まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「サムライの精神を育てる」

日曜日, 11月 13th, 2011

       
       
  松田 妙子

      (住宅産業研修財団理事長、大工育成塾塾長)

        
   『致知』2005年9月号より

   ※肩書きは掲載当時です

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「よく来てくださいました」

 大工育成塾スタートから二か月後、
 受け入れ先の工務店を訪れて驚きました。

 入塾式まで茶髪にピアス、
 人の話も聞かずにふんぞり返っていた若者のうちの一人が、
 背筋をピンと伸ばし、こう話しかけてきたのです。

「あんた、ずいぶんいい男になったわねぇ」

 彼の成長ぶりに目を見張りながら、
 私の心は喜びに溢れていました。
 真の職人たるもの、卓越した技術とともに、
 立派な人格も備えていなければなりません。
 
 棟梁の厳しい指導のもと、日々修業に励んできた成果が
 こうした行動に表れたのでしょう。

 三年間、棟梁のもとで学ばせ、一人前の大工に育てる――
 この「大工育成塾」のアイデアを思いついたのは、数年前のこと。
 
 三十七歳の時、住宅会社を設立した私は、
 以来四十年近くにわたり、
 「よい住まいとは何か」と自問し続けてきました。
 
 そして折に触れて話してきたのは、
 「住まいは、家族の幸せの容れもの」という考え方です。

 ところが最近になって人々は、幸せの尺度を、
 精神面よりも物質面に求める傾向が強まってきました。
 
 住まいに関していえば、いかに広く、立派な見栄えで、
 利便性はどうかといったハード面のことばかり。
 
 つまり、日本人にとっての家は
 「ホーム」から「ハウス」へと変容してしまったのです。

 一九六〇年代、価格高騰を続ける住宅産業界に
 メスを入れるべく、私は米国の2×4(ツーバイフォー)工法を紹介し、
 以来、良質で低価格のマイホーム開発の普及に尽力してきました。
 
 そして人々に、価値と価格の見合った住まいを
 提供してきたという自負があります。

 しかしそれと並行するように、社会では、
 家庭内暴力や青少年の非行、離婚率の増加などが
 問題視されるようになってきました。
 
 私はその要因の一端が、安価で個室主義的な
 建築工法にあるのではと考えました。
 
 これは私自身の自戒と反省でもあります。

 中国の孟子の言には
 
 
 「家に三声あり(三声あれば安泰なり)」
 
 
 とあります。
 
 三声とは、
 
 一、家族が働いている声や物音。
 二、赤ん坊の泣き声。
 三、読書の声のこと。
 
 
 その家族の安泰を築くための住宅環境が、
 いまの日本にあるといえるでしょうか。
 また、真の日本の住まいとは、どんなものを指すのでしょう。

 あるヨーロッパの友人はいいました。
 
 
 「日本には、千年の風雪にも耐え得る寺社仏閣が数多くある。
  これらは世界にも誇れる建築技術です。
  日本人はなぜこんな素晴らしいものを忘れてしまったのですか」

 考えてみると、昔の日本の住宅には、
 襖や障子、引戸など、家族の関係を優しく包む創意工夫が
 数多く見られます。
 
 そんな先達の知恵が残る空間には、
 孟子のいう「三声」が、ちゃんとあるではありませんか。

 ところが、その伝統技術を継承する者の高齢化が進み、
 大工の数は二十年間で、約三十万人も減少してしまいました
 そこで、次代を担う立派な職人を育てたいと思い、
 大工育成塾をスタートさせたのです。
 
 開塾にあたり、国からは補助金を取り付け、
 受け入れ先の工務店を東京・大阪・福岡の三都市で
 百以上手配しました(二期目からは名古屋でも開塾)。

 職人気質の棟梁のもと、マンツーマンの指導を受けるのは、
 生易しいことではありません。
 
 技術的な指導はもちろん、挨拶の仕方や掃除の方法など、
 日常の居ずまいを徹底的に鍛え直させられます。
 
 さらに育成塾では、座学の講義も定期的に設けています。
 道具の名称に始まり、尺貫法、住まいの歴史、
 住宅構造の理論等を通じ、大工の世界を体系的に学ぶことで、
 建築に対する理解を深めます。

