まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

 「駐在員の三段階」

水曜日, 12月 21st, 2011

       
       
       
 桜井 正光 (リコー会長)
        
 『致知』2008年3月号
               特集「楽天知命」より
   http://www.chichi.co.jp/monthly/200803_pickup.html#pick3

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 向こう(イギリス)にいた時に、
 これは日本とは違うなと実感する場面に出くわすたびに、
 その出来事を二百ページくらいの分厚い手帳に
 メモしておいたんです。
 
 そして社長になって自分のホームページに
 「世界の中の日本」というページを設けて、
 それを順番に紹介したんです。

 その中に、「駐在員の三段階」というのがあります。

 最初の段階は語学もそんなに流暢ではなくて、
 表現力もヒアリング能力もあまりないから、
 誰もが相手の話を真剣に聞くんです。
 
 先方も日本人のことをあまり知りませんから同じで、
 お互いにそうやって非常に
 いいコミュニケーションが取れるんですね。

 ところが、いくらコミュニケーションを取っても、
 リコーでいうと厚木工場の生産性や品質レベルを
 上回るものにはならない。
 
 「いったいどうなってるんだ」
 とお互いに相手のせいにし始めるのが第二段階です。

 イギリス人というのは出勤率が90%で、
 だいたい十人に一人はいつも来ないんです。
 それでこちらが
 
 
 「出勤率が悪いからダメなんだ」
 
 
 と言えば、彼らは
 
 
 「日本人はいつも昼間に仕事をしないで、
  残業や休日出勤で仕事をする。
  我々と一緒になってやってくれない」
 
 
 と言い返す。お互いに批判し合うんです。

 だけどこの批判の時代が案外大事で、
 これをやっていると、お互いにいくら批判し合っても
 何も生まれないことが分かってくる。
 
 現実を受け入れ、どうすべきかを考え始める。
 
 ここは厚木ではなくイギリスなんだと。
 
 ここでいかに品質を上げ、生産性を上げるかということで、
 出勤率90%でも生産性が落ちない方法を考え始めるわけです。
 これが第三段階なんです。

 経験からすると、一段階、二段階がそれぞれに約一年半。
 三年くらいしてようやく建設的、改革的な関係を築けるんです。
 
 だから、駐在員を二段階の誹謗中傷の時代に
 日本に戻してしまうと、外国に対して
 非常に悪い印象を持って戻ってくるからよくない。
 
 三段階の建設期までいって戻すのが一番いいですね。
 

「ヒルティに学んだ心術」

火曜日, 12月 20th, 2011

         
       
  渡部 昇一 (上智大学名誉教授)

     『人間学入門』より
 http://www.chichi.co.jp/book/ningengaku_guide.html

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ヒルティ(スイスの哲学者)がエピクテートスを訳しているんです。
エピクテートスは有名なストイックな哲学者です。
そのエピクテートスを訳したヒルティの前書きがいいんだ。

ヒルティというのは非常に熱心なキリスト教信者なんですが、
彼はその文章の中で、キリスト教の教えは非常に高い教えだから、
本当にわかるためにはある程度、
人生の苦難をなめたりしなきゃならん。

だからこれからという若い人が
宗教的な悟りを開いちゃうのは考えもんだといっている。

本当の人生の困難に会ったときに、
昔、どこかでこんな教えを読んだことがあったというんで、
かえってね、宗教に感激する心がなくなることもある。

それで、むしろ、青年には自分は
エピクテートスのような生き方を教えたいといって、
わざわざ、訳しているわけです。

エピクテートスの哲学というのは、
一種の“悟り”の哲学です。

どういうことかというと、自分の置かれた環境の中で、
自分の意志で自由にならない範囲を
しっかりと見極めるということです。

自分の意志の範囲にあるかどうか。

そこにすべてが、かかっているということです。

ただ、それがはっきりとわからないとだめです。

はっきりわかると、自分の意志の範囲の中にあるものは、
自分が考えて最善の手を打つ。

打ちたくなければ打たなくてもいいが、
すべては自分の意志の範囲にないもの、これはあきらめる。

こういうものに対しては、絶対に心を動かさないということです。

外界のもの、地震とか天災とかは自分の意志の範囲にない。
友人や世の中の人が自分をどう思うかも、
自分の自由にはならない。

こういう自由にならないものに、
自由にならないといって、腹を立て、
心の平静を失うのは愚かだということです。

こういう物に対しては絶対に自分の心を騒がせない。

例えば、ぼくが三十年前に上智大学を
一流大学と思ってもらいたい、
やってることはいいんだからといったって
他の人は認めないものはどうしようもない。

これは意志の範囲にはないんです。

ところが、教えられていることはついていくのが
苦しいくらい高級なものをびしびしやっている。

すると、これを十分に消化するために毎朝、
五時に起きて朝めしまで二時間勉強することから
始めようというのは、それをやるかどうかはまったく、
これは自分の意志の範囲です。

