まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「企業業績と経営者の全人格はイコールだ」

水曜日, 11月 2nd, 2011

「企業業績と経営者の全人格はイコールだ」
       
       
  伊藤 謙介 (京セラ相談役)
        
     『致知』2011年11月号
      特集「人生は心一つの置きどころ」より
  http://www.chichi.co.jp/monthly/201111_pickup.html#pick2

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全従業員の意識の集約したものが会社というものであり、
それを少しでも高い次元のものとするためには、
まずその会社を率いるリーダーの人間性を
高めなければなりません。

リーダー=フィロソフィという意識を
持たなければならないと思います。

そのことに関連して、社長時代に
強く印象に残っていることがあります。

バブル崩壊による不況の時に、
なかなか思うように業績が伸びずに、
稲盛に相談に行ったことがありました。

そうしたら稲盛に、

「企業業績と経営者の全人格はイコールだ。
  会社の業績はあなたの全人格の
  それ以上でもそれ以下でもない」

と諭されました。

厳しい言葉でしたが、改めて己を振り返ってみると、
なるほどなぁと納得できました。

本当に社員を魅了するような魅力が自分にあったか、
自分を尊敬してついてきてくれる社員がどれだけいたか。
自分はまだまだだったなぁと。

それが業績に影響していたのかもしれません。

ただ、自分の器量をいかに大きくするかという課題に、
これだという解はありません。
やはり日々真剣に生きる以外にない。
自分の生き方そのものが立派でなければ
社員はついてきてくれません。

指針となったのはやはり京セラフィロソフィでしたが、
中でも特に心掛けてきたのが、
努力、忍耐、執念、そして闘争心に関わる教えでした。

そんなものはいらない、企業経営というものは
もっと論理的なものだという人もいますが、
実際に創業時を体験し、様々な試練の中で
経営に邁進してきた私の実感として、
やはり経営はそうした心の持ち方に
留意せずには成り立たないと思います。
 

※成長のベースとなった京セラフィロソフィ。
 そのエッセンスともいえる
 「稲盛経営12ヵ条」をご紹介します。

(※『致知』11月号にも全文を掲載しています)

………………………………………………………………………
       ● [稲盛経営12ヵ条]
………………………………………………………………………

1.事業の目的、意義を明確にする
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    公明正大で大義名分のある高い目的を立てる。

2.具体的な目標を立てる
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     立てた目標は常に社員と共有する。

3.強烈な願望を心に抱く
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    潜在意識に透徹するほどの強く持続した願望を持つこと。 
 
4.誰にも負けない努力をする
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    地味な仕事を一歩一歩堅実に、弛まぬ努力を続ける。

5.売上を最大限に伸ばし、経費を最小限に抑える
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    入るを量って、出ずるを制する。利益を追うのではない。
    利益は後からついてくる。

6.値決めは経営
~~~~~~~~~~~~~~~~~
    値決めはトップの仕事。お客様も喜び、
    自分も儲かるポイントは一点である。

7.経営は強い意志で決まる
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    経営には岩をもうがつ強い意志が必要。

8.燃える闘魂
~~~~~~~~~~~~~~~
    経営にはいかなる格闘技にもまさる激しい闘争心が必要。

9.勇気をもって事に当たる
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    卑怯な振る舞いがあってはならない。

10.常に創造的な仕事をする
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    今日よりは明日、明日よりは明後日と、
    常に改良改善を絶え間なく続ける。
    創意工夫を重ねる。

11.思いやりの心で誠実に
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    商いには相手がある。
    相手を含めて、ハッピーであること。皆が喜ぶこと。
 
 
 
12.常に明るく前向きに、夢と希望を抱いて素直な心で
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「幼児教育こそ国をつくる力」

月曜日, 10月 31st, 2011

加藤 積一

(学校法人みんなのひろば・ふじようちえん園長)
『致知』2011年11月号より
http://ameblo.jp/otegami-fan/day-20111030.html

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「遊びと学びと建物が一体となった
世界的にユニークな建物」

このような評価をいただき、昨年、
私が園長を務めるふじようちえんは
OECD(経済協力開発機構)が主催する
学校施設の好事例最優秀賞に選ばれました。

二〇〇七年に園舎全体をリニューアルした当園は、
広い芝生の園庭を囲むように建てられた
ドーナツ型の平屋の園舎に、約六百名の園児たちが
思い思いに遊んでいます。

一九七一年に父が始めた幼稚園を私が引き継いだのは
一九九四年のこと。園舎は次第に老朽化し、
築三十年を経過した頃から雨漏りもしてきました。

そのような状況下で、二〇〇四年に
新潟県中越地震が発生しました。
そのニュースをテレビで見ていた時、
「子どもたちに万が一のことがあったら……」
という不安が私の危機感を煽り、園舎改築を決めたのです。

