まほろばblog

「意志は技術を凌駕する」

2月 19th, 2012

             高部正樹(元傭兵)

        『致知』2011年12月号「致知随想」
         ※肩書きは『致知』掲載当時のものです

………………………………………………………………………………………………

 一九八八年から二〇〇七年までの十九年間、
 私は傭兵としてアフガニスタン、ビルマ、ボスニアなど、
 世界各地の最前線で戦闘に携わってきました。

 傭兵とは、正規軍兵士と違い、その国の国籍を持たない、
 雇われた外国人兵士をいいます。

 日本ではあまり馴染みのない傭兵という道を
 私が選んだ理由はただ一つ。

「自分以外の誰かのため、何かのために
  命を懸ける強い男になりたい」
 
 
  という一心からでした。

 そう思い立ったのは小学校低学年の頃。
 子供向けの戦記物や特攻隊に関する本を読み、
 国を守るために命を捧げた軍人たちの姿に
 純粋な憧れを抱いたのです。
 
 守るべきものを守り抜く人間になりたい。
 子供心にそう感じた私は、この時、
 将来は絶対軍人になると心に誓いました。

 高校を卒業した後、私は航空自衛隊のパイロットを
 養成する航空学生に運よく合格し、航空自衛隊に入隊。
 しかし、訓練中に背中を怪我してしまい、
 除隊せざるを得ませんでした。

 このまま日本にいても、幼い頃から憧れていた
 自分以外の誰かのため、何かのために戦う
 人間にはなれないと感じ、それならば
 日本の枠にこだわる必要はない、
 海外へ行って傭兵になろうと決意しました。

 ちょうどその頃、ある写真週刊誌に
 アフガニスタン紛争に参加した
 日本人の記事が掲載されていたのです。
 
 それを見た時、私は「あぁこれだ」と思い、
 すぐさま連絡を取ろうと試みました。
 
 なんとか人づてに紹介してもらい、
 その人の事務所に足を運んだのですが、
 私が何を言っても「やめたほうがいい」の一点張り。
 結局、相手にされず、追い返されてしまいました。

 しかし、絶対に傭兵になると腹の底から決めていた私は、
 パスポートとビザ、パキスタン行きのチケットを手に、
 出発の前日、再び事務所へ向かいました。

 「どうにもならないかもしれないけど、
  とにかく向こうに行って、自分で道を探してみます」

 私が決意のほどを伝えると、

 「ここの事務所にもお前みたいなやつが何人か来たことがある。
  でも話を聞きに来るだけで実際に行った奴は一人もいない。
  だから俺は最初、お前を追い返した。
  
  だが、お前はパスポートもビザもチケットも持ってきた。
  お前は百万人に一人の人間かもしれない」

 そう言って、現地の事務所に向けた紹介状を書いてくれました。
 そして二十四歳の時、安定した将来も、お金も、
 何もかも捨てて、私は身一つで海外へ飛び出しました。

 一九八八年、当時ソ連の侵攻を受けていたアフガニスタンに
 単身で乗り込み、ソ連軍との戦闘に参加。
 一九九〇年代には、ビルマ(現・ミャンマー)軍事政権から
 独立を目指すカレン族の解放軍に加わりました。

