まほろばblog

Archive for the ‘教育’ Category

『教育勅語の真実』

金曜日, 10月 19th, 2012

 世界から称賛される日本人の美質を育んだ
 『教育勅語の真実』

    伊藤 哲夫
    
     ⇒ http://shop.chichi.co.jp/item_detail.command?item_cd=939

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◆ 日本人を日本人たらしめた「教育勅語」
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 今年7月30日で明治天皇が崩御されてから100年が経ちました。
 その即位から始まり、
 明治期は日本にとって、
 まさに激動の時代だったといえます。

 維新後、
 開国とともに日本に流れ込んできた
 西洋文明や自由民権思想によって
 皇室や日本的な精神文化を軽視する向きが強くなりました。

 知識人の間では鹿鳴館(ろくめいかん)で踊ることが
 西洋的・近代的であるとされ、
 中には日本語廃止論を唱える者まで現れたのです。
 

 この価値観の混乱を憂えたのが明治天皇であり、
 本書ではそのご下命を受けた
 井上毅(こわし)がいかにして「教育勅語」を起草したのか、
 彼の人生を通してそこに込めた思いが描かれています。
 

 国を一つにまとめるには、
 まず「日本の国のかたち」は何かを突き止めなければなりません。
 『古事記』や『日本書紀』など
 国学を中心とした古典研究に
 猛烈に取り組んだ井上は、一つの気づきを得ました。

 それは、「しらす」という
 天皇の徳に基づく治世こそ日本の国体であり、
 これを守ることが国民教育の土台であると考えたのです。

 そこから草案を作成、
 「天皇の師」といわれた元田永孚(もとだ・ながさね)に教えを請い、
 約1か月に及んで何度も修正に次ぐ修正を重ねた結果、
 明治23年10月23日、明治天皇の御名で「教育勅語」は発布されました。

 それから長く国民教育の指針であったにもかかわらず、
 昭和20年の敗戦を契機に日本社会から葬り去られた「教育勅語」。

 現代日本の様ざまな事件や問題を鑑みると、
 明治初期と同等かそれ以上の価値観の混乱は否めません。

 そこに楔(くさび)を打つべく、
 いま再び精神的支柱として「教育勅語」の復活を望む声もあります。
 「教育勅語」起草の真実を知ることが、
 日本の精神復興の第一歩に繋がるかもしれません。

「アイヌ木彫匠館」ご案内

木曜日, 10月 18th, 2012

阿寒湖で、木彫制作を長年されている「藤戸竹喜」さんの作品が、

「NPO法人元気の丘ギャラリー」開館を機に、鑑賞することが出来ます。

見ての通り、お土産品には見れない高い芸術品としての品格が心を捉えます。

正式には来年4月openですが、申し込めば随時見せて戴けます。

          (『藤戸竹喜の神髄』取り扱いあり¥400)

それに伴い、館長の「菊池真悟」社長の絵画も堪能出来ます。

北国ならではの「しばれの感じ」が染みるように伝わりますね。

まほろばオリジナル「アルカヌム」の生まれた里でもある、

神聖な霊気の漂う寒冷の地で、心と目の保養をされてください。

http://genkinooka.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-5db2.html

「ゆらぎ」の佐治先生のお話

火曜日, 9月 11th, 2012

理論物理学者の佐治治夫先生の講演会が、

「秋分の日」に、山の手の「浄国寺」で開かれます。

先生の「ゆらぎ理論」は有名ですし、宇宙創成のお話しも興味が尽きません。

松岡正剛さんとの対談本も、エキサイティングで面白いですね。

それと、西洋音楽に大変造詣が深く、そこから紡ぎ出される

宇宙理論、人生論は眼の覚める思いがしますね。

またとないチャンスですので、是非ともご参加くださいませ。

驚きの幼児脳

水曜日, 9月 5th, 2012

 

