まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「遺された512篇の詩」

火曜日, 7月 10th, 2012

    

          矢崎節夫(金子みすゞ記念館館長・童謡詩人)

               

                                        『致知』2010年4月号
                  連載「致知随想」より
         

└─────────────────────────────────┘
 
昭和5年、26歳という若さで世を去った
童謡詩人がいました。
山口県・仙崎の地で生まれ育った金子みすゞです。
 
いまでこそ広く知られていますが、
その名は世間から長い間忘れ去られていました。
 
みすゞの名を初めて知ったのは、
小4の頃から志していた童謡詩人になるべく、
早稲田大学に通っている時のことでした。
 
ある日、通学時に読みふけっていた『日本童謡集』の中に、
有名な詩人に紛れて、聞いたことのない
童謡詩人の名前が目に留まりました。
 
読んだ瞬間、それまで味わったことのない
衝撃を受けたのです。
 
他の300数十篇の詩が一瞬にして
頭から消え去るかのようでした。
 

  朝焼け小焼けだ

  大漁だ

  大羽鰮(いわし)の

  大漁だ。

 
  浜は祭りの

  ようだけど

  海のなかでは

  何万の

  鰮のとむらい

  するだろう。

 
浜の喜びの一方で、目に見えない海の悲しみがある。
この詩は私の眼差しをいっぺんに変えてしまったのです。
世の中は常に2つに1つだというメッセージが、
この「大漁」という、わずか10行の詩の中に、
明確に収められていたのです。
 
この詩人の作品をもっと読みたい――。
その日、私は授業にも行かず、古本屋街を訪ね歩きました。
 
しかし、どこを探しても一向に見つかりません。
30篇の詩と出合うことができたのは、
それから4年後のことでした。
 
他にもみすゞが遺した3冊の手帳が
あることは知りながらも、
手掛かりはまったくない状態です。
 
私は頭の片隅に常に金子みすゞを住まわせ、
思いを飛ばし続けました。必ず見つかると信じて。
 
結局、みすゞ探しの旅は、
初めての出会いから16年の歳月を要しました。
 
手帳は、東京に住む弟さんが大切に保管していたのです。
本当のところ30篇でも十分だと思っていました。
それだけに喜びもひとしおです。
さらに驚くことに初対面の私に、
手帳を貸してくださると弟さんが言ってくれたのです。
 
もし、この手帳がなくなれば、
金子みすゞは、完全に消えてしまう。
そう思うと、私は気が気ではありません。
 
寝る時は常に枕元に置き、外出する時は、家族に預け、
何かあれば必ず手帳だけは持って逃げなさいと
言い含めていました。
 
その一方で、私はほんの1行すら読むことが
できないでいました。
ページを開こうものなら壊れてしまうほど
手帳が劣化していたのです。
高揚感とは裏腹にもどかしさが募りました。
 
1週間後、弟さんから1通の手紙が届きました。
私がある賞を取ったことが新聞に掲載され、
それをたまたまご覧になったのです。
 
 
あなたの作品から、姉ととてもよく似た感性を
持っていることが伝わってきて、安堵しています、
とありました。早速受話器を掴み、
お礼かたがた、事情をお伝えしました。
 
壊れてもいいからぜひ見てください。
それが答えでした。
 
まず丁寧にコピーをとってから、
収められてある詩を数えはじめました。
 
短い創作期間の中で、遺した詩の数は
実に520篇にも及んでいたのです。
 
その晩、私は一睡もできませんでした。
寝転がって読んでいたつもりが、
いつの間にか正座している自分がそこにいました。
 
明け方、興奮覚めやらぬ私を突き動かしたのは、
これは自分だけのものにしてはいけない、との思いでした。
 
すぐに全集の出版を思い描いた私は、
大手の出版社に次々と掛け合いました。
 
しかし、売れないものは出せないと、
ほとんど相手にされずじまい。
 
中には、何篇かを選んでみてはどうか
という話もありました。
しかし、私の思いは微塵も揺らぎませんでした。
 
一人の人間がその一生をかけて残した作品です。
512篇の中には一篇たりとも
無用なものはないと固く信じていたのです。
 
自費での出版しか道がないかと思い至った時、
ジュラ出版局という小さな出版社と出合いました。
 
当時の編集長が「活字にすれば50年残る」と、
詩に込められた価値をみごとに見抜かれたのです。
これで道が開けました。
 
それから4半世紀を経て、金子みすゞの詩は
世界10か国に訳されて親しまれるようになりました。
 
中国四川省で起きた大地震の後、
孤児となった子どもたちの心のケアとして
使われたのはみすゞの詩でした。
 
前のローマ法王もみすゞの詩にふれ、
涙をこぼされたといいます。

なぜこれほどまでに、
みすゞの詩は人の心を動かすのでしょうか。
 
みすゞが書く詩には嫌な言葉がひとつもありません。
深い優しさと明るさが特徴です。
 
一方、実生活はといえば、
特に結婚後は放蕩無頼な夫との生活の中、
常に暗い陰が付きまといました。
 
最期は親権を楯に一人娘を奪おうとした夫に抗するため、
自らの命を絶って守り抜いたのです。
 
きっと彼女は言葉の力をよく知っていたのだと思います。
書き手の最大の読者は自分。
 
となれば苦しい時ほど、自分が嬉しくなることを
書き綴ろうとしたのです。

子供でも分かる言葉で書かれた詩は、
幼稚園児から100歳まで読め、
さらに人生が深まれば深まるほど
深く読み込むことができるのです。
 
私は、お経や『聖書』などを書き残した人と同じように、
金子みすゞは生きる上で一番大切なことを
書き残すためにこの世に存在したのではないかと
考えています。
 
童謡詩人・金子みすゞの詩を発信し続けていくこと、
これが天から与えられた私の大切な使命だと思っています。
http://chichi-ningenryoku.com/?p=1164

