「ローザビアンカ」が道新に
月曜日, 9月 9th, 2013
4日の朝、道新の朝刊一面を見てビックリ!!!
まほろば自然農園の「ローザビアンカ」が、
カラーで色鮮やかにアップされていたからだ。

今朝のミーティングでも話したのだが、
とに角、農業部門の、ことに今年の畑は、厳しい出発だった。
赤字に次ぐ赤字で、採算が取れない、人材が揃わない、
ないない続きでスタートし、今もなおないない尽くしなのだ。
新規就農者二人は、農業経験のない素人さんで、
経験者はチーフの福田君と家内だけだ。
それで6町歩、100種類以上の作物を栽培することは、
無謀としか言いようがない。
だから、3月から、家内は休みを一日も取っていない。
つまり全く日曜日がないのだ。
そんな中で、朝暗い4時5時から働き出して止めない。

今朝市場で、ある仲買さんの社長から
「あんまり、奥さんこき使うんでないヨ」と、
冗談半分、真実半分の笑い話を聞かされたが、半ば本当かもしれない。
周りからは何時までも厳しい経営を批判され、
それでもまほろばで作ることの大切さ、
その意味と意義を家内は訴えて、自らが骨身を惜しまずに引っ張って来た。

農園は<まほろばの生命線>と思い定めて微塵も揺らがない。
新しい光の道が見えるようがんばり続けた。
一本の大根、一把の菜っ葉は売るのも買うのも食べるのも一瞬だが、
それを作る陰の努力は、筆舌に尽くし難い。

だから、今回は、神様の農園のスタッフへのプレゼントかもしれない。
「ありがとう!みんな」「ありがとう、かあさん!」
今回は身内だが、てらいもなく感謝したい。
不意に戴いたこの好機を活かして、明日に繋げたい。

