まほろばblog

日々に新たに・・・・・

12月 22nd, 2012

昨日は、「世の終わりの日」なので、何か遺言でも書かねば、

と思っていたが、年末多忙で果たせなかった。

ところが、何とも生きていた(笑)。

すると、TVで22日説もあるようで、今日で皆様とお別れかもしれない(苦笑)。

よくよく、この手の話しには、人は惑わされるのが好きらしい。

「1999年・・・」のノストラダムスには、何と30年間も世界が付き合わされた。

2000年問題もそうだった。

2012年は3度目の正直だったが、フォトンベルトがどこかに襲って来て、

どうにもならなかったばかりか、皆年末の慌しさに、吾を忘れて働いている。

孔子は、鬼神を遠ざけ、流言飛語に惑わされぬことを諌めた。

マヤ暦は、新しき世界の扉を開いた、とあるらしい。

そう、湯王の「日に新たに、日々に新たに」という心境で、毎日を過ごしたいものだ。

新しい門出は、いつも良いものだ。

「京都三題」と禅

12月 22nd, 2012

自然医学の原稿「京都三題」を書き上げて、今校正中。

8月、「うさと」のフェステバルに参加した際の2日間、

大忙しで取材を兼ねて市内を周り、思いを書き綴った最終が、2月号に載る。

「うさと」のこと、「上村松園女史」のこと、そして「龍安寺」のこと。

何度か訪れた石庭だが、今回は短い枠の中に、言いたいことを詰め込んだ。

図式がないと、なかなか理解し難いが、兎に角、

この作庭家は、当時のあらゆる知識と技法の粋を集めて、

それを禅のセンスで纏め上げた。

それが、どのような展開でなったか、お楽しみである。

ところで、先日、小泉武夫先生を囲んで、北海道の仲間が忘年会を開いた。

その席上、先生のお家の宗旨が、臨済宗妙心寺派で、

亡きお父さんは県の総代をされていたという。

それで、お亡くなりになった時は、京都から偉いお坊さんが何人も読経にいらしたとか。

龍安寺は、その妙心寺派であったので、脱稿した日の共時性が面白いと感じた。

すると、そのお寺が原発で発言されている福島三春町の芥川賞作家住職・

玄侑宗久氏の禅寺で、小泉家がその檀家さんであったというから、さらに面白いと感じた。

http://www.genyu-sokyu.com/

その宗久氏の幼い時から、よく知っているよ、という話に不思議な感を抱いた。

氏の禅味深いエッセイやお話には、福島県被災地としての切実な声が、心に迫ってくる。

「発展繁栄の法則」

12月 22nd, 2012

       『致知』2010年4月号
                    特集総リードより

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志摩半島にあるそのホテルは、さる著名な経営者が
バブルの最中に計画、三百八十億円を投じて平成四年に完成した。

