まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

若者よ、君たちが生きる今日という日は・・・・・・

水曜日, 8月 15th, 2012

   「若者よ、君たちが生きる今日という日は
           死んだ戦友たちが生きたかった未来だ

      八杉 康夫 (戦艦大和語り部)

        『致知』2006年7月号
           特集「人学ばざれば道を知らず」より
          

───────────────────────────────

  大和の後部が白煙を上げているのが私にも分かりました。
 
  なおも攻撃が続けられ、
  魚雷が的中した時は震度5にも感じられるほど激しく揺れました。
  次第に船は傾いていきます。

  砲術学校では、戦艦は15度傾いたら限界と習ってきましたが、
  25度、30度とどんどん傾いていきます。
 
  それでも、戦闘中は命令がない限り 
  持ち場を離れることはできません。
  その時「総員、最上甲板へ」との命令が出ました。
  軍には「逃げる」という言葉はありませんが、
  これが事実上「逃げろ」という意味です。

  すでに大和は50度ほど傾いていましたが、
  この時初めて、「大和は沈没するのか」と思いました。
  それまでは本当に「不沈戦艦」だと思っていたのです。
 
  もう海に飛び込むしかない。
 
  そう思った時、衝撃的な光景を目の当たりにしました。
 

  私が仕えていた少尉が日本刀を抜いたかと思うと、
   自分の腹を掻っ捌いたのです。
 
  噴き出す鮮血を前に、私は凍り付いてしまいました。
  船はますます傾斜がきつくなっていきました。
  90度近く傾いた時、私はようやく海へ飛び込みました。
  

  *********************************************
 

 飛び込んだのも束の間、
  沈む大和が生み出す渦の中へ巻き込まれてしまいました。

  その時、私の頭に過ったのは海軍で教わった
 「生きるための数々の方策」です。

  海軍に入ってからというもの、
  私たちが教わったのは、ひたすら「生きる」ことでした。

  海で溺れた時、どうしても苦しかったら水を飲め。
  漂流した時は体力を消耗してしまうから泳いではならない……。
  陸軍は違ったのかもしれませんが、海軍では
 「お国のために死ね、天皇陛下のために死ね」
   などと言われたことは一度もありません。
 
  ひたすら「生きること、生き延びること」を教わったのです。
 
  だから、この時も海の渦に巻き込まれた時の対処法を思い返し、
   実践しました。
 
  しかし、どんどん巻き込まれ、
  あまりの水圧と酸欠で次第に意識が薄れていきます。
 
 その時、ドーンという轟音とともにオレンジ色の閃光が走りました。
  戦艦大和が大爆破したのです。
  そこで私の記憶はなくなりました。

  *********************************************

  気づいたら私の体は水面に浮き上がっていました。

  幸運にも、爆発の衝撃で水面に押し出されたようです。

  しかし、一所懸命泳ぐものの、次第に力尽きてきて、
  重油まみれの海水を飲み込んでしまいました。
 「助けてくれ!」と叫んだと同時に、
  なんともいえない恥ずかしさが込み上げてきました。
  この期に及んで情けない、誰にも聞かれてなければいいが……。

  すると、すぐ後ろに川崎勝己高射長がいらっしゃいました。
 「軍人らしく黙って死ね」と怒られるのではないか。

  そう思って身構える私に、彼は優しい声で
 「落ち着いて、いいか、落ち着くんだ」と言って、
  自分がつかまっていた丸太を押し出しました。
  そして、なおもこう言ったのです。

 「もう大丈夫だ。おまえは若いんだから、頑張って生きろ」

  4時間に及ぶ地獄の漂流後、駆逐艦が救助を始めると、
  川崎高射長はそれに背を向けて、
   大和が沈んだ方向へ泳ぎ出しました。
 
  高射長は大和を空から守る最高責任者でした。
 
  大和を守れなかったという思いから、
   死を以て責任を取られたのでしょう。
 
  高射長が私にくださったのは、浮きの丸太ではなく、
   彼の命そのものだったのです。
 

      (中 略)