この夏、ドイツのケルンに嫁いでいる姪が、子供を連れて恵庭に帰省している。

健太/KENTAという。

母親は、父親が一緒に来ると、ドイツ語ばかりで言葉を覚えないので、

「今回は来ないで」と、旦那に言い含めて、母子二人だけの旅行ということだ。

向うでも、なかなか日本語を話す機会がないらしい。

いわば、語学留学のつもりで、帰国した。

既に、一月半経ったという。

そこで、びっくりなのだが、子供同士、何不自由なく意思疎通している光景だ。

結構、話が通じている。

聞くところによると、全くドイツ語は忘れたかのように、話さないらしい。

親子も、従兄弟同士も、日本語で通じている様子に、こちらがビックリなのだ。

キャッキャッ、奇声を上げながら会話している。

幼児期の言語習得能力は、おそらく大人の何百倍ではなかろうか。

まるで頭の回路が別物で繋がっているかのように、繋がっている。

全くの虚心になって、物事を生き写しのように、写してゆく。

これは、仏道修行で、「妙観察智」という境涯だ。

相手や物事など、そのものになってしまう悟りの境地なのだ。

芭蕉などは、山河や植物そのものになって、そのものを詠んだ、という。

大人はみな、幼子の時は、みなそれが出来たのだ。

いわば、無心という純粋回路で、ことに当たれば、出来ないことがなくなるのだろう。

老人は、再びと子供に帰る。

ヤッター、これから、すごくなるぞー、天才になれるかもしれない。

チャンス到来、チャンス到来!

と、チョット勘違いした一人の年寄りが夢想しています。

アイヌモシリ一万年祭 24”

金曜日, 8月 3rd, 2012

アシリ・レラさんから、「アイヌ・モシリ 1万年祭 24”」のご案内を頂きました。

https://www.mahoroba-jp.net/newblog/?p=3018

https://www.mahoroba-jp.net/newblog/?p=1316

https://www.mahoroba-jp.net/newblog/?p=3638

8月15日~20日の6日間、時間を見つけて、是非ご参加下さい。

大地の母ちゃん、待っていますよ!!!

((amoさんブログ、昨年の祭より)

アイヌモシリ一万年祭
期間 毎年8月15日~20日
 アイヌの儀式カムイノミは15日と20日の午前におこなわれる。
会場 北海道沙流郡(さるぐん)平取町(びらとりちょう)貫別(ぬきべつ)旭(あさひ)の森
入場料 2000円
持ち物 テント、寝袋、雨具、箸、コップなど。
募集 祭りの準備を手伝ってくれる方は何日か前にアシリ・レラ(山道康子)宅にきてください。
155-0101 北海道沙流郡平取町二風谷
行き方 JR苫小牧駅~(43分)日高本線富川下車~バスで(30分)二風谷アイヌ博物館前下車~売店などで道をたずね(徒歩3分)山道康子さんの家に着く。そこから会場の貫別旭まで車(23km)で連れていってくれます。
 車でいく人は会場の10km手前あたりから「1万年祭」という看板がたくさんあります。
 テントのない人は先着順で集合テントに泊まれます。食べ物は会場にいろいろあるので、炊事道具はいりません。
 毎年全国から1000人もの若者がテントをしょって集まってきます。巨大なたき火を囲みながら の飛び入り歓迎のライヴ、アイヌの歌や踊り、ユーカラ、伝統工芸のワークショップ、弓大会からパン食い競争まで盛りたくさん。

