まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「お母さん、ぼくは家に帰ってきたんか」

木曜日, 3月 1st, 2012

          
 上月 照宗 (曹洞宗大本山永平寺監院)
        
        『一流たちの金言2』
                        

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親と子といえば、私には
どうしても忘れられない逸話があるんです。

土井敏春という中尉の話です。

昭和16年の安慶の攻略線の際、土井中尉は
部下5人を連れて将校斥候に出たのですが、
敵の地雷に引っ掛かってしまった。

    (中略)

一瞬にして5人の部下が
即死してしまったのだから惨いことです。

助かったのは土井中尉一人。
しかし、彼自身も両足と片腕を吹き飛ばされ、
爆風で脳、眼、耳が完全にやられてしまった。

あまりの苦しさに舌を噛み切って自害するといわれますが、
土井中尉は上下の歯もガタガタになってしまった。
死ぬに死ねません。これほど悲惨なことはありません。

どこにいて、何をしているのかもわからない。
声だけは出るものですから、病院に担ぎこまれても、
ただ怒鳴り散らすばかりです。

まだ昭和16年のころでしたし、将校ですから、
病院や看護婦は至れり尽くせりの看護をしたのですが、
本人にしてみれば地獄です。

目は見えない、耳は聞こえない、自分で歩くことも、
物に触れることもできない。

食事も食べさせてもらうのはいいが、
しょっちゅう漏らして看護婦の世話になる。
ただ、怒鳴るだけしかできず、介護に反発しますから、
ついには病院中のだれにも嫌われてしまった。

それで内地送還になり、
最後は箱根の療養所に落ち着くのです。
その連絡がお母さんのところに届きます。

すでに、夫を亡くしていたお母さんは
その当時はみんなそうでしたが、
息子のために毎日毎日、陰膳を供えて
彼の無事な帰還を祈っていました。

ですから、息子が帰ってきたという知らせに
母は娘と夫の弟さんを連れて、取るものも取りあえず、
箱根に駆けつけたんですね。

療養所では面会謝絶です。院長にお願いしても、

「せっかく来られたのですが、
 息子さんにはとてもあなた方のことはわからないでしょう。
 今日はお帰りください」

と聞き入れてもらえない。

しかし、母にとっては待ちに待った息子の帰還です。
何とか一目でいいから会わせてほしいと懇願し、
やっとの思いで院長の許可を取ることができました。

病院に案内されると廊下の向こうから
「わぁー」という訳のわからない怒鳴り声が聞こえます。
どうもその声は、自分の息子らしい。
毎日陰膳を供えて息子の無事を祈っていた
自分の息子の声であったのです。

たまらなくなって、その怒鳴り声をたどって
足早に病室に飛び込みます。

するとそのベッドの上に置かれているのは、
手足を取られ、包帯の中から口だけがのぞいている“物体”。
息子の影すらありません。声だけが息子です。

「あぁー」と母は息子に飛び付いて、
「敏春!」「敏春!」と叫ぶのですが、
耳も目も聞こえない息子には通じません。

それどころか、「うるさい! 何するんだ!」といって、
残された片腕で母を払いのけようともがくのです。

何度呼んでも、体を揺すっても暴れるだけです。
妹さんが「兄さん!兄さん!」と抱きついても、
叔父さんがやっても全然、受け答えません。
三人はおいおい泣き、看護婦も、
たまらずもらい泣きしました。

何もわからない土井中尉はただわめき、
怒鳴っているばかりです。

こんな悲惨な光景はありますまい。
しばらくして、面会の時間を過ぎたことだし、

「またいいことがあるでしょう。今日はもう帰りましょう」

と院長が病室を出ると、妹さんと叔父さんも泣きながら、
それについて帰ります。

しかし、お母さんは動こうとしない。
どうするのか、見ていると、
彼女はそばにあった椅子を指して
看護婦にこういうのです。

「すみません。
 この椅子を吊ってくださいませんか」

そして、それをベッドに近寄せると
お母さんはその上に乗るや、もろ肌脱いでお乳を出し、
それをガバッと土井中尉の顔の
包帯の裂け目から出ているその口へ、
「敏春!」といって押しあてたのです。

その瞬間どうでしょう。

それまで、訳のわからないことを怒鳴っていた土井中尉は、
突然、ワーッと大声で泣き出してしまった。
そして、その残された右腕の人差し指で
しきりに母親の顔を撫で回して