  
  昭和60年のことです。

  いつもピアノの発表会などでお会いしていた女性から
   喫茶店に呼び出されました。
 
  彼女は辺見さんが書かれた『男たちの大和』を取り出し、
   こう言ったのです。

 「八杉さん、実は川崎勝己は私の父です」

  驚いたなんていうものじゃありません。

  戦後、何とかしてお墓参りをしたいと思い、
  厚生省など方々に問い合わせても何の手がかりもなかったのに、
  前から知っていたこの人が高射長のお嬢さんだったなんて……。
 
  念願叶って佐賀にある高射長の墓前に
  手を合わせることができましたが、
  墓石には「享年31歳」とあり、驚きました。
  もっとずっと年上の人だと思い込んでいたからです。

  その時私は50歳を超えていましたが、
  自分が31歳だった時を思い返すと
  ただただ恥ずかしい思いがしました。
  そして、不思議なことに、それまでの晴天が
  急に曇天となったかと思うと、
  突然の雷雨となり、
  まるで「17歳のあの日」が巡ってきたかのようでした。
  
  天皇も国家も関係ない、自分の愛する福山を、
  そして日本を守ろうと憧れの戦艦大和へ乗った感動。
  不沈戦艦といわれた大和の沈没、原爆投下によって被爆者になる、
  そして、敗戦。
  
  そのすべてが17歳の時に一気に起こったのです。
  17歳といえば、いまの高校2年生にあたります。
 
  最近は学校関係へ講演に行く機会もありますが、
  現在の学生の姿を見ると、
  明らかに戦後の教育が間違ったと思わざるを得ません。
 
  いや、生徒たちだけではない。
  間違った教育を受けた人が先生となり、
  親となって、地域社会を動かしているのです。 

  その元凶は昭和史を学ばないことに
   あるような気がしてなりません。
 
  自分の両親、祖父母、曾祖父母が
  どれほどの激動の時代を生きてきたかを知らず、
  いくら石器時代を学んだところで、
   真の日本人にはなれるはずがない。

  現に「日本に誇りを持っていますか」と聞くと、
  学校の先生ですら「持ってどうするんですか?」と
  真顔で聞き返すのですから。
  
  よく「日本は平和ボケ」などと言われますが、
  毎日のように親と子が殺し合うこの日本のどこが平和ですか?
  確かに昔も殺しはありました。

  しかし、「殺してみたかった」などと、
  意味もなく殺すことは考えられませんでした。 
 
  真の平和とは、歴史から学び、
   つくり上げていくほかありません。

  鶴を折ったり、徒党を組んでデモをすれば
  天から降ってくるものではないのです。

  しかし、一流の国立大学の大学院生ですら、
  「昭和史は教えてもらっていないので分かりません」
  と平気で言います。
 
  ならば自分で学べと私は言いたい。
  自分で学び、考えることなしに、
  自分の生きる意味が分かるはずがないのです。
 
  人として生きたなら、その証を残さなければなりません。
 
  大きくなくてもいいのです。
  小さくても、精一杯生きた証を残してほしい。
 
  戦友たちは若くして戦艦大和と運命をともにしましたが、
  いまなお未来へ生きる我々に大きな示唆を与え続けています。
 
  復員後、長く私の中に渦巻いていた
 「生き残ってしまった」という罪悪感。
  それはいま使命感へと変わりました。
 
  私の一生は私だけの人生ではなく、
  生きたくても生きられなかった戦友たちの人生でもあるのです。
 
  うかうかと老年を過ごし、死んでいくわけにはいきません。

  未来の日本を託す若者たちが歴史を学び、
  真の日本人になってくれるよう私は大和の真実を語り続け、
  いつか再び戦友たちに会った時、
 「俺も生かされた人生でこれだけ頑張った」と
   胸を張りたいと思います。

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(八杉氏 講演会)

「母の諫死、師の警策」自然医学2012.9.

