり、

「あなたの仕事を見てみたい」

とおっしゃっていました。
ある日、関東での会合の帰りに足を伸ばしてくださって、
本当にドヤ街に会いに来られたのです。

ひとしきり相談所での仕事ぶりをご覧いただいた後は、
三畳一間の私の部屋にお泊まりになりました。
教育のこと、仕事のこと、このドヤ街の事情、
森先生は一晩中私の話に耳を傾けてくださいました。

そして、もう明け方が近づいた頃でした。
最後に私は当時一番悩んでいたことを打ち明けました。
それは恋愛のことでした。

ドヤ街での仕事ははっきり言ってきついものがあり、
自分は家庭など持てないと思っていました。
生涯独りで生きていくつもりでしたが、
熱心に言ってくださる方が現れ、悩んでいたのです。

話し終えると、先生は声高らかに笑って、

「これはご縁があるかどうかですね」

と言いました。

「あなたは自分の仕事に命を懸けなさい。
 そうすれば必ず一緒に行く人は現れます。

 相手のことを考え、振り回される人生なら、
 あなたはきっと途中で燃え尽きるでしょう」

そう言って、また笑いました。

私はスッキリして、ドヤ街に骨を埋める覚悟で
働くことを決意しました。
すると不思議なことに、いまの妻が
手伝いに来てくれるようになったのです。

私はあの日の朝焼けの空と、
先生の澄んだ笑い声を
いつまでも忘れることができません。

現在は大学で児童福祉学を教える立場になりましたが、
いつも耳の奥で、

「自分の仕事に命を懸けなさい」


という森先生の声が響いています。

昨年は先生の十三回忌でしたが、
その存在は世間でも私の中でも
ますます大きくなるばかりです。

謦咳に接した一人として
先生の教えの一端でも
受け継いでいきたいと思っています。

ハート・カズラ・・・ラブ・チェーン

7月 23rd, 2013

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本店エリクサー給水所のハートシンク横に『ハートかずら』が、

上から垂れ下がって、納涼の気が流れています。

毎日毎日、成長し続けて床まで落ちる勢いです。

その葉っぱがハート型をして、エリクサーのセンターにピッタリ!

何か惹きつけられる魅力的な光を放っている観葉植物です。

 

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ところが、この苗木が入荷したんです。

とても珍しいもので、初めての販売です。

是非、お部屋に飾って成長を楽しんでください。

ハートが一杯、家に満ち溢れますよ。

 

● 南アフリカ東南部原産のつる性常緑多年草で、

1~2cmのハート型の葉がつるを挟んで左右に1枚ずつ、等間隔に付きます。

細長いつるは同じ太さのまま伸びていき生長がよいと2m近くの長さになります。

その細長いつるとハート型の葉からラブチェーン』の別名があります。

獨 樂 吟

7月 22nd, 2013

獨 樂 吟       橘  曙 覧 

たのしみは草のいほりの筵(むしろ)敷(しき)ひとりこゝろを靜めをるとき


たのしみはすびつのもとにうち倒れゆすり起(おこ)すも知らで寝し時


たのしみは珍しき書(ふみ)人にかり始め一ひらひろげたる時


たのしみは紙をひろげてとる筆の思ひの外に能くかけし時


たのしみは百日(ももか)ひねれど成らぬ歌のふとおもしろく出(いで)きぬる時


たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭(かしら)ならべて物をくふ時


たのしみは物をかゝせて善き價惜(をし)みげもなく人のくれし時


たのしみは空暖(あたた)かにうち晴(はれ)し春秋の日に出でありく時


たのしみは朝おきいでゝ昨日まで無(なか)りし花の咲ける見る時


たのしみは心にうかぶはかなごと思ひつゞけて煙草(たばこ)すふとき


たのしみは意(こころ)にかなふ山水のあたりしづかに見てありくとき


たのしみは尋常(よのつね)ならぬ書(ふみ)に畫(ゑ)にうちひろげつゝ見もてゆく時

 

たのしみは常に見なれぬ鳥の來て軒遠からぬ樹に鳴(なき)しとき

 

たのしみはあき米櫃に米いでき今一月はよしといふとき


たのしみは物識人(ものしりびと)に稀にあひて古(いに)しへ今を語りあふとき


たのしみは門(かど)賣りありく魚買(かひ)て煮(に)る鐺(なべ)の香を鼻に嗅ぐ時

 

たのしみはまれに魚煮て兒等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時

 

たのしみはそゞろ讀(よみ)ゆく書(ふみ)の中に我とひとしき人をみし時

 

たのしみは雪ふるよさり酒の糟あぶりて食(くひ)て火にあたる時

 

たのしみは書よみ倦(うめ)るをりしもあれ聲知る人の門たゝく時

 

たのしみは世に解(とき)がたくする書の心をひとりさとり得し時

 

たのしみは錢なくなりてわびをるに人の來(きた)りて錢くれし時

 

たのしみは炭さしすてゝおきし火の紅(あか)くなりきて湯の煮(にゆ)る時

 

たのしみは心をおかぬ友どちと笑ひかたりて腹をよるとき

 

たのしみは晝寝せしまに庭ぬらしふりたる雨をさめてしる時

 

たのしみは晝寝目ざむる枕べにことことと湯の煮(にえ)てある時

 

たのしみは湯わかしわかし埋火(うづみび)を中にさし置(おき)て人とかたる時

 

