まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

 「紙芝居は我が命」

土曜日, 9月 29th, 2012

        杉浦貞(プロ街頭紙芝居師)

                『致知』2012年10月号
                      致知随想より

└─────────────────────────────────┘

まだ誰もいない公園を背に、
よく音のとおる拍子木を打ちながら街を回る。

二十分もすれば、子供たちが公園に集まり出す。
子供たちが自らの感覚で小さい子は前、
大きい子は後ろの順で座りだせば、
いよいよ街頭紙芝居の始まりだ。

街頭紙芝居は、マンガ一巻、続き物の物語一巻、
最後にとんちクイズ十問が出て、
正解者は水飴券がもらえるという決まりで行われる。

もっとも紙芝居はただ子供たちを喜ばせればよいと
いうものではない。

例えば水飴券は一週間後にしか使えないため、
その間子供たちには我慢することを教えている。

また、クイズでの「ハイ」の返事は、
私の目を見てしないとやり直しをさせている。
元気な返事が子供たちの自立心を育て、
友達関係を良好に築く原点となるのだ。

私はプロの街頭紙芝居師としてこの道三十二年、
毎週十二か所以上、年間六百回以上紙芝居を
上演することを生活のためのノルマとしてきた。

しかも駄菓子の値段を三十二年間、
一度も値上げすることなく一律五十円を守り続けているのだ。

だが最盛期だった昭和三十年代に
紙芝居師が全国に五万人いたのもいまは昔。

現在、紙芝居で生計を立てているプロの街頭紙芝居師は
八十一歳になる私一人のみだが、
二百年の歴史を持つ紙芝居という、
日本独自の文化を担っているという気負いはない。

むしろいまの仕事は我が天分であり、
楽しくてやめられないというのが本音だ。

初めて街頭紙芝居を見たのは二十歳の時だった。
石川県羽咋市という田舎から身一つで大阪に出てきた私は、
その日も日雇いの仕事を終え、
大道芸が並ぶ盛り場をあてもなく歩いていた。

ふと広場の片隅に年配の老人が子供や婦人たちを集めて
何かをしているのに気がついた。
聞けば紙芝居屋といって、いっぱしの職業だという。

肉体労働だけが生きる道だと考えていた自分には、
口先一つで生活ができると知った時の
驚きと感動はいまも忘れられない。

紙芝居師を志したのは勤めていた会社が
倒産する一年前、四十八歳の時だった。

すでに紙芝居師は街からほとんど姿を消していたが、
かつて二十歳の時に大阪で偶然出会っていた
紙芝居への潜在意識に火がついたのだ。

最初は祝祭日に知人から道具一式を借り、
家から遠く離れた公園で見よう見まねで上演した。

当時紙芝居師は乞食の一つ上と蔑視され、
家族は私が近所で紙芝居を演ずることを嫌がったからだ。
そんな最中に会社が倒産。

過去二度倒産の憂き目を味わった私にとって
新たな職探しは気が重く、
その反動からかますます紙芝居にのめり込んだ。

だが失業保険が切れる頃になると、
家族の強い反対もあって焦りが募り、
職探しで紙芝居を一週間ほど休んだことがあった。

すると街で私を見つけた子供たちが
しきりに紙芝居をせがんでくる。

いつの間にか、子供たちとの間に仲間意識が芽生えていたのだ。
私の紙芝居を待つ子供たちがいる――。

この瞬間、腹が決まった。

「明日必ず行くから待っとれ!」。

紙芝居屋として生きていこうという
強烈な人生の決断が生まれたのだ。

しかし現実は厳しい。
私の収入が減ったため、妻はパートに、
そして子供二人は高校生になると
バイトに出ざるを得なくなった。

将来への不安が常につきまとい、
それまでの温かい家庭の雰囲気は消え、
殺伐とした空気が漂うようになった。

さらに追い討ちをかけるように、
紙芝居に子供が集まらなくなってきた。

いま思えば紙芝居がマンネリ化していたのだが、
それでも雨さえ降らなければ
毎日、毎日公園へと夢中で出掛けていった。

一月下旬、その日は朝から雪だったが、
午後から急に晴れ間が差すとすぐに街中へ飛び出す。

しかし、目指す市営団地の広場には
雪が積もり誰も集まらない。

いたたまれない気持ちでその場を去ろうとした時、
一人の女の子が自転車置き場の隅からそっと現れた。

私の顔をじっと見つめ、

「おっちゃん、水飴ちょうだい」

と百円玉を差し出してきた。

私は自分が惨めでしょうがなかったが
しぶしぶ水飴をつくった。

そしてもう一本水飴を求めたその子に
「おっちゃん、ご飯食べられるんか」と言われた時には、
私のさもしい心が見透かされてしまったように感じ、
逃げるようにその場を後にした。