しかし、こういう感慨は家内にとって、世俗的なもので、
掲載云々は、全く意に介していない。
そんな大げさなことより、家族やお客様から、
「美味しかったヨ!」との一言の方が、よほど嬉しいという。
そんな人である。
大学を出てしばらくして群馬に戻った私は、
住職である父の手伝いをするとともに、
たまたま空きがあった県立女子校の
書道講師を務めることになりました。
書道講師は三十年以上続けてきましたが、
そこでも愛語の大切さを知る貴重な経験をしました。
私が奉職間もない頃、
小林文瑞という大先輩の先生がいました。
小林先生は私のように僧籍を持ち、
西田哲学や仏教思想に精通していました。
百九十センチ近い大柄な方でしたが、
一緒に食事をしていた時にこうおっしゃるのです。
「酒井先生、『般若心経』というお経があるでしょう。
きょうは一つ私にそれを説いてください」
「それは無理ですよ。読めと言われればすぐに読めますが、
とても説くことなんか」
すると一瞬先生の表情が変わり、
「馬鹿者!」と頭ごなしに
私を怒鳴られるではないですか。
「あなたはきょう、私の隣の教室で授業をやっていたね。
一人休んでいた子がいたでしょう。
名前はなんと言った?」
「山田悦子(仮名)です。窓際の前から三番目の子です」
「あなたは彼女がなんで休んでいるか知っていますか」
「いいえ、別に担任に聞いてみたこともないし、
風邪でもひいたんだろうかと……」
その言葉が終わらないうちに、再び雷が落ちました。
「馬鹿者! 生徒が一人休んでいたら
担任であろうが副担任であろうが
そういうものは関係ない。
ひょっとしたら事故かもしれない。
大病かもしれない。
担任のところに行って
なぜ休んでいるかを聞くのが
教師の役目ではないか」
さらに先生は
「あなたに『般若心経』が説けなかったら、
私が見せてやる。着いてきなさい」。
そうおっしゃったかと思うや、
もう歩き出されていました。
店の裏の道をどんどん歩きながら、
しばらく経ったところで、
「あのな、山田悦子は腎臓を悪くして
この先の病院に入院しているんだ。
これから見舞いだ」。
彼女の部屋は二階の奥まったところにありました。
小林先生は病室に入ると、
笑顔で挨拶を交わし静かに話し始められました。
「えっちゃんな。
きょう酒井先生が君の教室で授業中に歌を歌っていた。
俺は隣の教室で聞いていたんだけど、
酒井先生はえっちゃんがどんな病気で
入院しているか知らなかったそうだ。
俺が酒井先生に頼んで
その歌を歌ってもらうからな。
よーく聞いていろや」
私が歌ったのは、その頃農家を励ますために
流れていた田園ソングでした。
二番くらいから山田は布団を引っ被って泣いていました。
声は出さなくても肩が震えているから
それと分かるのです。
三番まで歌い終わると
「ありがとうございました」と小さな声がしました。
「よかったな、えっちゃん。
これであと一週間もすると治って退院できるよ。
じゃあな」
そう言って先生は部屋を出られました。
病院を出て別れ際に小林先生が
「酒井先生」と声を掛けられました。
また雷かと思って「はい」と答えると、
先生は大きな両手で私の手をしっかり握り、
大きく揺さぶられました。
そして満面の笑顔でおっしゃったのです。
「これが『般若心経』だよ。
覚えておきなさい。じゃあな」
私は最初小林先生がおっしゃった意味が
分かりませんでした。
しかし、ある時、ふと
一九九二年、三十二歳で
聖路加国際病院訪問看護科を立ち上げ、
その後ステーションに移行してから二十一年。
その間に私は約千人もの患者と出逢ってきました。
訪問看護では、年齢や疾患を問わず、
在宅療養患者のもとを訪れ、様々な処置を行います。
介護職でも対応できる入浴の介助から、
点滴等の医療処置、入院の判断をはじめ、
緩和ケアや終末期の看取りへの対応。
その裁量の大きさゆえ、訪問看護師の責任は重大です。
私は看護師生活の大半を訪問看護に捧げてきましたが、
大学卒業直後は「死を目の当たりにしたくない」
という理由から、保健師として保健所に就職しました。
そんな私の転機となったのは、
筋萎縮性側索硬化症(ALS)の男性との出逢いでした。
ALSは筋肉が萎縮し、全身麻痺になる難病です。
人工呼吸器が必要となるため長期入院を強いられ、
奥様は幼い子供をお義母様に任せて
献身的に看護されていました。
本人はもちろん、家族の負担は
計り知れないものだったと思います。
しかしそのような状況でも、
明るく気丈に振る舞う奥様に心打たれ、
病室を訪ねるうちに私は思わず口走っていました。
「何かあったらお手伝いしますから、
なんでも言ってくださいね」
とは言え、病状から退院は無理だろう、
と内心思っていた私に奥様から電話が入ったのは、
三か月後のことでした。
「病院が廃業することになったの! 押川さん助けて!」
自分から申し出た手前、断ることもできません。
奮起した私は帰宅の願いを叶えるべく、
道を模索し始めたのでした。
しかし、当時は訪問看護という言葉すらなかった時代。
ALS患者の在宅看護を主張した私は、
保健所の中で完全に孤立してしまいました。
家族が分断され、長年辛い思いをしてきた方たちの
願いをなんとか叶えたい。
その一心で関係者の説得や機器の手配に奔走した結果、
保健所の所長が帰宅を許可してくださったのです。
「お父さんおかえり!」
当日、涙を流しながら子供たちに迎えられる彼を見て、
私は涙が止まりませんでした。
これが私の訪問看護の原点となったのです。
その後聖路加国際病院に移り、
院長の日野原重明先生に訪問看護の必要性を直訴。
先生はすぐ志に共感してくださいました。
しかし医師たちは看護師が医療処置をすることに
不安感を抱いており、処置の実演など、
技量を試されることも少なくありませんでした。
訪問看護の草創期は、血圧測定や簡単な問診のみを行う
「家庭訪問」が主流でした。
しかし、徐々にではありましたが、
私たちを必要としてくださる方は増え、
ケアの範囲も広がっていきました。
看護を始めて約十年が経った頃のことです。
経験を積んだ私は周囲から認められ、
いまにして思えば、過信していたのかもしれません。
そのような時、その後の仕事観を
決定づける出逢いが訪れました。
彼女は十七歳の白血病患者でした。
白血病は病状が悪化すると、毎日輸血が必要になります。
同様の状況だった彼女は、
ある時何度も注射に失敗するスタッフに不満をぶつけたのです。
自分たちは精いっぱいやっているのに……。
そんな思いがよぎり、
私はついこう漏らしてしまったのでした。
「私たちも頑張っているのだから、
少しくらい我慢してくれてもいいのでは」
それを聞いた彼女は、
「私には、優しいけど何度も失敗する看護師さんではなく、
怖くても一回で処置をしてくれる看護師さんが必要です」
と、涙ながらに訴えました。
病院では、失敗しても
はっきり拒否されることはありませんでした。
長期療養してきた彼女ゆえの切実な叫びに、
私は奈落の底に落とされたような衝撃を受けました。
生死と隣り合わせの人を相手にしているからこそ、
常にプロフェッショナルであることが求められる。
彼女の一言から私は、訪問看護師として
忘れてはならない三か条を掲げました。