まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「“現場”はコストではなく、バリューである」

水曜日, 2月 1st, 2012

      
       
 遠藤 功 (早稲田大学ビジネススクール教授、
        ローランド・ベルガー会長)

   『致知』2012年2月号
              特集「一途一心」より
       ────────────────────────────

私たちの周りにはたくさんの「現場」がある。
飲食店やコンビニ、スーパーなどの店舗、ホテルや病院など、
日常何気なく接しているところが、
企業の側からすると紛れもなく「現場」なのである。

この現場に内在する現場力こそが企業の実力であり、
現場力が強い企業ほど景気に関係なく成長・発展を遂げている。

ここで私が言っている現場力とは
「私たちは現場で一所懸命真面目に働いています」
というレベルの話ではない。

その定義は、欧米と比較するとより明確になるだろう。
欧米のマネジメントでは、現場は上から指示されたことさえやれば
それ以上は求められないし、下手をすると、
それ以上やるのはよくないこととされる。

日本企業は違う。

天然資源に恵まれない日本がここまで経済成長を遂げたのも、
現場の一人ひとりが自らの担当する仕事を
「もっとよくしよう」と自発的に知恵を出し、
改善・改良をしてきたからである。

それは製造業でもサービス業でもすべて同じであり、
現場の人材の質こそが日本の競争力のベースであった。

ところが最近、様相が変わってきた。
バブル崩壊以後、「失われた二十年」といわれるが、
何を失ったかといえば、現場力を失ったに他ならない。

なぜ現場力が失われたのか。

それは一言でいえば、現場を
「コスト」として考えるようになってしまったのである。

現場を単純にコストと捉えれば、
正社員ではなく非正規社員を増やすほうが安上がりだし、
外に出せる業務はアウトソーシングしたほうがいい。

そういう流れの中に、アメリカ的な管理思想も入り、
コンプライアンスを含め、企業の管理強化がなされた。

「現場が自発的に動いて、企業責任を問われるような
 失敗をされたら困る」

というわけだ。

そうして正社員が減った代わりにパート、アルバイトを雇い、
「マニュアルどおりにやってくれればいい」と考える。
九〇年代以降、こういう企業が増えたのである。

もともと日本は現場をコストセンターではなく
「バリューセンター」と位置づけてきた。

企業の価値を生み出すのは役員や本社ではなく、現場である。
であるならば、少しくらいコストが高くても、
それを上回る価値を生み出せばいいのだ。

その昔、日本は「資本主義」ではなく「人本主義」といわれた。
企業活動の中心には常に人があり、
人の能力を最大限に活かすことが日本経営の大きな特徴であった。

だからこそ懸命に社員教育を行ったし、終身雇用を約束した。
それに応えるように、現場の社員は会社にコミットし、
「自分の会社」として必死に働いたのである。

いつ首を切られるか分からないという状況で、
使命感や責任感をもって会社にコミットする人が生まれるだろうか。

人材はコストではなく、バリューである。
この原点に戻ることが、現場力を高めるための第一歩である。

「笑いは神様がくれた最終兵器」

月曜日, 1月 30th, 2012

 中島 英雄

 (中央群馬脳神経外科病院理事長)
        
 『致知』2008年1月号
  特集「健体康心」より
       ─────────────────────

例えば残虐な事件に出くわしたとします。

すると非常に不快な気持ちになった後、
大きな不安が襲ってくる。
その行き着くところは恐怖です。
恐怖の根源には死、つまり自分自身の滅亡がある。

それをどう解決するかという時に、戦う、
または徹底的に逃げるといった選択肢が出てくる。

そして死に物狂いで戦ったり逃げたりする際に
アドレナリンやドーパミンといった
ストレス対抗ホルモンが猛烈に出るのです。
その対象物が大きくて強いほど多量に出る。

しかしその危険が去った後、このストレス対抗ホルモンが
体内に残ると猛毒と化してしまう。

ストレス対抗ホルモンは
ストレスに対抗している時には必要なのですが、
その状態から回避された時、
体内に残ってもらっていては困るのです。

これを消去するために癒やしのホルモンが出るのですが、
このホルモンは作用が弱く、かなりの量を放出しても、
ストレス対抗ホルモンをつぶしていくのにはとても追い着かない。

だからそういう時に笑うんです、人間は

あるいは大泣きをすることで、
固体だったホルモンが一瞬にして気体となって
バッと昇華してしまう

ある人はこれを
「余剰エネルギーの昇華」
という言い方をしています。

おなかがすいて泣いていた赤ちゃんが、
おっぱいを飲むとニコッと笑う。

別に笑う必要はないんですよ。

満足したならそのまま寝てしまえばいい。
だけど人間は、笑うというある意味で
「無駄」な行為をする。

なぜか? 