 最前線は、まさに死と隣り合わせです。
 アフガニスタンにいた時は、ソ連軍の戦闘ヘリコプターに襲撃され、
 打ち込まれたロケットがすぐ近くで炸裂。
 
 その破片が背中に突き刺さり、負傷しました。
 あと二、三秒逃げ遅れていたら、直撃して死んでいたかもしれません。

 またある時は、倉庫のような建物の窓から
 敵を銃撃していたのですが、その建物に迫撃砲が着弾。
 すぐ隣の窓にいた仲間二人が死んでしまいました。
 
 私は瓦礫の下敷きになっただけで済んだのですが、
 もしポジションが逆だった場合、
 その砲弾は私に当たっていたわけです。

 最前線を生き延びるかどうかは確率の問題です。
 どんなに経験や訓練を積んでも
 死ぬ確率をゼロにすることはできません。

 しかし、最後に生死を分けるのは人間の意志だと思います。
 これは私が十九年間、最前線を生きてきた中で得た実感です。

 その中で一つの判断にしていたのが遺書です。
 遺書を書いた仲間たちは不思議なほどに死んでいきました。
 絶対に生き残ろうと思えば遺書を書こうとはしないはずです。
 
 遺書を書くということは、心やイメージが死ぬほうへ
 向かってしまっているということでしょう。

 負傷した時も同様です。
 例えば、地雷は運が悪くても
 膝から下が飛ばされる程度の威力なのですが、
 中にはそれだけでショック死してしまう人間がいる。

 「俺は絶対に死なない。絶対に生き残る」
 
 と強く思っている人間は、やはり死にづらいのです。
 最前線を戦う兵士は人殺しの訓練を
 十分に受けたプロフェッショナル。
 
 仮に技術が互角だとしたら、そこで勝敗を決するのは心です。
 相手を圧倒する気迫がなければ、生き残ることはできません。

 私が大切にしている信条の一つに
 
 
 「意志は技術を凌駕する」
 
 
 という言葉があります。

 最前線だけでなく、人生のあらゆる戦いの場で最も重要なのは、
 その人間の意志なのです。
 
 何かをやろうとする時、まず為すべきことは
 技術を磨くことではなく、自分の意志を固めることだと思います。

 それはつまり、捨てる覚悟を持つということです。
 私は傭兵になるためにすべてを捨てました。
 
 あれもやりたい、これもやりたいなどと欲張っていては、
 結局どれも中途半端に終わってしまうだけなのです。

 私たちに与えられた命は一つ。
 その命は使ってこそ意味があると思います。
 傭兵を引退して日本に帰ってきたいま、
 これからの人生は祖国日本のために
 自分の命を精いっぱい尽くしていきたいと思っています。

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私見 まほろば主人

最近、韓国映画「ロードナンバーワン」を観ているが、

私が生れた1950年に興った、あの朝鮮動乱、

南鮮の北進の凄まじい戦闘状況を描いているのだが、

主人公が死地にあっても失敗せず、不思議と生き残るのは、

何故か?と問われた時、平壌に待つ恋人に只管会いたい一心で

闘っている、との一言が、こうも運を開くのか、と思ったものだ。

そこに、高部氏の命がけの生き方の中に、同一のものを感じた。

それは、意志であり、志なのだろう。

成功するには、

「何をしたいか」

「何になりたいか」

という強烈な思い入れが必要だと、言っている。

「オリンピックで勝つための勝負脳の話」

2月 16th, 2012

        
       
 林 成之 (日本大学大学院総合科学研究科教授)
        
        
   『致知』2009年1月号
                  特集「成徳達材」より────────────────────────────────────

競泳日本代表の上野広治監督は
ここで手を抜くことなく、
もう一度オリンピック1週間前の韓国済州島での合宿で、

「オリンピックで勝つための勝負脳の話」

をしてほしいと要請してこられました。
無論、二つ返事で引き受けました。

人間の考え方一つで能力を
最高に発揮する脳の仕組みをまとめて
紹介したかったためです。

これまでで印象的だったのは、監督に呼ばれ、
春の国内選考会を見に行った時、
残り10メートル手前までは
体半分世界新記録や日本新記録より前に出ているのに、
残り数メートルになると、測ったように遅れ、
記録を取り逃がしている光景を目にしたことでした。

私はすぐ気がつきました。
これはみんなゴールをゴールだと思っているなと。

    (中略)

