まほろばblog

いよいよ、明日開催!!!

10月 15th, 2013

コンサート松本愛子先生

せせらぎ合唱団!

「安岡正篤師とドラッカー氏の共通点」

10月 12th, 2013
      佐藤 等(ナレッジアドバイザー、公認会計士、税理士)

                『致知』2013年10月号 
                 特集「一言よく人を生かす」より

6549775c6d752afb353ddaacdcde4a706b5deb6a.56.2.9.2[1] 1319440173[1]

安岡先生とドラッカー教授の教えが驚くほど
一致しているのを実感するようになったのは、
『易経』研究の第一人者である竹村亞希子先生に学んでからでした。

竹村先生によれば、
『易経』は時の変化の原理原則を説く書です。
そしてドラッカー教授もその著書において時の変化、
世界の変化を広く記されており、
変化を見る目が人一倍優れていました。

つまり『易経』もドラッカー教授も、
変化、特に兆しを知ることが
重要であるという点で一致しています。

『易経』は東洋思想の中核をなす古典であり、
安岡先生の教えとも深く結びついています。

そこに思い至り、私は安岡先生とドラッカー教授の教えの
共通点について思索を深めてきたのです。

ここで具体的に、安岡先生とドラッカー教授の言葉を通じて、
両者の教えの共通点を見てゆきましょう。

「人々は意識しないけれども、
 何か真剣で真実なるものを求めるようになる。
 これが良知というもので、
 人間である以上誰もが本具するところであります。

 致良知とは、その良知を発揮することであり、
 それを観念の遊戯ではなくて、
 実践するのが知行合一であります」

         (安岡正篤『人生と陽明学』)

「自らを成果をあげる存在にできるのは、自らだけである。
 (中略)したがってまず果たすべき責任は、
 自らのために最高のものを引き出すことである。
 人は、自らがもつものでしか仕事はできない」

         (ドラッカー『非営利組織の経営』)

「知識とは、それ自体が目的ではなく、
 行動するための道具である」

         (ドラッカー『既に起こった未来』)

両者の著作は膨大ですが、その教えの根本は活学であり、
実践である点で一致しています。
さらに二つの教えは、学びの手法においても共通しています。

「一度古人に師友を求めるならば、
 それこそ真に蘇生の思いがするであろう」

          (安岡正篤『いかに生くべきか』)

「理論化に入る前に、現実の企業の活動と行動を観察したい」

          (ドラッカー『現代の経営(上)』)

ドラッカー教授の本には「IBM物語」「フォード物語」
といった経済人や企業の逸話が随所に盛り込まれています。

彼の著作には机上で生み出されたものは一つもなく、
すべて自らの目で見たものに基づいて記されています。

現実を観察し、一つの理想を提示し、実現を促しました。
これは安岡先生がお示しになる造化の位どり、
つまり理想‐実現‐現実、天‐人‐地の教えに適っています。

それは歴史や人物に学ぶことの大切を説き続けた
安岡先生と共通するスタンスといえるでしょう。

「自分を知り、自分をつくすことほど、
 むずかしいことはない。

 自分がどういう素質、能力を天賦されているか、
 それを称して『命』という。
 これを知るのを『知命』という。
 知ってこれを完全に発揮してゆくのを『立命』という」

           (『安岡正篤一日一言』)

「自らの成長のために最も優先すべきは卓越性の追求である。
 そこから充実と自信が生まれる。

 能力は、仕事の質を変えるだけでなく
 人間そのものを変えるがゆえに重大な意味をもつ。
 能力なくしては、優れた仕事はありえず、
 自信もありえず、人としての成長もありえない」

           (ドラッカー『非営利組織の経営』)

安岡先生の説く「知命」「立命」は、
『大学』の「明徳を明らかにする」という言葉にも置き換えられ、
それはドラッカー教授の

「自分の持っているものを発現させる」

「卓越性の追求によって社会の役に立つ」

という言葉によって、より現代人にも
分かりやすい教えに転換されています。

造園師・佐々木君

10月 11th, 2013

以前、まほろばで働いていた佐々木信豪君。

造園師を目指して鋭意精進中だ。

今、大人気で、冬囲いで引く手数多、大忙しなのだ。

そんな中、地下洞「無限心庵」の笹松の入れ替えをお願いした。

山から切り出し、清掃と岩の按配、敷石など一日かけての大仕事。

その成果は、写真の如く見事な出来上がり。

庭の手入れの申し込みは、是非とも佐々木造園に・・・・。

SONY DSC

 

