まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「上の人にかわいがってもらうには?」

水曜日, 3月 28th, 2012

       
  道場 六三郎 (銀座ろくさん亭主人)

      『致知』2012年4月号
        特集「順逆をこえる」より
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その頃(15歳頃)は自分が料理人になるとは
夢にも思わなかったんですが、
僕が出入りしていた旅館のチーフに
「手に職をつけたほうがいい」と言われ、
当時流行っていた「東京ブギウギ」に誘われて東京へ出たんです。

十九歳の時でした。

家を出ていく時、母は

「六ちゃん、人にかわいがってもらえや」

と言いました。親として一番悲しいのはいじめに遭ったり、
人から嫌われたりすることだったんでしょう。

一方、親父は

「石の上にも三年だ。
 行ったからには石に齧りついてでも我慢しろ。
 決して音を上げるな」
 
 
と。また、両親は浄土真宗の信者でもあり、
幼い頃からこんな話をよく聞かせてくれました。

「おまえは自分の境涯を喜ばなければならない。
 この世に生まれてきて、
 目の見えない子や耳の聞こえない子もいる中で、
 おまえには鼻はついている、耳はついている、
 五体満足に全部揃っている。
 それを喜ばずに何を喜ぶんだ」。
 
「辛いこと、苦しいことがあっても嘆いてはいけない。
 逆境に遭ったら、それは神が与えた試練だと思って
 受け止めなさい」
 
 
 「たとえ逆境の中にいても喜びはある」。
 
 
 そういう言葉の一つひとつが、
 僕の人生において非常に支えになりましたね。
 

(料理の世界に入ってから)

 僕は調理場でもなんでも、
 いつもピカピカにしておくのが好きなんです。
 
 例えば鍋が煮こぼれしてガスコンロに汚れがつく。
 時間が経つと落とすのが大変だから、
 その日のうちに綺麗にしてしまう。
 
 そういうことを朝の三時、四時頃までかかっても必ずやりました。

 それで、オヤジさんが来た時に
 「お、綺麗やなぁ」と言ってもらえる。
 その一言が聞きたくて、もうピカピカにしましたよ。
 だからかわいがってもらえたんですね。

 それと、毎日市場から魚が入ってくるんですが、
 小さい店ですから鯛などは一枚しか回ってこない。
 でも僕は若い衆が大勢いる中で、
 その一枚を自分でパッと取って捌きました。
 そうしないと、他の子に取られてしまいますから。
 
 
 ただ最初のうちはそういうことを、
 嫌だなぁと思っていたんです。
 
 というのも、「いいものは他人様に譲りなさい」と
 親に言われて育ってきましたから。
 半年ぐらい随分悩んだんですが、
 でもそんなことばかりをやっていたら、
 自分は負け犬になってしまう。
 
 だから僕も、まだ青いなりに
 「仕事は別だ」って思ったんですよ。
 
 仕事だけは鬼にならなけりゃダメだ、と。
 そう思って、パッと気持ちを切り替えたんです。

 結果的にそういう姿勢が先輩や親方からも認められ、
 それからはもう、パッパ、パッパと仕事をやるようになりました。

         * *

 僕の若い頃には「軍人は要領を本分とすべし」
 とよく言われたものです。
 
 要領、要するに段取りでしょうな
 だから要領の悪い奴はダメなんですよ。
 そうやって先輩に仕事を教えていただくようにすることが第一。

 仕事場の人間関係でも一番大事なのは
 人に好かれることで、もっと言えば
 
 
 「使われやすい人間になれ」
 
 
 ということでしょうね。
 
 あれをやれ、これをやれと上の人が言いやすい人間になれば、
 様々な仕事を経験でき、使われながら
 引き立ててもらうこともできるんです。
 

「被爆をこえて生きる」

月曜日, 3月 26th, 2012

          
 平賀 佐和子

  『致知』2012年4月号
    特集「順逆をこえる」より
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就職して2年目の頃だったと思います。

「広島で桜沢如一先生の講演会があるから
 一緒に行ってみましょう」

 
と、ある方から講演会に誘われました。

講演終了後、私は桜沢先生に挨拶に行きました。
私の顔を見るなり、桜沢先生の第一声はこうでした。

「うわぁ、汚い顔だねぇ~」

当時、私は肝臓の異常から顔に吹き出物がたくさん出ていて、
自分でも気にしていたのです。
周囲の人は誰も口にしませんでしたが、
それを面と向かって言われ、さすがにショックを受けました。