さっそく知り合いの建築関係者に設計を依頼したのですが、
私にはどうしてもしっくりきませんでした。
私の考えていた「素朴で本物」
「自然を感じ、自然とともに成長する」という
コンセプトが感じられなかったのです。
結局、折り合いがつかず断念しました。

旧園舎は、武蔵野の面影を色濃く残す豊かな自然に包まれ、
どことなく懐かしい、あたたかな空気が流れていました。
そんな雰囲気を気に入ってくださって、
入園を決める親御さんも多かったのです。
だからこそ、目に見えない大切な空気を残しつつ、
これからの時代に子どもたちが育つ環境へ
より良く変化していきたいという思いが胸の内にありました。

そんな時、偶然出会ったのが
ホンダ・ステップワゴンのCMや
SMAPのCDジャケット等のデザインを手掛けた
アートディレクターの佐藤可士和さんでした。

可士和さんの、

「幼稚園や病院という“デザイン”の概念が
まだ入っていない世界をデザインしたい」

との言葉に、私たちはすぐに意気投合。
建築家の手塚貴晴・由比ご夫妻の協力もいただき、
改築プロジェクトは始まりました。

「子どもは遊びが仕事、遊びが学び」という観点で、
私が溢れんばかりの想いを伝える。
それを可士和さんが整理して必要な情報を抽出し、
手塚さんが形にしていく。

そのように三位一体で進めていった結果、
「園舎そのものが巨大な遊具」という
ユニークな園舎が完成しました。

園舎には子どもが育つための様々な仕掛けが
施されていますが、中でも皆さんが注目されるのは、
園舎の屋根の上が円形の運動場になっていることです。

ある時、可士和さんが旧園舎を眺めながら、

「あの屋根の上を子どもたちが走ったら気持ちいいでしょうね」

と言いました。

「いや、危なくてそんなことはさせられませんよ」

と私はすぐに否定したものの、
よく考えてみると自分の小さな頃は、
しょっちゅう木登りをしたり、
近所の家の屋根で遊んだりしたものでした。

手塚さんは当園のコンセプトを
「ノスタルジックフューチャー(懐かしい未来)」
表現していますが、私が育ってきた昭和四十年代の
古きよき日本の姿を、安全性を確保した形で
現代流にアレンジした一例が、「走れる屋根の上」です。

子どもたちは、この屋根の上で全力疾走をしたり、
鬼ごっこをするなど、とにかく元気いっぱいに走り回ります。
一周は約百八十メートル、円形なので行き止まりがありません。
そこを一日に三十周したという園児もいるほどで、
三十周では五キロ以上にもなります。

ある大学生が、サッカー教室も行っている
都内の幼稚園児と当園の子どもたちとの
一日の運動量・歩数を比較したところ、
驚くことに当園のほうが三倍も多かったという
報告もなされています。

大人からの強制も特別な遊具もなく、
子どもたちが自分の意思で
これほど走り回りたくなる環境は、
いまの都会の生活には存在しないのではないでしょうか。

私たちは高度経済成長期以降、便利さを追求し
オートマティックな社会を築いてきました。

手を出せば水が流れ、部屋に入れば電気がつく。
自ら身体を動かし筋肉を使わなくとも、
自動で何でもしてくれる世の中です。

果たしてそれは本当に便利な社会といえるのか――。
よく考えてみると、いまの社会は子どもが育つには
とても「不自由」な環境だと思うのです。

自然の中に身を置き、本物の土や木、水や空気、
一面に広がる空や風を感じながら、
石に躓(つまづ)き転んだり、カブトムシを触って噛まれたりする。
そうした実体験を通して、子どもは育っていくものだと
私は考えています。

私たちのミッションは「幸せな未来をつくること」です。
いまここに通っている子どもたちには
将来、新しい世界を築いていってほしい。
幼児教育はそのための土台づくりの場です。

私は常日頃から、

「“How to”で生きるより
“To do”で生きる子どもを育てよう」

と話しています。

子どもには、処世の術を教えるよりも、
自分は何をしたいのかという意志を持たせることが
大切だと思うのです。

私は幼児教育には国をつくる力があり、
世界を形成する力もあると考えています。

いまはまだ小さな力でしかないかもしれませんが、
ゆくゆくは社会を変革する大きなエネルギーになると信じて、
子どもたちの育ちに役立つ「道具」のような存在として
生きていきたいと思います。

■「ふじようちえん」の園舎の様子を
写真をたくさん交えてご紹介しています。
ぜひアクセスしてみてください。
http://ameblo.jp/otegami-fan/day-20111030.html

「親父の小言」

土曜日, 10月 29th, 2011

       
       