「お母さん! お母さんだなあ、
 お母さん、ぼくは家に帰ってきたんか。
 家に帰ってきたんか」

と、むしゃぶりついて離さない。
母はもう口から出る言葉もありません。

時間です、母は土井中尉の腕をしっかり握って、
また来るよ、また来るよといって、帰っていきました。

すると、どうでしょう。
母と別れた土井中尉はそれからぴたりと怒鳴ることを
やめてしまいました。

その翌朝、看護婦がそばにいることがわかっていて、
彼は静かにいいました。

「ぼくは勝手なことばかりいって、申し訳なかった。
 これからは歌を作りたい。
 すまないが、それを書きとどめていただけますか」

その最初の歌が、

 見えざれば、母上の顔なでてみぬ
 頬やわらかに 笑みていませる

目が見えないので、お母さんの顔、
この二本の指でさすってみた、
そしたらお母さんの顔がやわらかで、
笑って見えるようであった。

土井中尉の心の眼、心眼には
母親の顔は豊かな、慈母観世音菩薩さまのように
映ったのに違いありません。

  (中略)

この話はその現場に立ち会っていた
相沢京子さんという看護婦から聞いたものなのですが、
その相沢さん自身も母親の姿を目の当たりにして、
患者の心になり切る看護というものに目覚めたということです。

道元禅師の言葉にこうあります。

「この法は、人々の分上に豊かにそなわれりといえども、
 未だ修せざるには現れず、証せざるには得ることなし」

「法」とは「仏性」のことです。
ですから、すべての生きとし生けるものには
みな仏性があると、根本信条を諭されます。

しかし、道元禅師は、それも修行して
磨きをかけないと本当の光が出てこない。

本当に磨きをかけることによって、
真実の父親、母親になれ、
その真実の人がそのものになり切ってこそ
偉大な力を発揮するということになるのです。

「人間に屑はない」

水曜日, 2月 29th, 2012

      
 東井 義雄 (教育者)

   『致知』1990年8月号
    特集「花は香り、人は人柄」より

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「人間に屑はない」を願い続けて教員生活五十五年、
そのうち十二年余りを小学校、中学校の校長を
務めさせていただきました。
私は大変幸せ者だったと思っております。

現役時代はよく、
「あなたの学校は素晴らしいですね」といわれました。
何のことかと尋ねると、例えば

「いつ電話しても心温まる受け答えをしてくださる。
 学校全体の温かい和やかな明るい雰囲気が
 伝わってくる感じなのです」

といってくださる。

私は特別、電話の応対について職員の皆さんに注意したり、
お願いしたこともありませんでしたが、
そうした職員一人ひとりのおかげで、
立派に務めさせていただくことができたわけで、
こんな幸せなことはないと思います。

五十五年にわたった教員生活の中で、
ずうっと願い続けてきたことは、

「人間に屑はない」

ということです。

どんなに名を知られていないような草花でも
花を咲かせるように、どんな子供たちにも、
一人ひとりが咲かせなければならない花があります。

ところが、今は何か子供の学習の点数というものに、
親も学校の先生も頭を縛られてしまって、
点数の低い子供はつまらない子供だと
考えてしまう傾向が強くなりました。

しかし、能力には高い、低いがありましても、
点数は低くても、その子供しか持っていない
光というものがあるのです。

ですから私はいつも、

「どの子も子供は星。
 みんなそれぞれが、それぞれの光をいただいて
 まばたきしている。
 僕の光を見てくださいとまばたきしてる。
 
 私の光も見てくださいとまばたきしている。
 光を見てやろう、
 まばたきに応えてやろう。
 
 光を見てもらえないと、子供の星は光を消す。
 まばたきをやめる。
 光を見てやろう。
 
 そして、
 
 やんちゃな子供からは、やんちゃな子供の光、

 おとなしい子供からはおとなしい子供の光、

 気の早い子供からは気の早い子供の光、

 ゆっくり屋さんからはゆっくり屋さんの光、

 男の子からは男の子の光、

 女の子からは女の子の光、

 天いっぱいに子供の星を輝かせよう」
 
 
そんなふうに言い続けてきたのです。

一流たちの金言

月曜日, 2月 27th, 2012

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 福島 孝徳氏 (デューク大学教授)の言葉
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 結局のところ、どんな職業でも成功するのに一番必要なのは、
 努力なんですよ。一に努力、二に努力、三に努力、すべて努力で、
 努力がもう九十%じゃないでしょうか。

 五回やって覚えられないなら十回、十回でダメなら
 二十回やりなさいというぐらい、努力が一番大事ですね。

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 私が考える名医・良医の条件は、
 一に技術、二に知識、三に判断力なんです。
 まず技術がなければダメで、その技術を
 上手く采配する知識もなければダメ。
 またその判断が正しいということ。