山道康子(アシリ・レラ)さん
 康子さんはアイヌの聖地、北海道二風谷で子どもたちにアイヌ語と伝統文化を伝える「山道アイヌ語学校」を主宰している。さまざまな事情で預けられた10人もの子どもたちの親代わりをしながら、平和運動をつづけている。
 オレの小説「風の子レラ」の主人公レラにいろいろな知恵を伝えるチュプばあちゃんは彼女がモデルだし、あとがきも書いてくれた。
 この物語自体康子さんとの出会いがなかったら生まれなかった。オレは毎年北海道の二風谷にかよい、康子さんからアイヌの知恵を教わってきた。アメリカインディアンのデニス・バンクス、アマゾンのパブロ・アマリンゴとともに、康子さんはオレの人生でもっとも影響を受けた偉大なるシャーマンだ。 山道康子さんの略歴
 1946年、苫小牧に近い鵡川に生まれる。
 うそのような実話だが、彼女が生まれたとき、家のかまどに雷が落ちた。驚いた父親はこう言った。「この子は大泥棒か偉人になるべ」と。
 中1のとき父を亡くし、18歳で結婚。
 19歳で長男、22歳で次男を出産。
 25歳のとき、夫を亡くす。夫は対向車をよけ、電柱に激突し、2ヶ月後に白血球が減り死んだ。
 民芸店を営むが、火事で大やけどを負ったり、交通事故で大けがをしたり、苦境はつづく。
 二風谷ダムが着工され、アイヌの大地を守るため反対運動をはじめる。
 さまざまな嫌がらせにもめげず、彼女のまわりにさまざまな人々が集まってくる。
 平成1年「アイヌモシリ1万年祭り」をはじめる。「誰のためでもない。自分のため、子どもたちのためにも地球をきれいにしてカムイにかえしてあげないとね。アイヌ・ネノアン・アイヌ(人間らしい、人間)でありますように。 アイヌとは人間という意味です」
                 アシリ・レラ(山道康子)

「陶彩画展」と「いのちのまつり」

木曜日, 5月 10th, 2012

先回お知らせした草場一壽さんの「陶彩画展」が、

 市内のコンチネンタルギャラリーで開かれています。

佐賀県生まれの草場さんは、本場有田で20年にもわたり、

陶器に彩画を施す新技法を確立して新境地を開き、

内外にわたり、好評を博しています。

中でも、七色に変化する龍は見事で、生けるが如きその迫力に、

圧倒され惹きつけられます。

是非、開催期間13日までなので、急ぎ駆けつけてご覧になってください。

また、氏の書いた童話「いのちのまつり~ヌチヌグスージ~」

第3回ようちえん絵本大賞を受賞されました。

そのシリーズ3冊が、愉快で感動的。

命の繋がりが大画面であっと驚きながら理解できる面白さ。

目を丸くする子供たちに直接、真実が伝わるでしょう。

その語りや周りの人々のトークライブが、

おもちゃ箱をひっくり返したように面白い!ということです。

これは12日(土)エルプラザで開かれます。

これも、お子様連れで、ぜひ行ってもらいたい、と願っています。

「岡潔先生から学んだこと」

火曜日, 5月 8th, 2012

        
       
 占部 賢志 (中村学園大学教授)
        
   『致知』2012年6月号
             連載「語り継ぎたい美しい日本人の物語」より

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岡潔(おか・きよし)先生は、なつかしさの感情が
日本民族にとっていかに大切なものか、
心魂を込めて説いてやまなかった方でもあります。

ある時はこんなふうに言われました。

「ともになつかしむことのできる
 共通のいにしえを持つという強い心のつながりによって、
 たがいに結ばれているくには、しあわせだと思いませんか」

(『春宵十話』)

この「なつかしさ」については、印象深い思い出があります。

時は昭和四十七年、筆者が大学一年生の時です。
博多で開かれていた市民大学講座に岡潔先生がお見えになり、
特別講演をされたのです。

登壇された先生の白髪痩躯(はくはつそうく)の姿を
目の当たりにして息を呑みました。
隆々とした白い眉も印象に焼き付いています。

椅子にお座りになって講演を始められると、
何やらポケットから出される。
一本の煙草でした。

これを両手でいじりながら話が進む。
机の上には中身がこぼれ落ち、
先生は時々それを手のひらで掬われるのです。

演題は「日本人と『情』」というもので、
日本的情緒の恢復(かいふく)を語った珠玉の講演でした。
まず、自分とは何かが分からなければ
何事も始まらないと先生はおっしゃる。