八月出版に向けて、準備作業に追われています。

その中で、なかなか大変なのが、写真掲載や詩文転載の

一つ一つを、その所有者・所蔵元に連絡を取って許可を得る事です。

そして、最も厳格だったのが、金子みすゞ記念館の「金子みすゞ」さんの詩でした。

旧仮名遣いは元より、行換えやルビに至るまで、

原文と一字一句そのまま同じでなければいけません。

それほど、この矢崎さんは、みすゞさんの息遣いが、

言葉のはしはしまで、繊細に行き渡っていて、

おろそかに出来ないと考えられているのです。

本当に、その通りだと思います。

たまさか、国際自然医学社の山司さんが、以前から

出版元のJULA社の方と懇意にされ、居も近くにあり、

自転車で文京区内を行き来されているそうです。

そんな仲間でしたので、山司さんが連絡を取って下さり、

早く掲載許可をいただくことができました。

これもありがたいご縁だと思います。

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

みすゞさんの詩は、

意味をやさしい語彙に集約する。

五七調のリズム。

常に、マクロの宇宙観を背景に、

ミクロの身近な物事から語る。

難しい仏教経典を、

簡潔な日本語に翻訳したものと言えます。

ハンディのある子供たちと生きて

日曜日, 7月 8th, 2012

       

        堀江悦子(からたち作業所代表)

          『致知』2012年7月号
             連載「致知随想」より

─────────────────────────────────┘

長男の様子がどこかおかしいことに気づいたのは、
生後半年ほど経った時でした。
昼も夜もほとんど泣き叫んでばかりで、
おむつを替えても、おっぱいをあげても
泣きやむ気配はありません。