その子のことが頭から離れぬままに
十日ほど過ぎただろうか。

ふと自分は心のどこかで子供たち相手の商売を
馬鹿にしていたことに気がついた。

お菓子を買ってくれるのは大人ではなく子供たちなのだ。
自分たちの仲間だと思って対等な気持ちで
水飴を買ってくれる子供たちは、
私の生活の神様なのだ。

そう閃いた瞬間、心が晴れ晴れとして気持ちが
どんどん前向きになるのを感じた。
そして子供たちが喜んでくれることだけを
四六時中考え続けるようになって、
俄然紙芝居が面白くなってきた。

それからは「村田兆治物語」など
意欲的に新しい紙芝居の題材にも取り組んだ。

今年二月には新作「応答せよはやぶさ」を持って、
毎月一週間、東北三県の復興支援ボランティア紙芝居を実践し、
老人や子供たちに諦めない心の大切さと
生きる勇気や感動を伝えている。

きょうも街のいつもの広場や公園で
拍子木を合図に私の紙芝居が始まる。

辛いことは幾度もあったが、
紙芝居師としての自負心や楽しさと、
溢れる感性を武器にその時その時の道を切り開いてきた。

プロ紙芝居師とは、子供たちとの友情を創造し、
深め合える神聖な職業だ。

そして仕事を通じて人格を磨き高め、
紙芝居道の確立に命を燃やすことが私の生きる道なのである。

「to do goodの前に、to be good」

木曜日, 9月 27th, 2012

             牛尾治朗(ウシオ電機会長)

                『致知』2012年10月号
                 特集「心を高める 運命を伸ばす」より

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  大変有り難いことに、私の家は祖父の代より
  安岡正篤先生と親交があり、父は師友会の神戸の責任者をしていた。

 そのため安岡先生が関西にいらっしゃる時は
 私の家が定宿になっていて、幼い頃からお会いする機会に恵まれた。

 大学四年になり、私は海外で仕事をして
 見聞を広めたいという思いから、
 就職先には海外支店の多かった
 東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)を選んだ。

 しかしある時、
「最終的に就職を決める前に安岡先生のお話を伺うように」
 と父に言われ、私は安岡先生をお訪ねしたことがある。

 私が今後の抱負をひとしきり述べると、
 安岡先生は私を見つめながら次のようにおっしゃった。

「to do goodを考える前に、
 to be goodを目指しなさい」

 この一言は衝撃だった。

 それまで私は、あれをしたい、これをしたいと、
「to do good」ばかりを考えていた。

 そうではなく、「to be good」。

 つまり、よりよくあろうと自分を修める。
 その軸がしっかりしていなければ何もできないし、
 何者にもなり得ないのだと痛感させられた。

 それ以来、私は事あるごとに、
「to do goodの前に、to be good」と反芻し、
 自身を戒めてきた。

 今日なんとか格好のつく生き方ができているのは、
 人間としてのあり方の根本を
 安岡先生にご教授いただいた賜物であろう。

巨人優勝の陰に「五日市金言」が

火曜日, 9月 25th, 2012

 

宮下社長さま                                    

 素晴らしい著書『倭詩』を送ってくださり、ありがとうございます。

本書のところどころにすごい金言が隠されており、ワクワクしながら読ませていただきました。

我が家の家宝とさせていただきます。

ところで、おととい こんな記事をみて驚きました。

よろしければ、ご覧下さい。

                             

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120922-00000046-sph-base

                                五日市 剛

◆原監督を支えた五日市剛さん(工学博士)の「ツキを呼ぶ『魔法の言葉』」 今年4月に知人に紹介され手にした。五日市さんがイスラエルに旅をした際、1人のお年寄り女性に出会い、たとえ事故を起こしたときでも「ありがとう」と言いなさい、と学んだ。「イヤなことが起こるとイヤなことを考えるでしょ。そうするとね、またイヤなことが起こるの」と気持ちの負の連鎖を説いた。そこで「ありがとう」と言うことで「不幸の鎖が断ち切れる」と言われたという。

塩瀬総本家の家訓 2

火曜日, 9月 25th, 2012

創業663年の歴史を持つ
     塩瀬総本家の家訓     

                『致知』2012年10月号
                 特集「心を高める 運命を伸ばす」より
             http://www.chichi.co.jp/monthly/201210_pickup.html#pick4

