まほろばblog

Archive for the ‘歴史’ Category

あさきゆめみし・・・・・・

金曜日, 4月 1st, 2016

あさきゆめみし

 

30日の道新に漫画家・大和和紀さんが特集されていた。

「あさきゆめみし」や「ハイカラさんが・・・」などの題名は聞いたことがあるが、

読んだこともなく、お名前は失礼ながら知らなかった。

事務所の女性陣は、「懐かしい!」と叫んだ。

札幌出身で、50年の画業。

すごい人がいたもんだ、と感心。(無知ですみません)

その彼女の最初のころのエピソードが面白い。

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・・・・・・・・・・18歳で漫画家になった大和和紀は、その数年前、

高校の修学旅行で初めて京都を訪れた。

生まれ育った北海道にはない町家の格子戸や嵯峨野の竹林を目にして、

「日本ってすてき」と感激した。・・・・・・・・・・・・・

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私も、同じ歳、奈良に行って、懐かしいと感じた。

それが人生の転機でもあった。

彼女の描くものは、源氏物語とか額田王とか、日本の古典が多いらしい。

見ると典雅で、細部が描けていて、よく勉強されているなーと感心することしきり。

彼女の言う通り、北海道には無い伝統文化故に惹かれたのだろうが、

魂といえば大袈裟だが、元々、古典の記憶というものを持ち合わせていた、

としか考えられない。

北欧に似た北海道の大地に、そのような感性はなかなか育ちにくいだろう。

しかも、高校生の大の仲良しが、同級の

あの漫画家の山岸涼子さんだったというから驚きである。

だが、あのという私は山岸さんを知らないし、読んでもいない。

驚くべきは、「日出処の天子」という聖徳太子を題材に、「ヤマトタケル」など

多くは日本の古典を描いている点が、二人の共通している点である。

共に、北海道出身で活躍されて、女流漫画家では大御所とか。

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まほろばの近所に、これも日本の歴史ものを描かせたら右に出る者なしの

「ヤマタイカ」「宗像教授シリーズ」の星野之宣氏がおられる。

北の大地で、日本の歴史文化を語るのも場違いでないということに

勇気付けられた、今日この頃である。

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明治維新という過ち

金曜日, 8月 28th, 2015

明治維新という誤り

 

今朝、市場で見た日経新聞。

その書籍紹介欄に「明治維新という過ち」という過激な表題が目に飛び込んだ。

実は、先月、会津若松に祖先の足跡を尋ねた際、書店で購入した一冊であった。

地方の一歴史家の会津寄りの史観に過ぎぬだろうと思っていたものが、

何とamazonランキング第一位、12刷に及んでいるというから、驚いた。

実は、この中にただならぬことが書かれている。

これは他人事ではなく、今の安倍政権が為そうとしている強権の根源が、

何であるかが、遠き歴史を遡って書かれている。

まさに、目から鱗なのだ。

私も、片親の地を会津に持ち、人事ではない身に詰まされた内容に、

近代歴史の歴史観が、ガラリと根底から覆ってしまったのだ。

すべては、一本の線で貫かれている。

納得せざるを得ない何か。

いずれ、その明治を、この日本を動かした背景が、

白日の下に晒される日も近い。

 

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縄文土偶に2億円!

木曜日, 6月 25th, 2015

かわいい!土偶ちゃん!!

新聞に掲載されたサザビーズで落札された幻の土偶。

この健康で豊満な「日本のおっかさん!!」像。

あの遮光器土偶の宇宙人とは別な姿態で、何か安心するなーーーー!

それが、ななんと、2億円。

故井上恒一氏のコレクションによるものとか。

落札者はある日本人。

よかった、海外に流出しなくて・・・・・。(以下、解説より)

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競売大手サザビーズのロンドンオークションで、縄文土偶が約2億円で落札されたことがわかった。日本の著名な古美術コレクターであった故・井上恒一氏(1906~1965年)のコレクション。当初の落札予想価格レンジは7万~9万ポンドだったが、実際の落札額ははるかに上回る101万3000ポンドで、10倍以上の高い評価を受けたことになる。

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サザビーズより

井上恒一氏は、夏目漱石、川端康成をはじめとした文豪、文化人との交友を通じて古美術品の収集を熱心に行ってきた収集家。これまでにも、国の重要文化財を博物館に寄贈するなどクオリティの高い希少なコレクションを作り上げてきた。今回出品されたのは井上コレクションの中から100点あまり。中国陶磁の至宝である青磁下蕪瓶、染付耳付花生をはじめ、朝鮮陶磁なども出品した。

