「もう駄目だ そこから本当の人生が始まる」
水曜日, 7月 17th, 2013 梶山 祐司(元競輪選手)
『致知』2004年7月号
致知随想より
└─────────────────────────────────┘
二年前、私は通算三十四年に及ぶ
競輪選手生活にピリオドを打ちました。
もともと運動神経がよいほうではなく、
走るのも速くはなかった私にとり、
競輪人生は試練の連続でした。
努力が結果に結びつかない現実にも幾度となく直面しました。
しかし、日々の練習や勝負の中で、
私は人生の宝物ともいえる
掛け替えのない学びを得ることができたのです。
家が貧しかったため、兄は中学を出て
すぐ働きに出ていました。
私も将来を考える時期に差し掛かった頃、
たまたま兄に連れていかれた競輪場で、
人間が自らの力で生み出すスピードの凄さに
たちまち魅了されました。
こんな素晴らしい世界で日本一になってみたい――
強い思いに突き動かされ、
私は競輪選手を目指すことにしたのです。
プロになるためには、まず競輪学校へ
入学しなければなりませんが、
定員の十倍もの志望者が殺到します。
資質に劣る私は、とにかく人の何倍も練習しようと決意し、
多い日は夜中の一時半からその日の二十一時まで二十時間近く、
限界を超える鍛錬を積んで合格を果たし、
入学後も人一倍練習を重ねてプロになったのです。
当時、競輪選手は四千人以上いました。
レースは実力別に七つのクラスに分けて行われ、
これも当時の頂点であったA級一班の百二十人に
入ることを目指してしのぎを削るのです。
もちろん私の目標もA級一班でしたが、
とても口には出せませんでした。
周りはインターハイの優勝者など、
桁外れの脚力の持ち主ばかり。
一方私は、競輪学校のコンピュータによる体力分析で、
プロでは勝てないと指摘されていたのです。
しかし私の視野には、苦労して
プロの切符を手にした競輪の世界しかありませんでした。
三年やって駄目なら死ねばいい。
その代わり命懸けで三年やろうと決意しました。
早朝に静岡市内の自宅から御前崎まで往復八十キロ、
朝八時に再びサドルにまたがり河口湖まで往復二百キロ、
戻ってくると競輪場で十九時までスピード練習を行い、
さらに二十時から大井川方面まで走って二十二時に帰宅。
少ない日でも一日二百キロ、月六千キロ、年間七万二千キロ、
死にもの狂いでペダルを漕ぎ続けました。
私以上に練習した人はおそらくいなかったと思います。
最初はなかなか勝てませんでしたが、
三年経つ頃には努力が確実に成績に結びつくようになり、
八年で念願のA級一班入りを果たすことができたのです。
コンピュータで筋力は分析できても、
人間の気力までは分析できません。
気力さえあればデータなど吹き飛ばして
やり遂げることができるのです。
しかし、そこからの道のりも決して平坦ではありませんでした。
度重なる練習やレース中の事故で
延べ五十本にも及ぶ骨折に見舞われましたが、
そこから再起しました。
一番大きな怪我は頸椎の骨折でした。
「もう駄目だ」、何回も何回も思いました。
やめるべきか、再起すべきか。
もし再度落車すれば半身不随の可能性もある。
悩みに悩みましたが、再起の道を選びました。
心の支えになったのが須永博士さんの詩でした。
「“もうだめだ”
そこから人生が
はじまるのです
そこから
本当の自分を
だしきって
ゆくのです
そこから
人間這いあがって
ゆくのです
“もう駄目だ”
そこからもっともっと
すごい強い自分をつくって
ゆくのです」
苦しい時、本当の自分が姿を現します。
そこで駄目になるのも自分、
もっと凄い自分をつくっていくのも自分。
そこから本当の人生が始まるのです。
Posted by mahoroba,
in 人生論
コメント入力欄こちらからコメントをどうぞ »
………………………………………………………………………………………………
「私、チアに入りたいんだけど、一緒に見学に行こうよ」
友人からのこの誘いがすべての始まりでした。