 講師役には、棟梁や大学教授、研究者のほか、
 私自身も教壇に立つことがあります。
 
 その際、塾生に向かってよく口にしているのは、
 
 
 「武士道の精神を持ったサムライたれ」
 
 
 ということです。

 昔のサムライは、すぐれた剣術の腕とともに、
 古典や歴史などの教養を幅広く身につけていました。
 
 そして立派な道徳観を持ち、
 正道を歩む術を心得ていたといいます。
 
 
 「職人の精神は、武士道の道徳につながる」
 
 
 が私の持論ですが、年間百人、十年間で千人のサムライを、
 塾を通じて育てたいと考えています。

 さて、今年で三期目を迎えた大工育成塾ですが、
 入塾面接でこのようにいった子がいました。

「何代にもわたって受け継がれていく住まいづくりでは、
 大勢の方を幸せにすることができます。
 その家づくりを私はしたいのです」

 この若者がいうように、私の考えるよい住まいとは、
 そこで健全な人格が形成され、
 家族の絆が育まれるような家のことです。
 
 すなわち、家づくりは人づくりにつながるのです。
 塾生たちには、サムライの刀を道具に替え、
 人の上に立つリーダーとなって、
 この国をつくる人間になってほしいと切に願っています。

 「雀鬼の人生哲学」

土曜日, 11月 12th, 2011

       
       
   桜井 章一 (雀鬼会会長)
        
    『致知』2011年12月号
   連載「20代をどう生きるか」より
 http://www.chichi.co.jp/monthly/201112_pickup.html#pick8

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 世間ではよく「意志は固いほうがいい」と
 思われているようだが、私の考えでは逆である。

 意志が固いために、たった一つの箇所を
 突かれただけで、コロンとひっくり返ってしまう。
 
 そして自分のプライドを崩されたような気になり、
 「こんな仕事は辞めてやる」と会社を飛び出し、
 引きこもりになったり、街中で暴力を振るったりしてしまう。

  「柔よく剛を制す」という言葉があるが、
  人間は心身ともに柔らかくあるべきというのが私の持論である。
  体や心を強固にして力ずくで相手に向かっていくと、
  反射神経が鈍り、柔軟な対応を取ることなど到底できない。

 建物を例にとってみても、
 コンクリートは頑強にできてはいるが、
 外部からの衝撃には非常に弱い。
 
 反面、木造建築は当たりが柔らかく、
 強い風がきても吸収して受け止めることができる。
 
 人間は最終的に体が固くなって死ぬように、
 若い子の体はお年寄りに比べるとずっと柔らかい。
 
 その柔らかさを十分に活用し、
 行動に移していってくれたなら、
 いい世の中を取り戻してくれるように私は感じている。
 
 また、心の柔らかさというものは、
 教わったことが入りやすいタイプと、
 入りにくいタイプとも関係している。
 
 まずは心を開き、精神を柔らかくしなければ
 教えは入ってこない。
 
 一つのことに囚われると、その考えにつかまってしまう。
 そうすると、その教えこそ絶対だと思い込み、
 他の考えをすべて否定してしまうようなことになるのである。

…………………………………………………………………
■桜井章一氏の名言(過去のインタビューより)
…………………………………………………………………

心を開いていない人ってのは素直じゃない。
それと勇気がないですね。

やはり、人間には精神と肉体しかないわけですから、
精神的には、心を開くこと。
それから肉体的には行動を惜しまないこと。
それによって、教わったことが身に付きやすい
伝導体質になって、成長の根源になると思います。

 「慶應義塾生を魅了した『論語』の授業」

木曜日, 11月 10th, 2011

       
       
          

佐久 協 (作家・元高校教師)
        
『致知』2011年12月号
特集「孔子の人間学」より
 http://www.chichi.co.jp/monthly/201112_pickup.html#pick1