たのしみはとぼしきまゝに人集め酒飲め物を食へといふ時

 

たのしみは客人(まらうど)えたる折しもあれ瓢(ひさご)に酒のありあへる時

 

たのしみは家内(やうち)五人(いつたり)五たりが風だにひかでありあへる時

 

たのしみは機(はた)おりたてゝ新しきころもを縫(ぬひ)て妻が着する時

 

たのしみは三人の兒どもすくすくと大きくなれる姿みる時

 

たのしみは人も訪ひこず事もなく心をいれて書(ふみ)を見る時

 

たのしみは明日物くるといふ占(うら)を咲くともし火の花にみる時


たのしみはたのむをよびて門(かど)あけて物もて來つる使(つかひ)えし時


たのしみは木芽(きのめ)煮(にや)して大きなる饅頭(まんぢゆう)を一つほゝばりしとき


たのしみはつねに好める燒豆腐うまく煮(に)たてゝ食(くは)せけるとき

 

たのしみは小豆の飯の冷(ひえ)たるを茶漬(ちやづけ)てふ物になしてくふ時

 

たのしみはいやなる人の來たりしが長くもをらでかへりけるとき

 

たのしみは田づらに行(ゆき)しわらは等が耒(すき)鍬(くは)とりて歸りくる時

 

たのしみは衾(ふすま)かづきて物がたりいひをるうちに寝入(ねいり)たるとき

 

たのしみはわらは墨するかたはらに筆の運びを思ひをる時


たのしみは好き筆をえて先(まづ)水にひたしねぶりて試(こころみ)るとき


たのしみは庭にうゑたる春秋の花のさかりにあへる時々

 

たのしみはほしかりし物錢ぶくろうちかたぶけてかひえたるとき

 

たのしみは神の御國の民として神の敎(をしへ)をふかくおもふとき

 

たのしみは戎夷(えみし)よろこぶ世の中に皇國(みくに)忘れぬ人を見るとき

 

たのしみは鈴屋大人(すすのやうし)の後(のち)に生れその御諭(みさとし)をうくる思ふ時

 

たのしみは數ある書(ふみ)を辛くしてうつし竟(をへ)つゝとぢて見るとき

 

たのしみは野寺山里日をくらしやどれといはれやどりけるとき

 

たのしみは野山のさとに人遇(あひ)て我を見しりてあるじするとき


たのしみはふと見てほしくおもふ物辛くはかりて手にいれしとき

 

「クリントン大統領が取り上げた一首」

7月 22nd, 2013
      武田 鏡村(作家) 

              『致知』2013年8月号
               特集「その生を楽しみ その寿を保つ」より
          http://www.chichi.co.jp/monthly/201308_pickup.html


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「たのしみは 艸(くさ)のいほりの
 筵(むしろ)敷き 
 ひとりこころを 静めをるとき」


(私の楽しみは、世間の喧噪から離れ
 粗末な草葺きの我が家に筵を敷き、
 一人静かに自分を見つめる時である)

この歌は、江戸末期の歌人・橘曙覧の短歌集
『独楽吟』の一首です。

『独楽吟』には五十二の歌が収められていますが、
いずれもこの歌同様に「たのしみは」で始まり、
日常の些細な出来事の中に見出した楽しみが
巧みに表現されています。

人はレジャーやショッピングなど、
外の世界に楽しみを求めますが、
そうした欲求はどこまでいっても満たされることはなく、
そのことによって逆に苦しみを得ます。

人生の楽と苦は一枚の葉っぱの表と裏のようであり、
むしろ苦しみのほうが多いことを
痛感する方も多いのではないでしょうか。

橘曙覧はこの真実の中で、
苦楽の波間に高ぶる心を、
自分で見つめて静めるところに本当の楽しみを求めました。

狭い家の中でも僅かなスペースを見出して、
そこに座って静かに自分を見つめる。
そのゆとりの中から誰にも邪魔されない
楽しみの空間が広がっていく。

字面こそ平易ですが、自分の心に感応させて読むと、
実に奥深いものがあります。

恥ずかしながら、私はこの秀逸な短歌集の存在を
二十年前まで認識しておらず、
アメリカ人を通じて初めて教えられたのでした。

平成六年、天皇皇后両陛下を国賓として迎えた
クリントン大統領が、ホワイトハウスの歓迎式典のスピーチで
取り上げたのが『独楽吟』の一首だったのです。

「たのしみは 朝おきいでて
 昨日まで
 無かりし花の 咲ける見る時」


(私の楽しみは、朝起きた時に昨日までは
 見ることがなかった花が咲いているのを見る時である)

クリントン大統領はこの歌を通して、
日本人の心の豊かさを賞賛しました。
恐らく専門家の意見をもとに盛り込んだのでしょうが、
その判断は見事なもので、
私たち日本人が自らの感性の素晴らしさを再認識し、
知る人ぞ知るこの名作が平成の世に
再びスポットライトを浴びる契機となったのです。

「たのしみは」で始まる『独楽吟』は、
日常のありふれた出来事を「楽しい」と受けとめること。

そうした感性を育むことで、日頃見失っている尊いものを
受けとめられることに気づかせてくれます。

どんな苦境にあっても、楽しみを求める感性があれば、
人生はまさに「楽しみ」に満ちていることを発見できるのです。

私も早速その作品に触れ、たちまち虜になったのでした。