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【今日一日の事】
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  一、今日一日三ツ君父師の御恩を忘れず不足を云ふまじき事

  一、今日一日決して腹を立つまじき事

  一、今日一日人の悪しきを云はず我善きを云ふまじき事

  一、今日一日虚言を云はず無理なることをすまじき事

  一、今日一日の存命をよろこんで家業大切につとむべき事

右は唯今日一日慎みに候。
翌日ありと油断をなさず、
忠孝を今日いち日と励みつとめよ。

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【崋山先生の商人に与へたる教訓】
 (渡辺崋山の遺訓を教訓として家訓としたもの)
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  一、先づ朝は召仕より早く起きよ

  一、十両の客より百匁の客を大切にせよ

  一、買人が気に入らず返しに来たら売る時よりも丁寧にせよ

  一、繁盛するに従つて益々倹約せよ

  一、小遣は一文よりしるせ

  一、開店の時を忘るな

  一、同商売が近所にできたら懇意を厚くし互に励めよ

  一、出店を開ひたら三ヶ年食料を送れ

…………………………………………………………………………………………

私どもにも代々守り継がれてきた家訓がありましてね。
それが「今日一日の事」と「崋山先生の商人に与へたる教訓」です。

いずれも31代の渡辺利一が以前より聞かされていた
渡辺崋山先生の遺訓を教訓とし、家訓としたものです。

どの教えも老舗の暖簾に安住せず、
常に我欲を捨て商いにのみ専心せよと説いたもので、
いま読んでも商人としての心得が通じていることを感じます。

特に「繁盛するに従つて益々倹約せよ」は、
母がしょっちゅう申していた

「いい時はいいように、
 悪い時は悪いように暮らしていけばいい」

という言葉にも通じます。

悪い時は慎ましくそれなりに暮らしていく。
自分の代に沈むことがあっても、
必ず後に浮く時がくるのが世の常なのだと。
だから物事は長いスパンで考えることですね。

逆に「いい時はいいようにやっていく」のも大切で、
沈む時に備えてものを蓄えておきなさい、ということでしょう。
まさに「繁盛するに従つて益々倹約せよ」です。

仏教に「無常」という言葉がありますが、
やはり世の中はいつも同じであるわけがない。
だから調子がよくても驕らず、
沈んでも必ず浮く時が来るという信念を持って
取り組むことが商売をやっていく上で大事なことですね。

稲盛和夫氏の名言

月曜日, 9月 24th, 2012

誰もが不可能だと思ったJALの再建を
        わずか1年で黒字化した奇跡の経営者            

                『致知』2012年10月号
                 特集「心を高める 運命を伸ばす」
                                   横綱・白鵬氏との対談より
        http://www.chichi.co.jp/monthly/201210_pickup.html

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  ◆ 「従業員のために、また家族のために
     命に代えてもこの会社を守っていくのだ」
     という凄まじい気迫、信念ほど
     経営者を強くするものはないのです。

     経営くらい、ボクシングやレスリング・相撲などの
     格闘技にも似た闘争心が必要なものはないと、
         私は思っています。
 
 

   ◆   経営にとって大切なことは
     「人間として正しいことを追求する」ことに
          あると思っています。
      それは、幼かった頃に両親や年長者から褒められたり、
      叱られたりした経験から学んだ、
     極めて初歩的な倫理観と同じものです。
    
      私はそれを生きる上での原理原則とし、
      またリーダーとしての判断基準にもしてきました。
    
 

  ◆   「才能を私物化してはいけない」
     私はたまたまこの世界の創造主から才を与えられ、
     役割を与えられた。
 
     ならば、その才を自分のために使って
     「俺がやった」などと自惚れてはならない。
          やはり従業員のため、世のため人のために使う。
          それがリーダーだと思い、これまでやってきました。

  ◆    私は人生の目的は何かと問われれば、
      心を高めることであり、魂を磨くことにあると思っています。
      人間が死を迎える時、
      現世でつくり上げた地位も名誉も財産もすべて捨て、
      魂だけ携えて新しい旅立ちをしなくてはなりません。

 
  ◆   生まれた時より少しでもましな人間になる、
      すなわち、わずかなりとも美しく
     崇高な魂になって旅立つことが、
      この世での人間の務めだと思います。

事業永続の秘訣

月曜日, 9月 24th, 2012

創業663年の歴史を持つ日本の饅頭の元祖・
          塩瀬総本家会長の川島英子氏が語る          

                『致知』2012年10月号
                 特集「心を高める 運命を伸ばす」より
             http://www.chichi.co.jp/monthly/201210_pickup.html#pick4