意志の範囲にあることはいいわけをしないで、自分でやる。
で、意志の範囲にないことは問題にもしない。
心を動かさない。

まぁ、こういうのが、ヒルティから学んだことの一つでしょうね。

「関東大震災の時に聞こえてきた天の声」

月曜日, 12月 19th, 2011

 
      
       
   堀 文子 (日本画家)
        
            『致知』2012年1月号
             特集「生涯修業」より
      

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そもそも私のような人間がどうしてできたかと考えると、
四歳の時に体験した関東大震災の影響が原点になったと思います。

あの時、頼りにする母が、恐怖で我を失っているのを見ました。
大人たちが裸足で庭を転げ回っているのを見て、
おかしかった記憶があるんです。

住民が町の避難所へ集められ、人々が家財道具を持ち込んで、
一つの街ができているような状態でした。

そこで私はいろんなことを観察したのを覚えています。

わがままを言っている人、サイダーの栓を口で開けていた人……、
その時、私の家に年をとった婆やがいて、
驚くことに安政の大地震を知っていた。

でもその人が総大将になって、
冷静にその大災害を乗り切る一切の準備をし、
皆の不安を和らげてくれました。

ただ、下町から火の手が回り、
私の家も危ないという知らせがきた。
家の方向に巻き上がった真っ黒な煙を見ているうちに、
私、失神状態になっていたと思います。

その時、

「あるものは滅びる」

って声が電流のように全身を貫いた。
幼い心が悟りを受けたのです。

そういうことがあって、私は子供らしい子供にならず、
物欲のない、自分の足で立って生きる姿勢
身についたんじゃないでしょうか。

子供だから理屈は分からないが、
この世の無常の姿を、物心のついたばかりの頃に見たわけです。
「乱」を見てしまった。

その時、庭に泰山木の大木があったんですが、
カマキリが静かにこっちを見ながら
その幹を上っていくのを見ました。

絶え間なく余震が続いていました。
大きなカマキリでしたから、産卵前の雌だと思います。

人間がこんなにもうろたえている時に、
カマキリは静かに動いていました。

この時、文明に頼っている人間が
無能だということを知りました。

停電はする、水は出なくなり、汽車は止まる。
何もかも動かなくなった時、他の生物は生きて動いている。

私が生命の力を意識するようになったのも、
その時の経験が大きかったと思います。

 「一日一生」

日曜日, 12月 18th, 2011

       
                   
              橋本 喬 (観光企画設計者社長)

        
               『致知』2003年8月号
                   「致知随想」より

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十年前の十月、いつも通り出社した私を
待ち受けていたのは東京地検特捜部だった。

故・金丸信元自民党副総裁の脱税事件を契機に
明るみになったゼネコン汚職。

土建国家・日本の暗部にメスが入り、
収賄罪で県知事や自治体の首長、
ゼネコンの役員クラスが多数逮捕された。

私もその一人である。

大成建設の営業本部長を経て副社長になった矢先、
宮城県発注工事にからみ、県知事および
仙台市長へのヤミ献金容疑が発覚。
私と仙台支店長と副店長が贈収賄で起訴された。