    青田 暁知 (大聖寺住職)
        
     『致知』2003年10月号
      特集「人生を支えた言葉」より
            

     ※肩書きは掲載当時です。

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「親父の小言」をご存じでしょうか。

ご存じない方でも、
「火は粗末にするな」「朝きげんよくしろ」
「神仏をよく拝ませ」「人には腹を立てるな」
「人に馬鹿にされていよ」 「家業は精を出せ」
「年寄りをいたわれ」

……これらの言葉が全国の土産物の壁掛けや
温泉場の手ぬぐいなどに書かれ、
売られているのを見た人は多いと思います。

実はこのもとになったのが私が住職を務める福島県浪江町、
大聖寺の庫裡に掲げられた「親父の小言」の四十五の文章です。

私の父・青田暁仙が昭和三年、三十三歳の時に書いたもので、
私が物心ついた時にはすでに庫裡に掲げられていました。
私にとってはいずれも親しみのある言葉ばかりです。

ただ、私は十一歳で父と死別しましたので、
この小言について父に深く聞くことは、ついにできないままでした。

ですから、父がどういう思いを込めて
これらの言葉をしたためたのか、
小言を言った親父とは、父の父である青田八郎のことなのか、
それとも自分の思いを架空の小言親父に託したのか。
はっきりしたことは分かりません。

ただ、小言の為書には
「親父生前中の小言を思い出して書きました。
 今にして考えればなるほどと思うことばかりです」
の一文があります。

青田八郎の言葉であることを裏付けているかのようですが、
父は石田梅岩の石門心学について
熱心に勉強していたことなどを考え合わせると、
あるいはその影響もあるのでは、とも考えられます。

実際、「家業は精を出せ」「たんと儲けてつかへ」など
小言には梅岩の思想と共通する言葉も盛り込まれています。

昭和三十年代の半ば、この小言を町内の商店が
商品にして売り出したのをきっかけに、
評判が評判を呼んで全国に広がりました。

途中、新たな語句が加わったり、
逆に本来の言葉が削られたりと、
父のオリジナルとは随分異なるものになってしまいましたが、
小言が広がったのは、何か人々の琴線に触れるものが
あったからでしょう。

     (後略。以下に45の文章をご紹介します) 

● 火は粗末にするな

● 朝きげんよくしろ

● 神仏をよく拝ませ

● 不浄を見るな

● 人には腹を立てるな

 身の出世を願へ

 人に馬鹿にされていよ

● 年寄りをいたわれ

● 恩は遠くから隠せ

● 万事油断するな

● 女房のいうこと半分

● 子のいうこと八九はきくな

● 家業は精を出せ

 何事もかまわずしろ

 たんと儲けてつかへ

● 借りては使うな

 人には貸してやれ

 女郎を買うな

● 女房を早く持て

 難渋な人にほどこせ

 生き物を殺すな

● 年忌法事をしろ

● 義理は必ず欠くな

● ばくちは決して打つな

● 大酒は呑むな

● 大めしを喰うな

 判事はきつく断れ

● 世話焼になるな

 貧乏を苦にするな

● 火事の覚悟をしておけ

● 風吹きに遠出するな

 水はたやさぬようにしろ

 塩もたやすな

● 戸締まりに気をつけろ

 怪我と災は恥と思へ

 物を拾わば身につけるな

 小商ものを値切るな

 何事も身分相応にしろ

● 産前産後を大切に

 小便は小便所へしろ

 泣きごとは必ず云うな

 病気は仰山にしろ

 人の苦労を助けてやれ

 不吉は云うべからず

 家内は笑ふて暮らせ

『安岡正篤 活学百言』から

金曜日, 10月 28th, 2011

    
「どんなに仕事ができても、手柄があっても、それ故に地位を与え、
 禄を与えて人を支配させてはいけない人がある。
 又これといって仕事のできないでも、その地位にその人を据えておれば、
 自然に治まる人がある。
 これを使い分けることが東洋政治哲学の人事行政の根本問題である。
 これが賞禄有功(しょうろくゆうこう)である」

「人間の言葉で案外確かなものは酔中の言だといわれる。
 酔えば理性が麻痺(まひ)するために本当のことをいう。
 しかしそれでは余りに真実で生々しいから、
 約束で酔中の言はとりあげぬことにした。
 古人の粋(いき)なはからいではあるが、
 この酔態の中によくその人物を観ることができるものだ」

