「人生を分ける2文字の差」
火曜日, 7月 2nd, 2013鍵山 秀三郎(イエローハット創業者) 『致知』2013年7月号 特集「歩歩是道場」より └─────────────────────────────────┘ 【杏中:鍵山さんはどういう信条で 事業や掃除に取り組んでこられましたか?】 一つには先ほど申し上げた 「大きな努力で小さな成果を出す」 ですね。それに付け加えれば 「誰にでもできる簡単なことを、 誰にもできないほど続ける」 これですね。私は何を行うにしろ、この二つが根底にあります。 それから 「自分に与えられた権限、権利。 それを使い尽くしてはならない」 ということも日常の戒めとしています。 例えば、ホテルに泊まったら歯ブラシでも 髭剃りでもなんでも揃っているけれども、それらは使わない、 二泊三日で部屋を使用する時は 「シーツは替えなくていいです」と予め伝える、 といったことですね。 そのことでスタッフに負担をかけないようにしています。 私の家は留守が多いんです。 それで宅配便の方には 「玄関前にみな置いておいてください」と伝えています。 さすがに冷蔵品冷凍品はいけないとよく思われるのですが 「腐っても文句は言いません」と言っています。 いまは、なんでも自分の権利を精いっぱい使おうという時代です。 これが世の中を悪くしていると私は思うんです。 【杏中:そういえば、ある方から聞いたのですが、 鍵山さんは「いつも笑顔ですね」と言われた時、 「私はもともと無愛想な人間です。 しかし、そういう無愛想な自分の性格に あぐらをかかないようにしている」と答えられたそうですね】 ニーチェに 「不機嫌は怠惰である」 という言葉がありますね。 先日もある方が 「自分はぶっきらぼうなので損をしても仕方がない」 とおっしゃっていました。 私はその方に 「あなたは何か損をしているのですか。 何も損をしていない。 周りが不愉快なことを我慢して損をしている」 と言いました。 「自分の性格がこうだからしようがない、 と思うのは我がままです」 とはっきり申し上げたんです。
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平澤興先生に出会えたのは私の財産です、
と私は講演の時によく話します。
森信三先生、坂村真民先生に出会えたのも同じです。
初めてお会いしてからもう30年近くが過ぎますが、
年を経るごとに、「逢い難くして逢うを得たり」の思いを深くしています。
その平澤先生の25回忌が6月17日に新潟で行われると、
平澤先生の晩年、秘書としてよく仕えられた早川さんが教えてくれました。
当日は、私は所用があり参加できませんが、
没後25年、先生のお人柄と教えは今も温かく、
私を導いてくれています。
平澤先生はお会いすると、
人をホッとさせるような人格の力をお持ちの方でした。
しかし、自分には相当厳しい人だったようです。
数年前、平澤記念館で、
平澤先生の同級生が先生を評した言葉に出会いました。
「平澤君は非常な努力家でありました。
人間努力をすれば最もすぐれたところまで進み得ることを
彼は身をもって教えてくれました」
同級生からこういう評価をされるほどの努力家であった、ということです。
そういえば、伝説的になっている先生の若かりし頃の勉強ぶりがあります。
先生は四高から京都大学医学部に入学するのですが、
これまでのような受身の勉強ではなく、
命がけの勉強をしようと決心し、
昼間は大学の講義を聞き、
夜は先生の話した外国の参考書を原典で読み、
そして自分独自のノートを作るという計画を立てられました。
それを全部やると、睡眠時間は4時間ほどしかとれません。
そういう生活をひと月ほど続けているうちに
先生はノイローゼのようになってしまいます。
そんなある日、