九か月目、気がつくと瞳に白い点ができ、
その面積は次第に広がって一歳を過ぎた頃、
ついに視力を失ってしまったのです。

「この子は生涯盲目の世界で生きることになります」

医師にそう告げられた時の衝撃、
頭の中が真っ白になる感覚は、
四十年以上経ったいまもありありと甦ってきます。

失明し自分のリズムが掴めない長男は、
やがて夜は眠らずに朝方から眠るという
昼夜逆転に陥りました。

茶の農家に嫁いだ私は昼間は家事や農作業に励み、
夜は家人に迷惑にならないよう、
泣き叫ぶ我が子をあやしながら
街灯一つない山道を歩くという毎日。

精神的にも肉体的にもヘトヘトに疲れ切っていました。

その頃、私はお腹に新しい命を宿していました。
二男は未熟児で生まれたものの、
心配していた病気の発症もなく順調に成育していきました。

私たち夫婦は二男が成長した時、
一人で長男の面倒を見るのは大変だという思いから、
もう一人産もうと話し合いました。

ところが、授かった三男もまた生後間もなく
目が見えていないことが分かったのです。

電光が目の奥まで届いているような
透き通った瞳に気づいた時は、
動くことすらできず、全身の力が抜けていきました。

三男はかろうじて片方の目が弱視にまで回復しましたが、
長男は全盲と自閉症の重複障碍と診断され、
成長するにつれて大声を上げ暴れ回るようになりました。

ふすまやガラスは破れ、障子はぐちゃぐちゃ。
二人の障碍児を抱えて私たちは生きていくだけで
精いっぱいでした。

何度本気で一家心中を考えたことでしょう。

「お母さんとお父さんが変。助けて」
という二男の訴えで駆けつけた義母に諭され、
ハッと我に返る、といったこともありました。

そういう私が、使われなくなった盲学校寄宿舎を借りて
「からたち共同作業所」(福岡県柳川市)という
重度障碍者のための作業所を立ち上げたのは平成二年。

盲学校を卒業した長男の社会参加を考えたのが発端ですが、
同じような境遇の方々が集まり五人の障碍児を
受け入れるところから活動はスタートしました。

ドサッと山のように業者から届けられる
ビニール製のポット苗容器を整える単純な仕事でも、
それが息子たちの生き甲斐になるのかと思うと、
それだけで感無量でした。

もちろん、それからも厳しい道のりは続きました。
最初の職員さんに僅か二十日で辞められた時は、
五人の障碍児と一日中向き合う大変さを思い知らされました。

私の負担が一気に増え、どうしてよいか分からず
声を上げて泣いたものです。

しかし、もう後には戻れません。
死ぬ思いでやればなんでもできると
自分に言い聞かせては心を切り替え、
前に進んでいきました。

この二十余年を振り返ると、
まさに山また山の毎日でしたが、最近ふと

「一主婦だった私が健常な家族に恵まれていたら、
 ここまで数多くの人と出会い、支えられ、
 絆の大切さを感じる人生を送れただろうか。
 出会いは私の財産だな」

と思うことがあります。

試練の時は辛くても、それを乗り越えた時に、
何倍もの喜びがやってきます。
その最も大きなものは子供たちの成長を肌で感じ取る時です。

作業所を開いた当初、私は我が子以外の
四人の子供たちの心が掴めず、
どのように接してよいか分かりませんでした。

その中にM君という二十歳前の水頭症の子がいました。
脳内に髄液がたまる病気で、動くことも
言葉を満足に発することもできません。

ご家族や養護学校時代の先生方は
「M君は病気で意思表示ができないから」と
はっきりおっしゃっていました。

M君が作業所に来ると、いつも童謡が吹き込まれた
カセットテープを握らせていましたが、
ある日、テンポのよい演歌を流したところ、
握っていたテープを放り投げて体を揺すり始めたのです。

「あっ、M君は意思表示ができる」

直感的にそう確信しました。

私はM君は意思表示ができるという前提で
動きを観察していきました。

すると何気ない動作で自分がしてほしいこと、
嫌なことをはっきり示していると分かったのです。

他の子供たちにも同じ視点で向き合ってみました。

物を投げつける行為も殴りかかろうとする行為も、
それは怒りの感情ではなく意思表示の手段だと気づいた時は
「思いを伝えてくれてありがとう」という感謝の気持ちが
心の底から湧き上がるのを抑えられませんでした。

我われスタッフがそれに気づくことで、
子供たちは不思議なほど落ち着きを取り戻し、
重い知的障碍の子が盲目の子の茶碗を運んであげるなど、
いろいろな変化を遂げていったのです。

ハンディこそあれ、一人ひとり素晴らしい宝を持った仲間ばかり。
そういう子たちと巡り会えたことをいまでは本当に幸せに思います。

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このお話しから、

「しいのみ学園」の106歳現役の昇地三郎先生を思い浮かべます。

 

http://shiinomigakuen.com/

若いにも関わらず、こんな境遇でこんなにも頑張っていらっしゃる方が、

日本にはまだまだいらっしゃるんですね。

驚きと感動で一杯です。

みなさん、挫けず頑張りましょうね!!!

生きるとは・・・・・・・・・・・

木曜日, 7月 5th, 2012

           人生に人生の意味を問うのではなく、
    人生のほうが俺たちに生きる意味を問うているんだ。
  生きるとは、その理由を見つける責任がある。
    

               アーサー・ホーランド(牧師)

                『致知』2012年8月号
                 特集「知命と立命」より

└─────────────────────────────────┘

青春時代は喧嘩と柔道に明け暮れて、宗教嫌いを公言する。
人呼んで「不良牧師」ことアーサー・ホーランド氏。

暴力、虐待、ドラッグ、引きこもりなど、
多くの人々の人生の闇を受け止め、神の光を与えてきた。

「なぜ俺が宗教が嫌いなのか。

 ユダヤ教徒たちは救いの主メシアを求めながら、
 目の前にメシアが来たのに、
 悪魔呼ばわりして十字架に磔(はりつけ)にし、
 イエスを殺してしまった。

 結局、神は宗教に殺されたといえる。

 人間はある境地を究めようとする時、
 皆人智を超えた大いなる存在(=神)を感じるようだ。
 
 芸術家も、研究者も、経営者も、大きな仕事を成し遂げた時、
 “自分ではない大きな力を感じた”と言う。
 
 俺が牧師として伝えたいのはそういうこと。
 信じているものが自分を魅力的にし、
 周囲を幸せにしていくものであればOKだけれども、
 逆に可能性を閉ざし、
 周囲に押し付けていくのは神の意思ではないと思うのだ」

 神との邂逅を得て、神とともに人生を歩んできた
 アーサー氏はこう語ります。
 
「人は皆、偶然に生きているのではなく、
 生かされる理由があると思う。
 しかし、その理由は誰かが与えてくれるものではない。

 人生に人生の意味を問うのではなく、
 人生のほうが俺たちに生きる意味を問うているんだ。
 生きるとは、その理由を見つける責任がある」

 
 やりたいことが見つからない……。

 そう言って自分探しをする若者が増えているといいますが、
 生きる意味は漠然と人生を歩んでいるうちに
 天から与えられるものではない。
 むしろ、私たち一人ひとりが
 知命と立命とによってどんな人生を送るのか
 天のほうが見守っていることを教えられた一言でした。

 http://arthur-hollands.com/

☆致知出版社の公式フェイスブックでも
 アーサー牧師の名言をご紹介しております。
 https://www.facebook.com/chichipublishing

「お母さんから命のバトンタッチ」

水曜日, 6月 27th, 2012

       鎌田 實 (諏訪中央病院名誉院長)

