まほろばblog

Archive for 6月 5th, 2013

へうげ醤!「日経流通新聞」に

水曜日, 6月 5th, 2013

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日本経済新聞の『日経MJ』(日本経済流通新聞)の全国版、

2Pにわたる新製品のコーナーの22品目の中で、

『この一品』に選ばれ、大きく掲載されました。

社内会議で、珍しい「へうげ醤」を一押しするということに決定したと、

先日、担当者から報告がありました。

降って沸いたような事で、ありがたいことと感謝いたします。

へうげ醤 日経記事2

売れ行きも好調な滑り出しで、口コミで拡がっているようです。

これも多くの農家さんや蔵元、杜氏の方々の力の結集でもあります。

この場を借りて、厚くお礼申し上げます。

特に、この絶好の機会を与えて下さった「石孫本店」の石川ご夫妻には、

深く感謝申し上げたいと存じます。

ありがとうございました。

 

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3.11の印、大漁旗届く!

水曜日, 6月 5th, 2013

山口市の道門前理事長の吉松照夫さんから大漁旗が贈られて来て、ビックリしました。

以下、同封されたお手紙にその由来が記されていましたので、お読みください。

 

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「・・・・同封した大漁旗、ご迷惑かもしれませんが、

又とない知己を賜った印として、”まほろば”に留め置いて戴きたいと思いますので、

是非お受け取りお願い致します。

由来は、2012年3月に、気仙沼市の親友、梅津覚太郎氏から

プレゼントされた3枚のうちの1枚です。

2011.3.11 あの津波を受けながら流出されなかった大漁旗。

元の所持者は、菅原茂気仙沼市長が漁業会社(今は廃業)経営時にお持ちでした。

梅津覚太郎氏は、私と同年で、もと気仙沼市職員で、東京目黒区で

「さんま焼きイベント」等を主催しておられる主催者のお一人です。

菅原市長から気仙沼の心として自由に使って良いと譲渡され、

内三枚を友情の印として私が有難くも頂戴致しました。

事ある度に、大漁旗を掲げていましたが、これからは機会が限られます。

多くの真心よりの支援を実施されておられる大兄及び御一統方々にこそ、

この大漁旗をと、梅津氏、菅原市長の思いと共に、お受け取りください。

・・・・・・・・・・・・」

大変貴重なもので、私も恐縮しましたが、3.11を忘れず、

末永い支援を続けていきたく、その道標として預からせて戴きたいと思います。

吉松さんの交友される方々は素晴らしい人たちで、親友の梅津氏も無私の方、

「・・・・・梅津氏も相当な変人、復興の~土木建築畑~要職要請を、

「他に収入の必要な人がいるから」と断り続け、ボランティアのみで関わって、

私もその一つ気仙沼波路上、緑の森を造ろう会を支援しています。・・・・・」

という吉松さんの言葉からも、この大漁旗を大切に東北の心として伝えて行きたいと思います。

もし支援活動などで使用された方は、どうぞお使いください。

お申し出くださいませ。

吉松さんに深く感謝し、ヤンジーにもこのことを伝えたく思います。

「ケンチャナヨ」を封印しなさい!!

水曜日, 6月 5th, 2013

韓国人の本質_新聞広告

後藤吉助翁の書かれた「死ぬ前に伝えておきたい『韓国人の本質』」が、

読売新聞一面の広告欄に掲載されました。

その2,3日前に、日本人による「悪韓論」が出版されるなど、

韓国への物言いに厳しいものがあります。

しかし、後藤さんは居を向こうに移して30年、

奥様も在日二世でいらして、ただ悪口を吐くのではなく、

心底、韓国が良い国になって、末永く日韓仲良くなってもらいたいとの

切なる願いからこの本を世に問うたのであります。

 

 

韓国人の本質 本

 

その証拠に、出版記念パーティーの当日、韓国や国内から多くの韓国の方々が

お祝いに駆けつけられました。

それは、後藤翁への愛情と信頼に満ちたものでした。

両国にわたって、橋渡しをされる翁の大志に感銘を受けるものであります。

ぜひとも、この本を読まれて、皆さんもこの橋を渡って頂きたいと思います。

(まほろばで取り扱っております)