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 人は私のことを「神の手を持つ男」なんて言いますが、
 本当は神様に助けられて生きている男なんです。
 「神のように病気を治す男」ではなく、
 神様に祈りながら必死で病気と闘っている男なんですね。

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 物事にはこれで極めたと思っても、必ずその上がある。
 進歩は現状を否定するところから始まります。
 人生にもideal(最高)という状態はありません。

 だからこそ我われは常に改革、常に挑戦の気概を持ち、
 無限の前進にかけていかなければならないんじゃないですか。

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      ●佐野 公俊氏 (総合新川橋病院副院長)の言葉
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 世の中は常に少しずつ進歩していますから、
 その中でいかに最先端を走っていても、
 ある時点で止まると、ふと気づいた時には
 ずっと後ろになってしまっている。

 だから現状維持は言うまでもなく後退で、
 たとえ前進していても、世の中の流れと同じスピードでは停滞。
 世の中の流れよりも自分がさらに進んでいって、
 初めて前進と言えるのだと思います。

………………………………………………………………………………………………

 藤田の元総長である藤田啓介先生は
 「努力をする者にのみ神の啓示がある」とおっしゃいました。
 人は自分の生まれてきた使命を知るために、
 神の啓示を受ける。

 自分が信念を持って努力し続ける時、
 独創的な閃きが生まれるのかもしれません。

………………………………………………………………………………………………

 僕はきっと、神様が常に味方をしてくれるようなことを
 きちっとやっていれば、そんなふう(運が悪いよう)には
 ならないんじゃないかなと思うんですね。

 そういう意味では、病気には全身全霊で対処して、
 誠心誠意を持って患者さんに手を尽くす。
 弛まぬ前進を続ける。
 それが神様が見放さないでいてくれる
 最大のポイントじゃないでしょうか。

「興亜観音から平和の祈りを」

日曜日, 2月 26th, 2012

 伊丹 妙浄 (礼拝山興亜観音住職)

  『致知』2012年3月号「致知随想」
    ※肩書きは『致知』掲載当時のものです
              …………………………………………………………

 ここ熱海にある「興亜観音(こうあかんのん)」は昭和十五年、
 支那事変での日中両軍の戦没者を等しく供養するため、
 陸軍大将・松井石根閣下のご発願により建立されました。

 観音像は激戦地だった大場鎮・南京地域の
 戦場の土を取り寄せ、陶工師と彫塑家の協力を得て
 制作されたものです。
 
 七十年余の風雨に耐えてこられた
 観音様の慈しみの眼差しは、
 遙か中国へと向けられているそうです。

 松井閣下は当初、建立するだけで、
 慰霊する僧侶を置くつもりはなかったようですが、
 参詣なさるごとに、実際には存在しないものが
 目に映って仕方がないと言われるのです。