つまり残り数メートルはオリンピック選手ではなく、
普通の選手になってしまう
脳のピットホール(落とし穴)にはまる。

【記者:では、ゴールの時はどうすればよいのでしょうか?】

選手にも

「突き指してでも壁の向こう側をゴールだと思うんですか」

と質問されましたが(笑)、私は人間の本能を
使いましょうと言ったんです。

人間には

「生きたい」

「知りたい」

「仲間になりたい」

という3つの本能があるんですね。この

「仲間になりたい」

を使うんです。

かつて「刀は武士の魂」といって、
命懸けで戦う時に刀を抜きました。

それは刀そのものを魂といったのではなく、
自分が刀となって戦うからそう表現したのです。

同じように、残り10メートルは

「マイゾーン」

として、水と仲間となり、
一体化して泳いでくれと。

練習中も、このゾーンは自分が
最もカッコよくゴールするために、
ゴールの美学を追求しながら泳いでほしいと言ったのです。

多くの人は

「命懸けで頑張ります」

と口で言いますが、
命懸けで脳が働くシステムを使っていないのです。

勝負の最中、前回のアテネオリンピックではこうだった、
昨日コーチにこう注意されたなどと考えながら勝負をする。
これは作戦を考えながら戦っているので
命懸けの戦いにならないのです。

命懸けの戦いとは、過去の実績や栄光を排除し、
いま、ここにいる自分の力がすべてと考え、
あらゆる才能を駆使して
勝負に集中する戦い方をいうのです。
これには「素直」でないとできません。

素直でない人、理屈を言う人はあれこれ考え、
その情報に引っ張り回されます。
素直な人は、過去も未来もない、
いまの自分でどう勝負するかに集中できるのです。

 「魅力ある経営者たちに共通したもの」

2月 15th, 2012

  城山 三郎 (作家)

      『一流たちの金言』より
  ─────────────────────

日本信販の山田光成さんは
断られても断られても百貨店に通い詰めて、
とうとう何社かを説得して契約し、
日本信販をスタートさせる。

口で言ってしまえば簡単です。

だが、百貨店と契約するまでには
筆舌に尽くし難い苦労があったはずです。

いろいろなアイデアを抱く人はたくさんいます。
だが、それを創業に持っていき、軌道に乗せられるかどうかの
境目はここなんですね。多くはここを乗り越えられず、
アイデアは単なるアイデアで終わってしまう。

(その境目を乗り越えさせるものは)
「魔」でしょうね。

情熱と言ってもいいし狂気と言ってもいい。
何かをやるなら「魔」と言われるくらいにやれ、
「魔」と言われるくらいに繰り返せ、ということです。

渋沢栄一は埼玉の農家から出てきて一橋家に仕える。
侍になりたいんですね。
ところが、割り当てられたのは勝手番。
これでは上の人と話し、認めてもらうチャンスがない。

だが、上の人が毎朝乗馬の訓練をする。
この時なら話すチャンスがあるということで、
渋沢は馬と一緒に走って自分の思いや考えを上の人に話す。
毎朝それをやる。
すると、あいつは見どころがあるということで、
そこから彼の人生は開けていく。

渋沢は3つの魔を持っていた。

吸収魔、建白魔、結合魔です。

学んだもの、見聞したものをどんどん吸収し、
身につけてやまない。
物事を立案し、企画し、それを建白してやまない。
人材を発掘し、人を結びつけてやまない。
   
普通にやるんじゃない。大いにやるのでもない。
とことん徹底して、事が成るまでやめない。
そういう「魔」としか言いようのない情熱、狂気。

根本にそれがあるかないかが、
創業者たり得るか否かの分水嶺(ぶんすいれい)でしょう

心も発酵

2月 14th, 2012

 かわいいでしょう。

「心が発酵すると味な人生になる」・・・・・・・

『発酵仮面』こと小泉武夫先生から、上の猫ちゃんのハガキが届きました。

2月のたより「福島の奇跡、奇跡の福島」の記事をお送りしたからです。

先生の御実家は江戸時代からの造り酒屋で、倒壊して已む無く郡山に移転されたのです。

茨城大の中島教授の報告で、福島の農産物は、不思議と低線量であることが判明して、

同郷人として胸を撫で下ろされました。

 