そして、こう断言されたのです。

「日本人は情を自分だと思っている民族です。
 だから、どんなに知的に納得しても、
 情が納得しなければ本当には納得しないのです。

 いいこともいけないことも、情に照らせば分かる。
 これが日本人の道徳です」

こんなことを聞いたのは勿論初めてです。
偉大な数学者が知ではなく
「情」が大切だと言うのですから、びっくりしました。

それだけに、この時の印象は今も鮮やかに胸に刻まれています。

「日本の古典をお読みなさい」

独特の淡々とした口調で、いよいよ話は佳境に入る。
人には表層意識と深層意識の2つがあり、
日本人は本来、深層意識が基調となっていたはずだが、
今は表層意識が中心になってしまったとの指摘でした。

先生によれば、「なつかしい」という感情は
深層意識から生まれたものだそうです。

たしかに西洋人も「なつかしい」とは言うが、
過ぎた昔がなつかしいという意味で使うに過ぎません。
しかし、日本人は違うのだと言って、
次のような例を挙げられたのです。

「たとえば芭蕉に、秋深し隣は何をする人ぞ、
 という句があります。
 あれは隣の人を知らないから、なおさらなつかしい、
 そういうふうに使っているのです。

 ところが今、この日本人本来のなつかしさの感情が
 衰えてしまったのではありませんか」

旅先で襖一枚隔てた見ず知らずの他人、
そこに寂寥感を覚えるのかと思えばさにあらず、
むしろなつかしさを感じるのだとおっしゃるから、またまた驚きでした。

じつはこの時、筆者は少し考え込まざるを得ませんでした。
先生が強調される、「なつかしさ」の感情を
捨て去るような少年期を送って来ていたからです。

小中学校時代、父の仕事の関係でほぼ一年に一校ずつ、
西日本各地を転校しましたから、
なつかしさの元とも言える故郷は筆者にはありませんでした。

そこで、質疑応答の時間に思い切って手を挙げ、
どうしたらなつかしい感情が磨けるのか、質問に及んだのです。
先生は言下にこう応じられました。

「君にもなつかしさを育てる道はあります。
 日本の古典があるでしょう。その古典が君のふるさとです。
 古典をお読みなさい。
 そうすればきっと、なつかしさとはどういうものか分かります」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以前のブログで、岡先生のことを書いたことがあります。

NHKのアーカイブスで映像が見られます。

http://www.mahoroba-jp.net/blog/2009/04/nhk_1.html

 「未来は歴史の上にある」

日曜日, 2月 5th, 2012

   唐澤 るり子 (唐澤博物館代表)

    『致知』2011年10月号「致知随想」
     ※肩書きは『致知』掲載当時のものです

…………………………………………………………………

 東京練馬の閑静な住宅街の一角に、
 江戸から昭和にかけての教育資料を展示する
 唐澤博物館があります。
 
 当館は私の父、教育史研究家・唐澤富太郎が
 長い歳月をかけて収集した数万点におよぶ研究資料の中から、
 特に選りすぐった七千点余りを展示しています。

 日本で最初に使われた国語教科書や第一号の卒業証書、
 時代を映す通知簿、児童作品、玩具など、
 当時実際に使われていた実物の資料がぎっしりと並んでいます。

 驚くべきことに、これらの夥しい資料は、
 富太郎が五十歳を過ぎてから個人で全国各地を巡り
 収集したものです。
 
 そして平成五(一九九三)年、富太郎八十二歳の時、
 自宅収蔵庫を改築して唐澤博物館を開館。
 
 晩年、「これらのものは執念で集めた」と語ったように、
 富太郎は教育史研究という一点に人生を懸けた人物でした。

 
     * *

 唐澤富太郎は明治四十四(一九一一)年、
 新潟の出雲崎に生まれます。
 生来、探求心が旺盛で、学業・操行ともに優秀だった富太郎は、
 小学生時代すでに「将来は必ず博士になる」と志を抱いていました。
 