 
 手のない者、脚のない者……、
 あぁ、これは建立するだけでなく、
 慰霊する僧侶が必要だ――。
 
 そうお感じになり、新潟の本成寺で
 執事をしていた私の父が命を受け、
 英霊位の慰霊僧侶として参った次第でした。

 閣下は昭和二十一年に巣鴨へ出頭される際、
 私どものあばら家までわざわざおいでになり、

 「水もない、電気もない不自由な生活だが、
  どうかこの英霊位の供養を頼む」

  
 と私の両親に懇願なされたようです。
 
 そのお言葉が父母の心に深く染み入り、
 生涯、興亜観音を守るという決意を通してまいりました。

 昭和二十四年には広田弘毅氏のご子息や
 東条英機氏のご夫人らが訪れ
 
 
 「知り合いの遺骨ですが、時期のくるまで
  誰にも知られぬよう秘蔵してもらいたい」
  
  
 と申し出られたそうです。
 
 私の父は、A級戦犯として処刑された
 英霊七方のご遺骨と直感し、快諾したものの、
 さてそれからが誠に大変であったようです。

 我が子にも気づかれぬよう、
 深夜にこっそり起き出して
 題目塔の後ろに穴を掘って、埋め隠す。
 雑草を茂らせ、誰にも察知されないようにする。
 
 ところが種々の流言を耳にすれば、
 やはり不安が過ってしまう。
 
 そこである時は観音像の裏、ある時は本堂裏に
 埋蔵場所を変えるなど、大変苦労したようでした。

 昭和二十六年のサンフランシスコ講和条約調印以後、
 米軍の監視は緩められ、七方のご遺骨のあることも
 次第に世間に知られてくるようになりました。
 
 そのご遺骨を弔う人も多くなり、
 昭和三十四年、ようやく「七士の碑」が建立され、
 ご遺骨を納めることができました。

 しかしこの間、両親の嘗めてきた苦労は
 ひと通りではありません。
 
 戦後のことゆえ寺務だけでは生活が成り立たず、
 父は遺族名簿を頼りに頼まれもしない家を
 一軒一軒回ってお経をあげさせていただくなどしていました。
 
 朝日が昇るとともに家を出て、帰宅するのは夜も更けてから。
 私も奨学金を二か所からいただきながら高校へ通いましたが、
 父が常々申していたのは
 
 
 「兵隊さんの苦労を偲べば何の苦労もない」
 
 「英霊七方のご丹精があったればこそ今日の日本がある」
 

 という言葉でした。
 ところが昭和四十六年、その七士の碑が
 赤軍派によって爆破されるという
 ショッキングな事件が起こります。
 
 十二月十二日の午後十時頃、
 これまで聞いたことのない爆音がし、
 父が見に行きますと七士の石碑が割れており、
 腰が抜けるほどに驚いたといいます。
 
 すぐ警察へ届け出たところ七士の碑から
 興亜観音まですべてにわたって
 爆薬が仕掛けられていたそうです。

 七士の碑の左隣には、金色でお題目が刻まれた
 大東亜戦争殉国刑死千六十八柱霊位の碑があります。
 
 そのお題目の一部が少し焦げたものの、
 途中で電気関係がショートし、
 七士の碑以外のところは難を逃れました。

 警察の話によりますと
 
 
 「ああいう連中はよほど綿密な計画を練ったはずで、
  全部爆破されなかったのが不思議なくらいだ」
  
  
 ということでした。霊感の鋭い方は、
 英霊七方が霊魂となられたその時までも、
 必死になって導火線の火を食い止められたのだと言われます。

 他にも不思議なことは尽きません。
 私は高校卒業後、すぐ勤めに出ましたが、
 退職してまもない平成十二年、
 急性骨髄性白血病M3に罹り、
 九か月間に及ぶ入院生活を余儀なくされました。
 
 やがて寝ることも起きることもできなくなり、
 回診のたびにただ苦しい苦しいと訴えるだけ。
 
 介護をしてくれた寺の執事は主治医から
 
 
 「もってあと一週間の命です」
 
 
 との宣告も受けたようです。
 
 しかしながら、現代医療の偉大な力、
 お医者様のなんとか命を救ってやりたいというお心、
 周囲の方々の献身的な介護、
 そして何よりも目に見えない何ものかからの
 
 
 「おまえのような者でも、
  まだ果たさなければならぬことがある」
 
 
 というお計らいがあったのか、
 五十九歳になる今日まで生かさせていただいております。

 こんな因縁深いお話もございます。
 
 七方二年目のご祥月ご命日である
 昭和二十五年十二月二十三日、
 東京裁判の七士処刑の責任者ヘンリー・ウォーカー中将は、
 自らが運転していたジープの操縦を誤り、事故死してしまいます。
 
 その日が英霊七方死刑執行の同日同時刻であったことから、
 さすがに因縁めいたものをお感じになり、
 中将の副官が興亜観音へ訪ねてこられました。
 
 話を聞いた父は「怨親平等」という心のもと、
 露仏像の脇に菩提の碑を建てました。

「世の人に残さばやと思う 自他平等の誠の心」。

 刑死の直前、松井閣下がお残しになった辞世の句ですが、
 私はここに閣下の生涯を貫いたご心願が
 表れているように思うのです。

 私は興亜観音を平和を祈る原点と考えていますが、
 参詣なさる方の数は年々少なくなり、
 戦争という言葉自体が風化されつつあります。
 
 しかしながら現在、私たちの幸せあるはご先祖様のお陰、
 戦没者の方々の尊い犠牲の上に成り立つことを噛み締め、
 毎日毎日がご祥月ご命日と心得て、
 観音の法灯を絶やさぬよう
 身体の続く限り努めてまいりたいと存じております。

 「日本人よ、かつての勤勉性を取り戻せ」

水曜日, 2月 22nd, 2012

      
 福島 孝徳 (デューク大学教授)

    『致知』2012年3月号
      特集「常に前進」より
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私が考える名医・良医の条件は、
一に技術、二に知識、三に判断力なんです。

まず技術がなければダメで、
その技術を上手く采配する知識もなければダメ。
またその判断が正しいということ。

そして、いくら凄いお医者さんでも、
ハートが悪かったら付き合えない。
私は患者さんと接する上では、常に愛情を持って、
親切、誠実、丁寧をモットーにやってきました。