営業本部長はゼネコンの営業活動の総元締めであり、
必要な資金はすべて私の管理下に置かれていた。

支店長と副支店長が
「知事と市長に少し何かしなくては」と言った時、
私は「そうだね」と答えた。

それが業界の通例だったし、そうしなければ
他社から取り残される。

また、われわれだって贈収賄が
刑事罰に相当することは百も承知。

あくまでも「選挙資金」として渡したのであって、
相手が私的に使っていたなど知る由もない。

「選挙資金と言っても、それに対する見返りを
 期待していたでしょう? 何も期待せずに金を出しますか」

 取り調べの席で検察は言った。

「そりゃ出しませんな」

と答えると、私は即刻逮捕された。
自分が金を渡してもいなければ、いつ渡したかも知らない。

相手が選挙に使わず、勝手に私腹を肥やしていただけだ……。

言いたいことは山ほどあった。

だが、腹を括った。
すべてを受け入れることにした。

拘置所での生活は、判で押したように
規則正しい生活だった。

七時起床、九時就寝。
十五時から体操で、三度の食事の時間も決められていた。

よく、所内の飯は「くさい飯」といわれるが、
慣れればそれほど不味くもなくなった。
週に三度は風呂に入れたし、半月に一度は床屋にも行った。

とりたてて生活に不自由はなかったが、
「ここは別世界だ」と痛感することは多かった。   

初めこそ罪状認否の取り調べもあったが、
早々と罪を認めたら特にすることもない。
独房の中で、これまでのことを考えてみたこともあった。

早大の建築学科を卒業し、
大成に入社したのは昭和三十三年。
東京タワーが完成した年だった。

戦後日本の復興の象徴ともいえる高層建築物を数多手がけ、
四十九歳で取締役東京支店長、
営業本部長を経て副社長になった時は、
「大成初の昭和二桁の副社長」と言われた。

当然、耳に入ってくるのは「次期社長」の声――。

狭い部屋で思いを巡らせても、すぐに行き詰まってしまう。

それに考えたところでどうしようもないのだ。

有り余る時間で、私はやたらと本を読んだ。
拘置所にいた四か月間で百冊以上読んだだろうか。
家族からの差し入れも、本が一番嬉しかった。

特に好んで読んだのは、徳川家康や織田信長などが
登場する長編歴史小説。

別に自分の姿を重ね合わせたとか、
彼らの生き様に鼓舞されたとかいうのではない。
ただただそのストーリーに集中し、没頭していた。
何も考えなくて良かった。

拘置所で年を越し、裁判も一段落した一月下旬、
いよいよ出所の時がきた。
ああ、この生活も終わったんだ。

事態を冷静に受け止めている半面、
誰かに会ってむしょうに話をしたかった。

この四か月、限られた面会時間に家族や弁護士としか
話ができなかったことへの反動だろう。

門をくぐると大勢の人たちの姿が見えた。
私は驚いた。そこにいたのは大成建設の仲間たちだった。

「ご苦労さん」

「お疲れ様でした」

次々と皆に労いの言葉をかけられ、
私は急に現実の世界へ戻ったような気がした。
会社から用意された車に乗り自宅へ行くと、
そこにもたくさんの同僚たちが私の帰りを
いまや遅しと待ち受けていた。

その輪の中に入った時、
「分ってくれる人はたくさんいる」と心から思った。

人生は「一日一生」である。

前から好きな言葉だったが、事件を契機に
その思いはますます深くなった。

人生は一日の積み重ねであり、一日を全力で生きて、
初めて人生をまっとうすることができる。

時には躓き、誤解もされる。
私も逮捕され、社会に大きな影響を与えた。
失ったものも多く、私の肩書きと付き合っていた人たちは、
潮が引いていくように離れていった。

しかし、「人間・橋本喬」と付き合ってくれていた人たちは、
私を支え、励まし続けてくれた。

現在籍を置く観光企画設計社の創業者であり、
会長である柴田陽三氏とは二十数年以上の付き合いになる。
ホテルオークラをはじめ、
全国のホテル設計を請け負っている柴田氏の事務所は、
大成時代の取り引き先だった。

「絶対にいい仕事をして、お客様のお役に立ちたい」
という一心で仕事に取り組んできた私の姿勢が、
柴田さんには伝わっていたのだ。

事件が一段落した時、
「ちょっとうちの会社を手伝ってよ」と言って、
私を副社長として迎え入れてくれた。

いずれ訪れるであろう死の床で、
これまでの人生を振り返った時、
私は幸せだったと思いたい。

結局最後に自分を満足させるのは、
「人様のお役に立った、人様に必要とされた」
という思いだけである。

出世をして金持ちになっても、
死に際に誰も来てくれないような人生は悲しい。

毎日毎日人に優しく、親切に、お役に立つ。
私はそういう人生を送りたい。

「目をつむれば精神は花園に遊ぶことができる」

土曜日, 12月 17th, 2011

        
       
