「鬼の土光、仏の土光」
11月 9th, 2011 at 19:17
牛尾 治朗 (ウシオ電機会長)
『致知』2011年12月号
巻頭の言葉より
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政治経済の混迷ぶりを憂慮して、
かつて国の行財政改革で大きな実績を上げた
土光敏夫さんが改めて脚光を浴びています。
私が土光さんとご縁をいただいたのは、
昭和六十年に開催された
国際科学技術博覧会(つくば博)の時でした。
つくば博は、当時まだ安い標準品の輸出で
成り立っていた我が国が、新たに科学技術立国のイメージを
世界に発信していく目的で企画されました。
会長に就任した土光さんのもと、
私は基本構想委員会の委員長という大役を仰せつかったのです。
![img_354756_3904293_0[1]](https://www.mahoroba-jp.net/newblog/wp-content/uploads/2011/11/img_354756_3904293_01.jpg)
委員会を開催するにあたり、
土光さんは三十五歳も年下の私に、
「勉強のために若い君たちが運営する委員会に
ぜひとも出席したい」
とおっしゃいました。
ただし、絶対に自分には発言させないでほしいとのことでした。
それでも実際に委員会が始まると、
「土光会長はこれについてどう思われますか」
とゴマすりで発言を求める人が何人かいました。
土光さんはそれには応じず、
「せっかく君たちが一所懸命に議論しても、
自分が話せば意見がそっちへ流れてしまう。
自分の役割は理事会での反対を払いのけて
君たちの原案を通すことだから、
頑張って議論を尽くしてほしい」
と説かれたのです。我われ委員会のメンバーが
奮起したことは言うまでもありません。
委員会を欠席された時は後から必ず面会を求められ、
会議の内容について熱心に質問を受けました。
土光さんが手にする議事録には
いつも赤線がびっしり引かれていました。
石川島播磨重工業や東芝の再建に
取り組んでおられた頃の土光さんには、
その猛烈な仕事ぶりから
「鬼の土光」のイメージを抱いていました。
しかし私が出会った頃の土光さんは、
若い人の引き立て役に徹する
「仏の土光」でした。
自分の使命や、年下の我われにも、
真摯(しんし)で謙虚な姿勢を貫かれた姿には
心底感銘を受けました。