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この縄文土偶は、サザビーズは「日本の縄文土偶の代表的な作品」としており、研究者やコレクターの間からは幻の作品として認知されていたもの。その井上氏が最後まで売らなかったものでもあり、加えて今回約50年ぶりに表に出てきたことも、価格高騰に勢いをつけたかもしれない。

 

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日本を救ってくれたジャヤワルダナ氏

水曜日, 5月 6th, 2015

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「七五三塩」は七つの大洋、五つの大陸、三つの山脈の和合、

即ち世界平和と人類幸福への祈りを、塩で統合することを託しました。

その中のインド洋の塩をスリランカ、元のセイロンの塩を使っていました。

ところが、それが欠品になった時、JWTの石川社長の紹介で、

八王子のスリランカ仏教の長老・ヤーラガムエ ダンミッサラ師に依頼して、

スリランカの塩を取ったことがありました。

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その塩が尽きた頃、それまでオーガニックワインを仕入れていたエコロジさんから、

スリランカ塩を取る事になりました。

ついでに、インドのガンジー農園の塩も採り、

七五三塩に混ぜています。

そのエコロジーの児玉社長からメールを戴きました。

そこには、日本を救ったJ.R.ジャヤワルダナ氏のことが書かれてあり、

驚愕しました。

恥ずかしながら、知らない事実でした。

今日、お知らせと共に、その歴史をお伝えいたします。

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おはようございます。以前から台湾の蒋介石と亡くなられたシンガポールのリ・クアン・ユーと今回紹介するジャワルダナ元大統領がサンフランシスコ講和条約の際にロシアの横暴から日本を救ったとのことは知っていたのですが、彼が宣した言葉を見たのは今回が初めてで泪を浮かべながら何回も読み直しました。仏の国、日本は素晴らしい国です。救ってくれた彼らの国に感謝をしつくしても足りません。お読みください。

 

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(有)エコロジ

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日本列島分割案から日本を救ってくれた

スリランカ代表の感動スピーチ

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1952年(昭和27年)4月28日、正式に戦争状態を終結させるためにサンフランシスコで調印された日本と連合諸国との講和条約が発行された日です。
この日を以て正式に戦争が終結したのです。(正確にはこの後もアメリカ統治は今を以て続いています)
1945年8月15日、現実的に天皇陛下の玉音放送によって事実上戦争は終結しましたが、その後諸々の手続き、そしてサンフランシスコ講和条約締結までに、日本は徹底的な侵略統治計画を受けました。
それはWGIP(ウォーギルトインフォメーションプログラム)と呼ばれる日本人劣化作戦が繰り広げられ、少なくとも世界で最も長く続いた文化・伝統は徹底的に破壊され、ギネスで認定されているだけの2700年の歴史もことごとく塗り替えられてしまいました。
たった戦後の70年間で、良くも悪くもとても大きな変化を迎えた日本は、それでももっと過酷な民族が絶滅してしまうほどの危機がありました。
今現在、沖縄の反日勢力はこの日4/28を「屈辱の日」と被害妄想を並べてデモなどを行っていますが、日本の戦後統治では、日米だけでなく、イギリス、ロシア、シナを始めとした連合諸国と極限の交渉状態だったのです。
1951年サンフランシスコ講和会議において戦勝国である連合軍は、日本に対して厳しい賠償と制裁措置を求めた。
下図はソ連(当時)が提案した米英中ソの4ヶ国での分割統治の案です。

 

 

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日本の北海道・本州・九州・四国を米・英・露・支(中国の)連合国それぞれが統治しようとした計画がかなり危険な状況まで話し合いが行われていたのです。

特に共産国家ロシアの執念は深く、ロシアがかつてどのような虐殺を行ってきたか、そして現在中国がチベットなどでどれだけの弾圧・殺戮を行っているのかを考えれば、それがどれだけ日本にとって深刻だったのかは想像に難しくはないでしょう。
もちろん様々な駆け引きが行われ、その影響は大きいものではありましたが、その分断統治の危機を救ってくれたのは、セイロン(現スリランカ)代表ジャヤワルデネ氏の演説だったのです。
1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効の前年に行われた連合国家51カ国が集まる講和会議において、この様なスピーチを行ってくれたのです。