 その後十四歳で上京し、師範学校で研究に没頭。
 更に学位論文で中世仏教教育を研究したことで
 仏教観が身体に沁みこみ、その後の研究姿勢に大きな影響を与えます。

 唐の禅僧・百丈懐海の言葉

 「一日不作一日不食」(一日作さざれば一日食らわず)
 
 
 を自ら揮毫し、仕事部屋に掲げ、研究に没頭していました。
 給料はすべて研究に費やし、貧しかったためスーツは一着だけ、
 破れるまで新しいものは買わないほどの徹底ぶりでした。

 また、研究生活には盆も正月もなく、
 いつも「引っかかったら鬼だぞ」と言って
 仕事場に籠もるのです。
 
 取り掛かったら一心不乱、研究に専念する。
 まさに、自他ともに認める「研究の鬼」でした。

 戦後、日本教育史に携わるようになった富太郎は、
 昭和三十年から三十一年にかけて
 『教師の歴史』『学生の歴史』『教科書の歴史』の
 近代教育史三部作を出版し、脚光を浴びます。
 
 その後、世界の教科書に目を向け、
 五十四か国の教科書を収集し、
 三十六年『世界の道徳教育』を発刊します。


 
 

 この本が世界から注目され、翌年ユネスコの招聘に応じて
 ドイツで講演を行っています。

 その折に欧米十六か国の教育現状を視察したのですが、
 最後に辿り着いたボストン美術館で衝撃を受けます。
 
 そこで日本庭園を背景に展示されていたのは
 江戸期の浮世絵や調度品で、西洋にはない
 日本独自の美の素晴らしさを再認識しました。
 
 同時に、日本の文化財が海外に流出し
 注目を集めているにもかかわらず、
 当の日本人が日本のよさをあまり理解していない
 愚かさに憤りを覚えるのです。

 ボストンから帰国した富太郎が
 戦後の教育史研究を改めて見て気づいたのは
 「児童が不在である」ということでした。
 当時は教育制度や法令といった
 上から目線の研究ばかりが為されていたのです。

 それに対して富太郎は、現実にその時代を生き、
 教育を受けた児童そのものに視点をあてた研究にこそ
 意味があると考えました。
 
 そして子供たちが実際に使ったノート、筆箱、
 ランドセル、教材、教具など、
 児童を取り巻くありとあらゆるモノを通して、
 その実態に迫ろうとしたのです。

 ここから全国各地を巡り教育資料を収集するという
 新たな研究生活が始まります。

 当時の日本は、終戦によって価値観が一変し、
 新しいものばかりが追求された時代です。
 
 一度は捨てられ埃にまみれたような教育資料を
 宝の如く大事に両手で抱え、自宅に持ち帰る日々が続きました。

 前例のない型破りな研究に、同業者からは
 冷淡な目で見られることもあったようです。
 それでも富太郎は資料保存の意義を熱心に語り、
 全国の教え子や教育関係者を巻き込んで収集にあたったのです。

 富太郎は
 
 
 「モノにはそれをつくった人、使った人、
  大事にとっていた先人の知恵や心がこもっている。
  それを感じ取ることが大切である」
  
  
 と常日頃から口にしていました。
 百万言を費やしても、実物の持つ情報量には
 敵わないというのです。
 
 そのため、新しいものばかり取り入れ、
 古いものは捨てるという当時の軽薄な風潮が
 許せなかったのでしょう。
 
 そして常人には理解し難いような収集活動に奔走することで、
 高度経済成長で商業主義に蝕まれる危険性に
 警鐘を鳴らそうとしたのでした。

 唐澤コレクションの中には、
 戦前どこの小学校にもあった奉安殿
 (教育勅語や御真影を納めるため学校の敷地内に造られた施設)や
 教育内容の一変を象徴する墨塗りの教科書もあります。