母親への「ありがとう」という気持ちを伝えるためです。

そしてその笑顔を見た母親も
「あぁ、この笑顔がまた見たいなぁ」と感じる。
だからまたおなかがすいた時におっぱいをやろうと思う。
親子のやりとりはその繰り返しなんですね。

           * *

先日もテレビでこんな番組を見ました。
ある幼い女の子が小脳欠損症で
歩けない体であるにもかかわらず、
ちゃんと笑っているんです。

親の影響ですよ。

笑顔のお父さん、お母さんにつられてその子も笑うんです。
それを見た両親もその子のためにまた一所懸命になる。

恐ろしい力ですよ、笑顔というのは。
大の大人を二人動かしてしまうんですから。

笑いは神様が人類に与えてくれた
最終兵器ではないでしょうか

「3は数の王様」

日曜日, 1月 29th, 2012

    澤田 則幸

(BRK経営計画コンサルティング事務所代表)

  『致知』2000年3月号「致知随想」
   ※肩書きは『致知』掲載当時のものです

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経営コンサルタントとしてこの20年以上に、
およそ20の業界に関わらせていただいたが、
その現場トップの考え方から私は最近、
3という数字の偉大さを思わずにはいられない。

「『1』は、数字のなかで最も大切である。
  なぜなら1は、すべての始めであり、
  1がなければなにもスタートしない」

これは尊敬する数学者・岡潔博士の言葉である。

私はここ20年来、岡博士の著書などから先生の思想哲学を
ビジネスに応用・実践できないものだろうかと考えてきた一人である。

俳優の津川稚彦さんは、動物の縫いぐるみを商品化した。
これは、岡博士の著書『春宵十話』に詳しい情緒哲学を
応用して開発したと聞いた。

「2」の数字は、なぜか難しい数であるという。
二枚舌、二重人格、二枚腰などどれをとっても、
どこか二クセありそうである。

会社のナンバー2は、組織上、たいへんな役目を担うことが多い。
それは職名でなく、2の数字の因果性に由来しているのではないか。
組織はナンバー2がしっかりしていなければ成長は難しい。

それは家も同様で、一般的に家庭のナンバー2は妻である。
しかし主婦が「主夫」である場合、男性がナンバー2の
役目を担うことになる。

つまり、2の数字は、必ずしも女性を意味しないのだ。
江戸後期の、国語辞書に「女男(めを)」とあるのは、
男女が順位のすべてではない。

つまり、わが国でも、2を女性と決めている訳ではないのである。

「3」は「数の王様」だ。その例を並べてみる。

・原則 例外 特殊(法律)

・目的 目標 手段(計画)

・短期 中期 長期(目標)

・ヒト モノ カネ(手段)

・戦争 中立 平和(政治)

・企画 提案 実践(仕事)

そのどれもがよく分かるのである。

すなわち、2つでもなく、4つでもない。
必ず3つである。

結婚式の三々九度は、この三を3度繰り返す。

3つの概念を並べると「全体」を示して
このように、1つのテーマを3つで表現すると、
過不足がない。

つまり、世界のあらゆることは、
3つの概念で成立しているのではないか。

私たちは、立体すなわち三次元の世界までは認識でき、
四次元の世界を認識できないことと同意なのだろう。

小樽の米沢印刷・米沢正社長からは「経営実学」を
手を取るようにご指導いただいた。

ある日、経営のコツを質問すると米沢社長は
三つの概念でキッチリと答えられた。

1、集金に行くこと。
2、社員の給料を払うこと。
3、仕入代金を期日に払うこと。

の三つ他は無し、と。

そしてこのことに、学歴や新知識が必要か、と付け加えた。
その米沢社長から、手ぬぐい一本から財閥を
つくり上げたという財界人自筆の巻紙「商人の道」の
実物をいただいた。

これは私の事務所に掲げ、いまも勇気の拠り所として大切にしている。
これと同じ巻紙のことを、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊会長は
『商いの道』に書いておられた。
氏も会長室に掲げておられるという。

