まほろばblog

Archive for 12月, 2013

これぞ!西郷ドンか?

土曜日, 12月 21st, 2013

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今、原稿を書いていて、明治期の写真を何気なく見ていると、

何と、そこに西郷隆盛とおぼしき御仁が座しているではないか。

左は島津家の子息たちで、右に立っているのは大隈重信の若い頃。

西洋画家が描いた西郷像が一般に流布されているが、

この写真こそ、西郷さんに相応しい風貌と雰囲気を伝えているのではないか。

何とも、今まで知らされていなかったことが不思議だ。

それ にしても、明治が今いきいきと蘇るようなことに出会っている。

その答えは、来春をお楽しみに・・・・・。

 

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「海外から逆輸入されるメイドイン山形」

金曜日, 12月 20th, 2013

佐藤正樹(佐藤繊維社長)

※『致知』2014年1月号
特集「君子、時中す」より

 

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当社はもともと山形で
糸作りとニット製造をやっておりまして、
曾祖父が羊を飼ってウールの紡績業を
始めたのが最初です。

祖父の時代に工業化を進め、
父がニット製造を始めました。
私は4代目として後を継いだのですが、
ちょうどその頃から日本の繊維業界は
急激な勢いで衰退し始めたんです。

それまで私は東京のアパレル会社に勤務していましたが、
帰郷していきなり大変な場面に遭遇したわけです。

ニットという分野は繊維製品の中でも加工賃比率が高いので、
不況となると人件費の安い海外に
生産拠点を移すケースが多いんです。

私たちもこのまま日本で製造を続けるか、
海外に生産拠点を持って行くか、
いろいろと悩みましたが、
やはり国内の製造は守らなくてはいけないというので、
そのまま製造を続けることを決めました。

(中略)

山形に戻って4、5年経った頃でしょうか、
私はある糸に魅せられました。
これはどこで作ったのだろうと問い合わせてみたら、
取り引きのあったイタリアの工場の糸だと。

自分のところにしかないオリジナルの糸を作る上で
ヒントを得られるのではないかと思った私は、
イタリアに飛びました。

ちょうど世界の糸の最高峰と呼ばれる
ピッティ・フィラーティー展が開かれていたので、
それに合わせて糸を作っていたメーカーを訪問したのですが、
この時、私は大変な衝撃を受けたんですね。
人生の一番の転機になったのはこの時だったかもしれません。

驚いたことに、工場に並んでいたのは
我が社で使われているのと変わらない機械でした。
その代わり、どの機械にも職人たちが加えた
独自の工夫の跡があったんです。
ギアなどの部品を替えたりしながら、
独自の糸を作っているわけです。

工場長が親切な人で
「この糸を手に取ってご覧なさい」
と実際に糸を触らせながら、
この糸がなぜここまで美しくなるのか、
どうやって製造するのかといったことまで、
実に細かく丁寧に説明してくれました。

私の目を見て熱く語る
工場長の姿を見ながら、思いましたね。

「ああ、俺たちはアパレルに言われるがままに
物作りをやっているけれども、
それとは全く別の発想で生きている人だ」と。

そう考えていたら、工場長は
「私たちが世界のファッションのもとを作っているんだ」
と力強く言うわけです。
この言葉も衝撃的でした。

だって日本でいう工場のイメージは
「これを作ってくれ」
「はい分かりました」
と黙って頭を下げる、というものでしょう。

だけど、この工場長にはそういう雰囲気は微塵もない。
自信と誇りに満ち溢れていました。

「物作りの現場から世界を変えていくことは不可能ではない、
自分もこの道を歩いて行こう」

と強く思ったのはこの時が最初でした。
早速社員を集めて
「俺たちも人から言われたものではなく、
自分たちだけの糸を作ろうじゃないか」
と訴えました。

でも反応は冷ややかでしたね。
「社長の息子がイタリアにまで行って
変な風邪に感染されて帰ってきた」と(笑)。

いま思うと、新しいオリジナルの製品を作るのも大変でしたが、
それ以上にスタッフの心を変えていくのが大変でした。

* * *

その後、佐藤さんはいかにして社員の心を変革し、
世界から認められるオリジナルのニット製品を生み出したのか。

続きはぜひ『致知』1月号P60をご一読ください。

自然医学誌『故郷忘じ難く・・・・』

火曜日, 12月 17th, 2013

自然医学 2014・1月 表紙

「森下自然医学」1月号が届きました。

新春鼎談は、会長と船瀬さんと増川さん。

「現代西洋医学はなぜ病気を治せないのか」前篇。

ワクチン問題、iPS細胞の限界、抗ガン剤は毒ガス兵器・・・・等々、

過激発言が飛び交う面白い内容です。

自然医学 2014・1月 鼎談

 

