まほろばblog

Archive for 2月 1st, 2014

新年おめでとうございます!!!

土曜日, 2月 1st, 2014

 

 

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「新年あけましておめでとうございます」

こっちのほうが、本当かもしれません、自然の摂理では。

昨日は、旧暦正月元旦、今日は新暦で2月1日。

おめでた連続です。

張り切らざるを得ません。

30日に、社員会議をして、みんなでこれからの

まほろばのあり方を話し合い、気持ちを一つにしました。

とても好い感じで、嬉しくなりました。

明けて、昨日は元旦。

しかも新月で、地球のエネルギーがピークに達する日。

これは、逃せられません。

初釜、初火入れ、セラミックの焼き始めとしました。

また素材の仕込みも数ヶ月ぶりに出来ました。

おめでたい仕事初めに、良き1年を祈りたいと思います。

「美しい日本、日本の美しさ」森下自然医学 2月号

土曜日, 2月 1st, 2014

 

自然医学 2014

長寿郷 2014 1

 

 

「森下自然医学」2月号。

巻頭を飾るは、中国広東省「蕉嶺長寿郷」のグラビア写真。

次々と中国からの調査依頼で招聘される会長。

民間レベルでの日中友好関係に期待したい。

新春対談 2014、1

森下会長に、船瀬さん、増川さんを加えた鼎談後半。

現代医学に警鐘を鳴らし、森下医学の世界発信が急がれていること、

また英訳して出版すれば、受け入れられる時代背景にあることを力説。

先日「万能細胞」が発見され、益々腸造血論が注目されるのでは!

 

感じる力 2014 1

増川さんの「感じるちから」。

「ミタークゥイー・オヤシン」というホピ族の祈りの言葉は、

一切のイノチを私達は繋がっているという内容。

食べものよりも、何よりも大切なのが、祈り。

その挙動は、まるで古い日本人の礼儀正しさを見ているかのようだった、という。

きっと、原日本人もホピも同族だったのでしょう。

医の眼 2014 1

山田さんの「ヒポクラテスの目」。

グルタミン酸ナトリウム、「味の素」が、

世界の民族の味を侵食し、崩壊させたという話。

小泉先生が、東南アジアの奥地でも、

白いグルソーが使われて、絶望的になったことを話されていた。

この日本人としての業をどう購えばよいのだろうか。

医をめざして

 

「医を目指して」は、腰痛について。

誰もが、一度は経験済みのことでしょう。

8割がた、原因不明とか。

しかし、東洋医学では、ストレスと運動不足という。

ある先生は、腰痛は怒りであると断言してはばからない。

心の内側に溜め込んだ怒りの爆発かもしれない。

まさに、心の病いだったのか。

 

倭詩 2014 1

 

今回の「倭詩」は『美しい日本、日本の美しさ』のその一。

3,4回にわたってのシリーズ。

主に、日本人からの日本論でなく、外国人が見た日本を連載。

明治維新頃に入国した多くの外人は、

日本をこよなく絶賛し、愛している。

自虐史観でうらぶれている日本人に希望と自覚を与える

粒よりな言葉の数々に癒され呼び起こされる。

 

道新「GM大豆問題・・・・」まほろばの事々

土曜日, 2月 1st, 2014

28日の道新「食の大地」欄に,

遺伝子組み換えなしの「非GM大豆」による納豆・豆腐生産の状況を取材している。

その中で、まほろばも取り上げられている。

 

大豆新聞

 

 

米国では、GM遺伝子組み換え大豆の生産量が年毎に増加して、

さらに中国、ロシア、東南アジアの需要の伸びと、米国の旱魃で、

非GM大豆の値段の高騰は続き、今約2割高になっている。

それに伴い、製品も5~10%値上がり、また業者は26%も減少。

それで、道産物が注目されている。

その全体的な流れの中で、まほろばは30年ほど前から、

士別の澤田さんと手を組んで、オリジナル豆腐を作って提供している。

また、池田さんの有機大豆も使って納豆を。

さらに、これらの集大成が、醤油であり、味噌でもある。

今後、GM大豆が世界を席捲したら、国内の状況がどう変化するか、心配でもある。

 

さらに隣の欄に「ホタテの貝殻」で作った歯磨き粉『シェルピカ』が、

偶然に掲載されていた。

これも、道産物として、大切な商品でもある。

日本の偉人・塙保己一の生涯

土曜日, 2月 1st, 2014

「ヘレン・ケラーが尊敬した 

日本の偉人・塙保己一の生涯」

         
※『致知』2014年2月号
特集「一意専心」総リードより

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塙保己一は延享3(1746)年、
武蔵国児玉郡保木野(現・埼玉県本庄市)に生まれた。

生家は裕福な農家だったが、
5歳の時、思いがけない病魔に襲われる。

目が次第に光を失っていったのだ。

母・きよは保己一を背負い、
片道8キロの道を一日も欠かさず
藤岡(現・群馬県藤岡市)の医師のもとに
通い続けた。

なんとしても我が子の目を
治したい一念だった。

しかし、保己一は7歳で
完全に失明した。

さらに、12歳で最愛の母が
亡くなってしまう。

保己一は杖を頼りに毎日墓地に行き、
母の墓石に向かって泣き続けた。

涙の中で一つの決意が生まれた。

江戸に出て学問で身を立てよう。

保己一は耳にしたことは
すべて記憶するほどの
抜群の記憶力の持ち主だったのである。

保己一の情熱は父を動かした。

絹商人に手を引かれ、
保己一は江戸に旅立つ。
15歳だった。

江戸時代、盲人の進む道は限られていた。
検校(けんぎょう)という役職者に
率いられた盲人一座に入り、

按摩(あんま)や鍼灸(しんきゅう)の修業をする、
琵琶や三味線の芸能に勤しむ、
あるいは座頭金という金貸しの知識を学ぶ、

などして世渡りの技能を身につけ、
互いに助け合って生活していく
仕組みになっていた。

選べる職業はそれだけだった。

保己一もまた雨富須賀一検校の
盲人一座に入門した。

だが、保己一の望みは学問である。

悶々とした日々が続き、
思い切って師匠の雨富検校に本心を明かす。

「私は学問がしたいのです」。

破門覚悟の告白だった。

保己一の幸運はこの雨富検校に
出会ったことだった。

「人間、本心からやりたいことに
打ち込むのは結構なことだ」

と検校はいい、
学問することを許されたのである。

保己一の目覚ましい研鑽が始まる。

目が見えない保己一は
誰かに本を読んでもらうしかない。

全身を耳にし、
耳にしたことはすべて身につけていく。

盲目の身で学問に励む少年がいる、
とたちまち江戸の町の評判になった。

* * *

その後、保己一はいかにして
大学者への道を切り拓いていくのか。

その人生からいまを生きる私たちが
学ぶべきものとは――。

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