奇跡のピアニスト

10月 11th, 2013

大橋&寺山&ブラウン ひとり

 

ピアニストの大橋亜樹子さんの記事が、大きく道新に掲載された。

丁度その2日前に、彼女の伴奏をあるホールで聴く機会を得て、感心した所だった。

あるテノール歌手のリサイタルで、5日前に楽譜を渡されて、

難なく弾かれたその力量に、彼女の並々ならぬ才覚と努力を思った。

doc09722720131009113921_001

まほろばでも、何回か演奏会を開いて戴いて、

生来の難病を克服してのピアニストとしての自立に思いを馳せた。

想像を絶する苦しみと哀しみを乗り越えての今日に言葉もなかった。

そして、新聞記事を拝見して、それ以上に壮絶だった病歴に、

さらに、言葉を失った。

 

大橋&寺山&ブラウン 1

 

動かぬ手、短くなる指、誰がピアニストの肉体を思うだろうか。

これは、奇跡ではなかろうかと思った。

まるで、彼女の舞台は、夢のようであった。

これは、我らに示し賜う神の恩寵でなくて何であろうか。

ただただ、彼女がピアノに向かうことで、

人間の果てしなき可能性の扉を開いていたのだ。

大橋&寺山&ブラウン 7

大橋&寺山&ブラウン 5

大橋&寺山&ブラウン 2

(2009年、11月11日「アンソニイ・ブラウン、寺山心一翁、大橋亜樹子コンサートin豊平館)

亜樹子さん 1

(まほろばでのブラウンさんのコンサートhttp://www.anthonybrownbaritone.net/

「凡人が勝つ唯一の道」

10月 10th, 2013
菊原 智明(営業サポート・コンサルティング社長)

                『致知』2013年11月号 
                     「致知随想」より

column_206_1[1]