北海道在住の元毎日新聞社記者の山田寿彦さんの

「ヒポクラテスの目」シリーズ『食文化が破壊される構造』。

和食が世界無形文化に登録される一方、食材表示偽装事件の発覚。

ホテルで出される和食は、本当に和食なのか、大丈夫なのか?

という疑問が沸く、何とも皮肉な時の巡り合せに、一石を投じられている。

自然医学 2014・1月 ソクラテス

 

今回の「倭詩」は、歴史的日中韓問題を取り上げた。

それは、古代中国人と原日本人の融合の時代があったこと。

そして、古代から中世にかけて朝鮮人の大挙渡来があり、

いずれも現日本人の血に流れている事実。

それを直視することなしに、この国家間の問題は語れないことなど・・・・。

今「利休にたずねよ」が封切られたこともあり、その問題が突きつけられている。

自然医学 2014・1月 倭詩

 

 

「KAMOS」発酵?発行!

火曜日, 12月 17th, 2013

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『KAMOS/醸す』

「日本の発酵文化を世界に発信する[かもす]」創刊号が発刊されました!

小泉武夫理事長の肝煎りで発足されましたNPO法人「発酵文化推進機構」。

その情報が満載されたこの機関誌、「倭詩」を編集したIDP出版社から出ます。

まさに醸造発酵の最新情報満載です。

1誌、¥300で、店頭にて扱っております。

ここ主催の行事予定が、

来年先ず2月、日本橋で日本酒試飲会があります。そして、6月総会です。

順次、お知らせいたします。

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「失敗と躓きの数が人生の勲章」

月曜日, 12月 16th, 2013

坂本健一(古書店「青空書房」店主)

※『致知』2014年1月号
連載「生涯現役」より

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――いまもお元気で現役を貫かれている秘訣はなんでしょう。

一にも二にも本ですな。
本屋に対する愛情と、本が私に向けてくれた愛情。
その交流だけです。

本ってね、生きて甦って私の心の中に飛び込んできてくれる。
「本は生きている」と書いたら、
「そんなアホな。ただ紙に活字が印刷してあるだけや」
と言う人がいたけど、そんな人は既に死んでるわ。

本ってね、読んであげることによって
その作家の情熱や理想が伝わってくるんです。
どうしたら人に伝わるか、
自分のこの思いをどんな方法やったら
相手に伝えることができるか、
一所懸命考えて形になったものが本です。

――きょうまで歩んでこられて、
人生で大事なことはなんだと思われますか。

自分を偽らんように、できるだけ自分に素直に生きること。
所詮世の中は嘘で固められているけど、
自分に対して嘘をついたらおしまい。

それから、人生辛いことも多いけど、
上司が悪い、世の中が悪いというのは通用せん。
全部自己責任。
どんな環境になっても、
病気で動けなくなっても、
それが自分の運命や。

私みたいに90になってまだ元気で
商いをさしていただけてるのは、
有り難すぎるほどの人生やから、心を尽くして、
人々にいままで受けてきたご恩、
受けてきたいろんな知識とか知恵を伝播していくのが
私の仕事やと思ってます。

これまでたくさん過ちや失敗を重ねてきたから、
それを伝えて若い人たちの参考になったらええやろ。
失敗と躓きの数がその人の勲章。
その数が多いだけ人生は豊かになる。
それが一番の貯金ですよ。

――勇気づけられる助言です。

失敗して自分は一番しょうもない人間やと
思うのと同じレベルで、
自分ほど強くて、真っすぐで、
負けないやつはおらんという二つの重心を持つこと。
片側だけやと転んでしまう。

そして地べたに放り出されても、
そこで負うた傷を勲章に変える。
人生はオセロゲーム。
真っ白の裏に真っ黒。
真っ黒の裏に真っ白がある。
真っ黒の真後ろに真っ白があることを忘れたらいかんですよ。

* * *

・人生の苦境を突する知恵袋

・本を読まない人へのアドバイスとは?

