まほろばblog

「母を慕い讃える会」設立!!!

9月 16th, 2015

母を慕い 2

今朝、ひょっこり韓国の後藤吉助翁が来店されました。

「母を慕い讃える会」を設立して、その啓蒙普及促進歌が、

この度、国立国会図書館に、国民共有の文化的資産として所蔵されました。

後藤翁も、一般社団法人・日本作詞家協会会員、日本音楽著作権協会員

に晴れて入会され、(これが中々難関)

作詞家・作曲家として正式登録されました。

おめでとうございます。

尊敬する船村徹、故星野哲朗先生と同じ協会に所属された訳です。

長年の夢が叶ったのです。スゴイ!!

これから益々才気渙発で前進また前進されてください。

万歳!!89歳の青年!!!!!!

 

SONY DSC

111歳、106歳画家、大活躍!!!

8月 31st, 2015

ビックリ!

何と111歳の後藤はつのさん、106歳の豊田三郎さん、

今なお、意気軒昂に「わが道を行く」!!!!!

その画業が、すばらしい!!!

私たちも、負けられません。

60歳還暦、折り返し地点に過ぎない。

 

Image155[1]
明治5年生まれ、昭和54年に没して107歳まで健在だった、

あの彫刻家、平櫛田中(ひらくしでんちゅう)翁、曰く

 

 

六十、七十、洟垂(はなた)れ小僧、

男盛りは百から百から、

わしもこれからこれから。

img_0[1]
いいぞ!

みんな、老けていられないヨ!!!

 

YouTube Preview Image

http://www.akakura.gr.jp/wakui/mama/

後藤はつのさん(111歳)

73歳の手習いで始めた絵に夢中、

80歳代から99歳まで、100号の油絵を描き続ける。

100歳を超えてからは、アメリカ旅行、個展、新たに始めた百人一首…。

いつも笑顔の111歳! その素晴らしい絵と生き方エピソードを紹介。

 

YouTube Preview Image

http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/pickup_photo/70651.html

豊田 三郎さん(106歳)

ふるさとの杉や足羽川などを描いた風景画が世界的に評価されている豊田三郎画伯は、

1908年(明治41年)美山町に生まれ、

5歳のときに見た古い墨絵に影響され画家を志すようになったといいます。

帝国美術学校(現 武蔵野美術大学)卒業後、中学校美術教員になり、

70歳を過ぎて画業に専念し、1989年(平成元年)「ふるさとの山河」が

サロン・ド・パリ展大賞を受賞。

以後、数々の世界的な賞を受賞しています。

 

 

 

今野華都子のラジオ『今日もくもりのち晴れ』から

8月 29th, 2015

 


岐阜県飛騨高山地方 HitsFMにて毎週水曜日12:12~12:27放送中

翌木曜日にはインターネットにて全国からお聴きいただけます。

 

<放送予定一覧>

8月 5日 脳科学研究者 柳本広二様

8月12日 ゆとりの空間 HugRuu様

8月19日 伊達市議会議員 こくぼ重孝様

8月26日 株式会社まほろば 代表取締役社長 宮下周平様1

9月 2日 株式会社まほろば 代表取締役社長 宮下周平様2

9月 9日 株式会社まほろば 代表取締役社長 宮下周平様3

9月16日 東京元気アップショップ 所長 後藤吉弘様

※スケジュールは変更になることもございます。

 

放送は下記リンクよりお聴きくださいませ

 

飛騨高山HitsFM

HitsFM76.5MHz

 


SONY DSC

凡と愚の念仏会

6月 27th, 2015

SONY DSC

22日、二階で「アスタジー」の講演会の後、

東京は栖岸院・本應寺の皆様が念仏会を開かれました。

農園の奥、盤渓出身の愚静尼がうさと展のご縁で、

まほろばに起こしになり、

毎年夏、北海道行脚されるので、同じ札幌のよしみ、

会場としてお貸しするご縁となりました。

凡愚お上人の、「行く先浄土が決まれば大安心」のお言葉に、

みな寄り添いながら、お念仏をされておりました。

その中に「いただき膳」さんの後藤桂子さんが参加。

イギリスやスペインでの不思議な大農地授与の奇跡的なお話など、

この信仰と共に、全国各地に独特な姿勢で自然食普及をされることと、

深い関係があることを知らされました。

全托全与の世界観に、眼が啓かれる思いでした。

ありがとうございました。

 