人生とは不思議なものです。

私は大学卒業後、七年間クビ寸前の
ダメ営業マンをしていました。

ところが、そこから一転して四年連続トップ営業。

2006年に営業サポート・コンサルティング
という会社を立ち上げ、大企業の営業研修や
全国初となる大学での営業の授業を行っています。

まさか自分が他人様に何かを教える立場になるとは、
思ってもみませんでした。

そもそも私が営業の道に進んだのは、
友人の父親が車の営業をしており、
その自由奔放な姿に憧れたことがきっかけでした。

ある時、トヨタに面接を受けに行くと
「月に五台売ってください」。

一方、

「うちは住宅もやっていて、
  そっちは四か月に一戸売れればいい」

とのこと。それならできるかもしれない。
そう思い、トヨタホームに入社しました。

ただ、よく考えてみれば、トヨタ車は人気が高く、
店で待っていてもお客様が来てくださるのに対し、
トヨタホームを買いたいというファンは少ない。

大手メーカーがひしめき合う住宅業界にあっては

「○○会社もいいけど、菊原さんが素晴らしい方なので
  トヨタホームにします」

と、お客様から思っていただかなければ売れないのです。
しかし、当時の私にそのような人間的魅力はありません。

電話をしても

「ちょうど子供が寝たところになんで電話してくるんだ!」

と怒鳴られ、訪問しても

「資料だったらポストに入れてもらえますか」

と言ってTVドアフォンを切られてしまう。
会社に戻れば「またアポ取れなかったな」と散々叱られる。

半年もゼロで、俺って存在価値あるのかな……。
周りからすべて否定され、
次第に自分で自分を責めるようになってしまいました。

そんな中、私の支えとなっていたのが週末の飲み会でした。

そこに集まるのは、売れない同期や後輩たち。

結果の出ない者同士で酒を飲むことで、
現実から目を逸らし、ストレスを発散していたわけです。

その当時は、朝九時に朝礼が始まり、
毎日夜中の十二時まで帰れない、
まさに地獄のような日々でした。

それに耐え切れずに辞めていく社員も数多くいました。

彼らが手放したお客様をフォローしたり、
大手が相手にしないクレーマーのような
お客様から契約をいただいて、
年間三棟の最低ノルマをどうにか達成する。

そんなギリギリの生活が七年も続き、
気づけば二十九歳になっていました。

それまでは

「別に売れないけど、仲間がいるし、
 飲んで忘れてしまえばいいや」

と思っていたものの、三十を目前に控えた頃から
飲み会が徐々に楽しくなくなっていきました。

ある時、いつものように飲んでいると、

「いま確かに楽しいかもしれない。
 でも、おまえってダメな人間だよな」

と、もう一人の自分が囁くように感じたのです。
本当は仕事で結果を出したいという思いが、
心の叫びとして聞こえてきたのでしょう。

しかし、七年やってダメな人間が八年目から
爆発するという話は聞いた例がありません。

ちょうどその頃、結婚したこともあり、
家を建てて転職しようと考えました。

せっかく家を建てるのならば、失敗したくない。
そう思い、様々な情報を集めていると、
ある資料が目に飛び込んできました。

「もう少しコンセントを増やしておけばよかった」

「濃い床にしたら傷や埃が目立つ」

等々、そこには実際に家を建てたお客様が
後悔した事例がたくさん載っていたのです。

「これは面白い! きっとお客様にも喜んでいただける」

私はすぐに“お役立ち情報”として、
そのリストをお客様に郵送しました。

するとどうでしょう。

「いくつか見積もりを出したんだけど、
 ちょっとよく分からないので相談に乗ってくれませんか」

「とりあえず菊原さんにお願いしますよ」

というお客様が現れたのです。

営業の仕事が面白いと、
心の底から感じられた初めての瞬間でした。

「お魚キャンペーン」明日10日から!

10月 9th, 2013

鮮魚店での魚介類の消費拡大に向け、

札幌市中央卸売市場の水産協議会が

「お魚キャンペーン」を開催します。

 

top1[1]

 

キャンペーン参加店で1,000円(税込み)以上、魚介類をご購入の方に、

その場でスピードくじをお引きいただきます。

「当たり」が出たら、その場で賞品をプレゼント。

スピードくじが無くなり次第、終了します。

ぜひ、この機会に鮮魚店をご利用ください!!

詳しくは、こちらのポスターをご覧ください。

期間 :2013年10月10日(木)~10月24日(木)

キャンペーン参加店 :店頭にポスターの貼ってある札幌市内及び近郊の鮮魚店

賞品 :甘口たらこ 10個

   :まほろば特別 プレゼント『うなぎ蒲焼』 100p

201310event2_s1

「うなぎ蒲焼」の柳川丼仕込み

① 化学調味料 不使用  ② 着色料 不使用  

③ 保存料 不使用  ④ 黒砂糖 使用

⑤ 本格味醂 使用  ⑥ 寺岡醸造 杉樽3年再仕込み醤油 使用

「“足なし禅師”と呼ばれた禅僧」

10月 9th, 2013

 

 

          『致知』2007年3月号
           特集「命の炎を燃やして生きる」総リードより

l_a5157a68885a7ff1dd44769f3c98e4e673a5a7e8[1]

「足なし禅師」と呼ばれた禅僧がいた。

小沢道雄師。大正9年生まれ。幼年期、曹洞宗の専門道場で修行。
20歳で召集を受け満州へ。
昭和20年、25歳で敗戦。シベリアに抑留され強制労働。

だが、肩に受けた銃創が悪化し、
役立たずは不要とばかり無蓋(むがい)の貨車で
牡丹江の旧日本陸軍病院に後送される。

氷点下4、50度の酷寒に夏服のままで、
支給された食料は黒パン1個、飲み水もままならず、
3日間を費やした行程で死者が続出した。

小沢師は死こそ免れたが、両足が凍傷に侵された。

膝から切断しなければ助からない。

その手術の担当軍医は内科医で外科手術はそれが初めて。
麻酔薬もない。
メスを執った軍医がしばらく祈るように目を閉じた姿を見て、
小沢師はこの軍医に切られるなら本望だと思い定めた。