全室から海が見渡せる設計。
贅を尽くした内装。
足を運んだ人は、誰もが「素晴らしい」と歓声を上げる。

しかしバブル崩壊後、経営不振が続き、
十年前にホテルは人手に渡った。
新経営陣も経営を軌道に乗せるべく手を尽くしたが、
赤字は年々嵩む一方となった。

仙台で小さなエステを経営していた今野華都子さんに
白羽の矢が立ったのは、そんな時だった。

平成十九年、今野さんは現オーナーに請われて
ホテルの社長に就任した。

今野さんを迎えたのは社員百五十人の冷たい、
あるいは反抗的な視線だった。

それまで何人も社長がきては辞めている。
また同じ繰り返し、という雰囲気だった。

今野さんがまず始めたのは、社員一人ひとりの名を呼び、
挨拶することだった。
また、全員と面接し、要望や不満を聞いていった。

数か月が過ぎた。

今野さんは全社員を一堂に集め、言った。

「みんながここで働いているのは、
 私のためでも会社のためでもない。

 大事な人生の時間をこのホテルで生きる、と
 自分で決めたからだよね。

 また、このために会社が悪くなったと
 みんなが思っている不満や要望は、
 私や経営陣が解決することではなく、
 実は自分たちが解決しなければならない問題です」

 そして、今野さんは二つの課題を全員に考えさせた。

「自分は人間としてどう生きたいのか」

「自分がどう働けば素晴らしい会社になるのか」

 
ホテルが変わり始めたのはそれからである。
自分の担当以外はやらないという態度だった社員が、
状況に応じて他部門の仕事を積極的に手伝うようになっていった。

就任二年半、ホテルは経営利益が出るようになった。
全社員の意識の改革が瀕死のホテルをよみがえらせたのである。

今野さんが折に触れ社員に伝えた
「自分を育てる三つのプロセス」というのがある。

一、笑顔

二、ハイと肯定的な返事ができること

三、人の話を肯きながら聞くこと

仕事を受け入れるからこそ自分の能力が出てくるのだから、
仕事を頼まれたらハイと受け入れてやってみよう。
「できません」「やれません」と言ったら、
そこですべての可能性の扉が閉まる。

そして、教えてくれる人の話を肯きながら聞くのが、
自分を育てていく何よりの道なのである。
今野さんはそう言う。

この三つはそのまま、
人生を発展繁栄させるプロセスである。

すべての繁栄は人から始まる。
ひとりの人間が自らの人生を発展繁栄させていくことが、
そのまま組織の発展繁栄に繋がる。

しかも、その発展繁栄の法則は極めてシンプルである。
今野さんの事例はそのことを私たちに教えてくれる。

弘法大師空海の言葉がある。

「物の興廃は必ず人に由る
 人の昇沈は定めて道にあり」

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今野さんとは、旧知の仲で、來道される時は、

まほろばに立ち寄ってくださる。

このように有名になられる前からの付き合いだが、

出会いから、不思議な方でエステシャン世界コンクールでグランプリを獲得、

その前は、東北で酪農業を営み、ウシの世話をしていたというから面白い。

そんな泥まみれの生活からの知恵が人を動かすのだろう、と思うのだ。

いかにも、母性時代の魁のような輝ける女性である。

「闇の向こうに見えた光」

12月 18th, 2012

    伊藤 勝也 (牛心社長)

                『致知』2012年12月号
                       致知随想より

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大阪府内で炭火焼き肉店「但馬屋」など
十店舗を展開する(株)牛心の創業は昭和四十五年。

母が生業として始めた自宅兼店舗のホルモン屋がその原点です。
私はもともとデザイナー志望でしたが、
二十一歳の時、店の経営が立ちゆかなくなり、
なんとか母の店を守ってあげたいと家業を継ぐ決意をしました。

吹田市にあった店の通りは、二十軒もの同業者が
ひしめき合う通称「焼肉屋街道」。

まずはこの地域で一番店にしたいと思ったものの、
三坪足らずの店では真っ当に勝負をしても勝ち目はありません。

そこでまず入店のきっかけをつくってもらうため、
空いたビールケースを常に店外に山積みにし、
煙突からは勢いよく煙を立ち上らせるなど、
「流行っている店の雰囲気」を出すよう知恵を絞りました。

そして来ていただいたお客様を逃さぬよう、
カウンター越しに聞こえてくる会話の中から
名前や誕生日などの情報を掴み、
それを逐一メモして顧客情報をつくり上げていきました。

お客様のほうから商売のコツを
教えてくださったこともあります。

ある時「儲けようという考えをやめ、
お客様のために何ができるかを考えよ」と諭され、
閃いたのが、原価率を六十~七十%まで引き上げてでも、
いい肉を出そうということでした。

飲食業の原価率は三十%程度が相場といわれますが、
従業員は母と自分の二人だけ、人件費も家賃も不要なため、
決してできないことではありません。

商品力を引き上げたことによって競合店との差別化が図れ、
二、三年で業績は急激にアップしていきました。

さらに平成三年のバブル期には手狭になった店を
リニューアルしようと、銀行から多額の融資を受け、
新たな土地を購入しました。

当然家賃が発生してきますが、私は愚かにもその認識が甘く、
商品力が維持できなくなった途端に客足も遠のいていきました。

銀行は待ったなしで返済を迫ってくる。
できることといえば営業時間を延ばすことくらいで、
明け方までカウンターに立ち、
必死に売り上げを伸ばす努力をしました。

しかし追い討ちをかけるようにバブルがはじけ、
材料費は高騰していく。

将来になんの展望もひらけず、
自分は借金を返済するためだけに生きているのかと、
首を吊る考えすら頭を過りました。

そんな時、ふと脳裏に浮かんだ光景がありました。

以前、実際に山で遭難した時の記憶です。
上のほうには微かだけれども光が見える。
なんの光かは分からないが、そこには建物も、人のいる可能性もある。

一方、下へ行けば道があることは違いないが、
どこかに辿りつけるという保証はない。

どちらを選ぶべきか。

真っ暗闇でもがき苦しんでいる中で私がした決断は、
あの時のように、山上に仄見える光のほうへ進んでいくこと。
そしてその光が自分たちにとっては何かを、
明確にしていかなければならないということでした。