放射能に発酵食品が有効であることが伝播されて、

今、空前の麹ブームです。

まほろばでもオリジナル『麹の力』を造っています。

また、4,5月には、オリジナル「しお麹」が販売されます。

有機米に七五三塩、そしてエリクサー水で醸した物です。

それと、その蔵元伝来の酵母が、何処にもない独特な物なので、

今から楽しみですね。

お待ち下さい。

「東の光」続々と

2月 14th, 2012

農園を手伝っていて下さった竹縄さんが

畢生の句集「東の光」を編んでから11年の歳月が流れた。

その後、毎年溢れる珠玉の俳句は付録Ⅰ、Ⅱ、Ⅲと増刷され、

さらに昨年紡がれた句付きの帯が巻かれ、

今年、友の画をカードとして新作が綴られている。

汲めど尽きせぬ詩情は、生涯涸れる事がないのでしょう。

 

           (句集「東の光」 ¥1.500 まほろば取り扱い)

 

   「東 雲」    竹縄 律子

戻らざるチェルノブイリや十月耒

眼鏡拭き言葉失ふ秋の道

福島の次世代如何に秋曇る(2011.10.15)

 

終の地を離るものかは秋の風

時すでに世界の俳句秋の空

日溜まりに裏返す服ほどく秋

はなむしとせせこましきやあきのそら

薪ためて嫌ひて戻らぬ女道

さばさばとしてぱぱもよき冬仕度

芸術の秋や終活すすむ足

秋深く世界の変はる時を待つ

阿波の三代目同志の帯の夏

一巻は第二芸術ならず 夏

故郷の夏「交差点」出す友のゐて

ばば虎が天女と言えず喉仏

もう本に使えぬ暮らし大根買ふ

日を背に縄の目締めて懸大根

猿のごと素足で枝切る秋日中

疲れただ動いてとる秋ワインのむ

松手入れして緑濃く秋日受く

まことのほか俳諧なし筆納め(2011.10.31)

背骨なきTPP論毛糸編む

食の変代謝を乱す震災忌

編むしごと待つあそびして根雪前

日は少し長くなりつつ十二月

俳諧に四道を通す雪の街

ローカルの礎揺るがぬ雪の街

年の内世界に価値を問ふかぎり(2011.12.6)

 

呼吸浅き師走の饒舌みな流す

通過地に戻ることなき雪の道

極月の天女の服で平和待つ

団欒のノート新たに年の内

熊楠の棟の花に逢ひにけり

ブータンの空青く澄み換気閉づ

会寧に送る一心春を待つ

姑よりの雪の結晶ペンダント

明け際の夫の笑顔や冬至耒る

花は夫実は人類に大掃除(2011.12.24)

手作りの道をすすめる初句会

みな病めば涸れたる泪豪雪期

想像のたよりなき山一月尽

生かし合ふ二月の陽差し待つ校正

廻し読む顔と手と足日脚伸ぶ(2012.131)

 

初句会のうしの正夢師を離る

名のままに自立の叶ふ神の旅

「まほろば」の油の進化麻になる

護摩焚きの寺いっぱいの節分会

産直の荷に積む一書震災忌

眠る山豆乳パーティみそ作り(2012.2.5)

サクラ サル

2月 14th, 2012

隣の授産施設「よろこびの家」の詩人・コンチャンこと、

境沢勉さんたちが、諸事情で別の施設に移る事になった。

毎日、店内の掃除を厭うことなく明るく続けて来られた。

そんなコンチャンたちも、明日でお別れ。

淋しいなーーー。慰労会には何時も参加して同じ仲間内だった。

コンチャンが最後に詩を今朝、手渡してくれた。

  

   

 

桜の花びら

世界中に幸せと

日本の心を

みんなに分けて下さい 

桜は本当に

美しい花

日本の象徴です

 

桜は愛です

世界中にほほえみと

このよろこびを

みんなに届けて下さい 

桜は本当に

美しい花

日本の宝です

 

桜が散る時

来年までさようなら

美しい花

皆なの心のおまもりです

 