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また、お待たせいたしました。

竹島問題で一時、『日韓友好海苔』が途絶えましたが、

また再びと品物が揃うようになりました。

大人気の後藤さんの魂のこもった海苔、ぜひご賞味とともに、

日韓友好の絆にご協力いただけますようお願い申し上げます。

詳しくは、岸さんがお書きになったプレマさんからの報告がありますので、

ご覧ください。

 

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「一歩一歩踏みしめていけば、必ず幸せに辿り着く」

水曜日, 6月 5th, 2013
       清水 咲栄(90歳の郵便配達人)

             『致知』2013年7月号
               特集「歩歩是道場」より

─────────────────────────────────┘

これまでの九十年を振り返ると、
幼い時から今日に至るまで、
とにかく働き続けてきた人生だったように思います。

私は新潟県との県境にある長野県富倉という小さな村で、
貧しい農家の長女として生まれました。
大正十三年一月十七日のことです。

働きに出ている両親に代わって、
六人の弟妹たちの子守、炊事、洗濯をするのが私の役目。

赤ん坊をおんぶして小学校に通わなければならず、
赤ん坊が授業中に泣き出してしまうこともありました。

皆が教室で勉強している中、一人外で赤ん坊をあやす。
友達からも馬鹿にされ、よく涙を流していたことを思い出します。
しかし、家に帰れば何事もなかったかのように振る舞い、
親の手伝いに勤しんでいました。

そのような少女時代を経て、
私が嫁いだのは昭和二十一年、二十二歳の時です。

その後の人生において、私を一番に支えてくれたのは
他でもない夫でした。
いままでずっと「父ちゃん」と呼んできたので、
ここでも父ちゃんと言わせてください。

父ちゃんは幼くして両親に死に別れ、
親の借金を抱えて、小学校を卒業すると同時に働きに出ました。
そのため、家はボロボロで、家具も殆どない。

そこに父ちゃんと私、二人で住み、
近くの飯山炭鉱で共働きをしました。

コークスで真っ黒になった顔を見合って笑い合う。
貧乏でしたが、そうやって毎日楽しく暮らしていました。

その後、四人の子供も授かり、
ますます仕事に精を出すようになった父ちゃんは、
炭鉱主からある鉱区のリーダーを任されるようになったのです。

炭鉱主に地代だけ払い、その鉱区で採掘された
石炭を売って得たお金で、従業員に給料を支払う、
半ば請負のような仕事を始めました。

最初は借金ばかりが膨らみ、苦労したのですが、
ある時、大量の石炭を掘り当てたのです。

儲けたお金で父ちゃんはボーナスを出したり、
温泉旅行に連れて行ったりと、
惜しみなく従業員に分け与えました。

これまでの苦労は一気に吹き飛び、
父ちゃんも私も「これで楽ができる」と
有頂天になっていました。

ところが、です。
ある朝、仕事に行くと、炭鉱の前に
「立ち入り禁止」という立て札がある。

父ちゃんが慌てて炭鉱主に掛け合うと、
「あの鉱区は私のものだ」の一点張り。
石炭が当たった途端に態度を百八十度変えたのです。

一介の炭鉱夫にすぎない父ちゃんが
炭鉱主に太刀打ちできるはずもありません。

結局、利益はすべてかすめ取られ、
残ったのは七百五十万円の借金だけ。
昭和三十六年、私が三十七歳の時でした。

それからは本当に地獄のような日々でした。

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へうげ醤しふぉん

水曜日, 6月 5th, 2013

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あの『へうげ醤』を使ったシフォンケーキが完成しました。

ちょっと思いつかない、洋菓子に醤油を入れるとは!!

ソフテの加藤さんのアイディア。

冬場は大和さんの酒粕などのケーキもあり、新しい和様のステージに入りましたね。

こんなに寄り添うとは思っても見ませんでした。

スゴイ! 発酵力と、日本力は!

主に、週末に店頭に。

1p ¥300