         『致知』2012年7月号
           読者の集いより

◇─────────────────────────────────◇

僕が看取った患者さんに、
スキルス胃がんに罹った女性の方がいました。

余命3か月と診断され、
彼女は諏訪中央病院の緩和ケア病棟にやってきました。

ある日、病室のベランダでお茶を飲みながら話していると、
彼女がこう言ったんです。

「先生、助からないのはもう分かっています。
  だけど、少しだけ長生きをさせてください」

彼女はその時、42歳ですからね。
そりゃそうだろうなと思いながらも返事に困って、
黙ってお茶を飲んでいた。すると彼女が、

「子供がいる。子供の卒業式まで生きたい。
 卒業式を母親として見てあげたい」

と言うんです。

9月のことでした。
彼女はあと3か月、12月くらいまでしか生きられない。

でも私は春まで生きて子供の卒業式を見てあげたい、と。

子供のためにという思いが何かを変えたんだと思います。

奇跡は起きました。
春まで生きて、卒業式に出席できた。

こうしたことは科学的にも立証されていて、
例えば希望を持って生きている人のほうが、
がんと闘ってくれるナチュラルキラー細胞が
活性化するという研究も発表されています。

おそらく彼女の場合も、希望が体の中にある
見えない3つのシステム、内分泌、自律神経、免疫を
活性化させたのではないかと思います。

さらに不思議なことが起きました。

彼女には2人のお子さんがいます。
上の子が高校3年で、下の子が高校2年。

せめて上の子の卒業式までは生かしてあげたいと
僕たちは思っていました。

でも彼女は、余命3か月と言われてから、
1年8か月も生きて、2人のお子さんの卒業式を
見てあげることができたんです。

そして、1か月ほどして亡くなりました。

彼女が亡くなった後、娘さんが僕のところへやってきて、
びっくりするような話をしてくれたんです。

僕たち医師は、子供のために生きたいと
言っている彼女の気持ちを大事にしようと思い、
彼女の体調が少しよくなると外出許可を出していました。

「母は家に帰ってくるたびに、
 私たちにお弁当を作ってくれました」

と娘さんは言いました。

彼女が最後の最後に家へ帰った時、
もうその時は立つこともできない状態です。

病院の皆が引き留めたんだけど、どうしても行きたいと。
そこで僕は、

「じゃあ家に布団を敷いて、
 家の空気だけ吸ったら戻っていらっしゃい」

と言って送り出しました。

ところがその日、彼女は家で台所に立ちました。
立てるはずのない者が最後の力を振り絞ってお弁当を作るんですよ。
その時のことを娘さんはこのように話してくれました。

「お母さんが最後に作ってくれたお弁当はおむすびでした。
 そのおむすびを持って、学校に行きました。
 久しぶりのお弁当が嬉しくて、嬉しくて。

 昼の時間になって、お弁当を広げて食べようと思ったら、
 切なくて、切なくて、
 なかなか手に取ることができませんでした」

お母さんの人生は40年ちょっと、とても短い命でした。

でも、命は長さじゃないんですね。

お母さんはお母さんなりに精いっぱい、必死に生きて、
大切なことを子供たちにちゃんとバトンタッチした。

人間は「誰かのために」と思った時に、
希望が生まれてくるし、その希望を持つことによって
免疫力が高まり、生きる力が湧いてくるのではないかと思います。

……………………………………………………………………………

私も、実の母が42歳で早逝した。

中学2年生の時だった。

母を失う悲しみより、子を置いてゆく悲しみの方が、

どれほど深かったかと思うと・・・・・・・・・。

胸の中には、若い母が何時までも、やはり母であることが不思議に思う。

人生はみな、母を求める歩みなのかもしれない・・・・。

ダラス発、高松さんの心情

火曜日, 5月 8th, 2012

ダラスに東洋治療師として長年滞在されている、

昨年ご一家で来札された高松文三さんから

シリーズ『東洋医学の観方』が、送られてきた。

そこには異国の地にありながら、憂国の士、愛国の民としての

日本を想う心情と真情を吐露されていた。

米中のはざまの中で、未だに自立できない祖国日本。

歯がゆい思いで、今の日本が映るのであろう。

今こそ、真の日本の歴史を知り、それを伝えるべき時である。

「主権回復記念日に思う」

                  高松 文三

 

今回はあまり医療とは関係のないこと。

だが最近気になっていることを書く。

もうすぐ十六歳になる長女はテキサス生まれの

テキサス育ちだが、やはり日本人としての自覚が強いようで、

現地校でこんなことがあった。

 

歴史の授業で担当の先生が、日中戦争において

日本軍が南京で虐殺や強姦を万単位でやらかしたというのである。

娘は先生に「それは事実に反する」と抗議したそうである。

昭和十二年(一九一二七年)十二月、

日本軍が中華民国(当時)の首都南京を攻略した際、

虐殺、強姦、強奪の限りを尽くし、

その犠牲者は三十万人(中国側の主張)にものぼるというのが、

いわゆる「南京事件」である。

 

これは、中国共産党の作り話で事実無根、

歴史上最大の冤罪の一つと言っていい。

結局、問題がいつまでたっても収まらないのは、

日本の指導者層の歴史認識不足と、事なかれ主義、

本当に国を守りたいという気概の欠如のせいである。

国のために死んで行った二百万の英霊の名誉を傷つけても

何とも思わない無神経さも付け加えていいだろう。

 

いわゆる「南京事件」というのは、

東京裁判で取り上げられるまで誰も聞いたことがなかった。

当然である、そんな事件はなかったのだから。

ところが中国側にとっては反日意識を煽っておけば、

人民の不満の矛先を日本に向けることが出来るし、

好都合なことに日本国内にも力強い協力者がいるので

(朝日新聞、NHKなど)、非常に利用価値の高い外交カードなのである。

 