    * *

アメリカ人は絶対に自分の携帯電話は教えません。
病院を出たら完全にプライベートで、患者さんにはタッチしない。
でも私も患者さんに渡す名刺には、
24時間繋がる携帯番号が書いてある。

24時間患者さんのことを考える。
そこが欧米人と違うところかな。

ただこれは私がいまアメリカにいて
非常に怒っていることなんですが、
最近の日本人は休み過ぎなんですよ。

私は朝から晩まで仕事で、
1週間に8日働く男といわれていますが、
土日祝日絶対に休まない。

夏休み、クリスマス休暇は一切取らない。
ハロウィーンもサンクスギビングも絶対に休まない。

休むというのは罪悪なんです。
自分たちの大切な人生の時間を
どれだけ無駄にしてるんだと。

私は全生涯を患者さんと脳外科のために尽くすと
決めた男なので、1日、1秒たりとも無駄にはできない。

かつての日本人は欧米で勤勉な人種と勇名を馳せたのに、
その欧米人から日本人は働き過ぎだといわれて
土日を完全休暇にしてしまった。

私の考えから言えば、あり得ないことですよ。
ヨーロッパ人は休むため、遊ぶために働いているから
そもそもの考えが違うんです。

私が三井記念病院にいた時も、
24時間患者さんのために働きなさいと
皆に言ってきましたから。

1年365日あるうち土日を休んだら104日休みで、
その上、日本は国民の祝日が世界一多い。

ざっと数えてみたら15日もある。
土日と合わせれば年間約120日休みで、
1年のうち3分の1は遊んでいるんです。

アメリカにはナショナルホリデーは6日しかない。
つくりもつくったりだ。
かつての勤勉な日本人は一体どこへ行ったんだと言いたい。

大体、過労死なんてものはあり得ないんですよ。
私よりも働いて倒れたのなら過労死は認めます。

私は1日4、5時間の睡眠時間で、
1週間8日働くわけですからね。

昔は月月火水木金金といわれましたが、
私の場合は月月火水木木金金(笑)。

大抵の場合は過労死ではなく、ストレス死なんです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

やはり、何事もそうだが、根を詰めねば、成果は出てこない。

最後は、やり抜かねば、本当の結果は出てこない。

福島先生の言に大賛成で、日本の活力が下降線の一途を辿る原因は、

土日休日にした事であろうかと、常々思っていた。

まほろばは、正月以外は年中無休で、体は休んでも心は休まれない。

農家は働き過ぎといって、一日たりとも休めるだろうか。

自然は容赦なく厳しくも豊かだ。

やはり、休み過ぎが、この日本をダメにした、とも言えるのかもしれない。

刻苦勤勉が、日本人の清冽さ、美しさを形成して来たのだ。

過労死でなく、ストレス死が死因というのは、耳が痛い。

働いてストレスを越える事も、心の安寧に繋がることも確かなのだろう。

 「生きるとは命を燃やすこと」

火曜日, 2月 21st, 2012

  栗城 史多 (登山家)

   『致知』2012年3月号
     特集「常に前進」より

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【記者:8,000メートル峰は常に死と隣り合わせの世界だと思いますが、
    実際に死に直面されたことはありますか?】

人間の心と体はきちんと繋がっていますので、
山の中で危険なことがあっても
悪いことは一切考えないようにしています。

ただ一回だけ、これはどうしようもないということがありました。
2009年秋、世界第7位の高峰、
ヒマラヤのダウラギリを登頂し、下山していた時のことです。

登頂後は一刻も早く酸素の濃い7,500メートル以下まで
下りないと危険なので、夜中も下山を続けていました。

と、その時。

氷雪の急斜面でアイゼンがすべって、滑落してしまったんです。
どう足掻いても止まらず、どんどんスピードは加速していきます。
その上、その先には落差千メートルほどの断崖絶壁が待ち構えていました。

で、これはもう落ちるなと思った時に、
たまたま自分の体が何かに引っかかって止まった。

タルチョといって、登山の時に必ず使う
チベットの祈りの旗を誰かがそこに差していたんです。
それがあったおかげで、私は奇跡的に一命を取り留めました。
あの時は神様っているなと思いましたね。

【記者:しかし、それだけの危険を冒してまで、
    なぜ山に挑み続けるのでしょうか?】

やはり母の影響が大きいですね。
母は、私が17歳の時にがんで亡くなりました。
体中にがんが転移していく中、普通だったら
「辛い」「痛い」と、弱音を吐くところだと思うのに、
母はそういうことを一切口に出さなかった。