故郷の雪原を1人で歩いていると、
ベートーヴェンの言葉がドイツ語で聞こえてきたといいます。
「勇気を出せ。
たとえ肉体にいかなる欠点があろうとも、
わが魂はこれに打ち勝たねばならぬ。
25歳。そうだ、もう25歳になったのだ。
今年こそ男一匹、
本物になる覚悟をせねばならぬ」
25歳のベートーヴェンが耳の病気で絶望的になろうとした時に、
自分自身を鼓舞すべく日記に書いた言葉です。
その言葉がドイツ語で聞こえてきたというから、
すごいですね。
その言葉に励まされ、先生は自分を取り戻すのです。
そして、また新たな計画を立て直します。
それは実習には出るが講義には出ず、
その代わり原書を読むことに専念する、というものです。
担当教授に示された原書は1月から6月までで
約3千ページ。それを朝2時に起きて、夜9時まで読む。
予定のページがすむまでは寝ないという計画を立て、
それを実行したのです。
まさに、非凡な努力です。
平澤先生は計画を途中でやめないためには、
「予定は自分の実力以内で立てること」といっています。
1時間内に1ページ読める力があるなら、
予定はその3分の2か半分にする。
1か月も30日の中で、いろんな用事が出てくるから、
24、25日くらいにしておく。
そういう余裕のある計画を立てることが大事だといわれています。
平澤先生は89歳で亡くなられましたが、
その独特の人間的魅力と、
若年期の勉学に打ち込む姿は無縁ではないと思います。
平澤先生の語録『生きよう今日も喜んで』には
人生の達人たる先生のすばらしい言葉が
ちりばめられていますが、
私自身が心に留めている先生の言葉を
最後に紹介したいと思います。
└─────────────────────────────────┘
二十年にわたって雪国の郵便配達を続ける中で、
命の危険に直面することが何度かありました。
ある時、配達を終えて歩いていると、
突如としてゴォーッという地鳴りのような音が
聞こえてきました。
振り返ると、山の上から
物凄い量の雪が襲ってきたのです。
私は慌てて逃げましたが、
一瞬のうちに私の背中をかすめて
崖下へと流れ落ちていきました。
あと何秒か遅れていたら、
間違いなく雪崩に巻き込まれていたでしょう。
それだけではありません。
とてつもない暴風雪が吹き荒れていた時には、
どんなに踏ん張っても体が思うように動かず、
どんどん崖のほうへと流されていく。
そして崖まであと二メートルという寸前のところで
ピタッと風が弱まったということもありました。
郵便局の方からは
「吹雪の日は大変だから、
休んで次の日にすればいいのに」
とよく言われます。
しかし、そんなわけにはいきません。
どんなに凄い吹雪だろうと、
郵便が届くのを楽しみに
待っている人たちがいるのですから。
ある方がこう言いました。
「誰かの笑顔を、この山に住む人々に届け、
一緒に喜ぶこと。
誰かの悲しみを、この山に住む人々に伝え、
一緒に涙すること。
それがあなたの仕事」
ですから、今日までの二十年、
私は天候を理由に休んだことは一切ありません。
しかし、たったの一日だけ、
どうしても体が言うことを聞かず、
休んだことがありました。
それは一番下の娘が亡くなった日のことです。
そう、父ちゃんが亡くなった時、
奇跡的に一命を取り留めたあの子です。
彼女はあの交通事故の後、
結婚して幸せな家庭を築きましたが、
若くして乳がんを患ってしまったのです。
享年四十六でした。
やはり親としては自分の娘に先立たれるほど
切ないものはありません。
こうして振り返ると、
└─────────────────────────────────┘
「国語教育の神様」といわれた大村はまが
九十八歳で亡くなる四日前、あるシンポジウムのため、
インタビューを収録しました。
静かな迫力のある話しぶりでしたが、翌日、