月曜日, 8月 13th, 2012

今朝、「森下自然医学」9月号が届きました。

開口一番、森下会長による「徐福伝説Ⅱ」の掲載。

卑弥呼の邪馬台国は、九州なりや、近畿なりやの論争未だ鳴り止まず。

その学説迷走する中、更に遡ること400年。

ましてや、その400年。

徐福の存在在りや無しやの論争は、伝説物語の彼方に葬り去られている。

もし、それが正論なれば、日本史を根底から書き換えねばならぬ大事(おおごと)が待っている。

これは、国史家が容易に認められぬ意味がある。

それは良いとして、すでに中国の史記を初めとする歴史書には、歴然とした記述がある。

『魏志倭人伝』もあの「三国志」にあるのに、いわんや正統史記に於いておや、である。

徐々に謎めいた霧が、森下博士によって、今それが晴れようとしている。

面白い!是非、必読のことを。

5月に訪問したルーカオ視察、長寿調査報告。

食べ物の機能値結果を公表。

いずれも高い数値が示されて、ルーカオの環境条件の高さを示している。

伝統的地方食を継承して、現代的出来合いの物を口にすることはない。

みな家族の手作りが、心身共に健康の源を形成するのであろう。

日本も、古来の原風景に帰る必要があろう。

今月の「倭詩/やまとうた」は、『母の諫死、師の警策』と題して、昭和の傑物「田中清玄」について。

コーボルトを扱っている磯深雪さんが、何と田中清玄さんの姪子さんにあたります。

訪問した際、山本玄峰老師から清玄に宛てた一筆の色紙『母』を譲り受けた。

物語は、そこから始まる。

驚くべき清玄の生き様と、死をもって子を諌めたその母アイの凄まじい愛。

その事実を知る時、日本の行くべき先を示されたように感じた。

「日本サッカー強さの秘訣に“言語技術”あり」

土曜日, 8月 11th, 2012

    
   田嶋 幸三 (日本サッカー協会副会長)

         『致知』2012年9月号
            特集「本質を見抜く」より

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もちろん身体能力とか技術の高さはベースに必要ですが、
そういったものはあるレベルに達すると
そう変わらなくなってきます。

その時、何が大切かというと、
いかに考えてプレーをするかということなんです。

サッカーは正解のないスポーツです。
好きに動いていいんです。
ボールを受けたらドリブルしてもいいしパスしてもいい。
どこにどう蹴るか、すべて自分で判断する。

そして、それはボールを持っている時だけの判断ではありません。
自分がボールを持っているのは90分の試合時間の中で
せいぜい2、3分です。

ボールを持っていない時のほうが圧倒的に長く、
そこでどう動くかということを、
1試合に何千回、何万回と判断しているんです。

状況を見て、自分の考えを組み立て、
判断してプレーすることが大切なのです。

私自身、選手時代も含めて40年以上サッカーに
携わってきました。
選手を引退してからはなんとか日本のサッカーを
世界レベルにしたいという思いでやってきたのですが、
ある時、その方法が見えてきたように感じました。

それを一言でいえば
「自分で判断してプレーする」ということであり、
その秘訣は言語技術にあるのではないかと思ったのです。

日々の言葉を論理的に使えるよう
訓練を積んでいけば、サッカーでも瞬時に状況を捉え、
論理的に判断してプレーができるようになるのではないかと。

また、たとえ失敗しても自分で考えながらやっている選手は、
次はこうしようとまた自分で次の方法を考えられます。
しかし何も考えずに、言われたことしかやってこなかった選手は
自分で改善することができないんですね。

私は1983年から2年半、指導者になるために
ドイツに留学しました。
サッカーでは練習中にゲームを途中で止め
「どうしてそこにパスを出したんだ」と
プレーの確認をすることがあります。

ドイツの子供たちは
「僕は足の速いペーターが走ってくると思って、
 あそこのスペースにパスを出したんだ」
とすぐに自分の考えを返してきます。

ところが、帰国後、日本の子供たちにゲームを止めて尋ねても、
ただ僕の顔を見ているだけなんです。

つまり僕の答えを待っている。

当時は言語技術といった言葉は知りませんでしたが、
この違いはなんだろうということがずっと頭にありました。

「強いチームと弱いチームの差」

木曜日, 8月 9th, 2012

   眞鍋政義 (全日本女子バレーボールチーム監督)

         『致知』2011年9月号
           特集「生気湧出」より
    

────────────────────────────

いろいろなチームを渡り歩いてきた経験から思うのですが、
強いチームと弱いチームの差というものがやはりありましてね。

例えば、試合前のミーティングで
監督の思いが一方通行になっている。
 
「こうしろ、ああしろ」と言われて選手たちが
「はいはい」と言っているだけ。

こういうチームはやはり勝てません。

反対に選手が自分たちの問題点を自分たちで考えて分析し、
スタッフと思いを同じくして
試合をしているチームは強いですね。

私がコミュニケーションを重視し、
選手にいろいろな提案を求め、耳を傾けるのはそのためなんです。
 
私は監督で立場的には一番上です。
だけど一方通行にならないよう、
できるだけ選手と目線を同じくして、
選手がこの練習メニューで本当に満足しているか、
困っていることはないかなどを聞いて、
一番実力を発揮できる環境を整えてあげたいと思っています。