必死にがんと闘っている母の姿を見た時、
私は母から

「一所懸命生きなさい」

と言われているような気がしたんです。

その母のメッセージが私の中に強烈に残っていて、
いまもなお、自分を突き動かす原動力になっていると思います。

私は講演をしていて、聞かれるんです。
 
 
 「死の危険を冒して登ることは怖くないんですか」
 
 
と。

しかし、私は決して死というものが
悪いものだとは捉えていません。
終わりがあるからこそ、いまがあることに感謝し、
一所懸命生きることができると思うんです。

生きるとは、長く生きるかどうかではなく、
何かに一所懸命打ち込んで、
そこに向かって命を燃やしていくことだと思います。

たとえ90歳まで生きたとしても、夢も目標もなく、
何にもチャレンジしない人生はつまらない。

8,000メートル峰は無酸素ではずっと生きられません。
そこへは酸素ボンベを使って、
グループで登っていったほうが死のリスクは低くなりますが、
私はそれをやるかといったら絶対にやりません。

それは安全で、堅実であるがゆえに、
自分の力を100%出さなくても登れてしまいます。

自分の全力を出さないで登頂したとしても、
それは単なる記録であって、
私にはあまり価値を感じられません。

大切なことは、登頂までの過程で、
いかに自分の100%を超えた、
110%、120%の未知なる領域に
辿り着けるかということです。

名器と変身

月曜日, 2月 20th, 2012

千住さんと言えば芸術三兄弟で、つとに有名である。

兄の博さんは日本画家、明さんは作曲家、そして真理子さんはヴァイオリニスト。

お母さんの文子さんの子育て奮闘記が面白い。

そして一家して真理子さんに、億もする天下の名器「ストラディバリウス」を

獲得する奮戦記もすごい!

先日、新聞に彼女のコメントが載っていた。

「ストラディバリウスは仲良くなるのが難しい楽器。苦労しました」とあり、

すさまじく素晴らしい音がすると。

しかし、それは7~8時間も、弾き続けた後でなければ現れない、と。

ここである。

名器だから、誰もが簡単に鳴ってはくれない・・・ところに妙味がある。

それどころが、プロにしてほぼ一日中弾き続けて・・・・

やっとの事で、大王様がお出ましである。

鈍器は弾き続けても、やはりそれ以上に鳴らない鈍器だが、

名器は奮闘したあとのご褒美を、チャンと呉れる。

そこが違うところなんだろう。

何か人生に似ている。

とことんやると、ひっとして大変身する、あなたかもしれない。

響く言葉

月曜日, 2月 20th, 2012

●篠沢秀夫(学習院大学名誉教授、『クイズダービー』でもおなじみ) 
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   一々他者に認めさせなくても、
   「いまに見ていろ、オレだって」と目前の屈辱に耐え、
   人に見えない努力を続ける。
   
   自己のアイデンティティを温めて心に保ち、
   小さな自分を超える一歩を重ねればよい。

   

●栗城史多(エベレスの単独・無酸素登頂をめざす29歳の登山家)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  私がエベレストを登頂できずに下山して帰ってくると、
  周りからは「失敗した」って言われるんです。
  でもそれはちょっと違います。
  
  成功の反対は失敗ではなく、本当の失敗とは
  「何もしないこと」です。
  私は山登りを通して、挑戦し続けていく先に
  必ず登頂や成功があるのだと確信しています。

●桜井正光氏(リコー会長)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    私が若い人たちに伝えたいことは、
    「仕事は上司から与えられるものではなく、
     自分で探し出すもの」
    ということだ。
    
    自分の仕事のアウトプットを利用するお客様は
    誰なのかを考え、その人たちの役に立つ子を探して実行すれば、
    必ず成果となって現れる。

●福島孝徳(デューク大学教授)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    人は私のことを「神の手を持つ男」なんて言いますが、
    本当は神様に助けられて生きている男なんです。
    「神のように病気を治す男」ではなく、
    神様に祈りながら必死で病気と闘っている男なんですね。

●佐野公俊(「仏の心を持つ医師」といわれる脳外科医)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    藤田の元総長である藤田啓介先生は
    「努力をする者にのみ神の啓示がある」
    とおっしゃいました。
  
    人は自分の生まれてきた使命を知るために、
    神の啓示を受ける。
    自分が信念を持って努力し続ける時、
    独創的な閃きが生まれるのかもしれません。

「意志は技術を凌駕する」

日曜日, 2月 19th, 2012

             高部正樹(元傭兵)