「私は原爆に遭っているので」と言うと、

「原爆症というものはありません」。

桜沢先生が私に向かって言われた言葉には驚きました。
そして、さらにショッキングなことを言われました。

「あなた、いまのままの生活を続けたら3年以内に死ぬよ」

「どうすればいいのでしょうか」

「七号食(玄米だけ。ごま塩は可)にしなさい」

それから、家に帰るなり白砂糖を捨て、余分なものを一切食べず、
白米を隣のお家に差し上げて、完全玄米生活を始めました。
家でも学校でも玄米だけ、お味噌汁も飲みません。

七号食は、食養の常識では10日間で一区切りなのですが、
詳しいことを知らずに始めた私は、1か月間も続けたのです。

その間、53kgあった体重が42kgまで減り、
顔中の噴火口も次第に消え、明らかに体調の変化が出てきました。

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「笑う者の運命は光のごとく輝く」

日曜日, 3月 25th, 2012

 
  宅間 正恭 (タクマ工務店社長)

   『致知』2010年5月号「致知随想」
    ※肩書きは『致知』掲載当時のものです

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先日、ある経営者が
奥様を連れて事務所に駆け込んできた。

自分の会社が倒産寸前となり、
自殺を考えていたところ、
ある人から私に会うことを勧められたのだという。

見ると思い詰めた表情で、顔に死相を浮かべている。
私は彼にまず

「笑って死にたいか、泣いて死にたいか、どっちや?」

と尋ね、笑って死にたいと答えた彼を
近くの堤防まで連れて行った。
そして

「自殺するなら俺が見とったるで、ここで死ね。
 そのかわり一つ約束しよう。
 一緒に一時間ほど笑おうやないか」
 
 
と提案した。

おかしなことなど一つもないのに、
ただ笑うというのはなかなか難しい。
私も必死だった。

しかし、初めは泣き笑いをしていた彼から、
最後には本物の笑い声が聞かれ、
別れ際には「もう死ぬのをやめました」
という言葉を聞くことができ、ほっと胸を撫で下ろした。

          * *

岐阜県大垣市で工務店を経営する私の元には、
毎月50名を超える人たちが全国から訪れてくる。
事務所の上のフロアで行われる先祖供養祭と、
締め括りに行う「笑いの練習」に参加するためである。

たとえ四面楚歌の状態でも、
笑える人は必ず逆境を乗り越えることができる。
これは66年の人生を生きてきた私の実感である。

笑うことの大切さを私に教えてくださったのは、
生長の家創始者の谷口雅春先生だった。
私が中学3年になったある日、
父がこれを読め、と渡してくれたのが、
先生のご著書『生命の實相』で、
その中の一節に私は強く胸を打たれた。

「笑う者の運命は光のごとく輝き、
 しかめ面する者の運命は闇の底に沈衰する。
 諸君はそのいずれを選ぼうとも
 自己の好みに委された
 まったくの自由を許されているのである。
 