 

「母の会」いよいよ始動

3月 4th, 2015

SONY DSC

 

韓国の後藤さん、突然来店。

「母を慕い讃える会」の立ち上げで、いよいよスタートを切れるということで、

わざわざ韓国、東京から挨拶に来店され、恐縮しました。

まほろばも、この世の中を良くするには、

先ず、母を大事にすることが、第一歩だと思っているので、翁の運動には大賛成。

是非皆様も、ご賛同くださって、この会を盛り上げましょう。

詳しくは、後号で。

 

SONY DSC

 もう一つの「倭詩」

1月 31st, 2015
YouTube Preview Image

(2015年初場所千秋楽、白鳳土俵入り。新記録33回目の優勝)

640px-Banzuke2[1]

 

小学生の頃、田舎に、若き日の大鵬関が中学校の相撲場に地方巡業でやって来た。

今も市の郷土史記念写真に、おばあちゃんと小さい私が、横に立って映っている。

それと、札幌の母の実家が大の相撲好きで、北海道出身の北ノ洋の後援会をしていた。

札幌場所には、おじさんに連れられて行ったり、いつも関取が実家を訪問したり、

恵庭の我が家にも若秩父関が来たりしていたのを思い出す。

戦後の娯楽が少なかった国民にとって、相撲の一勝一敗に一喜一憂していたものだった。

 

20131119151422da5[1]

 

小学校入る前、鏡里、千代の山、大内山・・・・の活躍を、

ラジオに耳をそばだてて聞いていた。

そんなセピア色の相撲なんて、知る人も少なくなった。

それからTVが開局されて、栃若時代がしばらく続いた。

栃錦と白熱した贔屓の若乃花の対戦、

小学生ながら、神棚に祈っては、手に汗水握って応援した。

ところが、初代若乃花が引退した時から、急に相撲熱が褪めて、興味が失せたのだ。

長島が引退したとき、それ以来好きな野球にも、全く関心がなくなってしまった。

もうかれこれ50年も前になるだろうか。

それくらい、大相撲とは、随分縁が遠のいていた。

 

SONY DSC

 

相撲王国、北海道。

大鵬、北の湖、千代の富士・・・・・

連峰のように聳え立っていたが、今は見る影も無い。

さらに、日本全土がモンゴル勢に席捲せられた。

相撲に、何の興味も無い今回、後藤翁からお声がかかった。

別段、相撲が取り立てて観たいとは思わなかった。

むしろ、「日韓友好海苔」販売の現場視察が目的だった。

SONY DSC

 

ところが、両国蔵前に着くや街に漂う、その何とも言えない江戸情緒に、

昔の自分が、引っ張り出されたような気がした。

何か50年前の興奮が、胸のうちから滾るように覚えたのだ。

不思議だ。

何ともワクワクする自分に、むしろ自分自身驚いてしまった。

国技館の内戸を開くと、その観客の熱気と小さく見える相撲土俵が、

館内一体になって、溶け込んでいる様子に、ある懐かしさが甦ったのだ。

これが、日本!