 GHQの占領政策によって戦前の教育が否定されて以来、
 当の日本人が自らの教育の実態を省みることが
 少なかったのではないでしょうか。
 
 歴史の真実を物語るこれらの資料を遺した功績は
 大変意義深いものだと感じます。

 生前、富太郎はよく
 
 
 「未来は歴史の上にある。
  過去を知らずして未来はつくれない」
  
  
 と申しておりました。
 
 父・富太郎が自らの命のすべてを懸けて
 後世に遺してくれたものを、
 一人でも多くの方々に伝えることが私の役目であり、
 使命であると感じています。

「久保田カヨ子式 いい子を育てる法則」

水曜日, 11月 16th, 2011

       
       
   久保田 カヨ子 (脳研工房代表取締役)
        
      『致知』2009年8月号
        連載「感奮興起」より
 http://www.chichi.co.jp/monthly/200908_pickup.html#pick2

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【記者:脳の発達に着目した乳幼児教育に取り組まれたきっかけは?】

自分の子供をよく育てたいからですよ。
親っていうのはそういうところから発想しないと、
いい子はつくれません。

うちは旦那(久保田競<きそう>氏、大脳生理学者)の研究の関係で、
家には脳科学の本がありましたから、
自分で読んで脳について勉強しました。

【記者:ということは、独学ですか?】

独学と、そこからおばあちゃん、お母さん、おばちゃんから聞いて、
日本に昔から伝わってきた育児法が脳の発達とどう関連しているのか。

あるいはもっと効果的に脳の発達を促すにはどうしたらいいか、
ということを考えていったの。

【記者:具体的にお教えください】

一番重要なのは前頭連合野(ぜんとうれんごうや)です。

ちょうどおでこの裏側にあって、情動のコントロールや、
論理的な判断、将来の予測や計画の立案を行うのが、
この部分。

高度な判断を行って、人間の複雑な感情に関わり、
恥ずかしさや尊敬する心を想起させる一方、
感情面だけでなく、論理性や計画といった
高度な判断を司るため、
「人間らしさ」の源泉の部分と言っていいでしょう。

損傷を受けると、理性的な判断ができなくなる例もある。

人間の脳が一番大きくなるのは生まれてから
歩き出すまでの間だから、この時期に
感覚教育を行うのが前頭連合野を刺激するには一番効果的です。

【記者:どのようにすればいいのでしょうか?】

例えば、オムツを替える時は必ず声を掛ける。
そうすることで、赤ちゃんは
お母さんの表情と声を認識していきます。

また「これとこれ、どっちが好き?」と聞いて選ばせる。
決断することで脳を使っているわけです。

まあ、そういう感覚教育を我が子にしたところ、
七か月で歩き出し、一歳で三千語を話し、
三歳でひらがなを読めるようになったわけです。

で、上の子は大学へ行かずに独学で一級建築士になって、
下の子は東大へ行きたいっていうから入れてやった。

そういう話が近所のお母ちゃんたちの間で話題になって、
「うちの子も見てください」と頼まれるようになりました。

そうしてよその子供たちの感覚教育にも携わるようになって、
自分の育児理論の裏づけを取っていったわけです。
やっぱり実験データは多いほうがいいですから。

  ★☆ 久保田カヨ子式 いい子を育てる法則 ☆★

…………………………………………………………………………
● オムツを替える時は視線を合わせ声を掛ける
…………………………………………………………………………

  話すことはできないが親の表情を見て、声を聴いている

…………………………………………………………………………
● 「いないいないばぁ」は一日に五回以上やる
…………………………………………………………………………

  視線を集中させる

…………………………………………………………………………
● カラフルな子供服を着せる
…………………………………………………………………………

  色彩感覚を身につける

  
…………………………………………………………………………
● なるべくおんぶする
…………………………………………………………………………

  親と同じ目線(世界)を体験させる

…………………………………………………………………………
● 幼児語を使わない
…………………………………………………………………………

  幼児語から正しい言葉を覚え直すのは二度手間

…………………………………………………………………………
● 箸や鉛筆などはいきなり持たせず、
   正しく使っている姿を何度も見せる
…………………………………………………………………………