アメリカは日本に対して人類史未曾有の殺人兵器を

人体実験したという負い目があるので、

この点では米中の利害が見事に一致する。

日本は戦時中、こんなひどいことをしたのだということになれば、

それだけ原爆投下が正当化出来る訳だ。

 

共同でドイツのホロコーストに匹敵するような事件をでっち上げた。

そして、勝者が敗者を、しかも事後法で裁くという、

凡そ裁判などとは呼べない代物で、日本を不当に糾弾した。

誰が考えてもおかしなことだが、

七年に及ぶGHQの日本骨抜き作戦(公職追放、徹底した言語統制、

マスメディアを使っての洗脳教膏等)で、

日本人は見事にアメリカや中国の思惑通りの、

骨なし人間にされてしまった。

骨なしならまだしも、GHQの指令の下につくられた日教組による

反日教育によりまるで愛国心のない国民がそれ以後、量産されたのである。

 

奇しくもこの四月二十八日は、サンフランシスコ平和条約が発効して六十年、

日本がGHQの占領から解放されてやっと主権を回復した記念日である。

ところが日本は未だに主権国と言えるのかはなはだ疑問だ。

占領下に占領国によって作られた憲法を未だに押し頂いている。

自分の国を自分で守れないどころか、自国民が拉致されても、

それに対して何も出来ない。

 

一国の首相が戦争で亡くなった人たちの霊を弔うという当たり前の行為に

なぜか他国から干渉を受ける。

自国の教科書さえ他国(中国、韓国)の顔色を窺いながら作成するという有様だ。

中学の歴史教科書を見たが、そのひどさに呆れてしまった。

こんな教科書を使って、子供達が日本という国に誇りが持てるわけがない。

日本は戦時中周辺諸国に対して負の遺産しか残してこなかったような

ことばかり書いてある。

 

そうじゃないだろう。

日本に感謝している人たちはたくさんいる。

だいたい日本があそこで立ち上がらなかったら、

アジア諸国は未だに白人の植民地になっている可能性が十分にある。

ここが一番肝心な所だ。

ここを外したら、歴史を学ぶ価値がないとさえ思う。

少なくとも自分の子供達にはこのことはしっかりと伝えていきたい。

 

米中韓の子女のために書かれた教科書が目立つ中、

今年に入って朗報があった。

マッカーサーが、日本が対米戦争に踏み切った理由を

「自衛のためであった」と、東京裁判を否定する証言を一九五一年に

米上院軍事外交合同委員会で述べた事実は余り知られていない。

それが今年、東京都立高校独自の地理歴史教材

「江戸から東京へ」で掲載されることになった。

 

一部のまともな日本人の努カの成果を見た気がする。

韓国の反日活動も激しさを増していて、

韓国にある日本大使館の前に「従軍慰安婦の像」を

建てて嫌がらせをしていることは周知の事実だが、

アメリカ国内でも二十カ所にその碑を建てる予定だという。

このダラスの地にも来る可能性がある。

 

実は、ニュージャージー州パリセイズ・パーク市の

公共図書館敷地内には既に建立されていて、

近隣の日本人やその子弟は嫌な思いをし、

それがもとで、いじめの対象にさえなっているという。

いわゆる「従軍慰安婦」の強制連行そのものが虚構である上に、

昭和四十年(一九六五年)に締結された日韓基本条約で

こういった件はすべて解決済みであるはずなのに、

未だにこういう問題が起こるのは日本が

主権国家として毅然とした態度を見せず、

適当に謝ったり、ごねられる度に金をばらまいてきたからだ。

 

早い話が日本は未だに主権国家とは呼べないのである。

娘は、現地校の歴史の授業で先生がスライドを使って

南京事件を解説するのを聞いていて、

「日本人の名誉を傷つけられて、メッチャ腹が立った」そうである。

これは、日本人としてごくごく当たり前の祖国愛の発露ではないか。

スポーツ競技場でしか芽生えない祖国愛というのは余りにも情けない。

 

娘に対して先生は

「それはホロコーストは無かった、といってるようなものだよ」

と返したそうだ。

娘もそれ以上何も言わなかったらしいが、

言うべきこと言っただけでもたいしたものだ。

先生に抗議した娘の勇気を大いに褒めてあげたい。

 

祖国日本には、子供達が胸を張って誇れるような主権国家としての

体裁を一日も早く整えて欲しいと一国民として切に願う。

「岡潔先生から学んだこと」

火曜日, 5月 8th, 2012

        
       
 占部 賢志 (中村学園大学教授)
        
   『致知』2012年6月号
             連載「語り継ぎたい美しい日本人の物語」より

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岡潔(おか・きよし)先生は、なつかしさの感情が
日本民族にとっていかに大切なものか、
心魂を込めて説いてやまなかった方でもあります。

ある時はこんなふうに言われました。

「ともになつかしむことのできる
 共通のいにしえを持つという強い心のつながりによって、
 たがいに結ばれているくには、しあわせだと思いませんか」

(『春宵十話』)

