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喫茶去(きっさこ)

月曜日, 8月 18th, 2014

喫茶去(きっさこ) <五灯会元>

禅語の中で最もほっとさせられることばがこの「喫茶去」である。
去の字は喫茶の強調の助辞であり、去るという意味はない。

「お茶を一服如何ですか」とか「どうぞお茶でも召し上がれ」と云う程度の意味に過ぎないが、

「どうぞ、お茶でも召し上がれ」という喫茶去の心を日常に生かせるだろうか。

中国唐時代の有名な禅僧の趙州和尚は話である。
その趙州和尚のもとに修行僧が教えを頂きたいとやって来た。

喫茶去

     (室町期、青唐津の蹲に、槿ムクゲの庭花がさりげなく収まる)

趙州「曽(か)って此間(すかん)に到るや」(お前さんはかって、ここに来たことがおありかな?) 

僧 「曾(か)って到る」(はい、以前にも参りました) 

趙州「喫茶去」(さようか、ならばお茶でも一服おあがりなさい)

またあるとき別の修行僧がやって来た。

趙州「曾(かって)到るや」僧 「曾(かって)到らず」(いいえ、ここに来たことはありません)

趙州「喫茶去」(左様か、ならばお茶でも一服おあがりなさい)

 

これを聞いていたこの寺の院主は「和尚は曾ってここに来た者にも、

はじめての者にお茶をどうぞと同じことをいわれるがどういうわけなんですか?」
とたずねた。趙州は是れに答えず「院主さん!」と呼ぶ。

院主は思わず「はい」と答えたその瞬間、

趙州はまた「喫茶去」(まあ、お茶でも一服召し上がれ)

 

このとき院主は、はっと悟ったという。

このなぜ悟ったかの追体験がこの禅問答の意図である。

それぞれ立場の違う三人に対し、ただ「喫茶去」と云って接したのは

趙州の相対する分別、取捨、過去・現在、

あちら・こちらと分かつ一切の意識を断ち切った、

絶対の境地のあらわれに他ならない。

そこには、凡聖、貴賎、男女、自他等の分別は無く

一切の思量の分別の無い無心の境地からの「喫茶去」なのだ。

この無心の働きからでるところに、

茶道家はこの「喫茶去」の語を茶掛けとして尊んで自ら無心に茶を点て、

貧富貴賎の客を択ばず無心に施す心を養ってきたことだろう。

私たちはおうおうにして、好きな人や、金持ちや身分の高い人が来れば鄭重にもてなし、

嫌いな人や貧しい人にはいい加減な対応をしてしまいがちである。

分別を入れず、誰に対しても計らい無く、真心から接して行きたいものである。