秋田の第一水産・上村治輔会長は
「商い」を知る優れた経営者である。

ある日、上村会長は水産現場の作業服のままで、
てっきり近くの支店にでもいくものとばかり思っていたが、
着いた所は羽後銀行(現北都銀行)の本店頭取室であった。

上村会長は、鈴木頭取と随分親しそうに30分程話された。

私は、頭取との交渉事はこのような話し方をするものなのかと
思いながら同席していた。
会長は無言であったが「商い教育」のため、
私を同席させたのだった。

帰路、会長は、次のようにやはり「3つ」の概念で語られた。

1、銀行に使われるな。
2、銀行を使える者になれ。
3、商は人・物、そして金、と。

北海道庁の元公営企業管理者の浅井理一郎さんは、
地方財政のエキスパートであった。
しかも、政治力もあり、上司にも部下にも信頼の厚い人で
「浅井学校」と畏敬されていた。

そこには秘密があった。
私が組織の人間関係でどうしようもなく悩んでいたとき、
教えを請うたことがある。

すると、やはり次のごとく「3つ」で答えられた。

1、人の悪口は、絶対にいわないこと。
2、褒めるときは、直接は駄目。陰でのみ褒めること。
3、仲間が、悪口を話し始めたときは、口をつぐむこと。

なぜなら、両方とも本人の耳へ、必ず届くものだから、と。

浅井さんは、簡単なようでいて哲人的なこの手法を、
厳しく実践していたのである。
長い年月ご指導を受けたが、確かに他人の悪口を
一度も浅井さんから聞いたことがない。

私には現代の『論語』ではなかったかと思えるのだ。

私は、その二十年の“研究成果”を、
このほど『経営の現場から「考え方」の研究』という
一冊の本にまとめ、これまでお世話になった方々に
謹呈しているところだ。

 「創造的自己否定」

金曜日, 1月 27th, 2012

    本名 正二 

    (プロントコーポレーション社長)

     『致知』2000年3月号「致知随想」
      ※肩書きは『致知』掲載当時のものです

…………………………………………………………………

人間は成功した理由で失敗する。

極端なことをいうようだが、
このすさまじい変化の時代に経営に携わる私は、
そのことを肌身で感じている。

過去にいくら素晴らしい成功を収めていても、
いまはそれが通用するとは限らない。
むしろその体験が、そのまま失敗の要因ともなり得る。

過去の成功体験を否定し、変革に挑戦する勇気を持たなければ、
あっという間に時代に取り残されてしまうのである。

かつて、テニスラケットでシェア50%を誇る有力メーカーがあった。
ある時期その市場に、当時としては“邪道”のグラスファイバーで
ラケットを製造する新興メーカーが登場した。

しかし有力メーカーはその新しい動向にまったく関心を示さず、
従来の素材に固執し続けた。
結果的にシェアは急落し、いまやその社名の記憶すら定かでない。

昭和62年にプロントコーポレーションの社長に就任する前、
私は、親会社サントリーの業態開発部で新しいスタイルの
飲食店の開発に取り組んでいた。

新しい店を成功させる方法はいくつかあるが、
業種全体が不振の場合の施策として、
お客さまが満足していない要素を集めて
その逆をやるというのがある。

メニュー、価格、内外装、BGM等々、
不振の要因は様々である。

興味深いのは、不振店のオーナーが
それを自覚しつつも改めようとしないことである。

なぜか。
そのスタイルでかつて成功したことがあるからである。
そのスタイルがもう通用しないと認めることは、
それまでの努力の否定につながるからである。

時代の変化を乗り越えて成功を持統させるためには、
絶えず進化・創造し続けなければならない。
そのためには、いい意味での破壊、
すなわち“創造的自己否定”が必要である。

しかし、破壊と創造という相反する行為を
同時に実行していくことは至難の業である。
ここに経営の難しさがある。

私が、プロントという新しい業態の店を手がけたのは、
ちょうどバブルの絶頂期。
地価は高騰し、飲食店経営で利益を出すことは困難を極めた。

そこで、一つの店に昼はベーカリーカフェ、
夜はダイニングバーという二つの顔を持たせ、
昼夜フルに稼働させることで、高い家賃でも
利益を出せる店づくりに挑戦したのである。