「賞禄有効」や「酔中の言」――。
これら日常の行動指針となる100の言葉が収められています。

また、

「『一燈照隅』とは、おのおのが、それぞれ一燈となって、
 一隅を照らす、則ち自分が存在するその片隅を照らすこと。
 (中略)
 聞くだけなら愉快だが、つまらない人間も
 「世界のため、人類のため」などと言います。
 あれは寝言と変わらない。寝言よりももっと悪い。
 なにも内容がない。
 自分自身のためにも、なんて大口きけるか。
 それよりも自分がおるその場を照らす。
 これは絶対に必要なことで、またできることだ。
 真実なことだ。片隅を照らす!
 この一燈が万燈になると、「万燈遍照」になる」
 

といった大局的な物の見方・考え方も説かれ、奥深い内容となっています。

    *     * 

編著者である安岡正泰氏は安岡師のご子息です。
本書では、ご家族だからこそ語れる貴重なエピソードとして
安岡師が戦犯に指名されかかった時の
家庭での鬼気迫る様子も「序」で描かれます。

選び抜かれた100の言葉をコンパクトにまとめた本書は
身近に置いておける座右の書、心の糧の書として、おすすめです。

 「先人たちの筆相が物語るもの」

金曜日, 10月 28th, 2011

        
       
  森岡 恒舟 (筆相研究の第一人者)
        
   『致知』2011年9月号
      ※肩書きは掲載当時です。

────────────────────

その人の深層心理は、その人の書く字に表れ、
その人の字を見れば、その人の深層心理が分かります。
そして、その人の字を書く時の習慣、
つまり深層心理の習慣は、他の行動にも顔をのぞかせるのです。

       (中略)

源義経の字を見てみると、非常に個性的で、
まず左払いが大変長く突出しています。
http://ameblo.jp/otegami-fan/day-20110812.html

普通であれば深層心理が働いて一定の長さで
ストップさせるところを、
さらに突き抜けて伸ばすというのは、
人並みを超えて目立つわけですが、それで平気だということ、
目立つことが好きだということです。

実際に義経は、五条大橋で弁慶と大立ち回りをやったり、
鵯越の逆落としをやったり、
ことごとく世間の耳目を集める派手な行動をとっています。

深層心理としてそういうことを躊躇せず
やっていける人だったのです。

ただその一方で、義経の字はいずれも
右側へ転びそうなものが多いことも注目に値します。

こういう字を平気で書くところに、
あまり安定した状態を好まない深層心理が表れています。
むしろ転びそうな不安定な状態を自ら求めていたり、
転びそうになってもスイスイ乗り切って
そのことに気持ちよさを感じたりする傾向が見て取れます。

それが人間関係にも影響し、
頼朝との関係に破綻をきたしたとも考えられるのです。

        * *

突出するという点では、明智光秀の縦線下部の
引き延ばし具合も尋常ではなく、
これほど長い書き方は歴史上でも希です。

彼がもし枠の中に収まる程度の文字しか書かない人物であれば、
本能寺の変などという大それた事件は起こさなかったでしょう。
信長の逆鱗に触れてもひたすら謝り、
左遷先で堪え忍んで一生を終えたと思うのです。

        * *

吉田松陰の筆跡には非常に行動力が感じられます。
そして右上がりの度合いが強いところから、
保守的で柔軟性に欠けるところがあり、妥協を嫌います。
http://ameblo.jp/otegami-fan/day-20110812.html
(※2つ目の画像をご覧ください)

そうした深層心理が、黒船に乗り込もうというような思い切った行動や、
己の信念を貫き、最後は斬首されるという結末を暗示しています。
かつて学生運動が盛んな頃、大学の構内に掲示されていた看板に、
松陰に似た筆跡がよく見受けられたものです。

        * *

東郷平八郎の筆跡は、偏と旁がグッと密着しています。
これは包容力があって多くの人を束ねるトップリーダーというより、
人の意見に左右されず、自分の信念を貫くタイプです。
http://ameblo.jp/otegami-fan/day-20110812.html
(※3つ目の画像をご覧ください)

中国では偏と旁の間を気宇、心の広さを表す空間と捉え、
なるべく間隔を広くとって書くのがよいとされています。

一方で技術者は偏と旁の間を狭く書く傾向があります。
寿司職人などは客の言いなりになっていたのでは
うまい寿司は握れません。

「俺の握りが嫌なら、よそへ行ってくれ」とばかりに
自分のやり方にこだわり、それを通すタイプは
偏と旁の間は広く書けないのです。

東郷の筆跡にもそういうところが見て取れ、
実際、寡黙でいろんな意見を取り入れてという
タイプではなかったようです。

彼がもし偏と旁の間を広く書くような人であったら、
バルチック艦隊が近づいているという情報が入ったら、
心の中にはこうすべきだ、ああすべきだと、
いろんな人の意見が入り込んで千々に乱れていたでしょう。

東郷はやはり周りの雑音を受け付けず、
こうだと決めたことを徹底する前線指揮官のタイプであり、
だからこそ最強のバルチック艦隊を撃破し、
日本を勝利へ導くことができたのだと思います。

