まほろばblog

Archive for 1月 21st, 2014

「グリーンファーザー・杉山龍丸の生涯」

火曜日, 1月 21st, 2014

杉山満丸(九州産業高校教諭)

※『致知』2014年2月号
特集「一意専心」より

20051118-tatsumaru[1]

 

父・龍丸が初めてインドを訪れたのは
昭和37年、43歳の時でした。

数か月にわたりインド国内の現状を
つぶさに見て歩きました。

同年12月、パンジャップ州の
総督と面会した際、

「インドの生活を豊かにするためには
どうしたらいいか」

という質問に対し、龍丸は

「木を植えることです」

と答えます。

当時、インドは食糧不足で、
街には物乞いの人が溢れ、
餓死者も後を絶たない状況だったのです。

原因はインドの砂漠化でした。
インドは古代より森の木を切り倒し
文明を開いてきたため、
土地がやせ、大地の水がなくなり、
地面が乾燥し、不毛の地となってしまっていたのです。

龍丸はパンジャップ州の植林事業の指導を
引き受けることになりました。

周辺の地形を調べると、
首都デリーからアムリッツァル市までの
約470kmの国際道路は
北側のヒマラヤ山脈と並行していることに気づきます。

この道路に沿って木を植えていけば
根が地下に壁のようなものをつくり、
そこにヒマラヤに降った雨を溜めることができ、
大地に水分が蓄えられ、
穀物や野菜を育てることができると考えたのです。

植えるのはユーカリにしました。
根が深く伸び、生命力も強く、何より成長が早い。
さらに成長すればパルプや建築資材として
売れることも魅力でした。

それから間もなくのことです。
龍丸の下にインドで大飢饉が発生した
との連絡が入ります。
この飢饉は3年にもおよび、
実に500万人もの餓死者が出ました。

「この飢饉を救う方法を教えてください」

インドにいるガンジー翁の弟子たちからの懇願に、
龍丸は黙っていられませんでした。

活動資金をつくるため、
父の茂丸、祖父の久作から譲り受けた
4万坪の杉山農園の土地を切り売りすることに、
なんの躊躇もありませんでした。

再びインドへ渡った龍丸は、
何百、何千という餓死者の亡骸と、
生きるために物乞いする子供たちを目の当たりにし、

「この地獄から一刻も早く
人々を救わなければならない」

と、改めて一刻も早く木を植え、
森をつくることを誓ったのでした。

ユーカリの植林事業はデリーからアムリッツァルまでの
470kmの国際道路沿線両側に、
2本ずつ、4m間隔で植えることにしましたが、
当然現地の人たちの協力が必要になります。

最初は突然やってきた日本人の申し出に
訝る人たちも多かったことでしょう。

しかし、龍丸の説得により
地域の農民たちを巻き込んでの
植林事業はスタートしました。

「タツマルは私たちの心と話した」

とは、一緒に木を植えた方からの言葉ですが、
私心のない龍丸の情熱が言葉の壁を超え、
彼らに伝わったのでしょう。

そうして、7年の歳月をかけて
470kmものユーカリの並木が完成し、
その周辺の土地は水分を含んだ土壌に
代わっていきました。

しかし、本当の挑戦はこれからです。

* * *

この後、龍丸が成した2つの奇跡とは。
彼の人生からいま私たちが学ぶべきこととは何か――。

続きはぜひ『致知』2月号P34~P37をご一読ください。