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 私は孔子と福沢諭吉がよく似ていると思うんです。

 私のような戦後教育で育った西洋的な感覚を持った人間は、
 個人と社会を対立させて捉えてしまいがちで、
 一人で頑張ったって世の中は変えられないという
 意識を強く持っているんです。

 けれども孔子も福沢も、
 個人が世の中を変えられると信じていました。
 
 
 孔子は、

 「人能(よ)く道を弘(ひろ)む。
  道の人を弘むにあらざるなり」

 と説いています。

 人が道を弘めるのであって、
 道が人を弘めるわけではないと。

 我われはすぐに政治が悪い、法律が悪いというけれども、
 我われ一人ひとりが道徳を実践することで
 少なくとも一人分は世の中がよくなる。
 社会と個人は対立しないという意識、
 これが孔子の思想の基本だと思うんです。

 福沢は

 「一身独立して、一国独立す」

 と説いています。

 独立した個人こそが国家を支える基盤になるという考え方ですが、
 孔子もまさにそういう気概で世に打って出ました。
 いま我われに求められるのはこの気概だと思います。

 
 ……………………………………………………………………………………
 ● 一日己に克(か)ちて礼を復(ふ)めば、天下、仁に帰す。
……………………………………………………………………………………

  「佐久流現代語訳」
  
  たったの一日でもいいから自らの行動をしっかりと見つめて、
  人として納得できる一日を送ってごらん。
  そうすれば世の中は確実にその一人分だけ
  理想社会に近づくものなんだから。

……………………………………………………………………………………
 ● 力足らざる者は、中道にて廃(はい)す。
   今、女(なんじ)は画(かぎ)れり。
……………………………………………………………………………………

  「佐久流現代語訳」

  力不足の者は、やれるところまでやって倒れればよいのだ。
  お前は、やる前から自分で自分に限界をつけているだけだ。

……………………………………………………………………………………
 ● 下学(かがく)して上達す。
……………………………………………………………………………………

  「佐久流現代語訳」

  身近なことからコツコツと学び、
  その積み重ねによって仕事や人生の奥義をきわめよう。

  「鬼の土光、仏の土光」

水曜日, 11月 9th, 2011

             
       
            牛尾 治朗 (ウシオ電機会長)
        
            『致知』2011年12月号
             巻頭の言葉より

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 政治経済の混迷ぶりを憂慮して、
 かつて国の行財政改革で大きな実績を上げた
 土光敏夫さんが改めて脚光を浴びています。

 私が土光さんとご縁をいただいたのは、
 昭和六十年に開催された
 国際科学技術博覧会(つくば博)の時でした。
 
 つくば博は、当時まだ安い標準品の輸出で
 成り立っていた我が国が、新たに科学技術立国のイメージを
 世界に発信していく目的で企画されました。
 
 会長に就任した土光さんのもと、
 私は基本構想委員会の委員長という大役を仰せつかったのです。

 委員会を開催するにあたり、
 土光さんは三十五歳も年下の私に、
 
 
 「勉強のために若い君たちが運営する委員会に
   ぜひとも出席したい」
  
  
 とおっしゃいました。
 ただし、絶対に自分には発言させないでほしいとのことでした。

 それでも実際に委員会が始まると、
 
 
 「土光会長はこれについてどう思われますか」
 
 
 とゴマすりで発言を求める人が何人かいました。
 土光さんはそれには応じず、

「せっかく君たちが一所懸命に議論しても、
 自分が話せば意見がそっちへ流れてしまう。
 
 自分の役割は理事会での反対を払いのけて
 君たちの原案を通すことだから、
 頑張って議論を尽くしてほしい」

 と説かれたのです。我われ委員会のメンバーが
 奮起したことは言うまでもありません。

 委員会を欠席された時は後から必ず面会を求められ、
 会議の内容について熱心に質問を受けました。
 土光さんが手にする議事録には
 いつも赤線がびっしり引かれていました。