 

YouTube Preview Image

(三役の四股で〆る)

 

熱心な相撲観戦者には、何を今更と思うだろうが、

こうも時を離れて、再び自分に再会するということは、人生めったに無い。

TVの小さな画面に収まっているのが相撲ではなかった。

大衆と一体になっている力士の一つの観劇がそこにあって、

うねりのような声援と興奮の波が、打っては返し襲ってくる。

まるで、一幕の歌舞伎を観ているかのようだった。

力士が一人で稽古し取り組みを為しているのではなく、

観客に押し出され、励まされ、慰められている

人情味が何とも言えなく心地よかった。

1024px-Kunisada_Sumo_Triptychon_c1860s[1]

この舞台裏には、言葉では語り尽くせない人生劇場があろうが、

しかし、延々と連綿として続いて来た日本の国技が、

かようにして今尚続いてきたことに、敬意を表する。

若い連中も、伝統的なしきたりや様式を学び、

何とか一人前になるべく精進しているさまは、見ていて嬉しい。

呼び出しや行司、小さい時から鍛えられて一生を土俵と共に生きる。

力士ばかりではない。

また、横綱や幕内は一握りに過ぎない。

昔から、どれほどの子が入門して去ったことだろう。

この土俵には、笑いの数より悲しみの別れの涙の方が圧倒的に多いだろう。

この頂点のスターを支えるための底辺には、どれだけの人々がうごめき、

或いは食べている人々が多いことだろう。

oosumou[1]

世界の縮図でもある、この相撲界にも危機が何度か訪れたが、

それは野見宿禰(のみのすくね)神のご加護か、何とか営々として伝統行事を持ち応えてくれた。

戦後、経済成長で豊かになった家庭では、餓え渇するハングリーな子供が居なくなった。

どうしても、是が非でも、という切羽詰った生き方が国民全体から失われたのだろう。

国技として、力強い日本人の若者が、次々と輩出してくれることを願いたい。

鬢付け油の匂う相撲が、末永く続くことを祈らずには居られなかった。

 

YouTube Preview Image

(初場所所千秋楽、三横綱、大関の取り組み)

 

「オリンピックおじさん」山田応援団長、『君が代』斉唱

1月 30th, 2015

SONY DSC

 

14日観戦後、後藤さんは、隣の茶屋「花の舞」に案内して下さった。

大きい店内には、土俵のステージを中心に、ちゃんこ鍋をほうばる相撲客で満席状態。

馴染みの女将さんに、「団長と一緒でもいい?」と聞かれると、

相手が誰なのかも知らず、翁は事も無げに「いいよ」。

そこで案内された所に、山高帽をかぶった派手な出で立ちのおじさん。

(どこかで、見たことがあるなー!?)と思いながら、同席。

そうすると、あちこちから、

「オリンピックおじさん、サインして!」「写真、ご一緒に!」

あぁ、そういえば、TVに出ていた、あのパフォーマンスおじさんか!

その人こそ、山田直稔氏である。

 http://www.naniwa1001.co.jp/olympic/

山田応援団長切手帖

 

いろいろ、話し込んでいるうちに、1968年のメキシコオリンピックから4年毎、

開会式から閉会式まで欠かさず、観戦し応援し続けて来られたという。

費用は、ゆうに一千万円以上かかるという。

さらに、大相撲観戦も1升席16万の初日から千秋楽まで240万も払って、各場所を応援。

グループ企業の会長として、本来の天命を全うされようとしている。

各スポーツの応援団長を自認し、とにかく

日本を元気に、世界を笑顔で満たしたい!

という願いがあられるのだ。

『笑顔の交流 日本国笑顔』の旗を掲げて、世界を日本を股に、駆け回っている。

だれが何と言おうと、この心意気と実践力には、頭が下がってしまった。

 

何と後藤翁と同い歳89歳、今年90歳の現役青年なのだ!

この二人が、意気が合ったというのは、言うまでも無い。

意気投合そのものなのだ。

何か、雰囲気が似ている。兄弟のようだ。

後藤翁の作詞作曲の一連の自作に興味を抱き、早速カラオケ直行と相成った。

まだ、2,3時間も経っていないのに。

実は、カラオケ、ジョイサウンドに後藤翁の作品が5曲も収められているのだ。

これにもビックリなのだが、さらに今回、日本作詞作曲家協会に認められて、

晴れて、正式な作曲家、作詞家とデヴューを果たした90歳の新人なのだ。

それに、すっかり山田応援団長も感銘して、二人でデユエットと相成った。

山田応援団長の最大の持ち歌、それが『君が代』であった。

まずは、それを聞いて頂きたい。

YouTube Preview Image

※動画が再生されない場合はコチラをクリックしてください。

 