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 ◆ 自分というものは、ここにひょっと
   いきなり成り立っているわけじゃなく、
     遠いご先祖様からの命がずうっと続いてきて、いまこうしてある。
     それを忘れてはいけないし、感謝しなくてはいけない。

     そしてありがたいと思ったら、その気持ちを言葉なり、
     字なり、行動なり、形に表すということを即刻やることが大切です。

 ◆ 悪い時は慎ましくそれなりに暮らしていく。
     自分の代に沈むことがあっても、
     必ず後に浮く時がくるのが世の常なのだと。
     だから物事は長いスパンで考えることですね。

    逆に「いい時はいいようにやっていく」のも大切で、
     沈む時に備えてものを蓄えておきなさい、ということでしょう。
     まさに「繁盛するに従つて益々倹約せよ」です。

 ◆ あまり「こだわり過ぎる」ということをしては
   運は開けないのではないでしょうか。
     時代の変化に対する柔軟な考え方と
     挑戦する気持ちを持っていれば、
     道は開けてくるように思います。

 ◆  仏教に「無常」という言葉がありますが、
      やはり世の中はいつも同じであるわけがない。
 
      だから調子がよくても驕らず、沈んでも必ず浮く時が来る
      という信念を持って取り組むことが
      商売をやっていく上で大事なことですね。

「老舗(しにせ)ではなく、しんみせであれ」

水曜日, 9月 19th, 2012

玉置 半兵衛 (半兵衛麩会長・11代目当主)

      『致知』2012年10月号
        特集「心を高める 運命を伸ばす」より
  http://www.chichi.co.jp/monthly/201210_pickup.html

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私の父は「老舗(しにせ)」という言葉が
一番嫌いだったんです。

老舗は老に舗(みせ)と書くけれど、
こんなに失礼な言葉はない。

うちの店は老いていない。

舗(みせ)は老いたらあかんのや。
舗が老いたら死を待って潰れるだけやと。

しにせの「し」は止とも表せますが、
進化を止めてしまったらそこで終わり。
だからしにせではなく、
新しい舗、しんみせでいきなさいと言うんです。

一代一代が、自分が新しい舗の創業者になったつもりで
商売をしなさい。常に新しいことをしていきなさい。

商売の本質
「先義後利(せんぎこうり=義を先にして、利を後にする者は栄える)」
を変えずに、常に時代の流れに合わせて革新の連続をしなさいと。
まさに「不易流行」です。

しんみせの「しん」は「真」の字で「しんみせ」とも表せます。
お客様に真心を尽くしなさいと。

他にも、信用、信頼を大切にの「信(しん)」。

驕らず控えめにせよの「慎(しん)」。

思いやりや仁の精神の「心(しん)」。

先祖を大切にしたり、お客様に親しみを感じてもらうの「親(しん)」、

規則を守り常に清らかの「清(しん)」、

辛い苦しいことでも辛抱できる「辛(しん)」、

人柄、家柄のよい紳士としての「紳(しん)」……、

こういう商売をしていけば自ずとしんみせになると。

 「盛衰の原理」

日曜日, 9月 16th, 2012

             『致知』2011年1月号
                 特集総リードより
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今年(平成23年)、日本は皇紀2671年である。

海に囲まれた小さな島国が、さまざまな試練を経ながら
高い民度と文化を備え、今日まで発展してきたのはなぜだろうか。
そこに盛衰の原理のヒントがあるように思われる。

例えば、伊勢神宮では、正殿をはじめ社殿のすべてを
新たに造り替える式年遷宮が、20年に1回行われてきた。
2年後に迎える式年遷宮は62回目になる。

今回の総工費は550億円。
うち220億円は民間からの志によると聞く。

第1回の式年遷宮が行われたのは持統天皇4(690)年。
戦国時代に中断されたことはあったが、
以来1300年、この行事は連綿と続けられている。

伊勢神宮だけではない。全国でその地にある神社が
地域の人々によって大事に護持されている。
これは世界の驚異と言っていい。

渡部昇一氏に伺った話である。

氏は若い頃、ギリシャのスニオン半島を2週間ほど旅し、
ポセイドン神殿はじめ多くの遺跡を見た。

帰国後、石巻に行った印象が忘れられないという。

石巻には港を見下ろす丘に大きな神社がある。
その祭りを町を挙げて祝っていた。

海を見晴らす丘に海神を祀るのはギリシャも日本も同じだが、
ギリシャの神ははげ山の中の遺跡と化している。
しかし、日本の神は豊かな鎮守の森に包まれて社に鎮座し、
住民がこぞって祝っている。