「森下自然医学」『ある閨秀画家と仏画』

12月 17th, 2012

今朝、『森下自然医学』来年正月号が届いた。

主幹の巻頭随想は「徐福伝説」その6。

私が恵贈した「富士古文書」によって、更なる徐福解明が進まれたということ。

そこには、未だ知らざる驚異的な記述が書かれてあったという。

その微に入る解説は、あたかも取材したるが如き感があり。

日本古代の様相が、次第に雲晴れるが如く解明される。

さらに後号が楽しみ。

「食養を極めるーひとすじの道70年ー」田中愛子先生の健筆が光ります。

お若い頃の美しいお姿も、素敵です!

その修行の様子が生き生きと描かれた文章も、心に響きます。

今にも死にそうな体が、次第に生気を帯びてゆく様子、目が覚めるようです。

俳壇主宰の秋山素子さんの「句集 白妙」が発刊された。

ことにご主人を見送る壮絶なる苦吟が、心に突き刺さる。

淡々と描かれている如く、実は胸中深い慟哭の嘆きに打たれる。

生涯、幾たびもないこの吟詠は、長く人々の心に残ることでしょう。

山中氏のiPS細胞のノーベル賞受賞、慶賀極まりないものがあります。

しかしながら、自然医学の立場からは、諸手を挙げて歓んでいられることでもないらしいのです。

その興味深い記事が、「iPS細胞の是非と21世紀の慢性病対策」の対談と酒向博士の

「山中教授のノーベル賞受賞によせて」についてです。

全編興味深い内容なのですが、一部ご紹介しますと、

・・・・iPS細胞作成時に導入する遺伝子のうちのc-Mycは有名なガン遺伝子である点と、

遺伝子導入の際に使用するレトロウイルスは遺伝子を導入する部位が不安定であり、

細胞内に潜んでいるガン原遺伝子を活性化する恐れがある、という二つの点から、

人体に使用した後に発ガンする可能性も指摘されている・・・・・・・・

何事も、良いこと尽くめではないようです。

1月の「倭詩」は『ある閨秀画家と仏画』と題して、上村松園女史を取り上げてみました。

絵画に関しては、初めての取り組みですが、私としては生来画も大好きで、

いろんな画家のことを書いて見たいな、と思っています。

松園女史を仏画師と断定したのは、今まで誰も言ってはいませんが、

おそらく初めての評論ではないかと思いますが、そこが核心ではないかと察するのです。

その辺りの消息を是非、お読み戴ければと思います。

さすが、一月号は読み応えのある連載が続いております。

まほろばでも、取り扱っております。(1部¥472)

『グラニー・レラ』ジャムで顔見世

12月 17th, 2012

長野の町田さんの「グラニースミス」りんご。

先日送られた箱の中に、20個「レラ」と呼ばれる別種が入ってあった。

なんでも、お父さんが研究して「グラニー」の子供を作ったとか。

来年の秋から登場ということ。

お父さん曰く、「最高の出来!!」とか。

実がしっかりして甘酸っぱいこのレラは、親以上に吼えるかもしれない。

食べたらすぐ無くなるので、ジャムにしました。

通称『レラ・ジャム』でご指定下さい。

         『グラニースミス・レラ』 225g ¥480

 

七戸さんのクリームが全国紙に

12月 17th, 2012

「セントモニカ」の七戸千絵さんの『ベビー&マザートリートメントクリーム』が、

少しお堅い「日本政策金融公庫:調査月報」に掲載されました。

東京からのわざわざの取材ということで、全国に知れ渡ることになりました。

素晴らしいことですね。

七戸さんの日々のご努力が実ったのですね。

おめでとうございます。

さらなる発展をお祈り致します。

「旗を揚げる」

12月 16th, 2012

  尾角 光美 (おかく・てるみ=一般社団法人リヴオン代表)