 石川島播磨重工業や東芝の再建に
 取り組んでおられた頃の土光さんには、
 その猛烈な仕事ぶりから
 「鬼の土光」のイメージを抱いていました。
 
 しかし私が出会った頃の土光さんは、
 若い人の引き立て役に徹する
 「仏の土光」でした。
 
 自分の使命や、年下の我われにも、
 真摯(しんし)で謙虚な姿勢を貫かれた姿には
 心底感銘を受けました。
 

 「信用は使ってはならない」

火曜日, 11月 8th, 2011

       
       
 黒田 しょう之助 (コクヨ会長)
        
    『致知』1999年11月号
  特集「本物は続く、続けると本物になる」より
            

         ※肩書きは掲載当時です。

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人の信を得るということ、
つまり信用を築き上げるということは
一朝一夕にできないことは皆さんよくご存じです。

創業して間もない企業や中小企業は、
何とかして信用のある企業といわれるようになりたいと、
トップから一般社員まで大変な努力を続けておられると思います。

こうして真剣な努力を続けていると
その成果が上がってきて、
信用のある会社だといわれるようになります。

間題はその後です。

ある程度信用ができてくると、それを使い始める。

会社や社員の姿勢がだんだん高くなってくるわけです。

つまり「君、それくらいのことは何とかできんのか」
ということで、無理を言うことが起こってくる。
こちらが無理を言わなくても、先方から
「支払いはそんなに早くしてもらわなくても」
と言ってくれるようになる。

納期が多少無理でも、
徹夜してでも間に合わせてくれるようになる。

しかしそれに甘えて信用を使い出すと、
長い年月をかけ、血のにじむような努力によって
蓄積してきた信用が取り崩されてしまう。

先代はこのことを戒めて、次のように言いました。

「信用は世間からもらった切符や。
  十枚あっても、一枚使えば九枚になり、
 また一枚使えば八枚、といった具合に減ってしまう。
 
 気を許すと、あっという間に信用がなくなってしまう。
 特に、“上が行えば下これを習う”で、
 上に立つ者ほど注意しなければいけない」 と。
 
 
金は使ったら減るのはわかるが、
信用というのは目に見えないだけに
減ることがわからない。

先代はさらに

「信用は使ってはならない、
 使わなければどんどん増えていく」

とも言っていました。

(記者:使えば減るというのは当たり前ですが、
    つい忘れてしまいがちなことですね)

そうなんです。当たり前のことなのにできない。
事業をやるからにはどなたも最初はわかっていると思います。
要はそれを続けるかどうかです。

創業者の時代は見事にできていたものが、
年を経てくると信用よりも銭金の方が大事、
あるいは建物が立派な方が大事、という具合に
価値そのものが変わってくる。

幸せなことに私どもは大事なことが変わらなかった。

なにも人様の前へ出て話すようなことではないんです。
もう本当に三度三度のおまんま食べるぐらいの
当たり前のことばっかりなんですが、
当たり前のことがなかなか続かないんですね。

……………………………………………………………………………………

「孔子の人間学」より

月曜日, 11月 7th, 2011

●北尾吉孝(SBIホールディングスCEO)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   

  「徳は孤ならず。必ず隣あり」
   あらゆる事業は自分一人でできるわけではなく、
   その人のもとに様々な人の力が加わって結実する。

   徳を持っていることがそのための大きな原動力となることを、
   私は『論語』を通じて学んだ。
 
  

  
●瀬戸謙介(空手とともに『論語』の指導を行う瀬戸塾塾長)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   教育はレベルを落としてはいけないんです。
   子供を子供扱いすると必ず見抜きます。
   自分たちを一人前に扱ってくれているんだという思いがあると、
   子供のほうも頑張るんですよ。

●阿部一郎(福島の桃源郷といわれる「花見山公園」所有主)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   私は畑が自分の勉強の場だと思っています。
   二宮金次郎さんは
  「音もなく香もなく常に天地はかかざる経を繰りかへしつつ」
   と歌っているでしょう。

   自然は書かざる経を繰り返しているんですよ。
   そこに私は学んでいるんです。

●桜井章一(二十年間無敗の伝説を持つ“雀鬼”)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   準備、実行、後始末