       
 永田 勝太郎

   (財団法人 国際全人医療研究所理事長)
        
 『致知』2011年11月号
               特集「人生は心一つの置きどころ」より
http://www.chichi.co.jp/monthly/201111_pickup.html#pick3

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今回(東日本大震災)のような文明を
引っくり返すような大きなストレスに対し、
悲観的な捉え方をする専門家もいます。

けれども日本人は第二次大戦を経験し、
広島・長崎の被爆を経験し、
その中から立ち上がっていったわけでしょう。

だから僕はそれほど悲観的になる必要もないし、
人間はそんなに柔なものじゃない、
強かなものだと思っているんです。
それが我々のように実存分析を学ぼうとする人間の
最も根底にある考え方です。
要するに楽観主義の精神ですね。

フランクル先生ご自身の生き様もそうでして、
彼がアウシュビッツ収容所で家族全員を殺され、
いつガス室に行けと言われるかもしれない中を
生き抜けたのは、基本的に楽観主義者だったということ

逆に悲観的な人は死んでいったということでしょう。

例えば何月何日に米軍が救出に来るという噂が流れる。

皆いよいよ助かるかもしれないと心がざわめく。
ところがその日が来ても何も起こらなかった時、
ガクッときてバタバタと人が死んでいった。

ところがフランクル先生はそんな期待はしていません。
例えばこんなエピソードがあります。
彼が収容所の中で何かミスをやった。
それを見ていたナチスの将校が
彼の頬を思い切りぶん殴ったんです。

その拍子に眼鏡が吹っ飛んで地面に落ち、
レンズが割れてしまった。

その割れた眼鏡を拾い上げながら彼は思った。

「もしここを出られて収容所体験を本にできたら、
  この割れた眼鏡を表紙にしよう」と。
 
 
だから彼の初版本の表紙には、
その割れた眼鏡の絵が使われているんですよ。
とにかくそのくらいに彼は楽観的で強かだった。

またアウシュビッツでチフスに罹った先生は高熱を発しました。
本人は医者だから自分の予後が分かる。

今夜もし寝てしまったら、
私は明日の朝、死体になっているだろう、と。
だから自分の足をつねりながら、
眠らないようにしていたというんです。

一方、頭の中では何を考えていたかというと、
自分は米軍に救出されてウィーンへ帰る。

そして『一精神医学者の収容所体験』という本を書き上げ、
それが世界的なベストセラーになって
カーネギーホールに呼ばれると考えた。

そのホールを埋め尽くす聴衆を前に講演を終わり、
大喝采を受けている自分の姿を想像していたというんです(笑)。
今夜死ぬかもしれないという、その最中にですよ。

         (中略)

たとえいかなる極限状況に置かれても、
人間の心は自由だと。

目をつむれば精神は花園に遊ぶことができると
フランクルは述べていますが、そのとおりですよね。
確かに妄想かもしれませんが、最後の瞬間まで諦めず
希望にしがみつくことが大事だと思うんです

「二言(にげん)挨拶」

木曜日, 12月 15th, 2011

       
       
   太田 誠 

   (駒澤大学野球部元監督)
        
   『致知』2006年3月号
   「致知随想」より
      

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私が駒澤大学野球部監督に就任して
間もない頃のことである。

大勢いる部員の中に、こいつはどこか
人と違う挨拶の仕方をするな、という選手がいた。

後に読売ジャイアンツに入団し、
「絶好調男」の愛称で人気者になった中畑清である。

当時の彼は、率直に言って田舎から
そのまま出てきたような垢抜けない顔をしていたが、
声だけは人一倍でかく、
何よりも人懐っこい性格をしていた。

まるで見知らぬ人と会っても平気で話をするし、
お年寄りにも実に自然に声をかける。

言葉というものには、
これくらい「心」が表れていなければ駄目だと感じたのは、
おそらく中畑と出会ってからのことになるだろう。

         * *

さて、彼のしていた挨拶とは次のようなものだった。
例えば誰かに「こんにちは」と声をかける。

普通ならこれでお終いだが、
中畑は必ずその後に

「きょうはいい天気ですね」

とか

「おばあちゃん、いつも元気ですね」

といった“もう一言”の挨拶を付け加えるのだ。
私はこれを

「二言(にげん)挨拶」

と名付け、普段の挨拶をただの挨拶に
終わらせないよう心がけてきた

この「二言」は、必ずしも言葉である必要はない。
すれ違った相手のために立ち止まっても二言。
手振りや微笑であってもいい

上級生のほうから
「おはよう。きょうも元気にいこうぜ」
なんて声をかければなおのことよし。

そこに人間同士の心と心の通い合いが生まれてくるのだ

「人生における“問い”」

水曜日, 12月 14th, 2011

       
       