高校に入学し、部活に入る気もなかった私は、
友人に付き添いチアリーディング部の練習を見に行きました。
目に飛び込んできたのは、先輩たちの真剣な眼差し、
全身で楽しんでいる姿、そして輝いている笑顔でした。
それを見た時、
「すごい!! 私も入りたい!!」
という衝動に駆られたのです。
しかし、次の瞬間、
「でも私には無理……」
という気持ちが心を塞いでしまいました。
私には生まれつき手足がほとんどありません。
短い左足の先に三本の指がついているだけ。
病名は「先天性四肢欠損症」。
指が五本揃っていなかったり、
手足がないなどの障害を抱えて生まれてくるというものです。
幼少期から母親の特訓を受け、一人で食事をしたり、
携帯でメールを打ったり、字を書くことや
ピアノを弾くこともできますが、
手足のない私には到底踊ることはできません。
半ば諦めかけていましたが、
「聞いてみないと分かんないよ」という
友人の声に背中を押され、顧問の先生に恐る恐る
「私でも入れますか?」と聞いてみたのです。
すると先生は開口一番、
「あなたのいいところは何?」
と言われました。
思わぬ質問に戸惑いながらも、私が
「笑顔と元気です」
と答えると、
「じゃあ大丈夫。明日からおいで」
と快く受け入れてくださったのです。
手足のない私がチアリーディング部に入ろうと決意したのは、
「笑顔を取り戻したい。笑顔でまた輝きたい」
という一心からでした。
生まれつき積極的で活発だった私は、
いつもクラスのリーダー的存在。
そんな私に転機が訪れたのは、小学校六年生の時でした。
積極的で活発だった半面、気が強く自分勝手な性格でもあり、
次第に友達が離れていってしまったのです。
そんな時、お風呂場で鏡に映った自分の身体を
ふと目にしました。
「えっ、これが私……。気持ち悪い……」
初めて現実を突きつけられた瞬間でした。
孤独感で気持ちが沈んでいたことも重なり、
「よくこんな身体で仲良くしてくれたな。
友達が離れてしまったのは身体のせいなのでは……」
と、障碍について深く考えるようになり、
次第に笑顔が消えていきました。
そのまま中学三年間が過ぎ、
いよいよ高校入学という時になって、
「持って生まれた明るさをこのまま失っていいのだろうか。
これは神様から授かったものではないか」
と思うようになり、そんな時に出会ったのが
チアリーディングだったのです。
初めのうちはみんなの踊りを見ているだけで楽しくて、
元気をもらっていました。
しかし、どんどん技を身につけて成長していく
仲間たちとは対照的に、何も変わっていない自分が
いることに気づかされました。
「踊りを見てアドバイスを送って」と言われても、
「踊れない自分が口を出すのは失礼ではないか」
という思いが膨らみ始め、仲間への遠慮から
次第に思っていることを言えなくなってしまったのです。
せっかく見つけた自分の居場所も明るい心も失いかけていました。
「チアを辞めたい。学校も辞めたい……」。
そんな気持ちが芽生え、次第に学校も休みがちになりました。
しかし、私が休んでいる間も、
「明日は来れる?」と、チアの仲間やクラスメイトは
メールをくれていました。
「自分が塞ぎ込んでいるだけ。素直になろう」
そう分かっていながらも、一歩の勇気がなく、
殻を破れずにいる自分がいました。
その後、三年生となった私たちは、
ある時ミーティングを行いました。
最終舞台を前に、お互いの正直な気持ちを
話し合おうということになったのです。
いざ始まると、足腰を痛めていることや学費の問題など……、
いままでまったく知らなかった衝撃的な悩みを
一人ずつ打ち明けていきました。
「みんないっぱい悩んでいるんだ。辛いのは私だけじゃない……」
そして、いよいよ私の番。震える声で私は話し始めました。
「自分は踊れないから……
みんなにうまくアドバイスができなくて……
悪いなって思っちゃって……
みんなに悪いなって……
だから、だから、これ以上みんなに迷惑かけたくなくて……」
続く言葉が見つからないまま、涙だけが流れていきました。