・読書こそが人生を豊かにしてくれる

続きはぜひ『致知』1月号P98~をご一読ください。

「森下仁丹をV字回復させた劇的組織改革」

土曜日, 12月 14th, 2013

駒村 純一(森下仁丹社長)

※『致知』2014年1月号
特集「君子、時中す」より

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――2006年に社長に就任され、
僅か2年で黒字転換を成し遂げられましたが、
その要因はなんだと思われますか。

組織の構造自体を見直したことが大きかったと思います。
何をしたかというと、社内の部署を
一度すべてなくしてフラットにしました。

――部署を取り払う!?

簡単に言えば、部署をバラバラにして、
プロジェクトチームをたくさんつくるということです。

結局それまでは縦割りのお役所仕事になっていたんです。
まず企画部が商品のアイデアを考え、決裁を取り、
デザイン、製造、営業と、
それぞれ稟議書に判子が押されないと
次のステップに行けない。

それでは時間がかかってしまって、
仕事にスピード感が生まれないんですね。

そこで異なる部署の人同士でチームをつくり、
一つのテーマに関して徹底的に議論を重ねていったんです。
私もその現場にできる限り足を運び、
社員と対話をするよう心掛けていました。

――ああ、現場に出ていかれた。

役員室にいたって、ただ数字を眺めているだけで
何も起きないわけです。
リポートを待っていても出てきませんから、
逐次デイリーな情報を現場で拾い上げる。

例えば、商品のパッケージについて話し合った時、
私が「このデザイン買う気にならないね。
なんでこんなふうになってるの?」と聞くと、
「上の人がこれがいいって言っているので」と。

「いや、君らはどう思うの?」
「ちょっと古臭いかなと……」
「じゃあなんで言わない。
いまの市場に合わないんだったら売れるわけないよね」

そこで分かったのは、
伝統企業のしきたりゆえに物凄く儀礼が先行し、
妙に上の人に遠慮してしまう部分があるということでした。

だから、バカ丁寧な言葉遣いは一切やめさせたんです。
例えば、「お言葉ですが」ではなく、
「私の意見としては」と言いなさいって。

そうすることで活発に議論ができる社風へ変えていくとともに、
市場のニーズを捉えた商品づくりに挑んでいきました。

それを何年も繰り返し続けていくことで、
160億円の負債があった森下仁丹は
現在、売上高96億円、4億円の経常利益を出す
企業へと生まれ変わりました。

――目覚ましい変化ですね。

それでも私自身が手応えを感じ始めたのは、
社長就任から4年くらい経った頃でした。

やはり組織というのは
「1」の力で「1」変わるのではなく、
「10」の力でようやく「1」変わるものだと思います。

組織をフラットにしたもう一つの理由は、
人材の適性を見るためでした。
この人、一体どういう人?
どこが最適なの?って。

ただ、それだけですべて見極めることは
できないので、まずはやってもらう。

だから私は年齢に関係なく
ポジションを逆転させ、
若い人を積極的に抜擢していきました。

――キャリアに拘らず、見込みのある人材をどんどん登用された。

もちろん全部が成功するってわけじゃない。
だから、人事は比較的早く変えました。
合わないなと思ったらすぐ移す。

この人の性格とか仕事のやり方を見てると、
どうもこっちの畑のほうがいいんじゃないかなと。
なのでそこに関しては「石の上にも三年」
というのとは少し違うんですよ。

どっちかというと朝令暮改。
半年くらい見ていると分かるんですね、
その人のポテンシャルが。
無理なことをいつまでもやらせていたら、
本来一番伸びるところまで潰れちゃうんです。

だからまずは得意なところで実績を出すことが第一です。
そこで才能を伸ばした上で、
次のキャリアで苦手分野にチャレンジして経験を積んでいく。

自分の持ち味を発揮できない状態で、
立派なジェネラリストにはなれないですよ。
自分の強み、そこがやっぱり自信の源になってきますから。

* * *

・三菱商事の事業投資先で社長を務めていた駒村氏が
52歳の時、赤字の森下仁丹へ転職した理由とは?