それまでにも喫茶店が夜アルコール類を出したり、
スナックが昼にランチを提供するなど、一つの店で
売り上げの二毛作を狙うところはあったが、
どうしても本業の片手間という印象を免れず、
確固たる利益に結びつかなかった。

これに対してプロントは、昼夜のメリハリを明確にし、
それぞれに本物を追求したところに新しさがあった。
それがお客さまの支持を集め、おかげさまで
バブルの絶頂から崩壊への激動期にも、
継続して業績を拡大することができたのである。

しかし、この成功に安住してはおれない。
私には危機感がある。
店舗の増加でプロント全体の売り上げは
前年比108%と上向いてはいるが、
これは決して成功の尺度にはならない。

むしろこれまでに出店した一店一店が
各地域でどれだけお客さまに愛されているか、
それを示す既存店の売上前年比こそ重視しなければならない。
その尺度ではあいにく98~99%。

外食業界全体から見ると良い数字だが、
1、2%のお客さまからは見放されている事実を
認識する必要がある。

創造的自己否定の必要性を感じる部分に、
店舗デザインがある。
プロントのデザインはグリーンが基調色となっている。

創業当初は、これが強烈なインパクトを生み
業績に寄与してきた。

ところが、時代の変化と共に街並みも変わり、
当初のようなインパクトはもう期待できなくなってきたのである。

この状況下でこれまでの成功体験に固執し、

「わが店のグリーンは素晴らしいでしょう」

と、同じ色調を押し通していったらどうだろうか。
おそらく、いずれお客さまからそっぽを
向かれるときが来るに違いない。

このため当社では、すでに新しいスタイルの実験店を通じて、
今後の方向を見定めつつある。
変化に対応する新発想を生み出す上で
大切なことの一つは、「体験」である。

頭のなかだけで考えたアイデアは、
これからは通用しなくなってくると思う。

どれだけ感性が磨かれるような体験をしたか、
どれだけ本物に触れる体験をしてきたか。
その蓄積がものをいうと思う。

もう一つには「遊び心」である。
ことにサービス業に関していえば、
頭がコチコチの真面目人間よりも、
心のハンドルに遊びのある人間のほうが
いい仕事ができると思う。

遊び心ある人間の発言は、
他とひと味違ってユニークである。
その言葉はたいてい耳に痛いものだが、
会社はそれを受け止めるだけの度量がなければ伸びない。

会社を変えるのは、人と違った発想のできる
ユニークな人間なのである。
短期間に急成長を遂げてきた当社だが、
五年前、その勢いが初めて鈍化した。

ハードの面でいくら検討してもその要因が見えてこない。
行き着いたのは、見えない部分。
すなわち、心や人間力であった。

店の急激な伸びに見合った成長を、そこで働く社員が
十分に遂げていなかったことを痛感した。
そのときから私は、社員の心の教育、
人間力の教育に取り組み始めたのである。
これは当社にとって、ひとつの創造的自己否定といえるかも
知れない。

いま痛感するのは、もはや机上の戦略戦術だけで通用する
時代ではないということである。
もてなしや満足感といった目に見えない部分、
心や人間力の充実がますます重要になってくると確信している。

その確信のもと、社員の心の教育、
人間的な教育に一層力を注ぎ、
これからも末永く皆さまに愛される
お店づくりを目指してゆきたい。

 「“好感度”を発揮していない人はダメです」

金曜日, 1月 27th, 2012

 橋本 保雄 

  (日本ホスピタリティ推進協会理事長)
        
        『致知』2003年8月号
          特集「プロの条件」より

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尊敬する人を持たない人は成長しないし、
プロにはなれませんね。

それと、やはりプロとして大切なのは愛情だと思うんですね。
人間は天から愛情や心の感動という素晴らしい機能を
与えられているけれども、そのことに気づかないと、
勝手流になってしまって、教育にしても仕事にしても
失敗してしまうと思いますね。

        * *

本当にその道に長けている人には、必ず素晴らしい仲間がいます。
そういう人は、人望だとか品格だとか言う前に、
まずいい顔をしていますね。

非常に平凡な言い方だけど、やっぱりいい顔をして
好感度を発揮している人は、みんなに助けられます。

もちろんいい顔というのは、外面的な格好のよさではなく、
その人の内面がにじみ出ているような顔ですね。

好感度を発揮していない人はダメです。

だから、自分の可処分時間の中で一日わずか十秒でいい。
自分の顔を鏡に映して、きょうはどういう顔をしようかと
訓練したらいいんです。

それを毎日積み重ねている人は、やっぱりいい顔をしています。
たった十秒の時間を自分に割けないような人に、
いい顔はできないし、そういう人には
やっぱりブレーンもできないですね。