 光となって輝きたい者は笑うがよい、
 闇の底に沈衰したい者は眉をしかめるがよい」
 
 
私は一人でも多くの人にこの教えを伝えたいと思い、
高校時代は、生長の家の青年会活動に
積極的に参加するようになった。

先生のお話は非常にユニークで、
何事も心の持ち方が大切だ、と常々おっしゃっていた。

例えば、登山の話をされる時はこんな調子である。

「皆さんは山を登ると思うから
 エラい(しんどい)んや。
 私は山がくだる、山がくだる、と思うから
 ちっとも疲れない」

高校卒業後、名古屋の建設会社に就職した私に
独立の決意を与えてくださったのも、
やはり谷口先生だった。

ある講習会で、先生は当時の日本の漁業に
深刻な影響を与えた200カイリ問題に触れられ、

「遠くの海まで行かなくとも、
“心”で魚たちを呼んで、
 日本の領海に来てもらえばいい」
 
 
と言われた。
同様に、仕事がしたい、
人のお役に立ちたいという気持ちがあれば、
必ずよい仕事が入ってくる。
私はそう考えて、36歳の時にタクマ工務店を設立した。

取引先との人脈もなく、
当初は仕事の注文も皆無だったものの、
「まず心に描け」という先生の言葉を思い出し、
瞑目してお客様の相談に応じている風景をイメージした。

笑う門には福来たる、といわれるように、
どんな時でもにこにこと笑顔を浮かべていると、
人は必ず声を掛けてくださるものである。

おかげさまで仕事は年々増えていき、
10年後には念願の会社組織にすることができた。

その恩返しにと、自宅の広間を「八笑道場」と名づけ、
冒頭に紹介した先祖供養祭と
笑いの練習を定期的に行うようになった。

さらに会社でも、毎日昼と夕方に
15分間ずつの唱和を行うようにした。

「繁栄だぁ、健康だぁ、千客万来大喜びだーっ」

と言って、皆でワッハッハ、ワッハッハ、と笑うのである。

そのおかげか、深刻な不況が続く建築業界にあって、
当社にはお客様から様々なご依頼をいただいている。

          * *

ところで、八笑道場には様々な悩みや苦しみを
抱えた人たちがやってくるが、
私自身もその例外ではない。

いまから7年前のことだった。

私の会社で働いていた次女が、
交通事故で非業の死を遂げたのである。

事故原因は、運転をしていた若者の
スピード違反と脇見運転によるもの。
まだ28歳の若さで、
二人の幼子を残したままという悲痛な状況だった。

私の妻や娘の主人は、半狂乱になって次女の死を悲しんだ。
しかし、ここで私までがパニック状態に陥るわけにはいかず、
傷ついた家族を何とか支えていこうと気を奮った。

そして

「肉体はなくなったけれども、魂は生き通しや。
 この世を早く卒業しただけやから、悲しんだらあかん。
 相手を恨んだらあかん」
 
 
と言って聞かせ、皆、想像以上に早く、
深い悲しみから立ち直ることができた。

谷口先生はご著書の中で

「幸福でもないのに笑えないというな。
 笑わないから幸福が来ないのである」
 
 
とも述べておられる。

これまでの人生はいいことがなかったからもうダメだ。
どんなことをしてもよくならないと
悲観している人をよく見かけるが、
人の人生は果たして
“過去”によって決まってしまうものだろうか。

どんなに苦しいことや辛いことがあっても、
自分の人生は“未来”からやってくる。

そう考えていつもにこにこと笑っていれば、
きっと運命は好転する。

すべての幸福は、
笑うことから始まるような気がしている。

 「若い頃に仕事漬けの日々を送れ」

土曜日, 3月 24th, 2012

      
 道場 六三郎 (銀座ろくさん亭主人)

  『致知』2012年4月号
    特集「順逆をこえる」より
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僕は、先輩の料理やオヤジさんの仕事を細かく観察し、
ポイントになることや、自分の課題は何だということを
毎晩必ずノートに書くようにしていました。
書くことによって頭にも入りますから。

概して伸びる人というのは若い時の数年間に
仕事漬けの日々を送っているように思います。
これはどの世界でも同じだと思いますね。

仕事というのは、追われて追われて
その中でうまくなっていくものですからね。
仕事に追いまくられれば、逆に集中力が沸いてきて、
よし、ここで限界に挑戦してやろうという気持ちになります。

これは各人の性格にもよるかもしれませんが、
一気呵成に集中してダァーッとやったほうが
いい仕事ができるんですよ。
ダラダラやったものはダメですね。

当時はクーラーもない厨房で、
火を焚く時は四、五台のコンロを同時につける。

仕込みの時なんか、こっちでホウレンソウを茹でる、
ゴボウを茹でる、そっちで何々をするといったふうに
一挙に鍋をかけて、パッと火を落とすんです。
そうしないと館が暑くてたまらないですから。

日本料理の場合は特にうるさく言われるんですが、
そういう中で鍛えられてきたことが大変勉強になりました。

段取りというのは非常に重要で、冷蔵庫を開けなくても、
ひと目で何がどこに入っているかが
分かるようにしておけるような人は必ず伸びます。
一番ダメなのは、冷蔵庫に頭を突っ込んで冷やしている奴(笑)。

冷蔵庫の中を例えば六つに区切って、
どこに何が入っているかをメモし、扉に張っておく。
そしてちょっとでも量が少なくなったら
小さな容器に移し替え、冷蔵庫を
いつも広く使えるように心掛けました。

頭で思うんじゃなく、
物を見たら小さく入れ替えるというふうに、
身につかなきゃダメですね。
身につかなければ本物じゃない。

「ごめんなさいね おかあさん」

金曜日, 3月 23rd, 2012

       
  向野 幾世 (奈良大学講師)