        * *

最後に、経営者を一人だけ見てみましょう。

「経営の神様」と謳われ、経営者に限らず
様々な人にいまもなお多大な影響を与え続ける松下幸之助。
その筆跡は、小ぢんまりとまとめずにグッと大きく広げて書くのが特徴で、
心の内からほとばしり出るものが伝わってきます。
http://ameblo.jp/otegami-fan/day-20110812.html
(※4つ目の画像をご覧ください)

これは豊臣秀吉の書き方によく似ており
私は太閤相と呼んでいます。

また「助」という字の最終画が点になっていることから、
普通の人が考えつかないことを考え出す
アイデアマンであったことが窺えます。

さらに、縦線の上部への突き出しはそれほど際立っておらず、
包容力豊かなリーダーというより信念を持った技術者タイプです。

実際、細かいことに非常に厳しい人だったという話も聞いていますが、
それでも多くの人がついていったのは、
やはり太閤相にも表れているような人間的魅力があったからでしょう。

……………………………………………………………………
筆相を変えることによって、自分自身の運命をも
高めていくことができると言われる森岡氏。

『致知』9月号では、そのほか、聖徳太子や西郷隆盛、
大久保利通などの筆相についても解説いただきました。
ぜひご一読ください。

「プアなイノベーションより、優れたイミテーションを」

木曜日, 10月 27th, 2011

       
       
    佐々木 常夫

                  (東レ経営研究所特別顧問)
        
   『致知』2011年11月号
 連載「20代をどう生きるか」より
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二十代という年代は知識も知恵も不足しているため、
いろいろな回り道をし、時間をロスしてしまいがちです。

ただ、私のように失敗を重ねてきた人間は、
次は失敗をしないようにと心掛けるため、
三十代に入るとそれほど失敗をしなくなります。

そして管理職になって人を使うようになると、
そこで人間は飛躍的に成長していくものだと感じています。

自分自身を振り返って最も成長したと思われるのは
三十代後半から四十代にかけてでしたが、
本当は二十代の時にもっと伸びなければいけないと考えています。

そしてそのためには二十代の時に
どんな人が周りにいたかが重要になってくる。

しかし会社の中では皆、自分自身の仕事に追われているため、
メンターとなってくれるような人はほとんどいません。

従ってその年代には、この人ならと思える人を自ら探しに行き、
私を指導してくださいとお願いをすればよいでしょう。

当時の私が行わなかったのはその点で、
せっかく優秀な人がたくさん周りにいたのだから、
その人たちに教えを請うようにしていれば、
もう少しよい二十代が過ごせたのではないかと反省しています。

また、仕事を早く覚えるための秘訣は、
優れた人のやり方を真似るということです。

尊敬する上司が朝何時に出社するのか、
お客様とどう接しているのか、
どんな電話のかけ方をしているのか、等々。

私はよく

「プアなイノベーションより、優れたイミテーションを」

と述べていますが、一般的な会社の仕事で、
創造性を求められる仕事はほとんどありません。
従って、優れた仕事をしている上司や先輩のやり方を
注意深く観察し、どんどん真似ていけばよいのです。
http://www.chichi.co.jp/monthly/201111_pickup.html#pick6

 「四運を一景に競う」

水曜日, 10月 26th, 2011

  瀬戸内寂聴さんも、青山俊董尼の著書

        【悲しみはあした花咲く】(光文社版)に

       次の様な推薦文をしたためておられます。

『青山俊董尼は、私の一番尊敬している尼僧さまです。きびしい修行をされ、若い尼僧さんたちを導かれています。この法話は若い人たちの迷いや悩みに答え、やさしい言葉で語られています。きっとあなたを救ってくれるでしょう』

     
       
            青山 俊董 (曹洞宗尼僧)
        
            『致知』2004年9月号
             特集「恕」より
            

                                        ※肩書きは掲載当時です。

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(人生で一番大事だと思うことを
 一つだけ挙げてほしいとお弟子さんに聞かれたら、
 何とお答えになりますか?)