(桜でなく梅なんですけど・・・・

『梅が香にのつと日の出る山路かな』 芭蕉

夭折の俳人・住宅顕信

2月 13th, 2012

1961年生まれ、満25歳の87年に死去した住宅顕信(すみたくけんしん)。

死後、句集「未完成」が刊行された夭折の俳人だった。

中卒後、調理師学校、市役所に勤務、そして22歳で出家得度。

結婚後、白血病で入院して離婚。その後、句作に励み、自由律の俳句は、

かつての山頭火や放哉を思い出す。

その短くも、儚い年月に、書き刻んだ句々。

「気の抜けたサイダーが僕の人生」

「水滴のひとつひとつが笑っている顔だ」

「春風の重い扉だ」

「地をはっても生きていたいみのむし」

「捨てられた人形が見せたからくり」

「若さとはこんな淋しい春なのか」

「合掌するその手が蚊をうつ」

「点滴と白い月とがぶらさがっている夜」

「レントゲンに淋しい胸のうちのぞかれた」

「かあちゃんが言えて母のない子よ」

「抱きあげてやれない子の高さに坐る」

「鬼とは私のことか豆がまかれる」

「夜が淋しくて誰かが笑いはじめた」

「ずぶぬれて犬ころ」

「洗面器の中のゆがんだ顔すくいあげる」

「何もないポケットに手がある」

新聞で、初めて知った顕信だが、

若くして、何気ない言葉に、意味を吹き込めたのは、

やはり、苦悩の淵を歩んだからであろうが・・・・。

救い難い若さが、生き続けて、

やがて諦念の言葉がどう紡ぎ出されるか、

見届けたかったのも、一方にある。

韓国からお客様

2月 13th, 2012

㈱木曽路物産の鹿野社長が、韓国から旧友をお連れしてのまほろば訪問。

昨夜は、雪祭りの最終日。

「冬のソナタ」を思わずにはいられない、ロマンチックな札幌ビール園での雪景色。

底冷えする厳しい寒さが、一層美しい景色を演出する。

北海道人としても、なかなか見れない光景であった。

鹿野社長とは25年来の韓国のお友達で、慶尚北道柔道会の李相胎副会長は、

大学の先生でもあり、サプリメントでは第一人者で、漢方に造詣が深い。

生薬会社の金善益代表は、チベット・モンゴル・韓国に亙る漢方・健康食品の原料から

製品まで熟知して、知らない事はない。

鹿野社長とは、松茸の交易で、長い交友関係が続いている。

今後、このご縁で、また世界が広がるのであろう。

日韓の歴史の事、文化のこと、映画、音楽、食の事など・・・・

共通し共感する所が多く、一遍に心が開かれ、打ち解けあう。

反日反韓でわだかまる中、真の友達でいることの幸い。

これから、両国の架け橋としてお手伝い出来ればと思っている。

朝から、経理部長の斉藤秀子さんによる韓国語講座を開いて、にわか仕込み。

アンニョンハセヨ(こんにちは)、アンニョンヒカセヨ(さようなら)、そして、

トマンナヨ(また会いましょう)をみんなで頭に入れる。

しかし、泊まるなよ(?)がまた会いましょう、とは面白い。

顔を会わせるなり、言葉が飛んでしまっている。

でも、一言の言葉が、両国の心を開いて、親しくさせる。

どんなにか、笑顔に笑顔が増えた事だろうか。

今日の主役は斉藤さん、日頃の韓国語勉強(今はフランス語だけど)役に立ったね。

「積極歓迎」の垂れ幕も、直前にみんなして調べて書いて垂れ下げた俄か作り。

でも、そんなみんなの心が、通じたのか、とても楽しい友好が出来た。

ありがとうございます、このご縁、そしてみんなの協力。

3月、韓国行きがあるかもしれません。

「熊本の名校長・最後の授業」

2月 13th, 2012

                                   

大畑 誠也

(九州ルーテル学院大学客員教授)
        