この「なつかしさ」については、印象深い思い出があります。

時は昭和四十七年、筆者が大学一年生の時です。
博多で開かれていた市民大学講座に岡潔先生がお見えになり、
特別講演をされたのです。

登壇された先生の白髪痩躯(はくはつそうく)の姿を
目の当たりにして息を呑みました。
隆々とした白い眉も印象に焼き付いています。

椅子にお座りになって講演を始められると、
何やらポケットから出される。
一本の煙草でした。

これを両手でいじりながら話が進む。
机の上には中身がこぼれ落ち、
先生は時々それを手のひらで掬われるのです。

演題は「日本人と『情』」というもので、
日本的情緒の恢復(かいふく)を語った珠玉の講演でした。
まず、自分とは何かが分からなければ
何事も始まらないと先生はおっしゃる。

そして、こう断言されたのです。

「日本人は情を自分だと思っている民族です。
 だから、どんなに知的に納得しても、
 情が納得しなければ本当には納得しないのです。

 いいこともいけないことも、情に照らせば分かる。
 これが日本人の道徳です」

こんなことを聞いたのは勿論初めてです。
偉大な数学者が知ではなく
「情」が大切だと言うのですから、びっくりしました。

それだけに、この時の印象は今も鮮やかに胸に刻まれています。

「日本の古典をお読みなさい」

独特の淡々とした口調で、いよいよ話は佳境に入る。
人には表層意識と深層意識の2つがあり、
日本人は本来、深層意識が基調となっていたはずだが、
今は表層意識が中心になってしまったとの指摘でした。

先生によれば、「なつかしい」という感情は
深層意識から生まれたものだそうです。

たしかに西洋人も「なつかしい」とは言うが、
過ぎた昔がなつかしいという意味で使うに過ぎません。
しかし、日本人は違うのだと言って、
次のような例を挙げられたのです。

「たとえば芭蕉に、秋深し隣は何をする人ぞ、
 という句があります。
 あれは隣の人を知らないから、なおさらなつかしい、
 そういうふうに使っているのです。

 ところが今、この日本人本来のなつかしさの感情が
 衰えてしまったのではありませんか」

旅先で襖一枚隔てた見ず知らずの他人、
そこに寂寥感を覚えるのかと思えばさにあらず、
むしろなつかしさを感じるのだとおっしゃるから、またまた驚きでした。

じつはこの時、筆者は少し考え込まざるを得ませんでした。
先生が強調される、「なつかしさ」の感情を
捨て去るような少年期を送って来ていたからです。

小中学校時代、父の仕事の関係でほぼ一年に一校ずつ、
西日本各地を転校しましたから、
なつかしさの元とも言える故郷は筆者にはありませんでした。

そこで、質疑応答の時間に思い切って手を挙げ、
どうしたらなつかしい感情が磨けるのか、質問に及んだのです。
先生は言下にこう応じられました。

「君にもなつかしさを育てる道はあります。
 日本の古典があるでしょう。その古典が君のふるさとです。
 古典をお読みなさい。
 そうすればきっと、なつかしさとはどういうものか分かります」

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以前のブログで、岡先生のことを書いたことがあります。

NHKのアーカイブスで映像が見られます。

http://www.mahoroba-jp.net/blog/2009/04/nhk_1.html

「土光敏夫さんから教わったこと」

水曜日, 4月 18th, 2012

             
       
   大谷 將夫 (タカラ物流システム社長)

       『致知』2012年4月号
         特集「順逆をこえる」より

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【記者:部屋の額縁に収められている
   「情熱に勝る能力なし」というのは、ご自分で書かれたものですか】

そう、これは座右の銘。
私の思い描くリーダー像でもあるんです。

45、6歳の時に土光敏夫さんの本を読んでいて
浮かんできたのがこの言葉でした。

その本には、要するに頭がいいからリーダーになる
というのは限界がありますよ、ということが書かれていました。

なぜか。

頭のよさで勝負しようとすると、
人間の性で自分より優れた人間を蹴落とそうとするんですね、
片方では優秀な人材が欲しいと言っていながら。

これは大なり小なり人間誰もが持つものなんだと思います。

では土光さんはどう言っていたかといえば、
能力ではなく、情熱を争えと

つまり誰よりも会社を愛して、
そして常に全力投球で会社に命を懸ける、というくらいの
情熱を持つ人こそがリーダーとして最も相応しいということです。

この時ですよ、あぁそうか、
情熱に勝る能力はないなと心底思ったのは。

だから情熱がなくなったら私は社長を辞めますよ。
その代わり情熱が続く限りは頑張る。
だってそれが会社のために一番いいと思いませんか。

本当に命懸けなら会社が順調な時はもちろん、
逆境に立たされたとしても体を張って守る覚悟ができているんだから。

年が若いから地位を譲るとかそういうのは一切関係ない。
ただしもし仮に私よりも情熱溢れる人が現れたら、
その時はその人が社長になるべきだと思います。

「お客様が先、利益は後」

火曜日, 4月 17th, 2012

      
       
          宇都宮恒久(中央タクシー会長)

             『致知』2012年3月号
              特集「常に前進」より──────────────────────────────────

MKタクシー創業者の青木定雄オーナーとの出会いです。
創業して1、2か月たった頃、友人から
凄いタクシー会社があると聞いてビックリしまして、
アポイントも取らずに夜行列車を乗り継いで京都に行ったんです。