   『致知』2002年9月号より

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 ごめんなさいね おかあさん

 ごめんなさいね おかあさん

 ぼくが生まれて ごめんなさい

 ぼくを背負う かあさんの

 細いうなじに ぼくはいう

 ぼくさえ 生まれなかったら

 かあさんの しらがもなかったろうね

 大きくなった このぼくを

 背負って歩く かなしさも

「かたわな子だね」とふりかえる

 つめたい視線に 泣くことも

 ぼくさえ 生まれなかったら

 ありがとう おかあさん

 ありがとう おかあさん

 おかあさんが いるかぎり

 ぼくは生きていくのです

 脳性マヒを 生きていく

 やさしさこそが 大切で
 
 悲しさこそが 美しい

 そんな 人の生き方を

 教えてくれた おかあさん

 おかあさん

 あなたがそこに いるかぎり

この詩は、いまから27年前、
15歳で亡くなった山田康文くん――
やっちゃんが作った詩です。

重度の脳性マヒで、全身が不自由、口も利けないやっちゃんが、
いのちのたけを託して作った詩です。

私が勤めていた奈良県立明日香養護学校に
やっちゃんが入学してきたのは昭和43年、
彼が8歳の時でした。

以来、担任として、学部主事として、
そして最後は言語訓練教師として
足かけ8年の付き合いでした。

この詩が生まれたのは、やっちゃんが亡くなる、
わずか2か月前のことでした。

当時私は、養護学校卒業後の障害者たちが集える
「たんぽぽの家」をつくろうと、障害児のお母さん方とともに、
「奈良たんぽぽの会」を結成していました。

この運動もいまではOLや学生など若者たちの支持を得て、
全国で4,000人の会員を擁する全国運動に盛り上がっています。

その活動の一環として、養護学校の生徒の詩に
フォーク好きの学生さんが曲をつけ、
奈良文化会館の大ホールで
コンサートをする企画が持ち上がったのです。

障害程度の軽い子は、自分で詩を書くことができます。
文字が書けない子でも、手足の指や口を使って
電動タイプを打つことができます。

しかし、やっちゃんのように重度の子の場合は、
先生である私が抱きしめて、全身で言葉を聞くのです。

私が言う言葉がやっちゃんの言いたい言葉だったら、
やっちゃんはウインクでイエスのサインを出します。

ノーのときは下を出す。脳性マヒの緊張や
アテノーゼ(不随意運動)さえも、
やっちゃんの発する意思表示です。

そうやって時間をかけてやっちゃんの言葉の世界に
近づいていく作業が始まりました。

言語訓練をしていた私の手元には、
一人ひとりの子どものノートがありました。

やっちゃんのノートには、どのページも

「ありがとう」

「おかあさん、ごめんね」

という2つの言葉で埋まっていました。

最初は『ごめんね おかあさん』
これを題にしようかと私が言うと、
“ノーノー、いやだ”と舌を出します。

それじゃ、男らしく
『ごめんよ かあさん』これはどう?と言うと、
またノーのサイン。

今度は上下を逆にして、
『かあさん ごめんよ』とやってみます。

どうもピッタリこないんだなあ、というやっちゃんの顔。

私の頭に浮かぶ限りの言葉の組み合わせの中から、
やっと、やっちゃんがウインクでイエスのサインを出したのは、

『ごめんなさいね おかあさん』

でした。

こうやって何か月もかけてやっと前半部分ができた時、
やっちゃんのお母さんに見てもらいました。

読み終えてもお母さんは無言でした。

ただ目頭を押さえて、立ちつくしていました。

「やっちゃんが、これを……」

と、かすかに言われたように思います。

そのせり上がる思いが私にも伝わってきました。

『わたしの息子よ』と呼びかけたお母さんの詩が
私の手元に届いたのは、すぐ次の日のことです。
今度は私が立ちつくしました。

 わたしの息子よ ゆるしてね

 わたしのむすこよ ゆるしてね

 このかあさんを ゆるしておくれ

 お前が 脳性マヒと知ったとき

 ああごめんなさいと 泣きました

 いっぱいいっぱい 泣きました

 いつまでたっても 歩けない

 お前を背負って歩くとき

 肩にくいこむ重さより

「歩きたかろうね」と 母心

“重くはない”と聞いている

 あなたの心が せつなくて
 
 

 私の息子よ ありがとう

 ありがとう 息子よ

 あなたのすがたを見守って

 お母さんは 生きていく

 悲しいまでの がんばりと

 人をいたわるほほえみの

 その笑顔で 生きている

 脳性マヒの わが息子

 そこに あなたがいるかぎり

 このお母さんの心を受け止めるようにしてやっちゃんは、
 後半の詩づくりにまた挑んだのです。
 
 やっちゃんが言う「ごめんなさいね」は、
 母へのいたわりと思いやりがあふれていました。

「高い塔を建ててみなければ、新しい水平線は見えない」

水曜日, 3月 21st, 2012

    川口 淳一郎
 (宇宙航空研究開発機構「はやぶさ」プロジェクトマネージャ)

   『致知』2010年12月号
    特集「発心、決心、持続心」より
 

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「はやぶさ」プロジェクトは、
 確かに我々には大ジャンプでした。

 自然科学の分野に限らず、人文社会でも、
 そういうハイリスク・ハイリターンの計画は
 運に支配されるものだと思いますが、
 次の段階に進むためには同じことをなぞってばかりでなく
、大ジャンプをしてみなければダメですよね。