            『一流たちの金言2』より~
            ───────────

私が考える教育の究極の目的は
「親に感謝、親を大切にする」です。

高校生の多くはいままで自分一人の力で
生きてきたように思っている。
親が苦労して育ててくれたことを知らないんです。

これは天草東高時代から継続して行ったことですが、
このことを教えるのに一番ふさわしい機会として、
私は卒業式の日を選びました。

式の後、三年生と保護者を全員視聴覚室に集めて、
私が最後の授業をするんです。

そのためにはまず形から整えなくちゃいかんということで、
後ろに立っている保護者を生徒の席に座らせ、
生徒をその横に正座させる。
そして全員に目を瞑らせてからこう話を切り出します。

「いままで、お父さん、お母さんに
 いろんなことをしてもらったり、
 心配をかけたりしただろう。
 それを思い出してみろ。
 
 交通事故に遭って入院した者もいれば、
 親子喧嘩をしたり、こんな飯は食えんと
 お母さんの弁当に文句を言った者もおる……」
 

そういう話をしているうちに涙を流す者が出てきます。

「おまえたちを高校へ行かせるために、
 ご両親は一所懸命働いて、
 その金ばたくさん使いなさったぞ。
 
 そういうことを考えたことがあったか。
 学校の先生にお世話になりましたと言う前に、
 まず親に感謝しろ」

そして

「心の底から親に迷惑を掛けた、苦労を掛けたと思う者は、
 いま、お父さんお母さんが隣におられるから、
 その手ば握ってみろ」
 
 
と言うわけです。

すると一人、二人と繋いでいって、
最後には全員が手を繋ぐ。
私はそれを確認した上で、こう声を張り上げます。

「その手がねぇ! 十八年間おまえたちを育ててきた手だ。
 分かるか。……親の手をね、これまで握ったことがあったか?
 おまえたちが生まれた頃は、柔らかい手をしておられた。
 
 いま、ゴツゴツとした手をしておられるのは、
 おまえたちを育てるために
 大変な苦労してこられたからたい。それを忘れるな」

その上でさらに

「十八年間振り返って、親に本当にすまんかった、
 心から感謝すると思う者は、いま一度強く手を握れ」
 

と言うと、あちこちから嗚咽が聞こえてくる。

私は

「よし、目を開けろ。分かったや?
 私が教えたかったのはここたい。
 親に感謝、親を大切にする授業、終わり」
 
 
と言って部屋を出ていく。
振り返ると親と子が抱き合って涙を流しているんです。

 「小さな電気屋の明るい経営術」

2月 12th, 2012

     
             山口勉(でんかのヤマグチ社長)

        『致知』2012年2月号「致知随想」
         ※肩書きは『致知』掲載当時のものです
                   http://ameblo.jp/otegami-fan/