【記者:コミュニケーションの成果は
    どのような時に感じられますか?】

ゲームの後、スタッフたちがそれぞれの選手の
ゲーム中のスパイク、ブロック、サーブの数値を
パソコンで打ち出します。
   
一昨年まで、スタッフの部屋に自分のデータを
取りに行って勉強し、反省しようとする選手は
ほんの数人にすぎませんでした。
 
ところが、昨年から自分の成績に関心を持つ選手が増えて
頻繁にスタッフの部屋に行っては映像を見て、
自分で分析するようになったんですね。
私はこの差は大きいと思います。

自分たちで考えるようになったご褒美が
世界選手権の銅メダルだと思うくらいです。

コミュニケーションに関して申し上げれば、
選手やスタッフの中でチームみんなで
戦ったという意識がとても高まりました。

濱口華菜里という選手がいるんですね。
レシーブに天性の才能を持っている世界選手権のメンバーです。

明るい性格で、いつも大きな声で皆を
励ましてくれるし練習にも人一倍熱心。
人の嫌がる片づけも率先してやってくれます。
だけど、私はこの濱口を選手権に
出場させてあげられなかったんです。
 
世界選手権もW杯も14名登録で、出場できるのは12名。

濱口が務めるリベロの控えはなかなか出る機会がない。
本当に悔しかったと思います。
だけどそれでも濱口のファイトは最後まで変わりませんでした。
練習には早く来てムードを盛り上げて、雑用で走り回って……。
 
メダルを獲得できたのは、
この濱口の姿勢が周りに伝わったからだと私は思っています。
 
銅メダル獲得が決まった試合の直後、
セッターの竹下佳江はすぐに濱口に駆け寄り、抱き合ってました。

その後のインタビューでも竹下は毎回のように
「出られない選手がいるから、その選手の分まで頑張りました」
と語っていましたが、これには私自身
本当に勉強させられましたね。

  
控えの13番目、14番目にどんな選手を置くかで
チーム力は強くもなるし弱くもなる。
その難しさを昨年私は実感したんです。

おかげで全員が同じ方向を向いて目標を共有できており、
強いチームに変わってきたことを実感しています。

  
【記者:火の鳥NIPPONの活躍を通して感じるのは、
    日本が独自の力を発揮できれば、
    この国はもっと元気になるということです】

そう思うし、ぜひそうあってほしいですね。
精密力はやはり日本人の強みなわけですから。
強みを伸ばすことで弱みが克服でき、生気が湧くはずです。

精密力が高まれば全体力が
必ずアップすることを私は確信しています。

それを実証する上でも、
誰より私たち全日本女子が11月のW杯、
来年のロンドン五輪で栄冠を手にすることで
日本を元気づけなくてはならないと思っているんです。

昨年の世界選手権以降、
選手もスタッフも目の色が違います。
生気が漲ってきた。

必ずやってみせますよ。

期待していてください。

日本サッカー飛躍の陰の功労者

火曜日, 8月 7th, 2012

 日本サッカー飛躍の陰の功労者
         強さの秘訣は「言語技術」

     日本サッカー協会副会長・田嶋幸三氏の名言

                『致知』2012年9月号
                 特集「本質を見抜く」より

└─────────────────────────────────┘

 ◆ (サッカーには)身体能力とか技術の高さはベースに必要ですが、
   そういったものはあるレベルに達するとそう変わらなくなってきます。
   その時、何が大切かというと、
   いかに考えてプレーをするかということなんです。

 ◆ たとえ失敗しても自分で考えながらやっている選手は、
   次はこうしようとまた自分で次の方法を考えられます。
   しかし何も考えずに、
   言われたことしかやってこなかった選手は
   自分で改善することができない

 ◆  サッカーを教える前に、やらなければならないことがある。
   そう思ったものです。
   そして見えてきたのが「エリート教育」でした。
  

 ◆ 「エリート」という言葉は日本では敬遠されますが、
   ヨーロッパなどではいろいろな分野のリーダーであり、
   社会に奉仕する人のことをいいます。
   そういう自覚と能力を持った人のことです。
 