   福島 智 

   (東京大学先端科学技術研究センター教授)
        
   『致知』2012年1月号
     特集「生涯修業」より
      

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私が思うに「修業」というのは、
何らかの苦悩を伴いながら自分を
高みに連れていこうとする営みのこと。

ビジネスでも、学問でも、お寺の勤行なんかでも
そうかもしれない。

しんどいことはしんどいけれど、
そのしんどいことを通して別の喜び、
別の景色が見えてくるということだと思います。

私自身は障害を持ったほうがよかった、
などと単純には言いません。

ただ、たまたま障害を持つという運命を
与えられたことによって、自分自身の人生について、
また障害を持つとは何なのか、
完全でない人間が存在するとはどういう意味なのか
といったことを考えるきっかけを得ました。

誰かに質問されなくても、絶えずそのことは
心のどこかで考えていることになりますので。

そういう人生における「問い」が
私の心の中に刻まれたという点で、
自分にとってはプラスだったなと受け止めているんです。

完全な答えが出ることはないでしょうが、
重要なことは、問いがあって、
その問いについて考え続けることだと思います。

その部分的な答えとしては、おそらく人間の価値は
「具体的に何をするか」で決まるということ
何をするかとは、何を話し、何を行うか、すなわち言動ですね。

私が盲ろう者になって指点字の通訳が始まりつつある時に、
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んだんです。

その作品の中で、ある貴婦人が

「私は人類愛がとても強いのですが、
  来世を信じることができません」
 

と悩みを打ち明ける。

それに対して長老は

「実行的な愛を積むことです。
 自分の身近な人たちを、飽くことなく、
 行動によって愛するよう努めてごらんなさい。
 
 ただし実行的な愛は空想の愛に比べて、
 怖くなるほど峻烈なものですよ
 
 
と諭すんですが、私もそのとおりだなと思いました。

人間は博愛主義者にはすぐになれるんです。
「全人類のために」という言葉は誰にでも言うことができる。
だけどすぐそばにいる人の困っていることに対しては、
案外冷淡になるんですよね。

だからこそイエスは「汝の隣人を愛せ」
言われたのではないかと思うんです。

      (略)

医師も看護師も、その他様々な職業に就いている人たちも、
問われているのは世界中の人々に対してどうこうではなく、
具体的な他者に対して何ができるかということです。

「百歳」から

火曜日, 12月 13th, 2011

あの『くじけないで』の柴田トヨさんが、

第二詩集『百歳』を出版された。

『挫けないで』が150万部突破のベストセラーとなり、

台湾、韓国、オランダで翻訳され、さらにイタリア、スペインでも刊行されるという。

世界中の人々の心を癒し始めた。

声高に絶叫する平和より、か細い声のささやきが心に伝わる。

かの老子は「大音は微声なり」と説いた。

百歳という年月の重み、捨てた軽みが、

読む人をしてホッとさせ、ポッと生きる灯を点す。

そんな中、震災の人々への寄せる詩が心を呼び起こす。

被災者の皆様に

あぁ なんという

ことでしょう

テレビを見ながら

唯 手をあわすばかりです

皆様の心の中は

今も余震がきて

傷痕がさらに

深くなっていると思います

その傷痕に

薬を塗ってあげたい

人間誰しもの気持です

私も出来る事は

ないだろうか?考えます

もうすぐ百歳になる私

天国に行く日も

近いでしょう

その時は 陽射しとなり

そよ風になって

皆様を応援します

これから 辛い日々が

続くでしょうが

朝はかならず やってきます

くじけないで!