「言いたかったことを一つ、言い落とした」
と電話がきました。
追加の収録をお願いしようか、
印刷物にして会場で配布してもらおうか、
いや、シンポジウムに出席して、
フロアから発言させてもらおう、とまで言います。
そこまでしなくても、と止めましたが、
大村の、仕事の細部にまでわたる本気は、
揺らぎませんでした。
けれども、その長い電話の最後に、
ふと気持ちが切り替わったように
「あんまりしつこすぎるのも良くないからやめにする」
と自分から言い、その三日後に突然、
あっけないような感じで世を去りました。
七十四歳で教職を終えてからも、
国語教育者として道を切り拓くのだという
覚悟と自負が大村にはあったのでしょう。
亡くなるその月まで
毎月何万円分という本を買って読み続け、
最後の最後まで前のめりな人でした。
死後、残された自室の机の上は、
まさしく現役の人のものでした。
* *
大村と出会ったのは、私が中学一年九月の転入時です。
当時六十三歳の大村は、明るい調子のあいさつで
授業を始めると、小さな藁半紙を配りました。
「夏休みの宿題はきょうが提出日でしたね。
少し遅れるという人もありますか。
この紙に提出状況や予定を簡単に書いて、
添えて出すように。
隣の人と相談したりしないで、
静かに、さっとやりましょう」
と言いました。
転入生だった私はどうしていいか分かりません。
尋ねに行こうかと考えましたが、
それをさせない雰囲気が大村にはありました。
結局、考えた末に
「私は転入生なので何も提出できません」
と藁半紙に書き、黙ってそれだけを出すことにしました。
二日ほど後のこと、まだよく名も知らない同級生が
「はま先生がね
“ああいうことを黙ってやり切るのは大きな力だ。
今度の転入生は力のある子だ”
って褒めてたよ」
と教えてくれたのです。
迷った末にとったあの行動を
「力」と評価してくれたのだと知った時、
あの先生についていこう、という気持ちに
なったのを覚えています。
大量の本や新聞・雑誌・パンフレットなど、
驚くほど多彩な教材を使った授業は
「大村単元学習」と呼ばれました。
一度も同じ授業を繰り返さなかったといわれています。
授業をリードするその姿は実に知的で、
具体的な知恵と技術に満ち、
生徒としてはついていかざるを得ないような
強い引力がありました。
特に印象に残っているのは、
「『私の履歴書』を読む」という単元です。
日本経済新聞の連載が本として五十巻ほど発刊され、
各自、違う人の自伝を担当し、
その人となりなどを発表する取り組みです。
その初回の授業で、
「これまでの自分の人生を振り返った文章を
書いてみましょう」と課題が出されました。
思い出しながら、題材をメモしていくと、
種になりそうなことはいくらでも出てきます。
ところが、いざ一つの文章にまとめようと
構成を考え出すと、これは大事なことだけれど
人には知られたくないとか、
これは実際以上に少し強調して書きたい、などと、
思いも寄らないようなややこしい気持ちが
自分の中に湧くのです。
事実としてそこにある自分のこれまでの日々を、
平坦な気持ちでは書けないことに戸惑いました。
そんな最中に大村が
「はい、そこまででやめましょう」
と作業を止めました。
「すべての出来事をあった通りに
そのまま書くわけではなさそうでしょう。
たくさんの事柄のなかから、
それを選び取る自分がいる。
実際にあったことでも、書かないこともある。
選び、捨てる、そこにこそ、
その人らしさが出てくるんじゃありませんか」
その一瞬、文字通り目から鱗が落ちました。
生まれて初めて「ものを書く」ということの本質が
垣間見えた瞬間でした。
そうか、表現するとはこういうことか。
文章も音楽も美術も、日常の言葉のやりとりさえ、
拾うことも捨てることも経た上での表現なのだ!