   サッカー選手たちは
   素晴らしい肉体を与えられた「エリート」なんです。
   それを多くの人に見てもらい、感動を与える、
   それはまさに社会貢献です。
   逆に言えばそういう義務があるのです。

 ◆  サッカーをとことん愛し、
   それを追求したいという気持ちを持っていれば、
   こうすればいいんじゃないか、
   ああすればいいんじゃないかと気づく。
   
   そうやって何度でも
   トライ&エラーを繰り返すうちに、
   本質に近づいていけるのではないかと思っています。

 

スーパードクター・佐野俊二氏の名言

日曜日, 8月 5th, 2012

         心臓の難手術を次々に成功させ、
        幼い子供たちを病から救う      

                『致知』2012年8月号
                 特集「知命と立命」より

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◆外科医の基本は切る、縫う、結ぶの3つなんですが、
  それぞれに原理原則を踏まえて
 どんな場面でも確実に行えるようにならなければなりません。

 例えば豆腐みたいに柔らかいものでも
 崩れないように結べなければならないんですが、
 基本ができていない人は結べない。

 一流病院は何が凄いかと言ったら、
 特別に難しいことばかりやっているのではなく、
 彼らは物凄く基本に忠実なんです。

 だからつまらないミスを犯さず、
 それが手術の成功率にも反映されてくるのです。

◆私は世界的名医ロジャー・ミーのすべてを
 自分のものにしようと思い、
 手術の度に彼の動きをメモして懸命に練習しました。

 彼が何ミリくらい離れたところから
 どこにどういうふうに糸を掛けたのか、
 全部メモしてそのとおりにやったんです。

 後年、私の手術を見た看護師さんたちから、
「あなたはロジャー・ミーにそっくりね」と言われるくらい、
 それは徹底的にやりましたね。

◆(手術で常に心掛けていることは)
 自分たちができる最善を尽くすという医者の本質から
 決して離れてはならないということです。
 
 論理的に成り立たない手術は別ですが、
 論理的には成り立つけれどもやるのは難しいというなら、
 きっとできるはずだと信じてやります。

◆(伸びる人と伸び悩む人の差はどこにあるか)
 いまつくづく思うのは、性格です。
 性格の悪い人間は伸びない。
 人の言うことを素直に聞く謙虚さのない人間はダメなんです。

 「イレブンの心得」

木曜日, 8月 2nd, 2012

         

 佐々木則夫 (サッカー日本女子代表監督)

    『致知』2012年3月号
          特集「常に前進」より
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私は結構ずぼらな性格なものですから、
自分自身をチェックする項目として
「11(イレブン)の心得」というものをつくっているんです。

「1、責任

 2、情熱

 3、誠実さ

 4、忍耐

 5、論理的分析思考

 6、適応能力

 7、勇気

 8、知識

 9、謙虚さ

 10、パーソナリティー

 11、コミュニケーション」

の11項目で、これらのうち1項目でもゼロ、
もしくはゼロに近い値があれば、
その人に指導者の資質はないと考えています。

僕の部屋にもこの項目が全部紙に書いて張ってありますが、
キャンプに行った時とか、次のトレーニングのことを考える時、
あの選手と話した時に俺の対応が横柄だったなとか、
フォローがなかったなといったことを一つひとつチェックするんです。

この解釈の仕方も皆さんとは少し異なるかもしれませんが、
例えば「責任」というのは僕個人の狭い範囲ではなく、
自分が日本の女子サッカーの将来を担っているのだという意味合いです。

また、代表選手については、僕がいつも選抜をしているんですが、
その時のキャンプの状態を見て、
次は選ばれるか選ばれないかという緊迫した状況の中で
選手はやっているのに、僕の背中に「情熱」が
感じられなかったらよくないだろうと。