京都駅からMKタクシーに乗って本社まで伺ったんですが、
早速驚いたのが、助手席の安全枕に
「お客様へのお願い」とありましてね、
次の4つを怠った乗務員には運賃を払わないでくださいとあるんです。

・「ありがとうございます」と挨拶をします。

・「MKの○○です」と社員名を明らかにします。

・「どちらまでですか」と行き先を確認します。

・「ありがとうございました。お忘れ物はございませんか」
  とお礼を言います。

感服しながら本社に着いたのですが、
やはりオーナーはご不在で翌朝3、40分なら時間を取れると。
その日は市内で何度もMKの車に乗り、
行き届いたサービスにつくづく感服しました。

翌朝お会いするとオーナーは開口一番
「君、年はいくつだ?」と聞かれました。
28歳で、まだ10台しか車を持っていないと申し上げると、
「そうか、実は私も32歳で始めた時はやっぱり10台だったんだ」
とたちまち話が弾んで、3、40分の面会予定が
3、4時間になったんです(笑)。

以来30年、青木オーナーを師匠と思い定めて
毎月のように通い詰め、頑張れ、頑張れと
励まし続けていただきました。

その青木オーナーからある時、
今度こんなことをやるんだと紹介されたのが
空港便だったのです。

数人乗りのジャンボタクシーで
お客様をご自宅から空港までお送りするサービスで、
素晴らしい業績を上げている。
ぜひ君もやりなさいと。

ところが地元の松本空港では便数、乗車率ともに
低くてとても採算が合わない。

諦めかけたところでパッと浮かんだのが、
成田空港だったんです。

すぐに長野から成田まで走ってみると、3時間半で着きました。
これならいけるということで、価格を
JRより安い8500円に設定し、24時間受付、
1名様からでもお送りするということで立ち上げたんです。

【記者:1名でも採算は合うのですか?】

1名の時は難しくても、トータルでは利益が上がるのです。
けれども当初はほとんど引き合いがなく、
やればやるほど赤字が積み上がりました。

3、4か月も続くと、やめたほうがいいかなと迷い始めたんです。

そんな時に出合ったのが宅急便の生みの親・ヤマト運輸の
小倉昌男さんの本でした。

宅急便も最初は5年間も赤字が続いたそうです。
しかし、それでも必ず逆転をすると信念を貫いて、
ついに翌日配送のシステムを確立したとのことでした。

その話に意を強くして、もう少し粘ってみようと思い直したわけです。

その小倉さんが赤字の時に言い続けたのが、

「サービスが先で利益は後」

ということでした。
それに感動して当社も

「お客様が先、利益は後」

という理念を掲げるようになったのです。

おかげさまで空港便は半年後に黒字転換し、
いまでは毎日35台、ハイシーズンには
45台くらい走らせています。

ご注文数では1日350件にも上ります。
新潟エリアにも1日70台くらい走らせ、
空港便は売り上げの6割を占める事業の柱になりました。

「自家発電能力」

日曜日, 4月 15th, 2012

 

              覚張利彦
               (がくばり・としひこ=SMIオブジャパン公認エージェンシー
               “リバティ福岡”北海道エリア担当・「キャリエール札幌」代表)
 
               『致知』2010年9月号「致知随想」
                ※肩書きは『致知』掲載当時のものです────────────────────────────────

2004年、2005年の夏の甲子園大会で
連覇を遂げた駒大苫小牧高校へ、
初めてメンタルトレーニングに伺った時のことである。

野球部員の皆に目標は何かと尋ねたところ
「日本一です」という答えが返ってきた。

私は

「日本一になれる確率は4200分の1しかない。

  その確率はたった0・0002%で、
 失敗の確率は99・9998%。
 やっぱり無理だな、と思った人は?」

と聞くと、全員の手が挙がった。

甲子園に出場すること自体からも遠ざかっていた
2000年当時のことである。

続けて私が

「では日本一ではなく、北海道一になりたいと思ったことは?」

と聞くと、考えたこともないというふうだった。
北海道一にならなければ、当然日本一にはなれない。
また、北海道一になるためには区内一、
その前にはやはり、市内一になる必要がある。