「慈悲」や「恕」以外でなら、
私がよく好んでサインするのは、

「投げられた ところで起きる 小法師(こぼうし)かな」

です。起き上がり小法師、つまり達磨さんが
ボーンと投げられたそこがいかなる場所であろうとも、
正念場として起き上がる。

腰を据えてまっすぐ正面を見据える、という意味です。

われわれはだいたい人生がうまくいかないとぐずったり、
うまくいくとのぼせ上がったりして、年中姿勢が崩れます。

しかし、いかなる場所でもぐずらない、
追ったり逃げたりしない、のぼせ上がらない、ダウンしない。
どういう状態であっても、しゃきっと姿勢を正せ という意味です。

        * *

同じような意味で、

「四運(しうん)を一景(いっけい)に競う」

という道元禅師の言葉もあります。

四運というのは、季節で言ったら春夏秋冬
人生で言ったら生老病死

人生はいろいろ移り変わっていきます。

愛する日もあれば、憎しみに変わる日もある。
成功する日もあるし、失敗する日もある。
寒風吹きすさぶような中で
じっとしていなければならない日もある。

その時、多くが一喜一憂して、
追ったり逃げたりするわけです。

しかし一景というのは
「同じ姿勢」という意味で、
生も死も健康も病気も愛も憎しみも成功も失敗も、
全部同じ姿勢で受け止めよ ということですね。

だいたい、人生の移り変わりなんて
一目では見えませんからね。
愛する日は憎む日がくるとは思えない。
健康な日は病気で苦しむ日がくるとは思えませんでしょ。

いかなることが起こっても、そこで姿勢を正す。
人生なんていろいろあったほうが豊かでいいんです

人生の調度品を揃えるような気で
楽しませてもらいましょう と思っています。

心に響く言葉

火曜日, 10月 25th, 2011

● 白鵬 翔 (第69代横綱)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   

   相撲が終わってしまえば日本が終わる。
   そういう強い気持ちが、私にはあるんです。

 
  
  
● ヴィクトール・E・フランクル (精神科医)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   

   人間誰しもアウシュビッツ(苦悩)を持っている。
    しかしあなたが人生に絶望しても、
      人生はあなたに絶望していない。
      
     あなたを待っている誰かや何かがある限り、
     あなたは生き延びることができるし、自己実現できる

● 土田 和歌子 (車椅子マラソン選手)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   

   生きていると誰だっていろんなことがあります。
   その時、ドッと落ち込んだとしても、
   どん底はいつまでも続かない。
   
   むしろその時が人生を開花させるチャンスなんです。

   

● 昇地 三郎 (105歳 しいのみ学園理事長・園長)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   

  私は自分との決め事で、

  「愚痴を言わない」
  「悲しさ、苦しさを踏みつけ、
   明るい太陽を目指して生きていく」

   の二つをどんな時も守り通すようにしてきました。

● 蔡 雪泥 (功文文教機構総裁/台湾で公文式をスタート)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   

   人生で大切なことは、
   いつでも楽しい顔をしていることです。
      顔に唾をかけられたら、かけ返してはいけない。
      拭ってもいけません。乾くまでじっと待つのです。

   そういう人が、最後には人生の勝利者となると思います。

「受け継ぐ中国料理の伝統」

月曜日, 10月 24th, 2011

       
       
       
            佐藤 孟江

        (さとう・はつえ=正宗魯采傅人特級大師)

        
          『致知』2006年5月号より

……………………………………………………………………

 済南をご存じでしょうか。
 北京の南三百五十キロ、黄河のほとりにある中国山東省の省都で、
 戦前は上海のように開かれた国際都市でした。
 
 私はそこで生まれ、育ちました。
 両親は宮城県仙台の出身ですが、
 済南に渡り会社を営んでいたのです。

 子どもの頃の楽しみは屋台や露店めぐりでした。
 めぐり歩くだけでなく、焼餅や饅頭を買って
 口をもぐもぐさせるのです。

 家は人の出入りが多く、父はコックを雇っていました。
 どんなふうに料理するのか、その仕事ぶりに私は興味津々でした。
 中国では「ニンチーフワンチーラマ」(ご飯を食べましたか)が
 「ニンハオ」と同じような挨拶の言葉になります。
 
 中国人は食を大事に楽しむ国民なのです。
 いつか私も同じ感覚を身につけたようです。

 ところが私が十二歳になった昭和十二年、
 日中戦争が始まりました。
 
 済南では日本人も中国人も分け隔てなく平和に暮らしていて
 戦争など思ってもみないことでしたから、
 知人や使用人の中国人と思わず顔を見合わせてしまいました。
 
 それでも日本人は帰国することになり、
 私たち一家は両親の郷里の仙台に戻りました。
 
 しかし、済南に危険がないと分かると、
 ほどなく両親は中国に帰りました。

 ただし、私だけは残されました。
 やはり教育は日本でと考えたのでしょう。
 仙台第二高女に入学し、寄宿舎生活をすることになったのです。
 
 しかし、私は耐えられませんでした。
 原因は食事です。
 
 寄宿舎のそれが口に合わず、
 済南の食べ物が恋しくてならないのです。
 一年我慢しましたが、どうにもたまらずに、私も中国に戻りました。
 
 済南には日本軍が進駐していて、
 以前よりは緊張感がありましたが、
 日常生活にさほどの変化はありませんでした。
 
 よくは分かりませんが、中国人社会に顔の広い父は
 日本軍と蒋介石の国府軍と毛沢東の共産党軍の間を取り持って、
 戦闘が起こらないように努めていたようです。

 そんな中で、私は済南の女学校から
 女子師範学校に進みました。
 
 もっとも勉強はそっちのけで、関心があるのは
 もっぱら料理。中国人家庭の台所をのぞいたり、
 屋台で出合った内臓料理に夢中になったり。
 そんなことばかりしていました。