想像を絶する激痛。

歯がギリギリ噛み合い、全身がギシッと軋(きし)んで硬直した。

すさまじい痛みは1か月余続いた。

8月に突然の帰国命令。
歩けない者は担架に担がれ、
牡丹江からハルビン、奉天を経てコロ島まで、
1,500kmを徒歩で行くことになった。

だが、出発して3日目の朝、
目を覚ますと周りには誰もいなかった。
満州の荒野に置き去りにされたのだ。

あらん限りの大声で叫んだ。

折よく通りかかった北満から引き揚げ途中の開拓団に救われたのは、
僥倖というほかはなかった。

崖っぷちを辿るようにして奇跡的に帰国した小沢師は、
福岡で再手術を受け、故郷相模原の病院に送られた。

母と弟が面会に来た。

「こんな体になって帰ってきました。
 いっそのこと死のうと思いましたが、
 帰ってきました」

言うと、母は膝までの包帯に包まれた脚を撫で、
小さく言った。

 「よう帰ってきたなあ」

母と弟が帰ったあと、
小沢師は毛布をかぶり、声を殺して泣いた。

懊悩の日は続いた。

気持ちはどうしても死に傾く。
その果てに湧き上がってきた思いがあった。

比べるから苦しむのだ。

比べる元は27年前に生まれたことにある。

27年前に生まれたことを止めて、今日生まれたことにしよう。

両足切断の姿で今日生まれたのだ。

そうだ、本日たったいま誕生したのだ。

足がどんなに痛く、足がなく動けなくとも、
痛いまんま、足がないまんま、動けないまんま、
生まれてきたのだから、何も言うことなし。

本日ただいま誕生!

深い深い覚悟である。

一、微笑を絶やさない
一、人の話を素直に聞こう
一、親切にしよう   
一、絶対に怒らない


小沢師はこの4つを心に決め、
58年の生涯を貫いた。

命の炎を燃やして生き抜いた足なし禅師の人生だった。

 

r_3761991img20060426172126[1]

 

 

 

 

 

 

「二度とないこの一球という意識を強く持て」

10月 7th, 2013
   小久保 裕紀(元福岡ソフトバンクホークス選手) 

                『致知』2013年3月号
                 特集「生き方」より

    http://www.chichi.co.jp/monthly/201303_pickup.html#pick5

201303pick5[1]
現役を終えた僕がいまいろいろなお話を
いただいているのは
野球一筋にやってきたからだと思っているんです。

野球という道を極めようとしたことが
自分の生きる道に繋がりました。

野球が野球道へと繋がったように
一つを極めることは自分の財産になる、ということですね。

いま若い人は定職に就かず
いろいろなことを体験して
自分に合うものを見つけようとする傾向がありますが、
それは違うと思います。

いま目の前にあることこそが天職で、
そこに百%時間を使って取り組まない限り、
その先の人生で花を咲かせることはできないんです。

ちょっと囓ったくらいでは
仕事の本質は絶対に分かりません。

どんな小さな仕事であっても、
それを天職と自分で思って全身全霊をかけてぶつかり、
目の前の課題を一個一個クリアする中で
次の展開が見えてくる。

僕の座右の銘である「この一瞬に生きる」は
そこに繋がってくると思っています。

王監督からは「二度とないこの一球という意識を強く持て」と
教わりました。

同じ一球でもなんとなく見逃すのと
確信を持って見送るのは大変な違いです。

ただ、野球は勝負なのでこの言葉がピンと響くんですが、
ユニホームを脱いだ後は、よほど強く意識しない限り、
一瞬一瞬の勝負がなくなってしまう。

だからこれからは、講演でも取材でも野球教室でも、
すべての仕事を試合と考えて
全身全霊で打ち込もうと思っています。

それに一つ加えるとしたら、
プロ野球でもなんの世界でも
「思い」の強さはとても大事だと思います。

プロに入ったことで夢を叶えたと考えるような選手は
やはり育たないですね。

僕の場合は「絶対にレギュラーになる。絶対に名を残してやる」と
いう思いが半端でないくらいありました。

だからこそプラスになると思うものは
なんでも吸収してきました。

いまの若い選手には
「僕は将来、絶対にホームラン王になる」
と言い切る者が少ないんですよ。

逆に結果が出ていないのに謙虚な選手ばかり増えてきました。
僕はそんな選手に

「俺は天狗になって、その鼻を折られた。
 それでも折れた鼻を再び生やしたから成長したんだ。
 伸びもしないうちから謙虚になるな」

と言うんです。
特に若い頃は寝ても覚めても夢でも、
常に願望を抱いていることが
伝わってくる迫力が必要だと思います。

「三角山の友マガジン762」に農園が

10月 7th, 2013

小泉&洋子

セーンジャーさんが小原孝さんと・・・・

10月 6th, 2013

センジャー 3

 

モンゴル旅行で取材同行されたアーティストのセーンジャーさん。

彼から、お便りが届き、あのNHKFM「弾き語りフォユー」で、

御馴染みのピアニストの小原孝さんとの

馬頭琴コンサートを銀座のヤマハホールで開くそうです。

是非、応援して頂ければ、幸いです。

 

センジャー 1

http://www.mahoroba-jp.net/about_mahoroba/tayori/topix/topix200904mongoru3.htm

(モンゴル食源紀行3より・セーンジャーさん)

センジャー 2

http://www.senjiya.net/

(セーンジャーさんHP)

センジャー 4