私は彼らに、今年はここまで行くんだという
明確な目標と達成までの期限を決めさせ、それを用紙に記入させた。

高校球児は得てして「夢は大きく、達成は超白昼夢」
という状態になりがちだが、
達成は「超現実的」に考えていかなければならないのである。

私自身がこうした能力開発プログラム「SMI」に出合ったのは、
20年近く前のことだった。

米国のポール・J・マイヤーによって
1960年に創始された当プログラムは、
現在28か国語に翻訳され、世界80か国以上で活用されている。

当時26歳だった私は、薬品会社の営業マンをしていたが、
SMIのスタッフと出会い「夢は何か」と聞かれた時に、
何一つ言葉が出てこなかった。

つまり、自分に夢と目標がないということにすら気付かない、
恐ろしい状態で生きていたのである。

私はそのスタッフから

「夢と目標をセットしなければ、人の能力は絶対に向上していかない。
 そしてもし夢を持ったなら、その夢を
 “目的”と“目標”に分け、達成までの期限を決めなさい」

とアドバイスを受けた。

言われたとおり、目標と期限を設定して、
それに懸命に取り組むと確実に成果が出始め、
瞬く間に全国トップの売り上げを記録した。

さらにその原理を自分の部下にも使ったところ、
同様にぐんぐんと数字が伸びていったのである。

私はこのプログラムの素晴らしさをより多くの人に伝えたい、
と退職を決意して札幌に代理店を設立。

以来、スピードスケートの清水宏保選手や堀井学選手ら
トップアスリートをはじめ、企業や教育機関などに
プログラムの提供を行ってきた。

私が思うに、ほとんどの人は明確な目標を持っている時、
懸命にそれに取り組む。
しかし本当の苦しみは、その目標を達成した後に
始まるのではないだろうか。

例えば念願の金メダルを手にした途端、ケガや不調に見舞われ、
試合に勝てなくなる五輪選手。

「地域一番店になる」「自社ビルを建てる」と燃えていたが、
その目標を達成した後、目指すべきものが分からなくなり、
行き詰まっている経営者。

その人がいる「現在地」は、本人の成長段階に合わせて
刻々と変化していく。

私が、夢や目標を持つということと同等に大切だと思うのは

「いまの自分の実力を知り、その実力に合った目標を設定できる」

ということ。

世の中で成功し続けられる人というのは、
一様にこの能力を備えた人ではないかと思う。

五輪や世界選手権で金メダルを取り続けている
柔道の谷亮子選手などはその代表的な例だと思うが、
私は以前、こんなやりとりを目にしたことがあった。

2000年のシドニー五輪が始まる直前のことである。

彼女は自転車競技で連続の金メダルを取った
ある外国人選手とテレビ番組で共演していた。

その時、あなたが五輪に出る目的は何かと尋ねられた
谷(当時は田村)選手は

「もちろん金メダルです」

と答えた。五輪選手はその答えを受けて

「それじゃダメですね」

と述べ、こう後を続けたのである。

「私は金メダルを取ることを“目的”にしたことは一度もなく、
 金メダルを取ることは、祖国の子供たちに
 夢と希望を与えるための“手段”にしかすぎない。

もっと多くの子供たちに夢と希望を持ってもらうために、
私には絶対に金メダルが必要なの。
あなたのように金メダル獲得を目的にすれば、
取ったとしてもそこで終わってしまうでしょう」

この後、谷選手はシドニー五輪で自身初となる金メダルを獲得し、
4年後のアテネ五輪でも、見事、2大会連続となる金メダルを獲得した。

谷選手にあの時、どんな心境の変化があったのかは分からないが、
人は明確な理由に基づいて行動していくと、
必ずよい成果を出すことができる。

それが「セルフモチベーション」
「自家発電能力」といわれるものである。

日本人はよく、テンションが高い人のことを
「モチベーションが高い」と捉えてしまいがちだが、
モチベーションは明るさや元気さのことを指すのではない。

一見暗い性格で、地味な雰囲気の人でも、
やるべきことが明確で、その目標に向かって
こつこつこつこつ努力を続ける人は、
偉業を成し遂げることができる。

大切なのは、いまの自分の実力に合わせた目標を設定し、
絶えず新鮮なモチベーションをつくり出すことである。

「いかにして人物となるか――

金曜日, 4月 13th, 2012

   伊與田覺先生97歳。

   これぞ完熟の人間学講義」

   『孔子の人間学』(致知出版社刊)より
         

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僕は「天命を知る」というのは
お釈迦様の悟りにも似た境地だと思います。
ただ、悟りを得るためには、
それまでのものをすべて投げ捨てないといけません。

学問もそうで、一生苦労して身につけたものを
捨て去るわけですから、これはなかなか難しい。
孔子もまた捨てきった時に天命を知ったのだと思います。

これは一般の人でも感じることがあると思うんですね。

元旦には人は瞬間的に自分を捨てているんです。

初詣をする時、我を捨てて新鮮な気持ちになることで
神様の心が分かる。
ただ、一般の人間はそれが続いても一週間くらいです。
二月、三月となるとかなり怪しくなり、
年末になるとズタズタです(笑)。

「これはやり直さんといかん」と思っていた時に
また正月がくる。

仏教でも十界という世界を説いていますね。

 地獄、

 餓鬼(がき)、

 畜生(ちくしょう)、

 修羅(しゅら)、

 人間、

 天上、

 声聞(しょうもん)、

 縁覚(えんがく)、

 菩薩、

 仏。

地獄から天上までの六つを六道(ろくどう)というんです。

六道輪廻といわれるように、
苦労して天上まで行ったかと思ったら、
気がつくと下に堕ちて元の木阿弥になっている。

菩薩は人間でありながら仏の修行をする人たちの境地で、
仏になるにはそれをもう一つ超えねばならない。
そして仏の世界に行くと本当の意味の自由が開ける。

様々な問題が起こっても適切な判断を下すことができる。
これは学問の世界からくるものではありません。

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今、TVで「恕の人『孔子』」が放映されています。

当時の文物等が如実に垣間見れて、大変参考になります。

埃に被った論語でなく、いきいきとした孔子像が現れてきます。