 「ナンバー1とナンバー2の違い」

火曜日, 1月 24th, 2012

       
 古森 重隆 (富士フイルム社長・CEO)
        
  『致知』2012年2月号
   特集「一途一心」より
     

──────────────────

(写真フィルムの事業から)
相当思い切った構造改革をやろうというんですから、
反対もたくさん出てくるし、
また新規分野もどこに投資するかで意見も割れます。

そこで会社の経営資源を全部洗い出し、市場を徹底分析して、
ここぞという分野を定めて投資したんです。

例えば液晶用の材料、インクジェット、化粧品、
医療機器、医薬品といった分野です。

自前でやっていては機を逸するので、
積極的にM&Aを働きかけ、
インクジェットプリンターのヘッドで
世界一の会社を買収しました。

医療のITシステムの会社や製薬会社など、
合わせて三十社近くを買い、
この十年間で六千億円くらい投資しました。

       * *

何が当たるのか、読みに読んで決める。決めたらやる。
経営者として、百の判断をしたら百間違えないつもりで
私はやっています。絶対間違えないぞと。

そのためにはいろいろ情報も必要ですが、
それが全部揃うまで待っていては機を逸してしまう。
不完全な情報から本質を見極めなければならないから確かに難しい。

私も一つ、二つは間違えました。
会社の存続に関わるような問題ではありませんでしたが、
その程度で済んだのは、やはり百決めたら百間違えないという
気魄(きはく)と精魂を込めてやっているからです。

そうやって毎日仕事をしていると、
もう本当にヘトヘトになりますよ。
社長になんかなるもんじゃないなというのが実感ですね(笑)。

しかし社長になったからには
そういう姿勢で臨まなければなりません。
間違えるのが人間だと言っているようでは経営は務まらない。
昔の侍なら間違えたら腹を切らなきゃいけないわけで、
それくらい決死の覚悟でやらなければならないと思います。

だから組織のナンバー1とナンバー2の一番の違いは
責任の重さです。

ナンバー2も相応の責任は負っていますが、
まだ竹刀の勝負だと思います。
間違えてもまだ自分の後には
社長がいるという思いがどこかにある。

しかしナンバー1が間違えたら会社が傾いてしまう。
その差はとてつもなく大きいですよ。

だからナンバー1である経営者は、
いつもヒリヒリするような緊張感、恐怖感の中で
真剣勝負をしているわけです。

気魄(きはく)も違いますよね。
使命感も責任感も違う。
まぁそうならざるを得ないわけですが。

やっぱりナンバー1とナンバー2以下の
意識の差は拭いきれません。

「人生のダブルヘッダー」

月曜日, 1月 23rd, 2012

  郡司 ななえ (鍼灸士)

 『致知』1998年7月号「致知随想」
 ※肩書きは『致知』掲載当時のものです

…………………………………………………

私の目が見えなくなったのは二十七歳のときだった。
激しい痛みをともなって、徐々に視界がぼやけていった。
視力の低下が著しく入院を余儀なくされたときには、
とうとう「べーチェットさん」にかなわなくなったのかと思って、
悔しくて悔しくて仕方がなかった。

厚生省指定の難病の一つであるべーチェット病だと診断されたのは、
高校三年生のときだった。
体育の時間にクラス全員で列を組んで
マラソンをしていたときのことである。

突然、足に劇痛が走った。
こらえきれずに転倒した。

足の腫れがひかずに病院でいろいろな検査を受けていくうちに、
ベーチェット病だと診断された。

病名がわかっても、どんな障害が出てくるかということは、
その時点ではまだわかっていなかった。

体に宿ってしまった病と仲良くしようと、
私は「ベーチェットさん」と名づけて、
なだめすかして十年あまりを平和に過ごしてきた。

新潟から東京に出てきて、建築会社でOLをしていた。
この平凡な生活が、ずっと続くのではないかと思っていた。

いや、そう願い続けることで、病気を克服できると信じていたかった。
ところが、「ベーチェットさん」はそんなに優しくなかった。
目の痛み、全身を襲う倦怠感、増していく内服薬、
注射、度重なる手術……。