さすが、百戦錬磨のオリンピックおじさんの「君が代」は、骨身に染みます。

祖国を想う心は、誰にも負けず、「天皇陛下万歳!」もすごい。

次に、後藤翁の「母を慕い、讃える歌」を二人で。

山田応援団長、初めての曲なのに、ノリノリで身振り手振りも慣れたもの。

 

YouTube Preview Image

※動画が再生されない場合はコチラをクリックしてください。

 

「人間で一番大切なことは、祖先を敬うこと。

それは、母を大切にすること!!!」

もう、後藤さんとは、一心同体で、すでに「母の会」の同志も同然。

すぐさま、山田応援団長に、母の会の名誉会長をお願いしたのは、時を待たなかった。

こんなことが、あるだろうか。

その日、なんで大相撲なんか観に行くのだろうか、と迷ったのだが、

この一瞬を見届けるために、来たのかも知れない。

この出会いは、とても大切なことのように思えた。

今の世で、理屈でなく、最も必要なことが、

この出会いの中にあると確信するのだ。

お二人は、まだまだ20年も30年も生きる勢い。

このお二人の生き様に、見習いたいと思うや切なるものがあります。

人生まだまだです、まだまだです。

これからです。

とても勇気付けられた、又とない一日でした。

ますますの、お二人のご活躍をお祈りいたします!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「日韓友好海苔」in 蔵前国技館

1月 30th, 2015

 

SONY DSC

 

YouTube Preview Image

 

24日、25日の土日、韓国の後藤吉助翁に招かれて、両国の国技館に向かった。

年三回、この蔵前で大相撲初場所・春場所・秋場所が開かれる。

そこで、「日韓友好海苔」が売店で販売されている。

一度是非とのお誘い、比較的時間がある1月を選んだ。

 

SONY DSC

翁の海苔への思い入れが、出入りの厳しい相撲協会の審査の中で、

「よくぞ、ここまでいたるものか!」と感心することしきりであった。

「母の会」を発足させ、それがどのように展開するのかもあり、

出来る限り、ご協力させて頂きたいと念じるもの。

ところが、この何気ない訪問に、驚くべき邂逅があったのだ。

その不思議を、後述したい。

 

SONY DSC

 

館内では、翁のみな顔見知りで、誰でも彼でも声をかけての人気者。

とにかく、どんな人にも笑顔で自己紹介、友好を深める。

その開けっぴろげの心には、ほとほと感心するばかりだ。

 

SONY DSC

 

売店には、あの海苔が装いを変えて鎮座している。

この15日間、満員御礼の贔屓客、きっと観戦する口々には磯の香りがたまらないだろう。

この1枚の海苔が、1箱のお土産が日韓友好のきっかけになることを祈りたい。

最後に、久々の「水入り」の大一番、「照ノ富士vs逸ノ城」の一戦をごらん下さい。

YouTube Preview Image

 

 

 

「母を慕い讃える会」発足

12月 29th, 2014

 