・伸びる社員と伸びない社員の差

・リーダーに求められるものは
情報量とインスピレーション

・企業再建に当たって大切にしてきた言葉

・駒村流「経営の極意」とは?

続きはぜひ『致知』1月号P40をご一読ください。

 

故郷忘じがたく候・・・・・

木曜日, 12月 12th, 2013

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「自然医学誌」1月号の『倭詩』責了後、すぐの今朝。

紙面を見て、驚く。

そこには薩摩焼15代目の「沈寿官」氏が載っていた。

父祖の地・韓国で初めて展示会を開いたと言うのだ。

島津藩によって連行拉致された陶工たちの中に、沈氏初代が居た。

それから400年。

その別離の悲しみ、懐郷の思いを抱いたのは、九州全土あるいは山口萩に及んだ。

その数、一千人と聞く。

その惨状と非情を、今回思い切って書いてみた。

歴史の裏に隠された、我らが祖先の所業を、わが身に置換えた時、

隣国に対する眼差しも、変わるのではなかろうか。

映画「利休にたずねよ」の背景にある残酷な歴史を、

我々は知らねばならない時に来ている。

「国際交渉プロフェッショナルの人間学」

水曜日, 12月 11th, 2013

島田久仁彦(国際ネゴシエーター)

※『致知』2013年1月号
特集「君子、時中す」より

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念願の国連勤務がスタートし、
2週間目の金曜日。

この日、私は人生を決定づける人物との
出会いを果たすことになります。

同じ部署のIT担当の女性から
「将来国連で活躍したいのなら、
会っておいたほうがいい人がいる」
と言われ、夕食に誘われました。

そこに現れたのは、女性のご主人とその友人。
ともに国連事務次長、つまり国連のナンバー2の方でした。
そして、そのご主人の友人こそ、
後々私のメンターとなるセルジオ・デメロ氏だったのです。

「こんなカッコいい人がいるのか。俺もこうなりたい!」

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私は一瞬にして虜になってしまいました。
彼は紛争調停界のスーパーマンと
称されていたほど類い稀な交渉力を持ち、
次の国連事務総長に最も近い人物と言われていました。

国連で働く人は皆、彼のことを「ミスター・デメロ」ではなく、
敬意と親しみを込めて「セルジオ」と呼んでいました。

私の知る限り、いまだかつて
ファーストネームで呼ばれた国連幹部は、
彼を除いては1人もいません。
ゆえに、ここでも「セルジオ」と呼ばせていただくことにします。

国連のカリスマ的存在の2人との会食を終え、
翌週の月曜日の朝一番、
セルジオが私のもとにやってきました。

「おまえは非常に熱い男だ。
お互いに物凄く好きになるか、嫌いになるか、
どっちかだと思う。
俺と一緒に紛争調停や交渉の仕事をしてみないか」

私は二つ返事で引き受けました。
当時の私は上昇志向の塊であり、
何よりも「この人についていきたい」という思いが強くありました。
こうして私は紛争調停官としての第一歩を踏み出すことになったのです。

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(中略)

セルジオは交渉術を手取り足取り教えてはくれませんでした。
とにかく背中を見て学べ、というスタンス。

彼がどういう話し方をしているか、
どんなジェスチャーをしているか、
それに対する相手の反応はどうか。

目線はセルジオのほうを向いたまま、メモを取る。
そうやって私はセルジオを絶えず観察し、
一つでも多くのことを盗もうと心掛けていました。

その中で学んだことは数限りなくありますが、
最も印象深く刻まれているのが
彼の人柄であり、人に対する接し方です。

セルジオが長期の仕事を終え、
久々にオフィスに帰ってくると、
その日の午前中はまず仕事になりませんでした。
というのも、職員の多くが
セルジオのもとにやってくるからです。

彼は常に明るく笑顔を振りまき、
誰に対しても分け隔てなく接していました。

そして、職員一人ひとりの顔と名前が一致しているのはもちろん、
「病気のお子さんは元気にしている?」
「最近二人目のお嬢さんが生まれたんだって? おめでとう」など、
その人に関するホットな情報が
必ず頭に入っていたのです。