難題を押しつけるだけ押しつけておいて、
一向によくなる気配は見えない。
それどころか、ますます窮地に追い詰めていく
あまりの意地の悪さに、ほとほと疲れ果ててしまった。

十か月あまりの入院の末に、退院することになった。
回復したからではない。
濃い乳白色の世界は、もう微動だにしなかった。

心配して、上京してきた母の腕につかまって、
週に一度だけ薬をもらいに病院へ通った。

外界との接触はそれだけだった。
テレビやラジオの音を耳にするのも煩わしくて仕方がなかった。

私にとって見える世界が失われたことは、
世界が失われたことに等しかった。
ただただ、ベッドの上に縮こまって、何も考えたくなかった。

一年六か月の間、私の巣ごもりは続いた。
その間、母が私を守る防波堤になってくれた。
「がんばりなさい」とか「そろそろ再起をはかったら」
などといったことは一言も言わなかった。

「いった豆でない限り、かならず芽が出るときがくるんだから」。

母が繰り返し言ったのはその一言だけだった。

そんな生きているのか、死んでいるのかわからないような
私の魂を呼び戻すきっかけとなったのは、
大宅壮一さんがお書きになった『婦人公論』の一文だった。

「野球の試合にダブルヘッダーがあるように、
 人生にもダブルヘッダーはある。
 最初の試合で負けたからといって、悲観することはない。

 一回戦に素晴らしい試合をすることができたのならば、
 その試合が素晴らしかった分だけ、
 惨敗して悔しい思いをしたならば、
 悔しかった分だけ二回戦にかければいい。

 その二回戦は、それまでにどれだけウォーミングアップを
 してきたかによって勝敗が決まってくる」
 
 
私の二回戦はこれから始まるのだと思った。
一回戦とは違って、目の見えない私で戦わなければいけない。

だが、一年半というもの、二回戦を戦う準備をさせてもらった。
もうウォーミングアップは十分だと思った。
いてもたってもいられない気持ちで
東京都の福祉局に電話をかけ、戸山町にある
心身障害者福祉センターを紹介してもらった。

目が見えなくなって、何から始めたらいいのかわからない
私にとって、まず最初に必要なのは
一人で歩けるようになることと、
点字を読めるようになることだった。

やっと外界と接触する心の準備のできた私を後押しするように、
電話で相談にのってくださった先生がおっしゃった。

「あなたは運のいい人ですね。
 ちょうど視覚障害者向けのカリキュラムにあきが
 出たところなのですよ。
 
 明日いらしてください。
 明日来られなければ、他の人に順番をまわしてしまいますからね」
 

舞い込んできた幸先のよさに喜び勇んで、
新しい人生を出発することになった。

そんな私の二回戦の試合模様が、
先に『ベルナのしっぽ』という一冊の本にまとまった。

結婚して、子供を産み、盲導犬とともに暮らす
奮闘ぶりが描かれている。
大竹しのぶさん主演のドラマとして、
フジテレビでも取り上げていただいた。

こうして、あの空白の一年半から立ち直ってみて思うのは、
生きる勇気を失わない限り、私たちは
たいていの困難を乗り越えていくことができるということである。
不幸のどん底にいるときには、どこまでも奈落の底に
落ちていくのではないかと思えてくる。

だが、それをこらえてじっと痛みを耐えていれば、
かならず明るい光は見えてくる。

その一つひとつの困難を乗り越えていくことが
生きるということなのではないかと思う。

そして、一試合目がうまくいかなくても、
人生にはときに二試合目が巡ってくる。
そのためのウォーミングアップを続けていくことこそが、
次の一歩を踏み出すためにもっとも大切なことなのだと思う。

「人の三倍働くには?」

土曜日, 1月 21st, 2012

      
       
  西堀 榮三郎 (理学博士)
        
    『致知』1981年9月号
      連載「わが人生の師」より

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私は“十年一節(ひとふし)説”という考え方を持っている。
人間の一生で、脂が乗って仕事のできる期間を三十年とすると、
まず十年間でその道の一流というか第一人者にならねばいけない。

十年経ったら次のフィールド(分野)に移る。

自分の一生で、三十年かけて一流になる人はけっこういる。
それを十年間で仕上げるわけだ。

そのためには、人の三倍は努力しなくてはならない。
しかし、一つ成しとげていると、
そこで身につけたものは次の十年間でも大いに役立つ。
いっそう能率を上げることができる。