  親のマネをさせることが
  脳のミラーニューロンを刺激する。
  見せる時は子供の背後から。
  向き合うと左右逆になる。
  

  
…………………………………………………………………………
● どっちが好き? と質問する
…………………………………………………………………………

  脳を使って「決断」させる訓練をする

…………………………………………………………………………
● お風呂の時など、十から数を減らし
    ゼロまでカウントダウンする
…………………………………………………………………………

  ゼロという数学的な観念を知る
  
  
  
…………………………………………………………………………
● 親が「ストップ」と言ったら行動を止める訓練をする
…………………………………………………………………………

 「NO GO行動」という。
  これを覚えることにより危険回避行動を養う

…………………………………………………………………………
● ガラガラはゆっくり動かして使う
…………………………………………………………………………
  幼児は早い動きは認識できない。
  遠くからガラガラを近づけて、
  視線の焦点が合ったところで
  ゆっくりと動かす

…………………………………………………………………………
● 生後1~2か月のうちにストロー飲みを覚えさせる
…………………………………………………………………………

  吸う力を養う。口、舌を鍛え、
  呼吸や発声を養う
  
  
  
…………………………………………………………………………
● できるだけ多くの臭いを嗅がせる
…………………………………………………………………………

  いい臭いもイヤな臭いも
  感情(脳)に作用する

…………………………………………………………………………
● 紙をたくさん破らせる
…………………………………………………………………………

 (新聞紙など、できるだけ細く)
  手先の器用さと物質の構造を
  理解する能力(紙が破りやすい方向など)を養う

…………………………………………………………………………
● タオルやハンカチを三つ折りにたたませる
…………………………………………………………………………
 
  四つ折りだと角を合わせるだけ。
  三つ折りは目安が必要なので、
  物をよく見て計算する能力が養われる

「幼児教育こそ国をつくる力」

月曜日, 10月 31st, 2011

加藤 積一

(学校法人みんなのひろば・ふじようちえん園長)
『致知』2011年11月号より
http://ameblo.jp/otegami-fan/day-20111030.html

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「遊びと学びと建物が一体となった
世界的にユニークな建物」

このような評価をいただき、昨年、
私が園長を務めるふじようちえんは
OECD(経済協力開発機構)が主催する
学校施設の好事例最優秀賞に選ばれました。

二〇〇七年に園舎全体をリニューアルした当園は、
広い芝生の園庭を囲むように建てられた
ドーナツ型の平屋の園舎に、約六百名の園児たちが
思い思いに遊んでいます。

一九七一年に父が始めた幼稚園を私が引き継いだのは
一九九四年のこと。園舎は次第に老朽化し、
築三十年を経過した頃から雨漏りもしてきました。

そのような状況下で、二〇〇四年に
新潟県中越地震が発生しました。
そのニュースをテレビで見ていた時、
「子どもたちに万が一のことがあったら……」
という不安が私の危機感を煽り、園舎改築を決めたのです。

さっそく知り合いの建築関係者に設計を依頼したのですが、
私にはどうしてもしっくりきませんでした。
私の考えていた「素朴で本物」
「自然を感じ、自然とともに成長する」という
コンセプトが感じられなかったのです。
結局、折り合いがつかず断念しました。

旧園舎は、武蔵野の面影を色濃く残す豊かな自然に包まれ、
どことなく懐かしい、あたたかな空気が流れていました。
そんな雰囲気を気に入ってくださって、
入園を決める親御さんも多かったのです。
だからこそ、目に見えない大切な空気を残しつつ、
これからの時代に子どもたちが育つ環境へ
より良く変化していきたいという思いが胸の内にありました。