                『致知』2012年12月号
                       致知随想より

└─────────────────────────────────┘

私が母を失ったのは九年前、十九歳の時でした。

長年、鬱状態が続いていた母はいつも
「死にたい」と繰り返していました。

「あんたなんか生まれてこなければよかった」と
辛辣な言葉を毎日のように浴びせかけられ、
大切な肉親でありながら、
一緒に暮らすのが辛くてしかたがありませんでした。

それでも母を少しでも喜ばせたいと思い、
浪人生活を送りながら内緒でアルバイトをして貯めたお金で、
母の日にバッグをプレゼントしました。

よもやそれが最後のプレゼントになるとは
思いもよりませんでした。

程なく、経営する会社を倒産させた父が失踪。
経済的にも精神的にも負担が過度に重なった末、
母は私が大学に入る二週間前に自ら命を絶ったのです。

以来、私のカレンダーから母の日はなくなりました。

ところが五年前、母の日というのは、
一九〇八年五月十日に母親を亡くしたアメリカの女の子が、
教会で行われた追悼の集いで白いカーネーションを配り、
亡き母親への想いを伝えたことが始まりだと知りました。

その年は、母の日が始まってからちょうど百周年。

私は、それまで心の奥にしまい込んでいた
母への想いを伝えたいと強く思いました。

そして、同じような想いを抱いている人がいるなら
一緒に想いを伝えたいと考え、
母親を亡くされた方々から手紙を募り、
『百一年目の母の日』という本をつくりました。

マスコミで報道されて話題になり、以来毎年刊行しています。

日本ではこの十五年、毎年三万人以上もの人が
自ら命を絶っています。

東日本大震災でも多くの方が突然の死別を経験されました。
それに伴い、大切な人を失った人びとを精神的、
社会的に支えるグリーフサポートの重要性が高まっています。

大切な人を失った悲しみは、一人ひとり異なります。
私の場合、母に対する感情的なわだかまりや、
拭いがたい孤独感など、様ざまな感情が
心の中で複雑に交錯し苦しめられました。

大学にはなんとか入学したものの、
身体をこわして講義への出席もままならなくなりました。

学業復帰への足がかりをいただいたのは、
親を亡くした子供に奨学金貸与を行っている
あしなが育英会でした。

同会が開催したテロ、戦争、病気などによる
遺児たちへのケアの現場で、
悲しみと悲しみが出合ったところから
希望が生まれるのを目の当たりにしました。

二〇〇六年に自殺対策基本法が制定されて以来、
国内の地方自治体が遺族支援に取り組んできました。
その流れの中で、自治体をはじめ、学校、寺院などでの講演、
研修などで全国から呼ばれるようになりました。

年間三万人以上もの方が自ら命を絶ついま、
自殺の問題は決して他人事ではなく、
自分事として考えていきたい。

そしてこの問題が私たちに問い掛けているのは、
自分たちの生き心地について。この生きづらい社会を、
どうすれば生き心地のよい社会にできるかを
ともに考えていくことが、いまを生きる
私たちの役目だということを体験を交えてお話ししました。

二〇一〇年三月、社会起業家を目指す
若者のためのビジネスプランコンペ「edge2009」での
優秀賞受賞をきっかけに、本格的に社会に
グリーフサポートを根づかせていくために、
確実に遺族にサポートが届く仕組みを考えました。

寺院や葬儀社は必ずご遺族と出会います。
そこで、研修で出会った石川県小松市の僧侶の方と
協力して地域にサポートを産み落とすことを目的とした
グリーフサポート連続講座を開催。僧侶、坊守(僧侶の妻)、
葬儀社、一般市民の方が定員を超えるほど参加されました。