        『致知』2011年12月号「致知随想」
         ※肩書きは『致知』掲載当時のものです

………………………………………………………………………………………………

 一九八八年から二〇〇七年までの十九年間、
 私は傭兵としてアフガニスタン、ビルマ、ボスニアなど、
 世界各地の最前線で戦闘に携わってきました。

 傭兵とは、正規軍兵士と違い、その国の国籍を持たない、
 雇われた外国人兵士をいいます。

 日本ではあまり馴染みのない傭兵という道を
 私が選んだ理由はただ一つ。

「自分以外の誰かのため、何かのために
  命を懸ける強い男になりたい」
 
 
  という一心からでした。

 そう思い立ったのは小学校低学年の頃。
 子供向けの戦記物や特攻隊に関する本を読み、
 国を守るために命を捧げた軍人たちの姿に
 純粋な憧れを抱いたのです。
 
 守るべきものを守り抜く人間になりたい。
 子供心にそう感じた私は、この時、
 将来は絶対軍人になると心に誓いました。

 高校を卒業した後、私は航空自衛隊のパイロットを
 養成する航空学生に運よく合格し、航空自衛隊に入隊。
 しかし、訓練中に背中を怪我してしまい、
 除隊せざるを得ませんでした。

 このまま日本にいても、幼い頃から憧れていた
 自分以外の誰かのため、何かのために戦う
 人間にはなれないと感じ、それならば
 日本の枠にこだわる必要はない、
 海外へ行って傭兵になろうと決意しました。

 ちょうどその頃、ある写真週刊誌に
 アフガニスタン紛争に参加した
 日本人の記事が掲載されていたのです。
 
 それを見た時、私は「あぁこれだ」と思い、
 すぐさま連絡を取ろうと試みました。
 
 なんとか人づてに紹介してもらい、
 その人の事務所に足を運んだのですが、
 私が何を言っても「やめたほうがいい」の一点張り。
 結局、相手にされず、追い返されてしまいました。

 しかし、絶対に傭兵になると腹の底から決めていた私は、
 パスポートとビザ、パキスタン行きのチケットを手に、
 出発の前日、再び事務所へ向かいました。

 「どうにもならないかもしれないけど、
  とにかく向こうに行って、自分で道を探してみます」

 私が決意のほどを伝えると、

 「ここの事務所にもお前みたいなやつが何人か来たことがある。
  でも話を聞きに来るだけで実際に行った奴は一人もいない。
  だから俺は最初、お前を追い返した。
  
  だが、お前はパスポートもビザもチケットも持ってきた。
  お前は百万人に一人の人間かもしれない」

 そう言って、現地の事務所に向けた紹介状を書いてくれました。
 そして二十四歳の時、安定した将来も、お金も、
 何もかも捨てて、私は身一つで海外へ飛び出しました。

 一九八八年、当時ソ連の侵攻を受けていたアフガニスタンに
 単身で乗り込み、ソ連軍との戦闘に参加。
 一九九〇年代には、ビルマ(現・ミャンマー)軍事政権から
 独立を目指すカレン族の解放軍に加わりました。

