「二度とないこの一球という意識を強く持て」
月曜日, 10月 7th, 2013小久保 裕紀(元福岡ソフトバンクホークス選手) 『致知』2013年3月号 特集「生き方」より http://www.chichi.co.jp/monthly/201303_pickup.html#pick5現役を終えた僕がいまいろいろなお話を いただいているのは 野球一筋にやってきたからだと思っているんです。 野球という道を極めようとしたことが 自分の生きる道に繋がりました。 野球が野球道へと繋がったように 一つを極めることは自分の財産になる、ということですね。 いま若い人は定職に就かず いろいろなことを体験して 自分に合うものを見つけようとする傾向がありますが、 それは違うと思います。 いま目の前にあることこそが天職で、 そこに百%時間を使って取り組まない限り、 その先の人生で花を咲かせることはできないんです。 ちょっと囓ったくらいでは 仕事の本質は絶対に分かりません。 どんな小さな仕事であっても、 それを天職と自分で思って全身全霊をかけてぶつかり、 目の前の課題を一個一個クリアする中で 次の展開が見えてくる。 僕の座右の銘である「この一瞬に生きる」は そこに繋がってくると思っています。 王監督からは「二度とないこの一球という意識を強く持て」と 教わりました。 同じ一球でもなんとなく見逃すのと 確信を持って見送るのは大変な違いです。 ただ、野球は勝負なのでこの言葉がピンと響くんですが、 ユニホームを脱いだ後は、よほど強く意識しない限り、 一瞬一瞬の勝負がなくなってしまう。 だからこれからは、講演でも取材でも野球教室でも、 すべての仕事を試合と考えて 全身全霊で打ち込もうと思っています。 それに一つ加えるとしたら、 プロ野球でもなんの世界でも 「思い」の強さはとても大事だと思います。 プロに入ったことで夢を叶えたと考えるような選手は やはり育たないですね。 僕の場合は「絶対にレギュラーになる。絶対に名を残してやる」と いう思いが半端でないくらいありました。 だからこそプラスになると思うものは なんでも吸収してきました。 いまの若い選手には 「僕は将来、絶対にホームラン王になる」 と言い切る者が少ないんですよ。 逆に結果が出ていないのに謙虚な選手ばかり増えてきました。 僕はそんな選手に 「俺は天狗になって、その鼻を折られた。 それでも折れた鼻を再び生やしたから成長したんだ。 伸びもしないうちから謙虚になるな」 と言うんです。 特に若い頃は寝ても覚めても夢でも、 常に願望を抱いていることが 伝わってくる迫力が必要だと思います。
Posted by mahoroba,
in 人生論
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現役を終えた僕がいまいろいろなお話を
いただいているのは
野球一筋にやってきたからだと思っているんです。
野球という道を極めようとしたことが
自分の生きる道に繋がりました。
野球が野球道へと繋がったように
一つを極めることは自分の財産になる、ということですね。
いま若い人は定職に就かず
いろいろなことを体験して
自分に合うものを見つけようとする傾向がありますが、
それは違うと思います。
いま目の前にあることこそが天職で、
そこに百%時間を使って取り組まない限り、
その先の人生で花を咲かせることはできないんです。
ちょっと囓ったくらいでは
仕事の本質は絶対に分かりません。
どんな小さな仕事であっても、
それを天職と自分で思って全身全霊をかけてぶつかり、
目の前の課題を一個一個クリアする中で
次の展開が見えてくる。
僕の座右の銘である「この一瞬に生きる」は
そこに繋がってくると思っています。
王監督からは「二度とないこの一球という意識を強く持て」と
教わりました。
同じ一球でもなんとなく見逃すのと
確信を持って見送るのは大変な違いです。
ただ、野球は勝負なのでこの言葉がピンと響くんですが、
ユニホームを脱いだ後は、よほど強く意識しない限り、
一瞬一瞬の勝負がなくなってしまう。
だからこれからは、講演でも取材でも野球教室でも、
すべての仕事を試合と考えて
全身全霊で打ち込もうと思っています。
それに一つ加えるとしたら、
プロ野球でもなんの世界でも