 「目から鱗が落ちた松下幸之助のスケールの大きさ」

火曜日, 12月 13th, 2011

      
       
      田中 宰
   (松下電器産業元副社長
   阪神高速道路前CEO兼会長)
        
    『致知』2012年1月号
      特集「生涯修業」より
      

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 私が幸之助創業者と初めて直に接したのは昭和四十年。
 創業者が山陰地方の販売店で構成する
 「山陰ナショナル協栄会」にご出席されるため、
 米子においでになった時だった。

 山陰は社員の人手も少なく、
 送り迎えも会場係もホテルでのお世話係も、
 全部新入社員の私が担当することとなった。
 私の人生で歴史的な出来事である。

 前日入りした創業者は東光園というホテルに宿泊され、
 その日の夕方は営業所長ご夫妻と販売店ご夫妻を招いて
 一緒に食事をされることになった。

 私は隣の部屋に控えていたが、
 その宴会を取り仕切っていた仲居頭さんが、
 会話の中継ぎの中でこんな話をされた。

「松下さんのような立派な会社の工場がこの地にあれば、
 私も息子と水入らずで生活できたのですが……。

 いつかぜひこの地にも工場をつくってください。
 地元の皆はどれほど喜ぶことでしょう」

 聞けば、女手一つで育ててこられたご子息は
 地元に職がなく離れて暮らしているという。

 数日後、創業者自ら山陰の出張所に電話が入った。
 「米子で工場建設の土地を探すように」と。

 後に分かったことだが、
 当時様々な地方自治体の首長が本社を訪ねてきては
 工場の誘致をしていた。
 しかし基本的にお断りしていたようである。
 それが仲居頭さんの一言で米子をはじめ、
 四十八都道府県「一県一工場」の工場展開に繋がったのである。

 この決断は当時、若い私には大きな疑問であった。
 大阪の門真に工場を集中させたほうが絶対に効率的なのに、
 なぜ地方に分散して非効率的なことをするのか。

 しかし後に文献を見て、
 創業者のスケールの大きさを目の当たりにするのであった。

 「自社の目先の利益も大事だが、
  雇用を生むことはそれ以上に大事である。

  松下の電化製品を各地に普及させていこうとするならば、
  各地域が栄えていないと、結果自分たちも栄えていかない」

 この人、ムチャムチャスケールのでかい人だ。
 目から鱗が落ちるような思いがした。

 「幻の養生書『病家須知』に迸る人間愛」

日曜日, 12月 11th, 2011

       
                   
              中村 節子 (看護史研究会会員、藤沢市立看護専門学校元校長)

        
               『致知』2007年6月号
                   「致知随想」より

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 江戸時代後期に、町医・平野重誠(じゅうせい)によって著され、
 それまでの看護法を集大成した
 日本初の看護書といわれる『病家須知(びょうかすち)』。
 
 貝原益軒の『養生訓』と並ぶ養生書の二大金字塔とされながら、
 その存在はほとんど知られていませんでした。

 書名が「病人のいる家」+「須く知るべし」
 から取られているように、内容は養生の心得に始まり、
 療養、介護、助産、さらには医者の選び方や
 終末期ケアについてなど多岐に亘ります

 昨年、看護史研究会が発足五十周年を迎えたのを機に
 「何か看護学生のために役立つものを」と考え、
 本書の現代語訳に取り組むことになりました。
 メンバーは二十代から七十代の専門家十数人です。

 現代語訳に取りかかる前に、
 私はまずこれを書いた平野重誠の人となりを知りたいと思い、
 図書館を訪ねてみました。
 
 しかし詳しい資料は見つかりません。
 方々を探し回った挙げ句、漢方の専門書に記されてあった
 名前だけを頼りに、歴史家の先生方七名に手紙を出しました。
 
 そうして、北里研究所東洋医学総合研究所の
 小曽戸洋先生から返信をいただけたことで、
 重誠の子孫の方とも連絡を取ることができ、
 埋もれていた歴史に一条の光が差し込んできました。

 著者・平野重誠の生年は一七九〇年。
 幼い頃から父親に医術を学び、
 徳川将軍家の主治医だった多紀元簡に師事するなど
 大変な秀才でしたが、官職には就かず、
 生涯を町医者として過ごしたといいます。

 一七一三年、『養生訓』の刊行を機に
 健康指南書が相次いで出されたものの、
 いつしか「医」は仁術から算術へと堕落し、
 人々の間にも健康はお金で買うもの、
 といった風潮が広まっていました。
 