 それが分かった時、父は激怒しました。
 
 しかし、父も変わっていたと思います。
 私の料理への関心が分かると、
 済南で一番大きい泰豊楼に連れて行き、
 知り合いのオーナーに私を厨房で使ってくれるように頼んだのです。
 
 頼みは受け入れられました。

 もっとも、女は厨房に入れないという掟のようなものがあり、
 最初、老板(厨房の親方)の態度は冷たいものでした。
 
 でも、どんな下働きでも私には楽しくてなりません。
 そんな私の様子に、これは本気だと老板も認めたのでしょう。
 厳しく鍛えてくれるようになりました。
 私は十七歳でした。

 それからの私は修業ひと筋でしたが、
 生活面ではいろいろなことがありました。
 
 私は父の厳命で、茨城出身の将校と結婚しました。
 もっとも新婚生活は二か月ほどで、
 彼は戦場に行ってしまいましたが。
 また父がにわかに健康を損ね、亡くなってしまいました。
 そして終戦です。

 日本に帰らなければなりません。
 それを知った老板は、できるだけ引き揚げを延ばすように言い、
 山東料理の真髄である魯采(ろさい)を私に叩き込みました。
 それは怖いほどでした。
 
 私が作った料理を試食した老板が、
 「確かな舌を持っているね」とうなずいてくれた時の嬉しさは、
 いまでも忘れられません。
 
 日本の土を踏んだのは昭和二十三年四月でした。
 結婚生活は破綻しました。
 
 彼は戦場で手を血で汚すようなことがあり、
 心に傷を負っていたのです。人格が一変していました。

 私は上京し、いくつかの仕事を経て、
 昭和四十四年、高田馬場に小さな店を出しました。
 
 その時、「きみには料理がある」と
 力づけてくれたのがいまの夫です。
 
 夫はそれまで勤めていた都庁を辞め、
 私のもとで一から魯采の修業を始めたのです。
 
 真の山東料理は砂糖もラードも、
 もちろん化学調味料も使いません。
 味付けは塩と天然の香辛料だけ。
 だからこそ食材の美味が最大限に引き出され、
 身体にいい料理になるのです。

 その後、店は新宿二丁目、赤坂と移りました。
 美味しさが評判になり、有名な方々も
 顧客になってくださって繁盛しました。
 
 店を大きくしたらとかチェーン展開をしたらとか
 勧められたりもしました。
 しかし、そのつもりはありません。
 老板に叩き込まれた味を守っていくのが使命と考えているからです。

 私が済南に里帰りするような感じで初めて旅行したのは、
 昭和五十六年でした。
 
 国共内戦と文化大革命の影響は大きく、
 何よりも驚いたのは、老板に教わった山東料理が
 砂糖もラードも使うというふうで、
 すっかり失われていたことです。
 その老板にはどうしても会いたかったのですが、
 行方知れずでした。

 私と夫が山東料理の真髄を伝えていることを知り、
 中国山東省政府は魯采特級大師を公認、
 正宗魯采傅人の称号を贈ってくれました。

 私はいま、四谷で予約客だけをとる小さな店を出し、
 また料理教室で教えています。
 あの老板に叩き込まれた山東料理の魯采を日本で守り、
 ふたたび中国に蘇らせる。
 
 そうなったら、行方知れずの老板も
 どんなに喜んでくれるでしょう。
 そんなことを夢見ているのです。

「亡き母に背中を押され」

日曜日, 10月 23rd, 2011

       
       
            中井 惠美子 (中井生活経済研究所CEO)

        
               『致知』2004年6月号より

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 病院が建て替えや改修などの
 資金調達を目的に発行する病院債。

 医療とかけ離れた世界にいた私が、
 その発行の一号と二号を手がけることになった背景には
 母の存在があります。

 母は痴呆になった父を一人で看ていました。
 当時、私は都市銀行の総合職として忙しく、
 また自分の家庭もあったので、
 たまにしか顔を出すことができませんでした。
 
 すると今度は母が体調を崩し入院。
 肝臓の病で命に関わるものではないが、
 痴呆が進行していると説明を受けました。
 なんと、知らぬ間に母までもが痴呆になっていたのです。