「思い」の強さはとても大事だと思います。
プロに入ったことで夢を叶えたと考えるような選手は
やはり育たないですね。
僕の場合は「絶対にレギュラーになる。絶対に名を残してやる」と
いう思いが半端でないくらいありました。
だからこそプラスになると思うものは
なんでも吸収してきました。
いまの若い選手には
「僕は将来、絶対にホームラン王になる」
と言い切る者が少ないんですよ。
逆に結果が出ていないのに謙虚な選手ばかり増えてきました。
僕はそんな選手に
「俺は天狗になって、その鼻を折られた。
それでも折れた鼻を再び生やしたから成長したんだ。
伸びもしないうちから謙虚になるな」
と言うんです。
特に若い頃は寝ても覚めても夢でも、
常に願望を抱いていることが
伝わってくる迫力が必要だと思います。
人間の運命とは実に不思議なものだと、
九十年の人生を振り返ってつくづく感じます。
大正十二年、新潟県の農家に生まれた私は
十八歳の時、兵役を志願しました。
次男坊だった私が分家を継ぐことが決まっていたために、
中学へも進学せず、「志願すれば早く除隊できる」
という親や親戚の勧めに従って入隊を決めたのでした。
ところが同じ年に太平洋戦争が始まり、
その話も断念せざるを得なくなります。
私はビルマ(現・ミャンマー)戦線に従軍し、
インパール作戦の準備に当たりました。
中学も出ていなかったため、一兵卒のままでしたが、
高等教育を受けた将校の大半が戦死したことを思うと、
学歴がなかったために命を救われたと言えるかもしれません。
また連隊本部から事務要員を出すよう命令があった時、
私の名が挙がりましたが、中隊長が
「今泉は俺の手元に置く」と却下し、他の兵が派遣されました。
ところがその兵士が不適格として中隊へと戻されてきます。
偶然にもその時、中隊長が不在だったため、
今度は私が事務兵として送り込まれたのでした。
元いた部隊が全滅したと知ったのは、その半月後のこと。
十万以上といわれる夥しい死者を出したインパール作戦でも、
何度も死線を彷徨いながら私は九死に一生を得ました。
やがて終戦となり、復員が決まって皆は大喜びでしたが、
自分だけがのうのうと帰るわけにはいかないと、
私は後ろ髪を引かれる思いでの帰国でした。
戦後は開拓営農として埼玉に移住し、
新たな一歩を踏み出しましたが、
当時は皆が生き抜くことに精いっぱいの状態。
日々の生活に追われ、亡き戦友たちのことを
ゆっくり考えられるようになったのは、
昭和四十年代に入ってからのことでした。
激戦地となったビルマには延べ三十二万人の兵隊が従軍し、
約十九万人が戦死したといわれています。
その中で生き残った戦友たちが皆、
口を揃えて言うのは
「ビルマだったから帰ってこられた」ということでした。
戦況が不利になると、日本軍が
どんどん現地の村へと逃亡していきます。
そんな時、ビルマの人は
「日本の兵隊さん、イギリス軍が隣の町に来ているから
捕まっちゃうよ。早く家の寝台の下に隠れなさい」
と我われをかくまってくれただけでなく
食事までご馳走してくれたのです。
こんなことが知れれば、
間違いなく彼らの身にも危険が及んでしまう。
それを覚悟の上で我われのことを庇ってくれたのですが、
これと同じ体験をした兵士の例は枚挙に遑がありません。
戦友たちを弔うため、烈師団の有志約六十人でビルマを訪れ、
六か所の激戦地で慰霊祭を行ったのは昭和四十九年のこと。
出発時、私の脳裏に浮かんだのは、
ビルマの人たちは日本人のことを
なんと思っているのだろう、ということでした。
戦地では食糧や家畜を徴発し、
畑を踏み荒すなどの迷惑を掛けてきた。
我われが行けば反日デモでも起きてしまうんじゃないか……。
そうした不安もある中でしたが、
慰霊祭は大勢集まった地元民で、
黒山のような人だかり。
皆でともに礼拝を行った後は、
テーブルを出してきてミルクを沸かしてくれたり、
焼き鳥を焼いてくれたりと大変なもてなしようでした。
不思議に思った私は、
なぜこんなにも温かい歓迎をしてくれるのかと
尋ねてみました。
すると彼らは「当然だ」と言うのです。
【記者:染織作家として出発されたのはおいくつの時でしたか?】
三十一歳の頃でした。
当時は二人の小さな子供を抱えて生きていかなきゃいけないし、
織物なんてしたって食べていけるわけがない。
だからもう、早くやめて東京に戻り、