 そうした世の流れに抗い、日本人が伝えてきた
 日常の心がけを基本に養生や看護の方法をまとめ、
 一八三二年に出されたのが『病家須知』でした。

 本書が他の養生書と異なるのは、
 重誠が実際に現場で行ってきた臨床体験や
 自らが試して効果を得たことを
 具体的に書き記していることです。
 
 大病後に夜寝つかれない人を眠らせる方法を
 挿絵入りで解説したり、産後の寝床の図を示したり……。

 医者は病気になった人を治療するのではなく、
 病人が回復に向かう過程を手助けしていくのが
 本来の役割であること。
 
 そして自分の健康を自ら維持し、
 未病で防ぐための養生法に、最も重点が置かれているのです。
 
 結果的にこれが最も医療費を安く済ませる手段に
 なるのではないでしょうか。

 中でも私が強く衝撃を受けたことが三つありました。
 
 
 一つは、およそ病気というものは、
 皆自分の不摂生や不注意が招くわざわいであること。
 
 
 二つ目は、摂養を怠らず、
 療薬を軽んじてはならないこと。
 
 
 三つ目は病人の回復は看病人の良し悪しで
 大きく変わる――「医者三分、看病七分」の考え方でした。
 
 これは私自身が老輩者を看護したり、
 家族の看護に十数年間携ったりした経験からも、
 実感としてありました。

 これまでの日本の近代看護は、ナイチンゲールをはじめ、
 欧米から移入されてきたことから教育が始まっていますが、
 『病家須知』の成立はそれから二十年を遡ります。
 
 人間が本来持つ自然治癒力を高め、
 それを引き出していくという日本独自の視点や
 看護の土壌が存在したのではないか、
 というのが私たち研究会の見方でした。

「日本を知ることは江戸を知ることである」と言われますが、
 江戸時代と現代とは共通する部分が数多くあります。

 重誠は薬の服用について
 「薬をみだりに飲んではいけない」、
 医者を選ぶ時は
 「常に勉強している先生を選ばなければならない」等と
 記述していますが、重誠自身がまさに
 そのように生きた人でありました。
 
 彼の生きた時代は、ちょうど和蘭から
 西洋医学が入ってきた頃でしたが、
 重誠は治療の役に立ちそうなことは何でも取り入れ、
 普段の治療に役立てています。

 その克己的な生き方は、医聖と呼ばれた
 ヒポクラテスの「医の倫理」にも通じるものがありますが、
 これを言行一致させ、その通りに生きていくのは
 並大抵のものではありません。
 
 重誠は自分がした辛い思いを子孫には
 させたくないとの考えからか、
 孫の代まで医者を継がせることはしませんでした。

『病家須知』には、先に述べた養生の心得などの他に、
 健康を保つための食事や病気をした時の食事療法、
 子どもを育てる心得、病気が伝染る理由、
 消化不良や吐き下し、吐血、ひきつけ、脳梗塞、
 動物から咬まれた時、切り傷など、
 日常生活で起こり得る病の対応、
 婦人病、懐妊時の心得から無事に子どもを産ませることまで、
 実に事細かに記されています。
 
 そして片目を失明していたにもかかわらず、
 各漢字の横には小さな小さな文字で、
 素人にも読めるよう意味振り仮名が打ってありました。

 重誠はそんな自身の生き方を
「世話焼き心で、いても立ってもおられない性格」
 と自嘲気味に語っていますが、その根本には、
 人々を何とかして救いたいという
 重誠の迸るような情熱と人間愛とがあったのでしょう。

 現代は簡単に自殺をしたり、
 人を殺めたりしてしまう時代です。
 
 私は助産師をしていたせいか、
 人間は一人ひとりが選ばれて
 この世に誕生しているわけですから、
 どんなに辛い思いをしても、
 人間として生きてこそ価値があると考えます。
 
 子どもたちには、踏まれても踏まれても
 強く生きていく雑草のような存在であってほしい。
 
 その逞しい元気な体と心をつくるのは、
 やはり大人の責任であると思うのです。

『病家須知』の現代語訳完成は、
 皆様の健康づくりのための
 一滴の雫のようなものかもしれません。
 
 しかし、それを読んだ人たちがいかに内容を吸収し、
 自分の中に広げていってくださるか――。
 それが私たちの願いであり、
 人々の健康と幸福を心から願った
 重誠の切なる祈りではないかと思うのです。