母を 2

http://www12.atpages.jp/dreambig/

韓国の後藤吉助翁が、この度『母を慕い讃える会』を立ち上げました。

先回のブログ「僕を支えた母の言葉」でも、そうですが、

いかに母の存在が大きいか、

後藤翁もまた、お母さまの後姿を見て、今の人生を歩むようになったのです。

色々な難しい事や立派なお話をしても、やはり

心に愛を感じないものは、聖パウロのコリント書にある

「13:1      たとひ我もろもろの國人の言および御使の言を語るとも、愛なくば鳴る鐘や響く鐃鈸(にゅうばち)の如し。

    13:2      假令われ預言する能力あり、又すべての奧義と凡ての知識とに達し、また山を移すほどの大なる信仰ありとも、愛なくば數ふるに足らず。

    13:3      たとひ我わが財産をことごとく施し、又わが體を燒かるる爲に付すとも、愛なくば我に益なし。・・・・・」

のように感じるのです。

後藤翁の実践の根底にあるものは、母への愛なのです。

私にとって、それを真正面から言ってのけて、

真剣に取り組まれる、そのお姿に素直に感動するのです。

今時、人間にとって、こんな本質的なことを語ることすら出来なくなって来ています。

後藤翁の切実なる思いと願いが、

自作曲の「母を慕い讃える歌」に凝縮されています。

これを、世界に送り届けたいという夢を抱いていらっしゃいます。

まほろばもこの運動に賛同し支援させて戴きたいと思っております。

よろしくご理解・ご協力のほどを、お願い申し上げます。

 

母を慕い 1

http://www12.atpages.jp/dreambig/jpheart/hahatataeru.html

2014120613560000.jpg

先月、札幌で「北東アジア共同体平和機構」主宰の「日韓友好について」の講演会後、

小樽で、ささやかながら後藤翁の米寿のお祝いをさせて戴きました。

後藤翁 祝い八十八

 

日韓友好に、母恩に、イノチをかけていらっしゃるお姿、

88歳とは思えない、お元気な行動力に、私達もがんばらねば!と思います。

この一連の唄は、CD化され、有線放送でも流され、

なんとジャスダックのカラオケに、5曲も入っているんです。

びっくりでした。

どうぞ、カラオケに行かれる際には、是非一度試して唄ってください。

そうして、応援してください。

来年も、皆様にとって、良き年になりますように、お祈り申し上げます。

YouTube Preview Image

 

『僕を支えた母の言葉』

12月 29th, 2014

昨日、登別のアイ企画・野崎秀夫さんから、年末のお手紙を戴きました。

以前から、ご紹介戴いている梅原司平さんのことは存じ上げているのですが、

時のご縁でしょうか、彼の唄に動かされ、それと野崎さんが同封してくださった

ある方の「おかあさん」への想いの綴りが重なって、

皆さまにお知らせしたくなりました。

また韓国の後藤翁も「母の会」を立ち上げましたので、次回お知らせいたします。

まずは、野崎さんの許可を得て、文章と共に、動画も添付します。

 

宮下社長!

沖田 真琴 @野崎秀夫です。先日はありがとうございました。

このCD是非お聞きください。お願いします。(以下は私の顧客にお知らせした内容です)

拝啓

18日(木)午後2時から90分、NHKラジオ第一に、シンガーソングライターの梅原司平さんがゲスト出演されました。

しかし、今回の爆弾低気圧で、肝心なところが北海道のラジオでは聞けませんでした。

ところが・・

偶然ある方から依頼を受けてパソコンで録音していたので、聞き直して感動しております。 

もし、聞きたい方が居られましたら、CDに焼いてお届けいたします。

OB3A4966[1]

梅原司平

 

内容は、NHKのブログから引用してご紹介します。

 

『売れない歌手でよかった』

キャリア40年以上、“アラ古希”とは思えない艶やかな

声と見事なギターテクニックをスタジオで御披露ください

ました。でも、何より、歌詞に込められている司平さんの

思いの深さが、パーソナリティ陣の胸にストレートに刺さ

ってきて、“みちや”の目に 涙・・・きっとラジオでお聞

きになっていた皆さんの胸にも届いたことと思います。

 

昭和20年の富山大空襲のとき、お母さんのお腹の中に

いた司平さん。自宅は全焼、疎開先の物置小屋で生まれ、

お母さんや兄弟から空襲のときの様子を繰り返し聞かされながら、

大きくなりました。

 

30歳で故郷を離れ、歌手としてデビューするも、なかなかメジャーになれません。全国各地でオリジナルコンサートをしながら、フォークソングの原点である“ラブ&ピース”をテーマにした歌を作りたいとずっと思っていたそうです。そして、被爆者の方と知り合い、平和の歌を作ることになったとき、子どものころ から聞かされてきた富山大空襲と改めて向き合って、今も歌い継がれる『折り鶴』が生まれました。