 そうして私の両肩に両親の看護が圧し掛かってきました。
 入院中の母の世話をしながら、
 父を預かってくれる先を探さなければなりません。
 
 仕事と家事をしながらの介護、入所先探しは過酷で、
 一日も早く母が元気になってくれることを
 願ってやみませんでした。
 
 ところが、母の容態はよくなるどころか悪くなる一方。
 変だな、おかしいと思った私は、
 レントゲンを他の病院へ持ち込んで診断してもらいました。
 すると誤診が判明したのです。
 
 実は悪性のがん細胞が隠れていて、
 余命幾ばくもないと宣告をされました。
 誤診を恨むより、まず早急に転院と考えた私は、
 肝臓医療で日本一と言われる病院に転院させました。
 
 ところが、です。
 様子を見に行くと、集中看護室に横たわる母の手が、
 ベッドに縛り付けてありました。
 
 聞けば酸素の吸流量を調べようと指に器具をはさむと、
 母が嫌がって外すからだと言います。
 
 不信感を募らせながらも、
 「日本一の病院だから」と自分に言い聞かせ
 治療に期待しましたが、高齢だし、痴呆だし、と言って
 期待していたほど熱心には治療をしてくれません。
 
 ただ死を待つだけの日々が過ぎていきました。
 最期をゆったりと過ごさせてあげたいと思い、
 ホスピスに移そうかと考えた時期もありました。
 
 しかしホスピス側は
 
 「入所する本人が、自分が死ぬとわかった上で
   ここに入りたいという意思表示がなければ
   受け入れられない」
  
 と言います。退院したら出身地である
 四国のお遍路に行きたいと夢を膨らませている母に、
 どうして「あなたは死にますよ」などと告げられるでしょうか。
 
 どこへも行き場がなく、袋小路に迷い込んだような思いでした。
 時々母は私に看護してほしいと言うことがありました。
 
 そうなれば当然仕事を辞めなければなりません。
 振り返れば、挫折の多い銀行員生活の中で、
 何度辞めようと思ったか分かりません。
 
 しかしその都度、母が「もう少し頑張ってみなさい」と
 優しく背中を押してくれました。
 
 娘がはしかになれば替わって面倒を看てくれたのです。
 母の協力がなければ絶対に続けることはできませんでした。
 その母が最期の願いとして私に
 看護してほしいと願っているのです。
 
 平成十四年三月三十一日付で私は銀行を退職。
 早速、母に辞令を見せに行き、
 「明日からはちゃんと面倒看るからね」と言うと、
 母は嬉しそうに笑っていました。
 
 しかし、遅すぎました。
 三十一日の夕方、母は永遠の眠りにつきました。
 
 もう少し早く辞めればよかった。
 あんな死なせ方でよかったのか。
 私の胸の中は無念と終末医療に対する疑問でいっぱいでした。
 
 といって、誰かを恨むわけではなく、
 どの先生も一所懸命力を尽くしてくださったことは
 重々分かっていました。
 
 しかし、医療そのものは患者や私たち家族の思いと
 かけ離れたところにあったことは事実です。
 
 また、私も両親が病に倒れ、初めて医療を意識しました。
 知識がないために医者の言うなりだったり、
 無意味に不安感を募らせました。
 
 結局、これまで互いに接する機会がないことが
 すべての問題点だったのです。
 健康なうちから医療法人と接する機会はないだろうか。
 
 答えを求め様々な医療セミナーへ出席し、
 私の前職を知った日本医療法人協会の方から
 病院債の研究を依頼されました。
 
 病院債を発行すれば、医療法人は債務者となり、
 当然財務体質や経営指針、経営計画や返済計画を
 明確に説明しなければなりません。
 
 逆に債権者である購入者は、
 患者や家族の視点から改善案をどんどん提案できる。
 また、銀行や郵便局では、
 自分の貯蓄金が見ず知らずの企業への融資となっているのか、
 道路の舗装に使われているのか、まったく分かりません。
 
 しかし、病院債なら自分の投じたお金で病院に
 老人介護施設ができた、新しい設備が導入された、
 など確実に目に見える形となって現れる喜びもあります。
 
 微力で歩みは遅いかもしれません。
 しかし、医療法人に風穴を開ける原動力になると信じています。
 
 私の試案に基づき、二月に売り出した病院債第一号は
 介護施設の増築を目的に四千九百万円、
 第二号は電子カルテと駐車場の増設を目的に一億二千万円。
 いずれも完売で、病院債に対する社会的な期待を感じました。
 
 病院債は持っているお金の一部を活かし、
 自分の願うほうへ病院を動かすことができます。
 その総意が大きくなれば、
 社会だって変革できるかもしれないのです。
 
 長く金融界で働いてきた私にとって、
 お金を通じてより良い社会の実現に貢献できることは
 何より嬉しく、亡き母が背中を押してくれているように感じています。