 

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 私の国の政府を代表してのみ話すことが出来るわけですが、然し日本の将来に対して一般的態度の中でのアジアの諸国民の感情を、私は表明出来ると主張します。アジア諸国民が、日本は自由でなければならないということに関心を持っているのは、なぜでありましょうか。 それは日本とのわれわれの長年の関係のためであり、そしてまた、アジアの諸国民の中で日本だけが強力で自由であり、日本を保護者にして盟友として見上げていた時に、アジア隷従人民(アジアの諸国民)が日本に対して抱いていた高い尊敬のためであります。 私は、(日本が掲げた)アジア共栄のスローガンが隷従人民に魅力のあったこと、そして、ビルマ、インド及びインドネシアの指導者により国々が解放されるかもしれないという希望によって、日本人と同調したという前大戦中に起こった出来事を思い出すことができるのであります。

空襲や東南アジア軍の指揮下にある膨大な、軍隊の駐屯及びわれわれが連合国に対して天然ゴムの唯一の生産者であった時、われわれの主要商品の一つであるゴムを枯渇せしめたことによって、もたらされた損害は、われわれに対してその賠償を請求するつもりはありません。
何故ならば、われわれは、アジアの無数の人々の生命を高貴な言葉、偉大なる教師であり、仏教の創始者である、仏陀のメッセージ、すなわち『憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によってのみ、消え去るものである』という言葉を信ずるからであります。
 

故に、この条約の目的とする所は、日本を自由にし、日本の回復に何ら制限をも課さず、日本が外部からの侵略及び内部よりの破壊に対して、自らの軍事的防衛力を組織するようにすること、そうするまでには日本防衛のために友好国家の援助を要請すること、並びに日本経済に害を及ぼすような、いかなる賠償も日本から取り立てないことを保証することであります。
 
スリランカ代表 J.R.ジャヤワルダナ氏

これを目の当たりにした主席全権吉田茂以下、日本の随行員らは、スリランカ代表のJ.R.ジャヤワルダナ氏の演説に大いに感動しました。

吉田茂はスリランカの若い代表と会って、スピーチの感謝をしました。

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この感動の演説が連合国の空気を一変して、日本への講和条約締結に至ったのです。

その影響は計り知れません。

そしてその後、ジャヤワルダナ氏と日本の交流は続き、閣僚・首相・大統領としてたびたび訪日。
更に政界引退後も日本を訪れています。
また日本の仏教関係者をスリランカに招待するなど日本とスリランカの交流にも多大な尽力をしました。
1989年 昭和天皇の大喪の礼に、本人の希望により夫人とともにプレマダーサ大統領に代わって参列。
既に肩書きは「前大統領」だったが、元首級参列者・大統領同格の国賓として待遇されました。

1991年 日本の仏教関係者の招待で広島市を訪れ、広島平和記念資料館を見学しています。

1996年11月1日 90歳で死去に際し献眼、角膜提供。

「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」との遺言により、片目は日本に贈られた。彼の遺言通り左目は長野県の女性に移植されたそうです。

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徐福・東渡を科学する

月曜日, 3月 30th, 2015

いよいよ徐福論議も、伝説上の論議ではなく、

科学的な論証を、国際シンポジウムで発表されます。

徐福、上陸の地、佐賀にての2日間にわたる論議、

徐福・東渡2225周年として開かれます。

ご興味のある方は、是非ご参加ください。

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古典からネーミング

金曜日, 3月 13th, 2015

会計事務所TKCからの月報で、古今の会社の社名の由来が書かれてあった。

「ムヒ」⇔『天下無比』

「ミノルタ」⇔『稔る田』

「キャノン」⇔『観音』

「コクヨ」⇔『国誉』

「ニッカウヰスキー」⇔『日果』

「積水ハウス」⇔『積水の勢い』

創業者は、みな等しく古典の典籍から引用しているんですね。

よく学び、よく働かれたんですね。

ためになります。

 

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徐福伝承の新研究

水曜日, 3月 4th, 2015

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この度、富士吉田在住の徐福研究家土橋寿先生の徐福講座が

東京の「工学院大学孔子学院」にて4月から9月まで開講されます。

お近くの方は、是非ご参加のほどを。

近くして遠い先祖、徐福を知る絶好の機会です。

 

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「徐福の墓」伝説さらに

月曜日, 2月 23rd, 2015

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富士吉田の徐福研究家・土橋寿さんから、毎日新聞の記事を送ってくださった。

「『徐福の墓』伝説公に」というタイトルで、山中湖畔の羽田さん宅での発見。

これは、最近にないトピックスで、一度行きたいもの。

丁度、小淵沢の増川博士が出版される本の「徐福」鼎談部分を校正中だったから驚き!