 そこで大事になるのは、やはり具体的で
 分かりやすい目標を共有していること。
 「はやぶさ」でいえば、
 「ゴールは地球へのサンプルリターン」
 ということを全員一致で理解していた。
 これが大きかったと思います。
 
 また、その上でどんな時でも
 私が最後まで目標をブレさずにいたのが良かったと思います。
 リーダーでしたからね。
 
 それは闇雲に妄信するということではなく、
 状況を客観視して打つべき手を打っていく。
 誰よりもです。
 
 だけどどんな状態であっても、
 「もうダメだ」とか「この辺で十分じゃないか」と思わず、
 最終ゴールを指し示すことが
 大事だったのではないかと思います。
 
 そして、いい意見であれば立場にとらわれず、
 積極的に採用する土壌がチーム内にあったことも、
 チームの強さに繋がったかなと感じています。
 
 
        (中略)
 
 
 私はよく
 
 
 「高い塔を建ててみなければ、新しい水平線は見えない」

 と申させていただくのですが、いまのレベルに安住して、
 足元を固めることばかりに一所懸命になっていたら、
 絶対にその先にある地平線は見えません。

 私たち「はやぶさ」プロジェクトも
 客観的に見れば成功するかどうかは未知数でした。
 まして途中ではいろんなトラブルがあって、
 帰って来られる可能性はものすごく低かったわけです。
 
 失敗するかもしれない。
 途中で壊れてしまうかもしれない。
 
 それでも前人未踏の境地に挑戦しようと発心し、
 一度やると決めたら挫けずに、ゴールを目指し続ける。
 それがこのプロジェクトを成し遂げられた
 要因ではないかと思います。
 
「未来」とは「未だ来ない」と書きます。
 未来は見えないわけです。
 その水平線の向こうの、見えないものを
 自分たちの手で見ようとする活動が未来をつくるのです。

 この「はやぶさ」の挑戦を通して、
 先人の後を追うだけでなく、
 誰も成しえなかったことに挑戦する世界があることを、
 日本の若い人たちに伝えられたらと思っています。

「営業の3つのポイント」

月曜日, 3月 19th, 2012

      
  津田 晃 (野村證券元専務)

    『致知』2012年4月号
   連載「二十代をどう生きるか」より

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 営業とは何だろうか。
 
 私は三つのポイントがあると考えている。

 まず押さえなければならないのは、
 給料についての認識である。
 
 辞書には事業主が使用人に対して払う報酬とあり、
 給料は会社からもらっているという認識が一般的だが、
 それは間違いである。
 
 給料はお客様からいただくものである。

 二つ目は、営業とは単に物を売りさばくことではない。

 お客様の問題を解決するソリューション・ビジネスで
 あることを心得なければならない。

 ドラッカーは企業の目的を顧客の創造と説いているが、
 これは営業にそのまま当てはまる定義である。
 駅前に立って一万円札を九千五百円で売ればどんどん売れるだろう。
 
 しかし一万円札を一万十円で売るのが営業である。
 そのためにはその価格に納得していただけるだけの付加価値を
 お客様に提供しなければならないのである。

 三つ目は継続力である。

 将棋で前人未踏の七冠を成し遂げた羽生善治氏は、
 「才能とは情熱や努力を継続できる力」とおっしゃっている。
 営業もコツコツと弛まぬ努力を続けた者こそが勝利を掴む。
 
 そこへプラス・ワンの努力を加えると、
 成功はより確かなものになる。

 例えばきょう予定していた十本の電話をかけ終え、
 さて帰ろうかという時に思い直してもう一本かけてみる。

 そのもう一本で注文がとれたりするものなのだ。
 一週間で五本、ひと月で二十本、
 プラス・ワンの努力の積み重ねは、
 いずれ大きな財産となって返ってくる。

 一所懸命努力していると、いろんな壁にもぶつかるだろう。
 しかしそこで立ち止まって悩んでいても物事は解決しない。
 行動してこそ物事は前へ動き出すものだ。
 
 そして迷ったらしんどいほうの道を選ぶこと。
 これを若い頃から鉄則としてきたことで、実力も養われ、
 運も味方にすることができた。

 全力疾走ができるのは若いうちだけ。
 このことを自覚して、とにかく自分の仕事に
 精一杯打ち込んでほしい。
 
 自分の入りたい会社に入れなくとも悩むことはない。
 実際、その会社が将来にわたって存続する保証は
 まったくないのだ。
 
 就社ではなく、本来の意味での就職へと頭を切り替え、
 縁あって入った会社で、与えられた職に全力を尽くし、
 その職においては一日も早くプロの域に達することである。