人の三倍も時間を有効に使う、
自分の持てるエネルギーを人の三倍に活用するには、
どう心掛ければよいか。

それは、物事をイヤイヤしないことである。

楽しい、楽しいと思ってやれば、
三倍やっても精神的には疲れない。

肉体的に疲れないようにするためには、
自分をリズムに乗せればいいのであって、
ダンスでもするつもりでやることである。

これが、人の三倍やるコツである。

特に気をつかわねばならないことは、
取りこし苦労をしないこと
なかでも疑心暗鬼は一番ソンなことだ。
いちじるしく能率を下げる。

これをやめるならば、まず心身ともに三倍の力が出てくる。

 「人には三種類の師がある」

木曜日, 1月 19th, 2012

       
   西堀 榮三郎 (理学博士)
        
     『致知』1981年9月号
     連載「わが人生の師」より

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先生とか師というものは如何様にも解釈することができるので、
たくさんの先生や師といわれる人たちを持ってきた。

それは時代、時代によってみな違う。
けれども、私は特定の先生とか師というものは、
むしろ、それほど重要に思っていない。

師には、解釈によっていろいろな種類があるが、
私は三通りに分けている。

・自分に知識をさずけてくださる人

次に

・人生の指針を与えてくれる人

三番目に

・自分の考えていることを
 実行するのにおいて援助してくれる人

の三通りが師と呼ばれうる人々である。

“知識を与えてくれる師”には、学校の先生がいるが、
私は自分で勉強して知識を獲得するということに重点をおいている。
文献を読むことで知識は得られる。
しかし、もっと大切な対象は、現実の現象そのものである。

いいかえれば、自分の探求心によって求めさえずれば、
だれからも、あらゆる現象のどんな事柄からも
知識は得られる。

従って、自分に知識を与えてくれる師は、
森羅万象すべてである。

第二番目の“自分に人生の指針を与えてくれる”師には、
身近な人々たちや過去のいろいろな先人の経験談がある。
自分が悩んでいるようなときに心の琴線にふれる、

そんなときに強く師を感じる。
これまた、いたるところに師あり、といってよい。

第三番目の“自分のやろうということに援助してくれる人々”は、
もしその人を師と呼びうるならば、非常に大切な師である。

特に、自分がだれもやっていないような新しい事柄、
考えを持っているときには、いっそう得難い。

「鳴かぬならそれもまたよしほととぎす」

水曜日, 1月 18th, 2012

      
        
    『致知』2001年5月号
   特集「流れをつくる」より

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「鳴かぬなら」の第一句に、天下取りを果たした
戦国時代の三人の武将が三様の第二句をつけた
有名な「ほととぎす」の句がある。

信長は「殺してしまえ」といった。
秀吉は「鳴かせてみよう」といった。
家康は「鳴くまで待とう」といった。

もちろん史実ではない。
だが、三者三様の個性、やり方、歴史的役割などを
あますところなく表現して見事である。

以前、ある人が八百人ほどの経営者にこの
「ほととぎす」の句を示し、
「あなたはどのタイプか」と質問した。

ほとんどの経営者がそれぞれ信長、秀吉、家康になぞらえて、
「自分は何々型である」と回答した。
その中でたった二人だけ、自分はどのタイプでもない、
と答えた経営者がいた。

「では、あなたならどう詠むか」

とさらに質問すると、一人はこう答えた。

「鳴かぬならそれもまたよしほととぎす」

もう一人はこう答えた。

「私は俳人ではないのでうまく詠むことはできないが、
 その三つのタイプには入らない」

前者が松下幸之助氏であり、後者が本田宗一郎氏である。

人間は選択肢を与えられると、
その枠の中に閉じこもってものごとを考えてしまいがちである。
与えられた枠、既成概念を踏み越えて
発想を飛翔させることが難しい。

松下氏も本田氏もそれができたからこそ、
新しい流れをつくり得たのだろう。

さて、時代はいま、いよいよ混迷の度を加え、閉塞感が色濃い。
これを突き抜け、新しい流れをつくるには何が必要か。

歴史の中に、企業経営の中に、
新しい流れをつくってきた人たちがいる。
そこから流れをつくり出す条件を探り、学ばなければならない。

流れをつくる。
そのためにわれわれ日本人がどのような発想に立ち、
何をなすかを見定めるのは、焦眉の急なのである。