交渉の現場においても、
彼が部屋に入るとパッと明るくなる。
血生臭い話も和やかな雰囲気で合意へと運んでいく。
そういう仕事上の絶妙な呼吸を持った人でした。

皆に同じ態度で接する。
いつも笑顔でいる。

一見当たり前とも思えるようなことを
徹底することで人望は生まれ、
周りの人が自然と力を貸してくれたり、
プラスアルファの仕事をしてくれたりする。

そのことをセルジオは身を以て教えてくれました。
これはどんな仕事にも当てはまることではないでしょうか。

* * *

その他、

・交渉の第一条件
・最善手を導き出す秘訣
・エレベータープレゼンテーション
・交渉とは勝ち負けではない
・プロフェッショナルの流儀
・交渉に当たって心に留めてきた信条

等々、仕事に生かせる極意が満載です。

続きはぜひ『致知』1月号P34をご一読ください。

「時代はいつも魅力的な言葉から始まる」

火曜日, 12月 10th, 2013

細田高広(クリエイティブディレクター)

※『致知』2014年1月号
連載「致知随想」より

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「十年以内に人類を月に送り込む」
(ジョン・F・ケネディ)

「ポケットに入るラジオをつくれ」
(井深大)

「女の体を自由にする」
(ココ・シャネル)

いつの時代も、
未来はこうした魅力的な言葉によって
創造されてきました。

私は広告会社のコピーライターとして
企業ブランディングのお手伝いをする中で、
多くの企業が前年比何%アップといった「数字の経営」に汲々とし、
その数字がなんのためにあるのかという原点が
見失われている現状を痛感しています。

経営は本来、こんなものをつくりたい、こういう時代にしたい、
といった言葉から始まるものであり、
「言葉の経営」こそが社員を躍動させ、
時代を開く原動力になると私は考えるのです。

私はかねて主に企業の宣伝部の方と向き合い、
広告やCM制作のお手伝いをしてきました。

ところがせっかく知恵を絞っても、
その企業のトップが別の場所で
私たちが発信したメッセージと異なる発言を
していることがしばしばあり、
自分の仕事に疑問を抱いていました。

転機となったのはロサンゼルスの会社への出向でした。
現地で一緒に仕事をしたアップルやペプシ、
ゲーターレードといった会社のトップの口からは、
「こういうものがあったらいいよね」といった
無邪気な夢や常識外れな発想が、
ドキドキするような魅力的な言葉となってポンポン飛び出し、
それを周りが具体的な数字に落とし込む形で経営が行われていました。

周囲との軋轢を避けるため、
当たり障りのない発言しかしない
多くの日本のトップとの違いを痛感したのです。

以来私は、クライアントの意思決定に関わる経営層と直接向き合い、
マーケティング戦略や企業戦略といった
より上流の部分からブランディングに関わることで、
的確で魅力的なメッセージを発信する努力を重ねているのです。

冒頭の「ポケットに入るラジオをつくれ」という言葉を
井深大氏が発信した当時、
ラジオというのは大きな「家具」でした。

単に「小さなラジオをつくれ」という指示であったなら、
従来のラジオを少し小さくしたものしかできなかったでしょう。
「ポケットに入る」という言葉によって、
ラジオを外に持ち歩くという新しい発想が共有され、
形になったと思うのです。

またシャネルは、
窮屈な衣服で心身ともに束縛されていた女性を解放する、
というブランドに懸ける思いを、
「女の体を自由にする」という明快な言葉で表現することによって、
新しい未来像を提示し、社会から絶大な支持を集めたのです。

言葉には、人の意識や現実を大きく変える力があります。

* * *

その他、
ディズニーランド躍進の秘訣、
商品開発から経営戦略、マネジメント、
人生設計まで役立つ言葉の技術とは。

続きはぜひ『致知』1月号P89をご一読ください。

今朝から「幸い市」GO!

金曜日, 12月 6th, 2013

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今朝から3日間の「歳末大売出し」。

早くも売れ切れ続出。

店内は殺気立っています。

こんなに多くのお客様にお越しいただいて感謝一杯です。

明日が、実質の開店30周年記念です。

1983年12月7日に開業しました。

長くもあり、短くもありです。

ありがとうございました。

(詳しくは、今月のお便りをお読みください)

 

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