 私の義父は丁稚奉公からたたき上げて青果業で成功を収め、
 群馬県の業界理事長まで務めた人物だった。
 
 義父と酒を飲むと、いつも壊れたテープレコーダーのごとく
 
 
 「上見て励め、下見て暮らせ」
 
 
 と繰り返し言い聞かされた。
 
 理想を高く掲げ、辛い時には
 自分より苦しい立場の人を思って気持ちを切り替え、
 頑張ってほしいとの願いであった。
 
 その後決まって言われたのが次の言葉だった。

 「イチロー選手の目標設定術」

日曜日, 3月 18th, 2012

  奥村 幸治 
(NPO法人ベースボールスピリッツ理事長、宝塚ボーイズ監督)

   『致知』2010年6月号「致知随想」
   ※肩書きは『致知』掲載当時のものです

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オリックスで打撃投手を務めていた頃、
不調に陥った選手に

「投げましょうか?」

と声を掛けると、ほとんどの場合、

「頼む」

と答えが返ってきた。
練習することによって、少しでも不安を取り除きたい
と思うのが人情というものだろう。

そんな中、私の申し出に一人だけ
首を振った選手がいた。
当時20歳だったイチロー選手である。

試合後にその理由を尋ねてみたところ、彼は

「僕はこんな心境で試合に臨みたいんです」

と言う。

「どんなに好きな野球でも、毎日続けていると、
 もう疲れた、きょうは嫌だなと思う時ってないですか? 
 そうなっては、自分の能力って
 絶対に発揮できないですよ。
 バットが持ちたくて持ちたくてしょうがない。
 そういう心境で、僕は試合に臨みたいんです」

そして彼はこう後を続けた。

「初めてお父さんとキャッチボールした時、
 どんな気持ちになりましたか? 
 またやりたいなと思ったでしょ。
 その気持ちなんですよ。
 そういう気持ちが自分でしっかりつくれれば、
 絶対に技術って向上していくと思いますよ」

イチロー選手のプロ入り3年目の年、
彼の専属打撃投手となった私は、
寮生活で1年間寝食をともにし、
多くのことを教わった。

彼と初めて出会ったのは、
私が20歳、彼が19歳の時だった。

初めてそのバッティングを見た時、
年下にこんなに凄い選手がいるのかと舌を巻いたが、
最も驚いたのは、彼が一軍に上がってきてからのことだった。

キャンプ期間中、二軍でプレーしていたイチロー選手は、
夕方に練習を終えると、早々に眠りに就いた。
そして皆が寝静まる深夜にこっそり部屋を出ると、
室内練習場で数時間の特打ちをするのを日課としていた。

ところがシーズンが始まり、一軍入りを果たした彼は、
全くと言ってよいほど練習をしなくなってしまったのである。

不思議に思って尋ねてみたところ

「体が疲れ過ぎるとバットが振れなくなるから」

とのことだった。

一軍でまだ何の実績もない選手が、
自分のいまやるべきことは何かを
ちゃんと理解して行動している。

私の知り合いにもプロ入りした者が数名いたが、
彼の取る行動や言葉のすべては、
他とは一線を画すものだった。

例えばこんな調子である。

「奥村さん。“目標”って高くし過ぎると
 絶対にダメなんですよね。

 必死に頑張っても、その目標に
 届かなければどうなりますか?
 諦めたり、挫折感を味わうでしょう。

 それは、目標の設定ミスなんです。

 頑張れば何とか手が届くところに
 目標を設定すればずっと諦めないでいられる。
 そういう設定の仕方が一番大事だと僕は思います

 
二軍時代のイチロー選手は、
マシン相手に数時間の打撃練習をしていたが、
普通の選手に同じことをやれと言っても、
それだけの時間、集中してスイングすることはできない。

それがなぜ彼には可能なのかといえば、
私はこの「目標設定の仕方」に
あるのではないかという気がする。

イチロー選手には自分にとっての明確な目標があり、
その日にクリアしなければならない課題がある。

その手応えをしっかりと自分で掴むまで、
時間には関係なくやり続けるという練習のスタイルなのだ。

私が彼の基盤として考えるもう一つの要素は、
継続する力、つまりルーティンを
いかに大切にしているかということである。

ある時、イチロー選手に
こんな質問をしたことがあった。

「いままでに、これだけはやったな、
 と言える練習はある?」

彼の答えはこうだった。

「僕は高校生活の3年間、1日にたった10分ですが、
 寝る前に必ず素振りをしました。
 その10分の素振りを1年365日、3年間続けました。
 これが誰よりもやった練習です」