 最前線は、まさに死と隣り合わせです。
 アフガニスタンにいた時は、ソ連軍の戦闘ヘリコプターに襲撃され、
 打ち込まれたロケットがすぐ近くで炸裂。
 
 その破片が背中に突き刺さり、負傷しました。
 あと二、三秒逃げ遅れていたら、直撃して死んでいたかもしれません。

 またある時は、倉庫のような建物の窓から
 敵を銃撃していたのですが、その建物に迫撃砲が着弾。
 すぐ隣の窓にいた仲間二人が死んでしまいました。
 
 私は瓦礫の下敷きになっただけで済んだのですが、
 もしポジションが逆だった場合、
 その砲弾は私に当たっていたわけです。

 最前線を生き延びるかどうかは確率の問題です。
 どんなに経験や訓練を積んでも
 死ぬ確率をゼロにすることはできません。

 しかし、最後に生死を分けるのは人間の意志だと思います。
 これは私が十九年間、最前線を生きてきた中で得た実感です。

 その中で一つの判断にしていたのが遺書です。
 遺書を書いた仲間たちは不思議なほどに死んでいきました。
 絶対に生き残ろうと思えば遺書を書こうとはしないはずです。
 
 遺書を書くということは、心やイメージが死ぬほうへ
 向かってしまっているということでしょう。

 負傷した時も同様です。
 例えば、地雷は運が悪くても
 膝から下が飛ばされる程度の威力なのですが、
 中にはそれだけでショック死してしまう人間がいる。

 「俺は絶対に死なない。絶対に生き残る」
 
 と強く思っている人間は、やはり死にづらいのです。
 最前線を戦う兵士は人殺しの訓練を
 十分に受けたプロフェッショナル。
 
 仮に技術が互角だとしたら、そこで勝敗を決するのは心です。
 相手を圧倒する気迫がなければ、生き残ることはできません。

 私が大切にしている信条の一つに
 
 
 「意志は技術を凌駕する」
 
 
 という言葉があります。

 最前線だけでなく、人生のあらゆる戦いの場で最も重要なのは、
 その人間の意志なのです。
 
 何かをやろうとする時、まず為すべきことは
 技術を磨くことではなく、自分の意志を固めることだと思います。

 それはつまり、捨てる覚悟を持つということです。
 私は傭兵になるためにすべてを捨てました。
 
 あれもやりたい、これもやりたいなどと欲張っていては、
 結局どれも中途半端に終わってしまうだけなのです。

 私たちに与えられた命は一つ。
 その命は使ってこそ意味があると思います。
 傭兵を引退して日本に帰ってきたいま、
 これからの人生は祖国日本のために
 自分の命を精いっぱい尽くしていきたいと思っています。

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私見 まほろば主人

最近、韓国映画「ロードナンバーワン」を観ているが、

私が生れた1950年に興った、あの朝鮮動乱、

南鮮の北進の凄まじい戦闘状況を描いているのだが、

主人公が死地にあっても失敗せず、不思議と生き残るのは、

何故か?と問われた時、平壌に待つ恋人に只管会いたい一心で

闘っている、との一言が、こうも運を開くのか、と思ったものだ。

そこに、高部氏の命がけの生き方の中に、同一のものを感じた。

それは、意志であり、志なのだろう。

成功するには、

「何をしたいか」

「何になりたいか」

という強烈な思い入れが必要だと、言っている。

「オリンピックで勝つための勝負脳の話」

木曜日, 2月 16th, 2012

        
       
 林 成之 (日本大学大学院総合科学研究科教授)
        
        
   『致知』2009年1月号
                  特集「成徳達材」より────────────────────────────────────

競泳日本代表の上野広治監督は
ここで手を抜くことなく、
もう一度オリンピック1週間前の韓国済州島での合宿で、

「オリンピックで勝つための勝負脳の話」

をしてほしいと要請してこられました。
無論、二つ返事で引き受けました。

人間の考え方一つで能力を
最高に発揮する脳の仕組みをまとめて
紹介したかったためです。

これまでで印象的だったのは、監督に呼ばれ、
春の国内選考会を見に行った時、
残り10メートル手前までは
体半分世界新記録や日本新記録より前に出ているのに、
残り数メートルになると、測ったように遅れ、
記録を取り逃がしている光景を目にしたことでした。

私はすぐ気がつきました。
これはみんなゴールをゴールだと思っているなと。

    (中略)

つまり残り数メートルはオリンピック選手ではなく、
普通の選手になってしまう
脳のピットホール(落とし穴)にはまる。

【記者:では、ゴールの時はどうすればよいのでしょうか?】

選手にも

「突き指してでも壁の向こう側をゴールだと思うんですか」

と質問されましたが(笑)、私は人間の本能を
使いましょうと言ったんです。

人間には

「生きたい」

「知りたい」

「仲間になりたい」

という3つの本能があるんですね。この

「仲間になりたい」

を使うんです。

かつて「刀は武士の魂」といって、
命懸けで戦う時に刀を抜きました。

それは刀そのものを魂といったのではなく、
自分が刀となって戦うからそう表現したのです。

同じように、残り10メートルは

「マイゾーン」

として、水と仲間となり、
一体化して泳いでくれと。

練習中も、このゾーンは自分が
最もカッコよくゴールするために、
ゴールの美学を追求しながら泳いでほしいと言ったのです。

多くの人は

「命懸けで頑張ります」

と口で言いますが、
命懸けで脳が働くシステムを使っていないのです。

勝負の最中、前回のアテネオリンピックではこうだった、
昨日コーチにこう注意されたなどと考えながら勝負をする。
これは作戦を考えながら戦っているので
命懸けの戦いにならないのです。

命懸けの戦いとは、過去の実績や栄光を排除し、
いま、ここにいる自分の力がすべてと考え、
あらゆる才能を駆使して
勝負に集中する戦い方をいうのです。
これには「素直」でないとできません。

素直でない人、理屈を言う人はあれこれ考え、
その情報に引っ張り回されます。
素直な人は、過去も未来もない、
いまの自分でどう勝負するかに集中できるのです。