自殺遺族にどんな話をすべきか。実は人を導く
僧侶の方々ですら悩んでいらっしゃるのです。

いま求められるのは、遺族が頼れる人の繋がりやサポートの場です。
講座を通じて、去年の冬にグリーフサポートの団体が
二つ発足しました。

かつてお寺は地域と深く結びついていました。
いま日本にはコンビニの二倍にも当たる
七万以上ものお寺があります。

かつてのような地域との絆を取り戻せれば、
もっと生き心地のよい社会になると考え、
「寺ルネッサンス」と銘打って
小松市以外でも働きかけをしています。

グリーフケアで大切なことは、聴く力です。
聴の字は耳+目+心で成り立っており、
自分のすべての注意力を相手に向けること。

受け身でなく能動的な行為であって、
聴くことを通じて相手の痛みや苦しみを
ジャッジせずに少しでも近づくことが重要です。

もう一つ大切なことは、相手のことを気にかけてあげること。
母を失い、自室に籠もって死を思い詰めていた
私の心に光を灯してくれたのが友人のメールでした。

友人は私をむやみに励ましたりすることなく、
ただ「きょうは食べられた?」「眠れた?」と
毎日声を掛け続けてくれました。

一通のメールでもいい。
誰かが自分のことを気にかけてくれている。

その実感が命を繋ぎ止めてくれるのです。

友人のおかげで、私はその後様ざまなご縁に恵まれ、
グリーフケアというライフワークを見出すことができました。

そしていま、いただいたたくさんのご縁は
亡き母からのギフトとして感謝の念を胸に抱いています。

旗を揚げることで繋がることのできる人がいます。
私は、大切な人の死を経験した人の目に
留まるよう高く旗を揚げ、確かに繋がっていくことで、
その喪失から希望を見いだせる社会を実現していきたいと思います。

「黄倉農園」のお米

12月 15th, 2012

先日の年末大売出しで、初めてのごはん炊き出し試食会を行いました。

北竜町の黄倉(おうくら)さんご夫妻が、まほろば両店に駆けつけて下さいました。

「ゆめピリカ」「ななつぼし」など有機栽培の丹精込められたお米を、みなさまに召し上って頂きました。

ファンの方々も多く、どういう方が作られたのか?と思われていたのではないでしょうか。

ご本人に会われて、お米と同じ誠実な農家さんで、二重の安心を得られたと思います。

黄倉さんのお父さん、黄倉良二さんは、長く組合長を歴任し、

北海道における有機農業の先駆者・指導者で、そのご人徳はみなの敬慕するところです。

その哲学、その実践は、感動であり、指標でもあるのです。

いかに、黄倉さんのお米が素晴らしいかは、次の特集をお読み下さい。

私達の仲間でもある千野米穀店さんのHPの記事をご覧下さい。

 

「食べものはいのち(生命)」黄倉良二さん 農業の心を語る

 

http://portal.hokuryu.info/topics/agri/20101011-2 (前編)

http://blog.canpan.info/iku/archive/351 (後編)

「人格の根っこ」

12月 15th, 2012

       大平 光代 (弁護士)

                『致知』2013年1月号
                 特集「不易流行」より

└─────────────────────────────────┘

 
 現在、ダウン症のお子さんを育てられている
 大平光代さんは、子育てに『論語』を用いているそうです。

 現在は、『論語』に関する本を出されている大平さんが
 そこに込めている思いとは?

  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 
 これは以前、強盗致傷罪で担当した少年の話です。

 彼は小さい頃、お父さんについてタバコ屋さんに行きました。
 その時、五千円札一枚出したところ、
 おつりとして八千円と小銭が返ってきた。

 「お父さん、おつり多いやんか。
  おばちゃん、間違えてはるで」

 と言うと、お父さんは彼を殴りつけ、

 「余計なことを言うな。黙ってたら分からへん」

 と言い放ったそうです。
 ちなみに、お父さんのこの行為は
 つり銭詐欺で刑法上の罪に問われます。
 
 この経験が少年の人格の根っことなって、
 後に彼は万引きを繰り返し、
 最後はひったくりを行って被害者が怪我を負ったために
 「強盗致傷罪」に問われました。
 
 お父さんは
 「おまえには十分に小遣いを与えていたはずだ」
 と怒りをぶちまけていましたが、
 もともとは「バレなければいいんだ」と、
 自分が五千円をごまかしたことがきっかけなのです。
 
 このお父さんも一流企業にお勤めのエリートサラリーマンでしたから、
 もしかすると『論語』の言葉は知っていたかもしれません。

 『論語』の心とは、
 目に見えないものを感じる心だと思います。

 誰が見ていなくても、お天道様が見ている。

 「そうやなぁ、おつり返しに行かなあかんな」
 と言って返していれば、
 この出来事は少年にとってまったく別の人格の根っことなったと思うのです。