こういうチェックを一つひとつ自分でしていかないと、
ずぼらな僕はつい流されていってしまいますし、
スタッフも逐一

「監督、きょうは全然情熱なかったですよ」

なんて言わないと思うんです(笑)。

ただ、指導をする時にあんまりこのことばかり考えていたら
動きが取りづらいので、選手の皆には自分の中の、
ある一線については予め伝えてあるんですよ。

例えば総務の子が皆に何かを伝達しているのに、
返事をしていないなんて時には、
その一線から出ているので僕は叱りますね。

トレーニングでも、失敗を恐れて
全然チャレンジしていないような子がいたら、
やはりガツンと叱る。

その時に

「あの子、なんで則さんに怒られたか分かる?
 ミスを怖がって自分のプレーを全然してないからよ」
 

というふうに、誰が見てもその基準が分かるようには
なるべくしているつもりです。

「母親の愛について想う」

水曜日, 8月 1st, 2012

        徳増幸雄(福岡県警元総務部長)

                『致知』2012年5月号
                      致知随想より

└─────────────────────────────────┘

私が福岡県のC警察署で署長を務めていた
平成18年の出来事です。
管内の山中で30歳代の女性の自殺遺体が
発見されたとの報告を受けました。

家出人捜索願が出ていたので、すぐに身元が判明しました。
その方は家庭内の不和で、悩んだ末に
幼い2人の娘さんを残して家出、
マイカー内で練炭自殺を図ったのです。

警察は、医師が看取った遺体以外、病死、自殺、事故死など
すべての遺体を検視しなくてはいけません。
犯罪の疑いがある場合は司法解剖をします。
核家族の増加により一人で亡くなる方も増え、
私たちの管轄する地域でも年間300体以上を検視してきました。

綺麗な遺体ばかりではありません。
焼死体、轢(れき)死体、腐乱死体、水死体など
思わず目を覆いたくなるものもありますが、
刑事たちは礼を失することなく淡々と検視に当たります。

検視のたびに感情移入していていては
PTSD(心的外傷後ストレス障碍)になってしまいますし、
冷静さを失えば犯罪死体を見逃すことになりかねないからです。

警察官は誰に教わるともなく、心に鎧を着せて、
この辛い仕事と向き合うことを覚えていきます。

ところが、この練炭自殺を図った女性を検視した時、
いつも冷静な刑事課員たちの様子が少し違いました。
皆目を真っ赤にしているのです。
いぶかしく思った私は、責任者の係長に
「どうしたんだ」と聞きました。

「署長、これを見てください」

刑事係長は、女性の遺体とともに発見された
1枚の写真を差し出しました。

遺体発見直後、女性が右手に何かを
力強く握りしめていることに気づいた刑事課員が
硬直した指を広げると、ビニールに丁寧に包まれた
プリクラ写真があったといいます。

そこに写っていたのは、自殺した女性と
2人の娘さんの笑顔の姿だったのです。

「このお母さん、いったいどんな思いで
 死んでいったのでしょうか」

係長は泣きながらそう説明しました。
刑事も自分の子や母のことを思ったに違いありません。
1枚の写真が刑事たちの心の蓋を外してしまいました。
私もその写真を見た途端、すべてを理解し涙が溢れました。

私は

「このことをご遺族、とりわけ2人の娘さんには
 必ずお知らせするように」

と指示して遺体安置室を出ました。
自分たちを置いて家出をしたお母さんを
恨んでいるかもしれない娘さんたちに、
少なくとも母親が子供たちのことを思いながら
死んでいったことを知ってほしいと思ったのです。

※全文は『致知』5月号をご覧ください。

「震災の日の教え子たち」

月曜日, 7月 23rd, 2012

        

大友研也(福島県立長沼高等学校硬式野球部監督)

                『致知』2012年8月号
                  連載「致知随想」より

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その日、福島県立四倉高校の職員室では、
入試結果を判定するための会議が行われていた。
私が監督を務める野球部は昨年3月11日が練習試合の解禁日で、
そのための準備をちょうど終えた時だった。

異常なほどの激しい揺れを感じた瞬間、
グラウンドの地面が真ん中から裂け、
これは只事ではないと直感した。

直ちに大津波警報が発令され、
指定避難所である当校へ近隣の住民が駆け込んできたものの、
実際にどんな津波が来るかは見当もつかない。

野球部員たちは泣きじゃくる子供たちを抱え上げ、
懸命に宥めていたが、気がつくと
津波は目の前まで迫ってきていた。

まるで映画の一コマのように、
路上のマンホールの蓋が開き、
向こう側からスポーンッ! スポーンッ!
と順に飛び上がっていく。

幸いにも学校の入り口付近が坂になっていたため、
校内まで浸水してくることはなかったが、
私は交通整理や避難所の手伝いに追われ、
選手たちのほうにまったく目を向けている余裕がなかった。