徐福研究も日中でかなり綿密な内容になってきている。

 

徐福の墓か

 

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 もう一つの「倭詩」

土曜日, 1月 31st, 2015
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(2015年初場所千秋楽、白鳳土俵入り。新記録33回目の優勝)

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小学生の頃、田舎に、若き日の大鵬関が中学校の相撲場に地方巡業でやって来た。

今も市の郷土史記念写真に、おばあちゃんと小さい私が、横に立って映っている。

それと、札幌の母の実家が大の相撲好きで、北海道出身の北ノ洋の後援会をしていた。

札幌場所には、おじさんに連れられて行ったり、いつも関取が実家を訪問したり、

恵庭の我が家にも若秩父関が来たりしていたのを思い出す。

戦後の娯楽が少なかった国民にとって、相撲の一勝一敗に一喜一憂していたものだった。

 

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小学校入る前、鏡里、千代の山、大内山・・・・の活躍を、

ラジオに耳をそばだてて聞いていた。

そんなセピア色の相撲なんて、知る人も少なくなった。

それからTVが開局されて、栃若時代がしばらく続いた。

栃錦と白熱した贔屓の若乃花の対戦、

小学生ながら、神棚に祈っては、手に汗水握って応援した。

ところが、初代若乃花が引退した時から、急に相撲熱が褪めて、興味が失せたのだ。

長島が引退したとき、それ以来好きな野球にも、全く関心がなくなってしまった。

もうかれこれ50年も前になるだろうか。

それくらい、大相撲とは、随分縁が遠のいていた。

 

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相撲王国、北海道。

大鵬、北の湖、千代の富士・・・・・

連峰のように聳え立っていたが、今は見る影も無い。

さらに、日本全土がモンゴル勢に席捲せられた。

相撲に、何の興味も無い今回、後藤翁からお声がかかった。

別段、相撲が取り立てて観たいとは思わなかった。

むしろ、「日韓友好海苔」販売の現場視察が目的だった。

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ところが、両国蔵前に着くや街に漂う、その何とも言えない江戸情緒に、

昔の自分が、引っ張り出されたような気がした。

何か50年前の興奮が、胸のうちから滾るように覚えたのだ。

不思議だ。

何ともワクワクする自分に、むしろ自分自身驚いてしまった。

国技館の内戸を開くと、その観客の熱気と小さく見える相撲土俵が、

館内一体になって、溶け込んでいる様子に、ある懐かしさが甦ったのだ。

これが、日本!

 

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(三役の四股で〆る)

 

熱心な相撲観戦者には、何を今更と思うだろうが、

こうも時を離れて、再び自分に再会するということは、人生めったに無い。

TVの小さな画面に収まっているのが相撲ではなかった。

大衆と一体になっている力士の一つの観劇がそこにあって、

うねりのような声援と興奮の波が、打っては返し襲ってくる。

まるで、一幕の歌舞伎を観ているかのようだった。

力士が一人で稽古し取り組みを為しているのではなく、

観客に押し出され、励まされ、慰められている

人情味が何とも言えなく心地よかった。

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この舞台裏には、言葉では語り尽くせない人生劇場があろうが、

しかし、延々と連綿として続いて来た日本の国技が、

かようにして今尚続いてきたことに、敬意を表する。

若い連中も、伝統的なしきたりや様式を学び、

何とか一人前になるべく精進しているさまは、見ていて嬉しい。

呼び出しや行司、小さい時から鍛えられて一生を土俵と共に生きる。

力士ばかりではない。

また、横綱や幕内は一握りに過ぎない。

昔から、どれほどの子が入門して去ったことだろう。

この土俵には、笑いの数より悲しみの別れの涙の方が圧倒的に多いだろう。

この頂点のスターを支えるための底辺には、どれだけの人々がうごめき、

或いは食べている人々が多いことだろう。

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世界の縮図でもある、この相撲界にも危機が何度か訪れたが、