どこかから「ぐいっ」と音が聞こえるくらい、
ひとつ大人になったのだと、私は実感していました。
大村が単元学習をやり通した大きな理由の一つは、
心からの言葉が行き交う教室を
つくりたかったということだと思います。
ふつう、国語の授業中、教科書の文章を読むような時、
自分の心や頭を思わず深くのぞき込み、
気づいたことをぜひ発言したいと思うことなど、
めったにありません。
言わばお義理で読んで、お義理で質問に答えている
といった状況がほとんどです。
大村は、お義理で言葉を使うような場では、
言葉の力は本当には育たないのだということを
冷静に直視し、子どもたちが自分から立ち上がって
言葉と向き合う場をつくろうとしたのではないかと思います。
大村の言葉に
「子どもたちはどの子も、
あのことを言いたいと思って
トラの子のように
たいせつにしている考えを抱いている」
というものがあります。
大村は、本気で、一人ひとりの子と、
その子らの抱くトラの子一匹一匹を見ていてくれた。
そう思うと、ほんとうにありがたいような気持ちになります。
晩年の大村の手伝いをするようになって、
二人で本当にたくさんの話をしてきました。
それを思い出しながら、
『優劣のかなたに―大村はま60のことば』(筑摩書房)
を書きました。
大村が育ててくれた言葉の力を、
大村の仕事を伝えることに使っていければ嬉しいです。
なにか、収支が合う感じがします。
東日本大震災から一年が経った平成二十四年三月十一日。
岩手県陸前高田にある“奇跡の一本松”の下で、
一つのヴァイオリンが産声を上げました。
その鎮魂の音色が奏でられた時、
私はまるで自分の子供が産声を上げたように感じ、
思わず涙しました。
そしてその声が成長し、やがてしっかりした言葉を
出せるようになってほしいと心から祈りました。
津波の流木から作ったヴァイオリンを
世界中の演奏家がリレーして演奏する、
「千の音色でつなぐ絆プロジェクト」が
第一歩を踏み出した瞬間でした。
私は長年ヴァイオリンの製作・修復に携わってきた
一介の職人にすぎませんが、先の震災には大変な衝撃を受けました。
幼い頃から自然に親しんできた私は、
やはり人智では及ばないものが
この世にはあるのだという畏怖の念を改めて覚え、
大津波の映像を前に、ただ呆然としました。
そのような時、妻がテレビに映された瓦礫の山を見て、
涙ながらに訴えてきたのです。
「これは瓦礫の山じゃなくて、
そこに暮らしていた人たちの思い出の山じゃない?
柱や床板などの流木を使ってヴァイオリンが作れないかしら」
その妻の言葉と共に、私の脳裏に、
もう四十年も忘れていたギリシアのある
美しい詩が蘇ってきたのでした。
「山に立っていた時は木陰で人を憩わせ、
いまはヴァイオリンになって歌で人を憩わしている」
そうか、あの無残に積み上げられた瓦礫の山も、
かつては家屋の材料であり、
その家で起こったいろいろな出来事を知っている。
私もあの流木からヴァイオリンを作り、
再び人々を憩わせることができたなら……。
その想いは抑え難く、私はすぐに
岩手の陸前高田に向かったのでした。
悪路を二時間以上かけて迎えに来てくれた
知人の車から見えた景色――。
テレビ映像のように生易しいものではない、
現地ならではの異様な雰囲気に圧倒されました。
私は被災地を歩き回っては材木を拾い集め、
それを製材所へ運んだり、東京の工房へ送る手配をしたりしました。
瓦礫からヴァイオリンを製作した一番の目的は、
震災の記憶が人々から風化してしまわぬよう、
また、多くの人の思い出や歴史を刻んだ材料で
作られたこの楽器の音色が、
亡くなった方々への鎮魂と祈りとなってほしいということでした。
妻の言葉から生まれたこの取り組みは、
知人たちの助けと、世界中の音楽家から賛同を得て
「千の音色でつなぐ絆プロジェクト」として
一年後の演奏に結実することになりました。
このヴァイオリンの修復・再生活動の原点は、
私自身の幼少期の体験に根ざすものかもしれません。
※この続きは『致知』7月号(P89~90)をご覧ください。![51JBP-JcClL._BO2,204,203,200_PIsitb-sticker-arrow-click,TopRight,35,-76_AA300_SH20_OU09_[1]](https://www.mahoroba-jp.net/newblog/wp-content/uploads/2013/06/51JBP-JcClL._BO2204203200_PIsitb-sticker-arrow-clickTopRight35-76_AA300_SH20_OU09_1.jpg)