私は現在、少年野球チームの監督を務めているが、
それと比して考えてみると、
彼の資質がいかに特異なものであるかがよく分かる。

例えば野球の上手な子にアドバイスをすると
何をやってもすぐできるようになる。
下手な子はなかなか思うようにいかない。

ところが、できるようになったうまい子が、
いつの間にかその練習をやめてしまうのに対し、
下手な子は粘り強くそれを続け、
いつかはできるようになる。

そして継続することの大切さを知っている彼らは、
できるようになった後もなお練習を続けるため、
結局は前者よりも力をつけることが多いのである。

その点、イチロー選手は卓越したセンスを持ちながらも、
野球の下手な子と同じようなメンタリティを持ち、
ひたすら継続を重ねる。
私はこれこそが、
彼の最大の力になっている源ではないかと思う。

2000年に結成した私の少年野球チームは
当時9名の部員だったが、
現在100名を越える数になり、
その中から多くの甲子園球児が生まれていった。
現在、プロで活躍している
田中将大投手もその一人である。

彼らには自分がイチロー選手から学んだことを
折に触れては話し、野球に取り組む姿勢として
それを生かしてほしいと伝えてきた。

自分で目標を持ち、
それに向けての継続を怠らなければ、
必ず次の段階へと自分を
押し上げていくことができる。

そしてそれは、人生を生き抜く力にも
繋がっていることを、
野球を通して伝えていければと考えている。

「“無言館”設立秘話」

土曜日, 3月 17th, 2012

       
       
          野見山暁治(洋画家)

             『致知』2012年4月号
              連載「生涯現役」より

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【記者:野見山さんは戦没画学生の作品を集めた
   「無言館」の創設にも携わっておられますね】
   