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地元に大型量販店がくる――。
 
こんな話が私の耳に飛び込んできたのは、
町の電気屋「でんかのヤマグチ」が東京都町田市で、
創業三十年を過ぎた平成八年でした。

「噂で終わってくれ」

と願ったのも束の間、近隣にあっという間に
六店もの大型量販店ができたのです。

三十年以上商売をしてきた経験から、
売り上げが年に三十%近くも落ちることが見込まれ、
事実、三、四年の間に借金は二億円以上にまで膨れ上がっていきました。

まさに、会社が存続するか否かの瀬戸際です。
生き残るためにはどうするか。

悩みに悩んで私が出した結論は十年間で粗利率を十%上げ、
三十五%にすることでした。

当時大型量販店の粗利率の平均は約十五%で、
地元の電気屋が約二十五%程度でした。

周りからは、

「そんなことできっこない」

という声が
大多数でしたが、それ以外に
生き残りの術は浮かばなかったのです。

私がまず決めたのは、大型量販店のように
商品を安売りするのではなく、
逆に「高売り」することでした。

この頃当店は約三万四千世帯のお客様に
ご利用いただいていましたが、
これだけの数では本当の意味で
行き届いたサービスはできません。

そのため商圏をなるべく狭くし、
ターゲットを五十代からの
富裕な高齢者層に絞り込んで三分の一にまで縮小しました。

そして一万二千世帯のお客様には
他店では真似できないようなサービスを
とことんしようと決めたのです。

顧客数を三分の一に減らした分、
月一度行っていた訪問営業を月三回に増やす。

これによって、お客様との深い人間関係ができ、
商品が少々高くても購入してくださる方が
増えるだろうと考えたのです。

訪問の際にお聞きするのは、
お客様が生活される上での
ちょっとしたお困り事についてでした。

ひと昔前の日本では何か困り事があると
隣近所で助け合い、支え合うという
相互扶助の精神が息づいていました。

私が着目したのはこの部分です。

家電製品のデジタル化が進む一方で、
地元民の高齢化もどんどん進んでいました。

当然、家電の操作が思うようにできない方も多くなりますが、
お客様のお困り事はそれだけに限りません。
ご高齢、体の不自由な方は買い物に行くのも大変です。

そのため、当店では本業とは無関係なことも
徹底してやらせていただくようにしたのです。

お客様の留守中には植木の水やりをしたり、
ポストの手紙や新聞を数日保管したり、
大雨では代わりに買い物にも出掛けたり。

これらを我われは「裏サービス」と呼び、
お代は一切いただきません。

会社のモットーも

「お客様に呼ばれたらすぐにトンデ行く」

「お客様のかゆいところに手が届くサービス」

「たった一個の電球を取り替えるだけに走る」

などに定め、

「どんな些細なことでも言ってくださいね」

とお声がけをしながら十数年、社員パート合わせて
五十名で徹底して取り組んできました。

ただしお客様との信頼関係は
一朝一夕にできるものではありません。
私が粗利率の目標達成期間を一年や二年でなく、
十年としたのもそのためです。

悪い評判に比べ、よい評判が広がるには
かなりの時間がかかります。
しかし、この姿勢を愚直に、ひたむきに
貫いていったことで、結果的に
八年間で粗利率三十五%を達成することができました。

その目標達成のため、とにかく無我夢中で
取り組んできた私ですが、
この方向でいけるかなとなんとか思えるようになったのは、
粗利率を十%上げる方針に転換して
三、四年が経過してからのことでした。

経営者として小さな電気屋が六店舗もの
大型量販店との商売競争に勝つために
いったん決断はしたものの、
本当にそんな粗利率をクリアできるのか、
お客様は本当に買ってくださるだろうか、と悩み続けました。

「この判断は正しい」

「いや、ダメだ。うまくいかない」

という思いが年中、頭の中で争いをしているような状態……。
しかし、いつも最後には

「この道が正しいんだ」

という考えが勝ちを占めるよう心掛けました。

肝心なのは一度この道を行くと決めたなら、
途中で迷わないことではないでしょうか。
思うように結果が出ないと、
あの道もこの道もよさそうだと目移りしますが、
そのたびに

「成功するまでやってみよう」

と自分に言い聞かせる。

急ぐことはなく、ゆっくりでいいから
とにかく一歩一歩を着実に歩んでいくことが大事だと思います。

会社の存続が危ぶまれた大型量販店の出現から十四年。
しかしこの間、赤字決算が一回もないことには
我ながら驚きます。

さらに、一生返せないと思っていた
二億円以上の借金を三年前に完済することができました。

人間はとことんまで追い詰められ、
地べたを這いずり回るような思いで
必死になって取り組むことで
活路が開けるものなのかもしれません。

もしあの時、量販店がこの町田に来ていなければ、
今日のような高売りをしているとは考えにくく、
そう考えると逆にゾッと寒気すらします。

現在の日本も不況が続き、
出口の見えないような状況が続いています。

しかしデメリットばかりに目を向けて
内向き思考になってしまっては、
せっかく転がっているチャンスも逸してしまいます。

いまある常識やこれまでよしとされてきたことも、
本当にこれでいいのか、と根本から疑ってみることで、
チャンスが見つかることも少なくないはずです。

現状を打破する発想は、
ピンチの中にこそ生まれるのだと思います。