そうすると一人、二人と口を開いて、
「私たち助けられてるんだよ」
「有美も仲間なんだから、うちらに頼ってよ」
と、声をかけてくれたのです。
そして最後、先生の言葉が衝撃的でした。
「もう有美には手足は生えてこない。
でも、有美には口がある。
だったら、自分の気持ちはハッキリ伝えなさい。
有美には有美にしかできない役目がある!!」
これが、私の答えであり、生きる術でした。
チアの仲間や顧問の先生に出会い、
私は自分の使命に気づかされました。
声を通して、私にしか伝えられないメッセージを
届けたいとの思いから、高校卒業の2年後、
2011年6月にCDデビューを果たし、
アーティストとして新たなスタートを切りました。
十二月には日本レコード大賞企画賞をいただくことができたのです。
チアリーダーという言葉には、
「人を勇気づける」という意味があります。
私は誰かが困っていたり、悩んでいたりする時に、
手を差し伸べることはできません。
しかし、声を届けることはできる。
チアリーディング部を引退したいまも、
私は人生のチアリーダーとして、
多くの人に勇気や生きる希望を与えていきたいと思っています。
【大竹】 そういう試みが余裕を生んで
チーム力を高めたのでしょうね。
【三浦】 また、食事も普通はアルファ米をかき込むだけですが、
![Z20130522GZ0JPG000846001000[1]](https://www.mahoroba-jp.net/newblog/wp-content/uploads/2013/07/Z20130522GZ0JPG0008460010001.jpg)
└─────────────────────────────────┘
【記者:お勤め先はどちらですか?】
福井 会社は神田にあって、
最寄り駅の辻堂(神奈川県)から片道一時間、
電車を乗り継いで向かいます。
朝八時三十六分発の快速湘南ライナーに乗って、
東京駅の階段を四十一段下り、
人混みを縫って今度は階段を上がり、山手線に乗り込む。
車内はぎゅうぎゅう詰めですが、
仮に優先席が空いていても、一駅分ですから席には座りません。
【記者:毎日往復二時間の通勤というのは大変でしょう】
皆さんからも健康法をよく聞かれるんですが、
毎日そうやって歩いているから元気でいられるんでしょうね。
僕の携帯電話には歩数計がついていて、
一日に七千歩から八千歩は歩く。
いまはもうだいぶ足腰も弱りましたが、
それでも普通には歩けますから、贅沢は言えません。
【記者:背筋もピンとしておられます】
あ、これは謡(うたい)を歌っているせいです。
謡は前屈みの格好じゃ力が入らなくて歌えませんから。
喉から出る声はダメなんですよ。
お腹から声を出すにはグッと胸を張る必要がある。
四十二歳の時から始めたんですが、
かれこれ六十年近くも続けていることになりますね。
【記者:いまでもいいお声が出ますか?】
えぇ、まぁ(笑)。
声は軍隊へ行った時に号令を掛けたりしていましたから。
軍隊じゃ大きな声を出さないと、こっぴどく叱られる。
だから若い時に身につけたことが、
年をとっても影響してくるんじゃないでしょうか。
周りの方を見ていても、年をとってから
新しく何か習慣をつくるというのは難しいですね。
たいていは若い時から
ずっと続けてやっているものが残っている。
【記者:食事はどうされていますか】
朝四時半には起床し、食パンを焼いてハムとレタス、
トマトを載せてよく噛んで食べます。
妻には四年前に先立たれてしまいましたが、
夕食は同じ敷地内に住む長男夫婦の家で、
嫁が作ってくれた食事を一緒に食べています。
若い頃と変わらないくらいよく食べていますよ。
【記者:好き嫌いもなく?】
えぇ、肉でもなんでも食べます。
それと野菜はうんと食べなきゃいけないですね。
何しろね、偏るとダメです。
これは食べ物だけじゃありません。
考え方も狭い見識でなく、広く物事を見ていかないと。
まぁ、いま言ってきたことの一つひとつが
長生きをした基礎になっているのでしょうね。