それは野見宿禰(のみのすくね)神のご加護か、何とか営々として伝統行事を持ち応えてくれた。

戦後、経済成長で豊かになった家庭では、餓え渇するハングリーな子供が居なくなった。

どうしても、是が非でも、という切羽詰った生き方が国民全体から失われたのだろう。

国技として、力強い日本人の若者が、次々と輩出してくれることを願いたい。

鬢付け油の匂う相撲が、末永く続くことを祈らずには居られなかった。

 

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(初場所所千秋楽、三横綱、大関の取り組み)

 

「オリンピックおじさん」山田応援団長、『君が代』斉唱

金曜日, 1月 30th, 2015

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14日観戦後、後藤さんは、隣の茶屋「花の舞」に案内して下さった。

大きい店内には、土俵のステージを中心に、ちゃんこ鍋をほうばる相撲客で満席状態。

馴染みの女将さんに、「団長と一緒でもいい?」と聞かれると、

相手が誰なのかも知らず、翁は事も無げに「いいよ」。

そこで案内された所に、山高帽をかぶった派手な出で立ちのおじさん。

(どこかで、見たことがあるなー!?)と思いながら、同席。

そうすると、あちこちから、

「オリンピックおじさん、サインして!」「写真、ご一緒に!」

あぁ、そういえば、TVに出ていた、あのパフォーマンスおじさんか!

その人こそ、山田直稔氏である。

 http://www.naniwa1001.co.jp/olympic/

山田応援団長切手帖

 

いろいろ、話し込んでいるうちに、1968年のメキシコオリンピックから4年毎、

開会式から閉会式まで欠かさず、観戦し応援し続けて来られたという。

費用は、ゆうに一千万円以上かかるという。

さらに、大相撲観戦も1升席16万の初日から千秋楽まで240万も払って、各場所を応援。

グループ企業の会長として、本来の天命を全うされようとしている。

各スポーツの応援団長を自認し、とにかく

日本を元気に、世界を笑顔で満たしたい!

という願いがあられるのだ。

『笑顔の交流 日本国笑顔』の旗を掲げて、世界を日本を股に、駆け回っている。

だれが何と言おうと、この心意気と実践力には、頭が下がってしまった。

 

何と後藤翁と同い歳89歳、今年90歳の現役青年なのだ!

この二人が、意気が合ったというのは、言うまでも無い。

意気投合そのものなのだ。

何か、雰囲気が似ている。兄弟のようだ。

後藤翁の作詞作曲の一連の自作に興味を抱き、早速カラオケ直行と相成った。

まだ、2,3時間も経っていないのに。

実は、カラオケ、ジョイサウンドに後藤翁の作品が5曲も収められているのだ。

これにもビックリなのだが、さらに今回、日本作詞作曲家協会に認められて、

晴れて、正式な作曲家、作詞家とデヴューを果たした90歳の新人なのだ。

それに、すっかり山田応援団長も感銘して、二人でデユエットと相成った。

山田応援団長の最大の持ち歌、それが『君が代』であった。

まずは、それを聞いて頂きたい。

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さすが、百戦錬磨のオリンピックおじさんの「君が代」は、骨身に染みます。

祖国を想う心は、誰にも負けず、「天皇陛下万歳!」もすごい。

次に、後藤翁の「母を慕い、讃える歌」を二人で。

山田応援団長、初めての曲なのに、ノリノリで身振り手振りも慣れたもの。

 

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「人間で一番大切なことは、祖先を敬うこと。

それは、母を大切にすること!!!」

もう、後藤さんとは、一心同体で、すでに「母の会」の同志も同然。

すぐさま、山田応援団長に、母の会の名誉会長をお願いしたのは、時を待たなかった。

こんなことが、あるだろうか。

その日、なんで大相撲なんか観に行くのだろうか、と迷ったのだが、

この一瞬を見届けるために、来たのかも知れない。

この出会いは、とても大切なことのように思えた。

今の世で、理屈でなく、最も必要なことが、

この出会いの中にあると確信するのだ。

お二人は、まだまだ20年も30年も生きる勢い。

このお二人の生き様に、見習いたいと思うや切なるものがあります。

人生まだまだです、まだまだです。

これからです。

とても勇気付けられた、又とない一日でした。

ますますの、お二人のご活躍をお祈りいたします!!!