そんな時、偶然出会ったのが
ホンダ・ステップワゴンのCMや
SMAPのCDジャケット等のデザインを手掛けた
アートディレクターの佐藤可士和さんでした。

可士和さんの、

「幼稚園や病院という“デザイン”の概念が
まだ入っていない世界をデザインしたい」

との言葉に、私たちはすぐに意気投合。
建築家の手塚貴晴・由比ご夫妻の協力もいただき、
改築プロジェクトは始まりました。

「子どもは遊びが仕事、遊びが学び」という観点で、
私が溢れんばかりの想いを伝える。
それを可士和さんが整理して必要な情報を抽出し、
手塚さんが形にしていく。

そのように三位一体で進めていった結果、
「園舎そのものが巨大な遊具」という
ユニークな園舎が完成しました。

園舎には子どもが育つための様々な仕掛けが
施されていますが、中でも皆さんが注目されるのは、
園舎の屋根の上が円形の運動場になっていることです。

ある時、可士和さんが旧園舎を眺めながら、

「あの屋根の上を子どもたちが走ったら気持ちいいでしょうね」

と言いました。

「いや、危なくてそんなことはさせられませんよ」

と私はすぐに否定したものの、
よく考えてみると自分の小さな頃は、
しょっちゅう木登りをしたり、
近所の家の屋根で遊んだりしたものでした。

手塚さんは当園のコンセプトを
「ノスタルジックフューチャー(懐かしい未来)」
表現していますが、私が育ってきた昭和四十年代の
古きよき日本の姿を、安全性を確保した形で
現代流にアレンジした一例が、「走れる屋根の上」です。

子どもたちは、この屋根の上で全力疾走をしたり、
鬼ごっこをするなど、とにかく元気いっぱいに走り回ります。
一周は約百八十メートル、円形なので行き止まりがありません。
そこを一日に三十周したという園児もいるほどで、
三十周では五キロ以上にもなります。

ある大学生が、サッカー教室も行っている
都内の幼稚園児と当園の子どもたちとの
一日の運動量・歩数を比較したところ、
驚くことに当園のほうが三倍も多かったという
報告もなされています。

大人からの強制も特別な遊具もなく、
子どもたちが自分の意思で
これほど走り回りたくなる環境は、
いまの都会の生活には存在しないのではないでしょうか。

私たちは高度経済成長期以降、便利さを追求し
オートマティックな社会を築いてきました。

手を出せば水が流れ、部屋に入れば電気がつく。
自ら身体を動かし筋肉を使わなくとも、
自動で何でもしてくれる世の中です。

果たしてそれは本当に便利な社会といえるのか――。
よく考えてみると、いまの社会は子どもが育つには
とても「不自由」な環境だと思うのです。

自然の中に身を置き、本物の土や木、水や空気、
一面に広がる空や風を感じながら、
石に躓(つまづ)き転んだり、カブトムシを触って噛まれたりする。
そうした実体験を通して、子どもは育っていくものだと
私は考えています。

私たちのミッションは「幸せな未来をつくること」です。
いまここに通っている子どもたちには
将来、新しい世界を築いていってほしい。
幼児教育はそのための土台づくりの場です。

私は常日頃から、

「“How to”で生きるより
“To do”で生きる子どもを育てよう」

と話しています。

子どもには、処世の術を教えるよりも、
自分は何をしたいのかという意志を持たせることが
大切だと思うのです。

私は幼児教育には国をつくる力があり、
世界を形成する力もあると考えています。

いまはまだ小さな力でしかないかもしれませんが、
ゆくゆくは社会を変革する大きなエネルギーになると信じて、
子どもたちの育ちに役立つ「道具」のような存在として
生きていきたいと思います。

■「ふじようちえん」の園舎の様子を
写真をたくさん交えてご紹介しています。
ぜひアクセスしてみてください。
http://ameblo.jp/otegami-fan/day-20111030.html