「古代ギリシャ文化はもはや死んでしまったが、
  古代日本文化はいまもまさに生きているのです」

この事実は何を物語るのか。

ギリシャ神話は有名だが、神々の系譜は神話の中だけで
完結、断絶し、いまに繋がっていない。

これに対して日本は、天照大神の系譜に繋がる
万世一系の天皇という具体的な存在を軸に、
我われの先祖は目に見えないもの、
人知を超えたものを畏敬し、尊崇する心を、
2000年以上にわたって持ち続けてきた、ということである。

そしてこの民族の魂は今日もなお生き続けている、
ということである。

目に見えないものへの畏敬、尊崇の念は、自らを律し、
慎む心を育んでいく。

「心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守らむ」

という心的態度はこの国に住む人たちに
共通した価値観となって定着した。

言い換えれば、私たちの先祖は
「自反尽己(じはんじんこ)」に生きたのだ。

自反とは指を相手に向けるのではなく、
自分に向ける。すべてを自分の責任と捉え、
自分の全力を尽くすことである。

そういう精神風土を保ち続けたところに、
この国の繁栄の因がある。

同時に忘れてならないのが、我々の先祖が
絶えず後から来る者のことを考え、
遠き慮の心を持ち続けたことだろう。

詩人の坂村真民さんはそういう先人の祈りを
象徴するような詩を残している。

《あとから来る者のために

 田畑を耕し 種を用意しておくのだ

 山を 川を 海を きれいにしておくのだ

 ああ あとから来る者のために

 苦労をし 我慢をし みなそれぞれの力を傾けるのだ

 あとからあとから続いてくる あの可愛い者たちのために

 みなそれぞれ自分にできる なにかをしてゆくのだ》

「ゆらぎ」の佐治先生のお話

火曜日, 9月 11th, 2012

理論物理学者の佐治治夫先生の講演会が、

「秋分の日」に、山の手の「浄国寺」で開かれます。

先生の「ゆらぎ理論」は有名ですし、宇宙創成のお話しも興味が尽きません。

松岡正剛さんとの対談本も、エキサイティングで面白いですね。

それと、西洋音楽に大変造詣が深く、そこから紡ぎ出される

宇宙理論、人生論は眼の覚める思いがしますね。

またとないチャンスですので、是非ともご参加くださいませ。

 「富国有徳への道」

火曜日, 9月 11th, 2012

       
         『致知』2009年2月号
               総リードより
         http://ameblo.jp/otegami-fan/

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「この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、
 日本人より優れている人々は異教徒の間では見つけられない。
 彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がない。

 驚くほど名誉心の強い人々で、他の何ものよりも名誉を重んじる。
 大部分の人々は貧しいが、武士も、そういう人々も
 貧しいことを不名誉とは思わない……」

 1549(天文18)年、キリスト教布教のために日本にやってきた
 フランシスコ・ザビエルが、本国に送った手紙である。

 それから300年、江戸末期から明治にかけて
 たくさんの外国人が日本を訪れ、
 日本と日本人についての感想を残している。

 イギリス人女性旅行家で紀行作家のイザベラ・バードは
 1878(明治11)年5月に来日、東北や北海道を旅行し、
 こう書いた。

「ヨーロッパの国の多くや、所によってはわが国でも、
 女性が外国の衣装で一人旅をすれば現実の危険はないとしても、
 無礼や侮辱にあったり、金をぼられたりするものだが、
 私は一度たりとも無礼な目に遭わなかったし、
 法外な料金をふっかけられたこともない」

 1856(安政3)年、通商条約を結ぶために来日した
 ハリス提督は、その日記にこう記している。

「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。
 一見したところ、富者も貧者もない。
 これが人民の本当の幸福の姿というものだろう。

 私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、
 この人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、
 疑わしくなる。

 私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く
 日本において見出す。

 生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、
 現在の日本の顕著な姿であるように思われる」

 1890(明治23)年来日のドイツ人宣教師の記録。

「私は全ての持ち物を、ささやかなお金も含めて、
 鍵を掛けずにおいておいたが、
 一度たりともなくなったことはなかった」

 フランスの詩人ポール・クローデルは
 1921~27(大正10~昭和2)年まで駐日大使を務めたが、
 第二次大戦で日本の敗色が色濃くなった
 1943(昭和18)年、パリで言った。

「日本は貧しい。しかし、高貴だ。
 世界でどうしても生き残ってほしい民族をあげるとしたら、
 それは日本人だ」