「自分を待ってくれている人たち」

日曜日, 11月 6th, 2011

        
       
      佐伯 輝子

      (寿町勤労者福祉協会診療所長、医学博士)

        
     『致知』2006年2月号より

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「五年も前から先生を探してるんですが、
 一向に決まらなくて困ってるんです」

自宅の医院と市内の診療所を掛け持ちし、
多忙な日々を送っていた私の元へ横浜市から
電話があったのは二十五年前。

五十歳を目前にした日のことでした。

現在、日本の三大ドヤ街の一つとして知られる
寿町(ことぶきちょう)も、当時は世間に知られておらず、
私自身もそこがどんな町であるか、見当もつきませんでした。

実際、それまでも何人かの先生に依頼したそうですが、
駅を降り、診療所に行き着くまでに誰もが引き返してしまう、
それほど異様な雰囲気の町だというのです。

夫は

「そんな危ない場所へ女が行くことはない」


断固として反対。それでも市と医師会からは

「何とか一年だけでもお願いします」

とたびたび電話がかかってきます。
そんな時、私たち夫婦の会話を
そばで聞いていた息子がこう言いました。

「ママを待ってくれている人がいる限り、
  それを断っちゃいけないんじゃない?」

てっきり反対されるものと思っていた
息子の一言には驚きましたが、
あれだけ反対していた主人までが
「それじゃあやってみるか」と言い出したのです。

この時、女学校時代に担任の先生から聞いた

「いいかい、人間の意見は二人は複数じゃないの。
 三人以上の意見があって
 それがまとまった時にうまくいくのよ」
 
 
という言葉を何十年も経ってから実感しました。

初めての診察日、自動車で診療所前まで来ると、
木立ちで用を足している男性がいます。
仕方なく車の中で待っていると、
私の気配に気付いた彼が逆上し、
車におしっこを撒き散らしてきたのです。

木で車体を叩きつけられ、
怒鳴り散らしながら去っていった姿を見ながら、
これは大変な所へ来たと思いました。

診察に訪れる方は、泥だらけだったり、シラミがいたり、
下着も穿いていない、健康保険に入れない方など様々です。

しばらくすると、当初二十名程度の見込みだった患者数が
連日倍の数、多い時で九十名を超え、
待合室の廊下には人が溢れました。

「うるせぇ」「てめぇ、このヤロー」といった怒号が
わんわん飛び交い、落ち着いて診察もできません。

一度、待ち時間の長いことに腹を立てた男性が、
刃物を忍ばせて私に襲いかかってきたこともあり、
その後しばらくは恐怖心が拭えませんでした。

患者に首を絞められ、危うく死にそうになったこともあります。
入り口付近にいた男性が近づいてきて、
肩をつかまれたかと思うと「久々に女に触れた」という興奮からか、
私の首を絞めたまま痙攣状態になり、激しく震え出したのです。

専任のガードマンと職員が四人がかりで引き離してくれましたが、
腰が抜け、どっとその場にへたれ込んでしまいました。
私は寿町で死んでしまうかもしれない。
その思いはいまでもあります。

当時、診療所に訪れる人たちの中には、
逃亡中の身の上や、家を出て行方知らずになっている人も
珍しくありませんでした。

住人たちは寿町に身を潜めるように暮らしていましたが、
それでは悪の温床になってしまう、
なるべく明るみに出したほうがよいと思い、
講演活動などの際に、私はこの町の存在を
勇気を出して話してきました。

ただ、初めの頃は、皆のために
ここへ来たと思っていた私ですが、
いまになって、自分のためにここへ来たんだなと
思うことが少なくありません。

いまから十五年前、診療所での活動を評価され、
吉川英治文化賞の受賞が決まった前の晩のことです。
馴染みの患者から自宅に電話がかかってきました。

「先生、いつも賞を受ける時、私一人の力じゃありません。
 スタッフ皆でいただいた賞です、って言うだろ。
 分かんねぇのかよ。
 俺たちもいままで“協力”してきたんだぜぇ」