   
 戦後二十年が経ち、僕が四十五歳頃のことですが、
 NHKから戦没画学生の特集を組みたいからと
 ゲスト出演の依頼があったんです。

 その後、出版部から画集にしたいので、
 遺族の家を回ってくれないかと相談がありました。
 それでゲストに出た三人で手分けし、
 十五軒ずつ回ったんですがね。

 三軒目に亡くなった親友の家を訪ねたら
 「あなた、どうして生きて帰れたんですか」
 とお母さんが言う。
 
 その時に、僕は何か自分だけが
 うまく生き延びたような気がしてね。

 息子を亡くし悲嘆に暮れている人を、
 俺は見物しに回っているじゃないかという
 後ろめたさがありました。

 そしてその家から帰る時のことです。

 玄関にあったコートに袖を通そうとするとお母さんが
 
 「向こうを向きなさい」
 
 と言って着せてくれたのはいいんですけど、
 その手がね、離れないんですよ。ずうっと。
 こう、僕の背中を触って…。
 
 長年待ち侘びた子供が帰ってきたという、
 その実感なんだなぁ。

  僕はもう耐えられなくなってね。
  翌日NHKに行って、頼むから降ろしてくれ。
  とても回れないと言ったんですが、
  それなら代わりの人を推薦してほしいと。
 
  でも自分が途中で放り出して
  人に頼むことなんてできないから、
  結局続けて回ることにしたんです。

 
 やがてNHKから『祈りの画集』という本が出ました。
 すると窪島誠一郎という人が、
 以来、十何年とその本を持っていて、
 何回も何回も読み返したというんです。
 
 そしてこの人たちの絵を集めて、
 美術館をつくりたいから協力してもらえないかと言ってきた。

 僕は彼に、よしなさいと言いました。
 労力や時間やお金がかかるのはもちろん、
 行った先々で、もうこれは止めにしたいという
 切ない思いになる。
 
 なにしろ当時は戦没者の遺族を回る詐欺が
 横行していましたから。
 
 僕が訪ねていくと
 
 
 「どうせ、金をせびりに来たんだろう。
  おまえさん、いくら欲しいんだ?」

 などと言われる。
 画集を作りたいと言っても
 
 
 「写真を撮ったらすぐに帰れ。後は一切関わらない」
 

 とか。
 
 
 ところが彼はね、何度言っても、
 やると言って聞かないんですよ。
 俺は協力しない、二度と回る気がしないと言っても、
 
 
 「どんなことでも覚悟していますから」
 
 
 と言って聞かない。
 
 でも僕はね、実はそういう人が現れるのを待っていたんです。
 これだけ言ってもやると言うなら、
 この人は本当にやるな、やってくれるなと思った。

 僕はその十年前にいろいろな家を回った時、
 こんな別れ方を遺族の方としているんです。
 
 
 「私たち夫婦が死んだら、
  戦死したこの弟の絵はどうなるか分からない。
  それじゃ私たちは死にきれません。
  
  お願いします。待ってますから。
  保存する機関を探して必ず連絡ください」
  
  
 「……分かりました」。
 
 
 そう言わないと帰れない家が何軒もありました。
 これでやっとあの方たちとの約束を果たせると思いました。

 そして窪島さんと一緒に全国を回ることになったんですが、
 彼がまた周到な人で、美術館設立への思いを
 前もって文章に託して、皆に配っていたんです。

 最初に栃木の農家を訪ねた時は、
 爺さんが森の前に立って我われを待っていた。
 
 そしてこう言った、僕に。
 ぎゅっと強く手を握ってね。
 
 
 「あれから十八年間ずうっとあなたが来られるのを
  待っておりました。
  弟の絵を預かるところを必ず探してくるとおっしゃったから」。
  
  
 僕はその時にね、こういう人がいるんだから
 こうして生きててよかったな、
 これはどうしても美術館を
 つくらなきゃいけないと思いました。
 

「ゴボウ茶で心も体も20歳若返る」

土曜日, 3月 17th, 2012

      
 南雲 吉則 (ナグモクリニック院長)

   『致知』2012年4月号
     連載「大自然と体心(たいしん)」より
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 10数年前、当時30代後半の私は、
 身長173センチ、体重77キロの立派なメタボ予備軍。
 いつも腹回りが苦しく、心臓に負担がかかっている
 感覚がありました。
 
 さらに、ワキガ体質で、加齢臭も気になり出していました。

 ところが、18年経って現在56歳の私は、
 体重62キロをキープ。
 メタボリックシンドロームとは程遠く、
 ワキガも加齢臭もまったくありません。
 当時より、見た目も体の中身も、気持ちまでも若返っています。

 初対面の人に私の年齢を言うと、たいてい驚かれます。
 どうも実年齢より20歳くらい若く見えるようなのです。
 ためしに、体の各部分が何歳くらいに相当するか
 調べてみたところ、脳年齢が38歳、骨年齢は28歳、
 血管年齢は26歳という結果になりました。
 
 どうして私が若さを保ち続けることができているのでしょうか。

 私の生活習慣は実にシンプルです。
 
 
 「腹六分の食事」

 「早寝早起き」
 
 「通勤時のウオーキング」
 
 
 の3つを柱に、規則正しい生活を続けているだけです。
 
 サプリメントを飲んだり、ハードなトレーニングを
 課しているわけでもありません。
 
 ただ、この生活習慣を強力にサポートし、
 その効果をアップさせてくれているものがあります。

 それが「ゴボウ茶」です。

 私がゴボウ茶と出合ったのは40代半ばでした。
 当時の私はひどい便秘症で、トイレでいきむと不整脈になり、
 生命の危機さえ感じていました。
 
 家系的にも祖父が52歳で心筋梗塞で亡くなり、
 父も62歳で倒れてリタイア。
 自分もいずれそうなるのでは、と不安になり、
 まずは知り合いの農家の方に便秘を治す方法を相談したところ、
 教えてもらったのが「ゴボウ茶」だったのです。

 作り方を教わり、飲み始めると、便秘が治るどころか、
 なんだか体が元気になったような気がするのです。
 
 鏡で見ると肌つやもよくなって、
 どこか生き生きとした感じです。
 
 「これはすごい!」と、ゴボウの成分について調べてみたところ、
 ゴボウには人間を若返らせ、元気にする栄養分が
 たくさん含まれていたことが分かりました。

         * *

 
  ゴボウ本体に含まれる食物繊維は野菜の中でもダントツ。
  しかも、ゴボウには朝鮮人参並みの
  漢方薬成分が含まれています。
  以下にその素晴らしい効果をご紹介します。

<ダイエット・美肌効果>
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 ゴボウを皮ごと水にさらすと出てくる真っ黒な汁。
 これは灰汁ではなく、皮に含まれる
 「サポニン」というポリフェノール成分で、
 朝鮮人参の薬効成分とほぼ同じなのです。

 サポニンの「サポ」は「シャボン」と同じ語源に由来し、
 界面活性作用を持っています。
 
 石鹸の泡が油に吸着して洗い流すのと同様に、
 ゴボウに含まれるサポニンが体内のコレステロールや
 脂肪に吸着して、洗い流してくれます。
 
 この界面活性作用によって太りにくい体に
 体質を改善することができます。

 さらに、ゴボウ茶を飲み始めると肌がきめ細かくなります。
 皮脂の分泌が抑えられ、毛穴が小さくなるためです。
 
 また、サポニンには強い「抗酸化作用」があり、
 老化の原因となる「活性酸素」を除去し、
 肌の修復力を高め、老化の進行も抑えてくれます。

その他、がん・糖尿病予防、血行促進・整腸作用、
ゴボウ茶の作り方や、その効果を倍増させる秘訣など……、