彼らと離れる際、

「落ち着いて動かずにじっとしているように。
 家族の方と連絡がつき次第、家に帰ってもよい」

と伝えたが、気がつくと部員たちが自主的に

「こっちに逃げてください」

とお年寄りや子供たちに声を掛け、
3か所ある避難所へとそれぞれ誘導してくれていた。
途中で保護者の方数名が迎えに来られたが、

「皆がまだ頑張っているから」

と誰一人帰ろうともせず、
午後11時頃になって一段落するまで
ずっと物資やストーブの運搬などに当たっていた。

私はこの日の体験を通じて、人間は我が身が危険に晒されると、
本性が出てしまうものだと痛感した。

自分のことしか考えられず、
立ち入り禁止区域へ強引に踏み入ったり、
高台の道路へ飛び出して危うく轢かれそうになっている人たち。

一方、部員の中には自宅を流されてしまった子もいたが、
誰一人家族の元に戻りたいとは口にしない。
私のいない所でも、服の濡れたお年寄りに
自分のジャージを脱いで着せてあげるなどして喜ばれた、
といった話を後になってから聞いた。

あの大変な状況の中で、よくぞ周りの人のことを思い、
一所懸命働いてくれたという気持ちで胸が一杯になった。

思い起こせば、私が四倉高校に赴任したのは
6年前の30歳のこと。

最初は野球部とも呼べないような初心者ばかりの集まりだったが、
なんとか彼らをその気にさせてやりたいという思いで一杯だった。

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生きるために私は食べない

日曜日, 7月 22nd, 2012

   森美智代 (森鍼灸医院院長)

       『致知』2012年8月号
          連載「致知随想」より

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「生きることは食べること」

という言葉を聞いたことがあります。
人間は食べ物から栄養を摂り、エネルギーを得ている。
だから人は食べないと生きていけないと。

しかし、私は17年前から食べることをやめました。
いまは1日1杯の自家製青汁を飲むだけの生活です。
それでも私は生きています。
いや、だからこそいまも生きていられるのです。

体に異変を感じたのは、短大を卒業して
大阪府の養護教諭になってから半年くらい経った頃でした。

「なんか最近よく転ぶなぁ」と思っていましたが、
そのうち地面が急に上がったり下がったり感じるようになり、
数歩歩けば転ぶ状態に。仕事は続けられなくなりました。

大阪の名だたる病院をいくつも訪ね、検査を重ねた結果、
「小脳脊髄変性症」であることが分かりました。
10万人に5~10人の割合で発病するこの病は、
現在もはっきりとした治療法が見つからない難病です。

病名さえ突き止めれば治る方法があるだろうと思っていた私は、
小脳が溶けてなくなること、そしてこれまで
この病を完治した人がいないことを聞いて
絶望的な気持ちになりました。

その時、私はある人のことを思い出しました。

断食と生菜食を中心にした治療法によって
数々の難病患者を蘇らせてきた甲田光雄先生の存在です。

私は高校生の時、叔母に誘われ先生の健康合宿に
参加した経験がありました。
人は食べなければ死ぬと思っていた私は、
断食と少食によって難病が治るという甲田先生のお話に
目から鱗が落ちる思いがしました。

「よし、あの先生のところに行ってみよう」

甲田医院を訪ね、大学病院での診察結果を伝えると、
先生は私のお腹を診ています。

「私は小脳の病気なんだけど」と不思議に思っていると、
「宿便がいっぱいたまっていますね」と。
そして「断食と少食でよくなります」と言ってくれました。

治らないという西洋医学のお医者さんより、
よくなると言ってくれる甲田先生についていこう。
そして、私が小脳脊髄変性症の完治者第一号になろう。
そういう希望が生まれました。

甲田療法は食事療法と毛管運動や背腹運動などの
体操を組み合わせて行います。
私の場合、ひどい時は這ってしか
トイレにも行けない状態でしたので、
体操は調子のいい時だけで、メインは食事療法です。

朝食を抜き、食べる量を減らして少食にしながら、
こまめに断食を実践していきました。

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