YouTube Preview Image

 

今日、もう一曲歌っていただいたのは、東日本大震災の被災地、福島県楢葉町との交流の中で作られた『望郷』。司平さんの歌は、弱い人、苦しみにある人たちのそばで生まれ、癒しと励ましを与えています。

YouTube Preview Image

 

番組でもご紹介いただきましたが、司平さんのファンの方たちは、コンサートのあとに書くアンケートの内容が濃いんです!学校コンサートでの小学生の率直な 感想にも驚かされましたが、多くの人が、ご自分の人生や生き方を司平さんの歌に重ね、明日へ、未来へ生きる力にしていることがわかります。そして、その1 枚1枚を大切にしている司平さん。

売れたほうが、多くの人に歌を聴いてもらえるからもちろん良いのだけれど、でも、ご著書のタイトル『売れない歌手でよかった』ではありませんが、こうして人々の思いを近くで感じて、くみ上げることのできることを幸せに思っている司平さんでした。

引用おわり

 

ラジオ深夜便に登場してから11年余り。久々に90分のラジオ番組に登場されました。

彼の一途な営みに感謝して、この一年を終えることを幸せに感じております。

皆様のご健康をお祈り申し上げます。

http://www005.upp.so-net.ne.jp/pulana/

 

 

『僕を支えた母の言葉』

僕が3歳のとき父が亡くなり

その後は母が女手ひとつで僕を育ててくれた

仕事から帰ってきた母は 疲れた顔も見せずに

晩ごはんをつくり 晩ごはんを食べた後は内職をした

毎晩遅くまでやっていた

母が頑張ってくれていることはよくわかっていた

だけど僕には不満もいっぱいあった

僕が学校から帰ってきても家には誰もいない

夜は夜で母は遅くまで内職

そんなに働いているのにわが家は裕福じゃなかった

遊園地にも連れて行ってもらえない

ゲームセンターで遊ぶだけの小遣いももらえない

テレビが壊れた時も半年間 

買ってもらえなかった

僕はいつしか母にきつく当たるようになった

「おい」とか 「うるせー」とか なまいきな言葉を吐いた

「ばばあ」と 呼んだこともあった

それでも母はこんな僕のために頑張って働いてくれた

そして僕にはいつもやさしかった

小学校6年のときはじめて運動会にきてくれた

運動神経が鈍い僕はかけっこでビリだった

悔しかった

家に帰って母はこう言った

「かけっこの順番なんて気にしなくていい

おまえは素晴らしいんだから

だけど僕の悔しさはちっともおさまらなかった

僕は学校の勉強も苦手だった

成績も最悪 自分でも劣等感を感じていた

だけど母はテストの点や通知表を見るたび、やっぱりこう言った

「大丈夫 おまえは素晴らしいんだから」

僕にはなんの説得力も感じられなかった

母に食ってかかったこともあった

「何が素晴らしいんだよ!?どうせ俺はダメな人間だよ」

それでも母は自信満々の笑顔で言った

「いつかわかる時が来るよ

おまえは素晴らしいんだから

僕は中学2年生になったころから 仲間たちとタバコを吸うようになった

万引きもした 他の学校の生徒とケンカもした

母は何度も学校や警察に呼び出された いつも頭を下げて

「ご迷惑をかけて申し訳ありません」 と 

あやまっていた

ある日のこと 僕は校内でちょっとした事件を起こした

母は仕事を抜けて学校にやって来て いつものようにあやまった

教頭先生が言った

「お子さんがこんなに”悪い子”になったのは

ご家庭にも原因があるのではないでしょうか」

その瞬間 母の表情が変わった

母は明らかに怒った眼で教頭先生をにらみつけ

きっぱりと言った「この子は悪い子ではありません」

その迫力に驚いた教頭先生は言葉を失った

母は続けた

「この子のやったことは間違っています

親の私にも責任があります

ですがこの子は悪い子ではありません」

僕は思いきりビンタをくらったような そんな衝撃を受けた