職業婦人になれと周りの者は言っていました。
私もそのつもりでいったんは帰ったんですが、
寝るともう、ウワーッと夢に出てくるんですよね。
やっぱり織物をやろうと決意して
また近江に戻ったんですが、
母とも親しかった木工作家の黒田辰秋さんを訪ねていったら、
こんな話をされたんです。
私は懇意にしていただいていた安岡正篤先生から

まず、いい脳をつくるには、
やっぱりいい顔、楽しい顔をすること、
その根本はホラを吹くということです。
先ほども申したように、
ある書道の時間のことです。
教壇から見ていると、筆の持ち方が
おかしい女子生徒がいました。
傍に寄って「その持ち方は違うよ」と言おうとした私は
咄嗟にその言葉を呑み込みました。
彼女の右手は義手だったのです。
「大変だろうけど頑張ってね」と
自然に言葉を変えた私に
「はい、ありがどうございます」
と明るく爽やかな答えを返してくれました。
彼女は湯島今日子(仮名)といいます。
ハンディがあることを感じさせないくらい
勉強もスポーツも掃除も見事にこなす子でした。
もちろん、書道の腕前もなかなかのものでした。
三年生の時の運動会で、彼女は皆と一緒に
ダンスに出場していました。
一メートルほどの青い布を
左右の手に巧みに持ち替えながら、
音楽に合わせて踊る姿に感動を抑えられなかった私は、
彼女に手紙を書きました。
「きょうのダンスは一際見事だった。
校長先生もいたく感動していた。
私たちが知らないところでどんな苦労があったのか、
あの布捌きの秘密を私たちに教えてほしい」
という内容です。
四日後、彼女から便箋十七枚にも及ぶ手紙が届きました。
ダンスの布については義手の親指と人差し指の間に
両面テープを張って持ち替えていたとのことで、
「先生のところまでは届かなかったかもしれませんが、
テープから布が離れる時、ジュッという音がしていました。
その音は私にしか聞こえない寂しい音です」
と書かれてありました。
「寂しい音」。
この言葉に私は心の奥に秘めた
人に言えない彼女の苦しみを見た思いがしました。
十七枚の便箋に書かれてあったのは
それだけではありません。
そこには生まれてから今日まで
彼女が生きてきた道が綿々と綴られていました。
彼女が右手を失ったのは三歳の時でした。
家族が目を離した隙に囲炉裏に落ちて
手が焼けてしまったのです。
切断手術をする度に腕が短くなり、
最後に肘と肩の中間の位置くらいから
義手を取り付けなくてはならなくなりました。
彼女は、小学校入学までの三年間、
事故や病気で体が不自由になった
子供たちの施設に預けられることになりました。
「友達と仲良くするんだよ」と言って去った
両親の後ろ姿をニコニコと笑顔で見送った後、
施設の中で三日間泣き通したといいます。
しかし、それ以降は一度も泣くことなく、
仲間とともに三年間を過ごすのです。
そして、いよいよ施設を出る時、
庭の隅にある大きな銀杏の木にぽっかり空いた洞の中で、
園長先生が彼女を膝に乗せてこのような話をされました。
「今日子ちゃんがここに来てからもう三年になるね。
明日家に帰るけれども、帰って少しすると
今度は小学校に入学する。
でも今日子ちゃんは三年もここに来ていたから
知らないお友達ばかりだと思うの。
そうするとね、同じ年の子供たちが周りに集まってきて、
今日子ちゃんの手は一つしかないの?
なにその手?
と不思議がるかもしれない。
だけどその時に怒ったり泣いたり隠れたりしては駄目。
その時は辛いだろうけど笑顔で
お手々を見せてあげてちょうだい。
そして
私の場合は日々生きていること自体に勇気が必要です。
見えなくて、聞こえない世界にいるので、
未知の惑星にいるようなものでいつ何が起こるか分からない。
ただそうした道を歩んでくる中で、
自分が盲ろうになった時、
到達した一つの思いがあるんです。
十八歳の一月から三か月間で、
全く聞こえなくなっていくわけですが、
その過程で、自分は目が見えないのに、
その上どうして、さらに耳までが
聞こえなくなるんだろうかと考えました。
運命の理不尽さについて、
あるいは僕が何か罪を犯したんだろうか、
何か悪いことをしたんだろうか、
なぜ自分はこんな状況になっているんだろうか
などといろいろ考えたんです。
そして最終的に私が思い至ったのは
こんな考えでした。