確かに医者とスタッフだけいても仕事にならない。
患者さんも含めての受賞。
二十代からずっと医療に携わってきた私も
この言葉には目から鱗が落ちる思いでした。

診察をする上で、私は患者の方と目線を合わせる、
ということを常に心がけています。

だから「どこが悪いの」ではなしに、
「きょうはどうしたの」と尋ねる。

具合が悪いと聞けば、

「私は医者でたまたま治し方を知っている。
 だから一緒に治してみる?」
 

と持ちかけます。そして時には、
一人の人間として声を荒げることもあります。

ある日、「ビール瓶で怪我をした」という男性が
診察室にやってきました。

巻かれてあったタオルを取ると、薬指はブラブラで、
皮一枚でついています。隣の小指はすでにありません。
すぐに手術をしようという私に、男性は

「指なんていらねぇから取ってくれ。
 男の約束は、女には分かんねぇんだよ」
 
 
と言ってふてくされています。私はこう言いました。

「お母さんがあんたを産んだ時に、
 この指がなくてもいいと思ったと思うの。
 五体満足で生まれてくれて、あぁよかったと思うのが
 女が赤ん坊を産んだ時の気持ちなんだよ。
 
 それを尊重せずに自分だけの命だ、
 指なんていらないなんて言ったら、
 金輪際、女である私が許さないよ」

手術台のベッドで大泣きし始めた男性は、後日
「人に初めて怒ってもらえて、すごく嬉しかったんだ」
と教えてくれました。

休診の張り紙を出すと、いくら理由を言っても
「先生、やめるんじゃないだろうな」
「先生やめたら俺たち死んじゃうよ」と、
駄々っ子のようにごねる寿町の住人たち。

自分を待っている人がいる限り、
それを断ってはいけない――
二十五年前、息子から言われた言葉を噛み締めながら、
この生かされし命の使い道を考えるきょうこの頃です。

「安田善次郎が貫いた人生信条」

土曜日, 11月 5th, 2011

            
       
  安田 弘 (安田不動産顧問)
        
      『致知』2009年4月号
      特集「いまをどう生きるのか」より
            

                  ※肩書きは掲載当時です。

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(曾祖父の)安田善次郎は生前、処世に関する
様々な本を書いています。
その中で彼は、自分がお金持ちになれた理由を
次のように述べています。

どんな仕事をするにせよ、自分でこうしようと決めたことを、
コツコツコツコツやっていく、
その「意志の力」ほど大切なものはないのだ、と。

本当は誰にでもできることなのに、意志の力が弱いために、
途中で迷ったり、せっかく貯めようとしていたお金を無駄遣いして、
結局目的を達せられずに終わってしまう。

毎日毎日自分で決めたことをしっかりと積み重ねていけば、
凡夫でも必ずお金持ちになれる。
驚くような仕掛けも何もない。

一歩一歩、目標に向かって着実に歩んでいくのが
最も大切なことなのだと。

また善次郎は、巨万の富を築いた後も
「勤倹貯蓄」の精神を貫いた人でした。
私が生まれたのは、曾祖父の死から十二年後のことですが、
安田家の食事は一汁一菜の非常に質素なものでした。