僕はわいてくる涙を抑えるのに必死だった

母はこんな僕のことを

本当に素晴らしい人間だと 思っていれくれていたんだ・・・

あとで隠れてひとりで泣いた

翌日から僕はタバコをやめた

万引きもやめた 仲間たちからも抜けた

その後 中学校を卒業した僕は高校に入ったが

肌が合わなくて中退した

そして仕事に就いた

そのときも母はこう言ってくれた

「大丈夫 お前は素晴らしいんだから」

僕は心に誓った

「これから僕が頑張って お母さんに楽をしてもらうぞ」

だけどなかなか仕事を 覚えられなくてよく怒鳴られた

「何度同じ事を言わせるんだ!」 「すこしは頭を働かせろ!」

「おまえはほんとうにダメなやつだな!」

怒鳴られるたびに落ち込んだけど

そんなとき 僕の心には母の声が聞こえてきた

「大丈夫 おまえは素晴らしいんだから」

この言葉を何度もかみしめた

そうすると 元気がわいてきた 勇気もわいてきた

「いつかきっと 僕自身の素晴らしさを証明して お母さんに見せたい」

そう考えると僕はどこまでも頑張れた

仕事を始めて半年くらい経ったときのことだ

仕事を終えて帰ろうとしていたら 社長がとんできて言った

「お母さんが事故にあわれたそうだ すぐに病院に行きなさい」

病院に着いたとき 母の顔には白い布がかかっていた

僕はわけがわからなくて 何度も 「おかあさん!」

と叫びながら ただただ 泣き続けた

僕のために 身を粉にして働いてくれた母

縫いものの内職をしているときの 母の丸くなった背中を思い出した

母は何を楽しみにして 頑張ってくれてたんだろう?

これから親孝行できると思っていたのに

これから楽させてあげられると思っていたのに

葬式のあとで親戚から聞いた

母が実の母でなかったことを

実母は僕を産んだときに亡くなったらしい

母はそのことを いつか僕に言うつもりだったんだろう

もしそうなったら僕はこう伝えたかった

「血はつながっていなくても お母さんは僕のお母さんだよ」

あれから月日が流れ僕は35歳になった

今あらためて母にメッセージを送りたい

お母さん 僕とは血がつながっていなかったんだね

そんな僕のためにお母さんは 昼も夜も働いてくれたね

そして お母さんはいつも言ってくれた

「おまえは素晴らしいんだから」 って

その言葉が どんなに僕を救ってくれたか

どんなに僕を支えてくれたか

あれから僕なりに成長し     

今は結婚して子どももいるよ

規模は小さいけど会社の社長になって

社員たちと楽しくやっているよ      

まだまだ未熟な僕だけど 僕なりに成長してきたと思う

その成長した姿をお母さんに見せたかったよ

「おまえは素晴らしい」 って言ってくれたお母さん

その言葉は間違っていなかった っていう証拠を見せたかった

そしてそれを見せられないことが 残念でならなかった

だけど最近気づいたんだ     

お母さんは最初から 僕の素晴らしさを見てくれてたんだよね

証拠なんてなくても 心の目でちゃんと見てくれてたんだよね

だって、 お母さんが 「おまえは素晴らしいんだから」

って言うときは まったく迷いがなかったから

お母さんの顔は確信に満ちていたから 僕も今 

社員たちと接していて

ついついその社員の悪いところばかりに 目が行ってしまうことがある

ついつい怒鳴ってしまうこともある

だけどお母さんの言葉を思い出して 心の目で

その社員の素晴らしさを 見直すようにしているんだ

そして心を込めて言うようにしている

「きみは素晴らしい」 って

おかげで社員たちともいい関係を築け 楽しく仕事をしているよ

これもお母さんのおかげです

お母さん 血はつながっていなくても

僕の本当のお母さん

ありがとう

鏡の法則 人生のどんな問題も解決する魔法のルール/総合法令出版

¥1,000 Amazon.co.jp

YouTube Preview Image

 

 

 

 

敬具