何にせよ、贅沢をしてはいけないという考え方で、
衣服にしても、善次郎はいつも
木綿の粗末な着物を着ていたそうです。

旅行をしていると
「へぇ、あの人が有名な大金持ちの安田善次郎さんかぁ…」
と皆から驚かれたと聞いています。

要するに、お金持ちになるには
一歩一歩堅実に歩んでいく以外にはないこと、
また無駄なことにお金を使っていては
いけないということでしょう。

そうやって善次郎は江戸へ出てきてから
僅か七、八年の間に定めた目標どおり
「千両分限者」になったのです。

また善次郎は、二十七歳で独立をするにあたり、
次の三つの誓いを自らに立てています。

「一、独力独行で世を渡る。女遊びをせず一所懸命に働く」

「二、嘘をいわず、正直に道を踏む。
   どんな誘惑があっても決して横道に逸れない」

「三、生活費は収入の八割以内にし、二割は貯蓄する、
   住居のために財産の一割以上の支出はしない」

ある日善次郎が町を歩いていると、
非常によい物件が見つかりました。
地主にいくらかと尋ねると、
いまの資産の一割以上オーバーしている。

その時、彼はその家が欲しくて堪らなかったにもかかわらず、
自分で誓いを立てた以上は破るわけには
いかないとして購入を諦めるのです。

しかしその二年後にまた同じ場所へ行ってみると、
幸運にも家は売れずに残っていた。

その頃にはすでに家を買っても資産の一割以内で
収まるほどに儲けていたため、
ここで初めて善次郎は購入しようと決めたのです。

普通であれば
「一割を少し超えてしまうけれども、まぁいいか」などと
考えてしまいそうなものですが、
善次郎はそうしたことを絶対にしない人でした。
これも彼の持つ、意志の力といえるでしょう。

        (中略)

善次郎は最晩年
「この二十年間守り通した処世の信条は?」という
雑誌社の質問に対し、

「勤倹、克己、一にもってこれを貫く」、

また別のところで

「人生は克己の二字にある。
 これを実行するところに成功があり、
 これを忘れるところに失敗がある」

 
 
と答えています。

現代人には、自分のいまあるがままの姿を
認めてもらいたいといった風潮が見受けられますが、
立派な人間になったり、成功したりするためには、
自分に打ち克つという意志の力を
持たなければいけないということを、
善次郎の生き方は立証していると思います。

放蕩息子

木曜日, 11月 3rd, 2011

今朝の朝日新聞に、京都の柿本商事さんが全国に募る「恋文大賞」が掲載された。

その初めに「決意の日」と題した札幌の角谷さんの文・・・・身に詰まされた。

聖書や法華経にある「放蕩息子」を思い出したからだ。

行った子は、何時かわが許に戻る、その悲哀が綴られている。

心当たりの方も多かろうと思う。

実は、宗教説話は、深い意味を秘めている。

阿弥陀如来や天の父から離れた衆生を親子関係と見る。

現代では、宇宙や自然から離れた私達人類は、親心子知らずで、

自然を傷付け、兄弟争いに明け暮れて、一向に親の愛に気付かない。

そろそろ、路頭に迷う我ら放蕩息子は、親孝行の時を知るべきと思うのだ。

 「成長の種はコミュニケーション」

木曜日, 11月 3rd, 2011

       
       
   石渡 美奈 (ホッピービバレッジ取締役副社長)

        
     『致知』2007年11月号より

       ※肩書きは掲載当時です

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東京赤坂で祖父がラムネの製造を始め、
第二次世界大戦後に「ホッピー」が誕生したのが
昭和二十三年のこと。

以来、祖父、父と受け継がれてきた
ホッピービバレッジの三代目となるべく、
全国を東奔西走する毎日を送っています。

ホッピーは、麦芽を使った低アルコール飲料として、
サラリーマンを中心に多くの方々に親しまれてきました。

現在私は副社長として雑誌やラジオなどに出演させていただいたり、
インターネットで日記を公開したりして、
ホッピーを広くご紹介しています。

おかげさまで平成十四年に八億円弱だった年商を、
五年間で三倍の約二十三億円まで伸ばすことができました。

ホッピーに入社するまで、私はいわゆるのん気なお嬢様でした。
一人娘で経済的に恵まれた環境に育ち、
大学卒業後、結婚までの腰掛けのつもりで大手企業に入社。

三年後に無事寿退社しますが、
「ホッピーの跡取りを見つけるため」という動機での
結婚はうまくいくはずもなく、半年で離婚。
その時初めて、自分の人生について真剣に考えました。

これからどう生きていこうかと暗中模索し、
最後にたどり着いたのがホッピーでした。

反対する父を一年がかりで説得し、
いざ入社してみると思いがけない試練の連続でした。

入社当時、社内は派閥争いで真っ二つに分かれていました。
社員の意識はバラバラでやる気が感じられません。

後輩に仕事をとられることを恐れた上司が部下に仕事を教えず、
いつまでたっても若手が育ちませんでした。
さらに赤坂にある本社と調布の製造工場とは交流がほとんどなく、
組織全体に情報が行き届かず、
血が通っていないという壊死寸前の状態です。

希望と期待をもって入社したものの、
旧態依然とした社内で思うように動けない鬱憤から、
私は次第に青年会議所の活動に没頭していきました。

平成十五年の取締役副社長就任時、
父である社長から実質の経営を任されました。
実践的経営セミナーで定評のある小山昇氏に
出会ったのはそんな時です。

たまたま出かけた講演会で小山さんの話を聞き、
「この人だ」とすぐにぴんときました。
繰り返し勉強会に参加し、社内改革のために
その教えを会社に取り入れていきました。

早朝勉強会を始めたり、ボイスメールという
新しい手段を使って社内の連絡を密にしたりと
様々なことを試してきましたが、
一向に効果は上がりません。

後で気づいたのですが、十分な説明もないまま
小山さんからの教えを急進的に取り入れたことで
社員たちは動揺し、次第に社内の雰囲気は
険悪になっていったのです。

「大事な話があります」

嫌な予感は的中しました。
神妙な面持ちでやってきた工場長と社員二人の胸ポケットには、
「辞表」と書かれた白い封筒が入っていました。
聞けば、工場で働く社員全員が辞意を表しているといいます。

私は頭の中が真っ白になりました。

すがるような思いで小山さんに連絡すると、
すぐに駆けつけてくださり、
工場長に向かってこう切り出されました。

「工場長、この子がいきなり始めたことについていけず、
 反旗を翻したあなたが正しい」
 
 
私はこの言葉に耳を疑いました。

さらに小山さんは父に

「社長、この子はまだひよっ子だから、
 手は離してもいいけど目は離さないでください。
 でも一番悪いのはこの子に様々なことを教えた
 この私なんです」
 
 
と言葉を続けられました。
工場長、社長、そして私の三者の立場を汲んだ
判断をしてくださったのです。

その瞬間、工場長は涙を流して

「本当は協力したい。
 ただもっと話してほしいだけなんです」
 

と本音を打ち明け、社長は安堵し、私は救われました。

経営とは人の心理を無視してやってはいけない、
何より社員とのコミュニケーションが大切なんだと
目が覚めました。

それぞれの立場の人間の気持ちを大切にしながら、
一つひとつ問題を解決していく。
いきなり多くを変えようとするのではなく、
焦らず小さな一歩一歩を積み重ねることで、
いつか大きな実を結ぶのだと気づいたのです。

コミュニケーションの大切さを身をもって実感した私は、
経営者と幹部が同じ価値観を持って
一つの目標に向かうため、幹部とともに
小山さんの実践塾に参加しました。

塾では「企業発展の原点は環境整備にある」という教えのもと、
全社あげての調布工場のトイレ掃除や廃棄物処理などを行いました。
すると不思議なことに、回を重ねるごとに
いままでにはない連帯感や濃密なコミュニケーションが生まれ、
仲間意識が芽生えたのです。

また、社員の誕生日にはおめでとうを伝えたり、
小さな貢献に気がつくと、そのたびに感謝の気持ちを
自筆の葉書で表すようにしています。

それを手渡しではなく自宅に送ることによって、
経営者から高く評価されていることを家族が理解し、
家族間のコミュニケーションの手助けにもなるのです。

いまでも業務の合間を縫ってコツコツと
月に五十通以上送っています。

それからというもの

「ミーナさんからの葉書が励みになって頑張れました」

などの声を聞くことができ、私の元気の源にもなっています。

平成二十二年、わが社は創業百周年を迎えます。
これからもお客様に安心して飲んでいただける
ホッピーを提供し続けるため、
誰にでもできることを積み重ねて、
小さくてもきらっと光るような会社にしていきたいと思っています。